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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(2016年7月から「ITパスポート」、8月から「情報セキュリティマネジメント」、11月から「経営学検定(初級)」の講師を務めています。谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年02月20日

「SDGs(持続可能な開発目標)」を活用した企業支援【城北支部青年部勉強会より】

SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)

 城北支部青年部(一応、私が部長を務めております)で、「「SDGs(持続可能な開発目標)」を活用した企業支援」という勉強会を開催した。ある大手企業のCSR部門に勤める若手診断士の先生からの持ち込み企画で実現したものである。「SDGs(Sutainable Development Goals:持続可能な開発目標)」とは、国連が2015年9月25日に全会一致で採択したもので、地球規模の社会的課題について17の目標と169のターゲット(サブ目標)を設定し、2030年までに解決を目指すというものである。17の目標は、上記の図にある通りである。

 国連が民間セクターに社会的課題の解決への貢献を要求するようになったのは1999年のことである(やや語弊があるかもしれないが、国連が自ら社会的課題の解決をすることを諦めた年であるとも言える)。1999年には「国連グローバル・コンパクト」が策定され、「人権」、「労働」、「環境」、「腐敗防止」の4分野において、「人権擁護の支持と尊重」、「組合結成と団体交渉の実効化」、「環境問題の予防的アプローチ」、「強要・賄賂等の腐敗防止の取り組み」など10の原則が掲げられた。その後、2000年に入ると「ミレニアム開発目標」が設定され、「極度の貧困と飢餓の撲滅」、「普遍的初等教育の達成」、「ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上」などが2015年までに解決すべき課題とされた。SDGsはミレニアム開発目標の内容を継承したものである。

 グローバル・コンパクトに関しては、賛同する企業、大学、NPOなどが署名する必要があったが、SDGsは企業などが17の目標から好きなものを選択して自由に取り組んでよいことになっている。だから、冒頭の図も国連が著作権フリーでどんどん配布している。国連は、世界でどの程度の組織がSDGsに取り組んでいるのか正確に把握していない。この敷居の低さが、SDGsの一種の”ウリ”である。ただし、国連は17の目標と169のターゲット(ターゲットの中には数値的目標が設定されているものが多い)の達成度合いについて、定期的にモニタリングしている。

 この企画を持ち込んだ先生の勤務先の企業では、自社の全事業について、17の目標とどのように関わっていくのかを総点検したそうだ。例えば、「4.質の高い教育をみんなに」に関しては、提供するソリューションの中に教育関連のものを増やす、「15.緑の豊かさも守ろう」に関しては、先生の勤務先企業が紙を大量に使用する業種であったことから、紙の原料に責任を持つ、などといったことが合意された。ただし、「14.海の豊かさを守ろう」だけはどうしても自社事業との接点を発見できなかった。そのため、CSR報告書では14だけ触れていない。このように、必ずしも全ての目標をカバーする必要はなく、できることから始めればよいというのがSDGsの特徴である。

 企業がSDGsをマネジメント・システムに取り込んでいくには、例えば環境経営の規格であるISO14000のように、一定の標準化が必要なのではないか?という声が参加者から上がった。現在、CSRのマネジメント規格としてISO26000というものがある。ISO26000は国際標準を示したが、実は認証制度を採用していない。結局、CSRのような活動は認証に馴染まないというのがその理由のようである。同様に、サプライチェーンのCSRに関する規格としてISO20400があるものの、これもISO26000同様、国際標準にとどまり、認証の仕組みを持たない。こういう背景から、SDGsを世界的な標準に落とし込むのは困難であろうというのが先生の見解であった。

 SDGsの認知度はまだまだ低い。SDGsを日本に普及させるために、国としては何をすべきか?という点にも話が及んだ。勉強会のメンバーの間では、SDGsの価値観がどちらかというとリベラル寄りであるから、現在の自民党政権では推進が難しく、むしろ民進党との親和性が高いだろうという見解に至った。自民党は経済成長に躍起になっており、社会的課題には見向きもしていないようである。しかし、実は、SDGsは経済成長を実現する1つのツールとして有効であることに気づくべきだとの意見が出た。また、行政レベルでも、経済産業省のコミットメントがもっと必要だという指摘もあった。現在、SDGsを紹介しているのは外務省のHPであり、経済産業省のHPではSDGsについて一言も触れられていない。これが縦割り行政の弊害というものだろうか?

 一方で、SDGsは、国連が全会一致で採択したとはいえ、西洋のリベラルな価値観の押しつけになるのではないかと危惧する声もあった。地球温暖化のように、それが悪化すれば人類に被害が及ぶことが明らかな課題については、世界的な合意も形成しやすいだろう(その地球温暖化でさえ、アメリカが懐疑的な姿勢を示しているが)。しかし、例えば貧困の問題1つを取って見ても、169のターゲットの最初に「2030年までに、現在1日1.25ドル未満で生活する人々と定義されている極度の貧困をあらゆる場所で終わらせる」とあるが、1日1.25ドル未満で生活すること=貧困と見なすことが適切かどうかは議論が分かれるところである。

 勉強会のメンバーの中に、ハイチで仕事をしたことがある先生がいた。ハイチでは1日1ドル程度で生活する人が多いが、彼らは別に食べ物に困っているわけでもなく、幸せそうに生活しているとのことだった。貧困かどうかは、絶対的な基準ではなく、その国の歴史的・文化的・社会的背景などによって決まる。ところで、17の目標と169のターゲットをよく読むと、歴史、文化、観光遺産といった項目は一切入っていない。これらの項目を入れると、各国固有の価値観の問題が絡んできて世界的な合意形成ができないから、用意周到に外されたのではないかと思われる。

 中小企業がSDGsを取り入れるためにはどうすればよいか?というのが今回の勉強会のメインテーマである。SDGsは自社ができることから取り組めばよいと書いたが、逆に言えば、「自社ができそうもないことには簡単に手を出すな」ということになる。ピーター・ドラッカーは半世紀以上も前から社会的責任について言及していたが、必ず「自社と無関係な活動にまで取り組むのは、むしろ無責任である」と警告するのを忘れていなかった。

 もう1つ重要なのは、「自社が利益を上げた時だけその剰余金でSDGsに取り組むという態度は望ましくない」ということである。フィランソロピー(寄付金)であればそれでよいかもしれない。しかし、SDGsは日本中、いや世界中で社会的ニーズを抱えた多数の人々を巻き込むものである。利益が出なかったからと言って活動を打ち切ると、社会的ニーズを抱えた人々は途端に窮地に陥る。また、自社とともに社会的ニーズの充足に取り組んできたパートナーにも迷惑がかかる。SDGsは自社の事業やサービスの一環として取り組む必要がある。事業やサービスに深くSDGsを組み込めば、一時的に利益が出なかったからと言ってSDGsの取り組みを止めることはできなくなる。そして理想は、経済成長と社会的ニーズの充足を両立させることである。

 中小企業がSDGsに取り組むイメージをつかむために、「日本理化学工業」を題材とした簡単なディスカッションを行った。同社は、坂本光司教授の『日本でいちばん大切にしたい会社』シリーズの最初に登場する企業である。ダストレス・チョークの生産をメインとしており、何よりも特筆すべきなのは、社員約80名のうち、約60名が知的障害者であるという点である。これだけでも、SDGsのうち「8.働きがいも経済成長も」や「10.人や国の不平等をなくそう」などに取り組む先進的な企業であるが、さらにSDGsに取り組むにはどうすればよいかというお題で議論を試みた(同社の事業環境を十分に理解せず、机上のみで議論したことをご容赦いただきたい)。

 あるグループは、同社が知的障害者でも製造ラインで作業ができるように独自の作業標準化を行っている点に注目した。こうした作業標準化のノウハウを新興国・途上国の中小企業に輸出し、製造ライン立ち上げのコンサルティングを行うことを提案した。これは、SDGsの中で言えば「8.働きがいも経済成長も」や「9.産業と技術革新の基盤をつくろう」と関連する。また、新興国・途上国で雇用が創出されれば、「1.貧困をなくそう」という目標にも貢献する。

 別のグループでは、国内のチョーク市場が縮小傾向にあることを踏まえ、海外でチョークの需要を創造するために、新興国・途上国で学校の増設・運営に携わることを提案した。これは、SDGsの中で言うと「4.質の高い教育をみんなに」、「5.ジェンダー平等を実現しよう」、「10.人や国の不平等をなくそう」と関連する。さらに、学校で給食を出せば「2.飢餓をゼロに」にもつながる。教育水準が上がるとより賃金の高い仕事に就ける可能性が高まるので、「1.貧困をなくそう」にも貢献するであろう。ただし、同社は学校をマネジメントするノウハウは有していないだろうから、パートナーを探す必要がある(「17.パートナーシップで目標を達成しよう」と関連)。

 「充足するニーズが経済的ニーズか社会的ニーズか?」、「ニーズを充足する手段が経済的か社会的か?」という2軸でマトリクスを作ると、企業を4つのタイプに分けることができる。最も数が多いのは、「経済的ニーズを経済的な手段で充足する」というタイプである。ここから企業のCSRの度合いを高めていくには、「経済的ニーズを社会的な手段で充足する」もしくは「社会的ニーズを経済的な手段で充足する」に移行していくことになる。

 「ニーズを経済的な手段で充足する」とは、製品・サービスを製造・販売するために必要な資源(ヒト、モノ、カネ、情報、知識)を、より安く、より早く調達することである。さらに、これらの資源について、よりよいものをよこせと注文をつけることである。端的に言えば、QCDを短期的に追求することだ。経済性を求める企業がQCDにこだわるのは当然である。ところが、あまりに近視眼的な調達を行うと、資源が再生産されるスピードを資源を消費するスピードが上回ってしまい、中長期的には資源の調達が不可能になる。そこで、資源の消費と再生産のスピードのバランスを取る必要がある。これが「ニーズを社会的な手段で充足する」の意味するところである。

 「経済的ニーズを社会的な手段で充足する」というタイプの代表例としては、ダノンとグラミン銀行の提携が挙げられる。ダノンは、グラミン銀行のマイクロファイナンスの仕組みを活用して、新興国・途上国でヨーグルトを販売した。具体的には、マイクロファイナンスによって、現地の乳牛飼育者の経営を支援し、ヨーグルトの戸別訪問販売員を育成した。こうして、とかく新興国・途上国で課題となりがちな、原材料の安定供給と販売チャネルの開拓をクリアすることができた。さらに、ヨーグルトの生産を現地化することで、雇用の創出にも貢献した。

 「経済的ニーズ」とは、先進国に住む我々が一般的に「あれがほしい」と思う時のニーズのことである。これに対して「社会的ニーズ」とは、先進国の一般人のレベルから見て、人間らしく生活するのに十分なニーズが満たされていない人たちが求める根源的なニーズのことであり、衣食住、健康、医療、教育に関連するものが多い。「社会的ニーズを経済的な手段で充足する」タイプの代表例としては、住友化学の「オリセットネット」がある。オリセットネットとは、マラリア対策の蚊帳である。アフリカではマラリアを治療する十分な医薬品を得ることができない。そこで、マラリアを媒介する蚊をいかに排除するかが課題となる。オリセットネットは、網に蚊よけの薬品が練りこんであり、家に取りつけるだけで十分である。そして、医薬品よりはるかに安価である。

 最も進んだCSRとは、「社会的ニーズを社会的手段で充足する」というタイプである。もちろん、経済的な成長を犠牲にして社会性を優先しているわけではなく、企業としての利益も確保する。この時、マイケル・ポーターが言うCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)も達成される。今後、このような事例が増えてくるに違いない。
 【城北支部青年部のご紹介】
 東京都中小企業診断士協会 城北支部には「青年部」があります。主に支部入会後間もない先生(概ね5年以下)を対象に、2か月に1回のペースで勉強会や懇親会を行っています。「支部に入ったものの何をすればよいか解らない」という声をよく聞きますが、まずは青年部の活動を覗いていただければと思います。ここで人脈作りをして、支部内の各部に入部するもよし、研究会や各区会に入るもよし、「城北プロコン塾」に入塾するもよし、青年部をきっかけとして支部内での活動領域を是非広げてください。

 青年部では、他の勉強会や研究会と異なり、若手診断士にとって興味のありそうなテーマや、今回のように若手診断士からの持ち込み企画で勉強会を実施しているのが特徴です。ご興味のある方は、城北支部メーリングリストで配信される青年部のお知らせをご参照いただくか、本ブログのお問い合わせフォームよりご連絡ください。
2017年02月18日

【人材育成】能力開発はジグソーパズル、キャリア開発はレゴの組み立て

レゴ

 2016年4月1日より「改正職業能力開発促進法」が施行され、「労働者は職業生活設計を行い、その職業生活設計に即して、自発的な職業能力の開発及び向上に努める」という基本理念の下、事業主は「労働者が自ら職業能力の開発及び向上に関する目標を定めることを容易にするために、業務の遂行に必要な技能などの事項に関し、キャリアコンサルティングの機会の確保その他の援助を行う」ことが定められた(指針第2)。また、「労働者は、職業生活設計を行い、その職業生活設計に即して自発的な職業能力の開発及び向上に努めるものとする」(3条)という規定もある。要するに、社員は自らのキャリア開発に責任を持たなければならないし、企業はそれを支援する必要がある、ということである。

 ただ、企業がキャリア開発の支援を行うと言っても、多くの場合は、半年ないし四半期に一度行われる目標設定面談や人事考課面談において、面談の一部として部下のキャリアに関する相談に乗っているにすぎないのではないかと思われる。つまり、能力開発の延長線上にキャリア開発が位置づけられている。確かに、能力開発とキャリア開発の違いを明確にすることは難しい。そこで、今回の記事では、両者の違いに関する私見を述べてみたいと思う。

 まず、能力開発は、企業の事業戦略とリンクしている。企業がどういう戦略を実行するのか、別の言い方をすれば、どの顧客層をターゲットとし、どのような顧客価値を、競合他社とどのように差別化しながら提供するのかという構想を練り、売上高、利益、市場シェアなどに関する目標を設定する。その上で、その戦略や目標を実現するためのあるべきビジネスプロセスや組織体制をデザインする。それが決まると、そのビジネスプロセスや組織を支えるために、どのような能力を持った社員が部門・階層ごとに何人必要なのかが見えてくる。人材戦略とは、戦略の実現に必要な社員を質・量の両面から確保するための戦略であり、能力開発はその一環である。

 戦略のライフサイクルの短期化が指摘されるようになって久しいが、戦略の短期化に伴って人材戦略も短期化している。よって、自ずと能力開発は短期視点となる。それぞれの社員はどのような能力を身につけるべきなのか、それに対して現状の能力レベルはどの程度であるか、能力ギャップを埋めるためにどのようなトレーニングを実施するのか、といった能力開発計画を短期で回していく。通常、社員に求められる能力は複数あるだろう。社員はそれらの能力を1つずつ習得していく。例えるならば、完成図が見えているジグソーパズルにおいて、能力を1つ習得するたびにパズルのピースを1つ獲得し、パズルを順番に完成させていく、といったイメージである。

 ジグソーパズルであるから、1つ1つのピースは矛盾なく埋め合わせることができる。つまり、パズルは客観的に設計されている。しかも、そのパズルの全体像を設計するのは、事業戦略と人材戦略、能力開発計画をリンクさせる企業側の責任である。これを実践している具体例として、トヨタの「星取表」を挙げることができるだろう。トヨタでは、仕事の処理に必要な技能や、仕事に取り組む姿勢を表現する態度能力の一覧を「星取表」で表示する。それぞれの社員について、習得できた能力は白丸、まだ習得できていない能力を黒丸で示して社内に掲示する。すると、まるで相撲の星取表のように、各社員の能力レベルが「○勝△敗」といった形で見える化される。

 ここからキャリア開発の話に入っていくわけだが、そもそもキャリアという概念は非常に曖昧である。ここでは、金井寿宏教授の「キャリアとは、長期的な仕事生活における具体的な職務・職種・職能での経験と、それら仕事生活への意味づけや、将来展望のパターン」という定義を用いたいと思う。この定義には、これまで蓄積されてきた経験に対する意味づけという過去志向と、将来展望のパターンを描くという未来志向が同居している。昔、ある大学の准教授の先生から教えてもらったのだが、産業心理学の分野では過去志向が重視され、経営学の分野では未来志向が重視されるのだという。学術的な論争はさておき、過去の意味づけから将来をデザインするというのは至って自然の流れであるから、私は金井先生の定義を支持する。

 これでもまだ曖昧だと感じる方のために、ダグラス・ホールによるキャリアの4分類も紹介しておこう。まず、1つ目が「昇進・昇格の累積としてのキャリア」である。通常、我々がキャリアという言葉で最初にイメージするのはこれであろう。「キャリアアップした」という言葉を使う時、まさしくキャリアをこの意味で用いている。だが、ホールはこれ以外にも3つの類型を提示している。

 2つ目は「プロフェッションとしてのキャリア」である。これは、短期~中長期のスパンで特定の専門領域を追求した結果として生まれる職業意識のことである。3つ目は、「生涯を通じて経験した一連の仕事としてのキャリア」である。非常に長い目で見れば、一生涯に渡って1つの仕事・職種しか経験しない人は稀である。異動、配置転換、昇進、出向、転籍、転職などを通じて、様々な仕事を経験する。これらの職務経験を横串で通す認識が3つ目のキャリアである。

 最後にホールは、「生涯を通じた様々な 役割経験としてのキャリア」を挙げている。我々は人生においてビジネスパーソンとしての役割だけを演じるわけではない。ある時は配偶者として、ある時は父親・母親としての役割を果たす。また、人によってはNPOなどに属し、地域社会でボランティア活動を行っていることもあるだろう。さらに、誰かの重要な友人としての役割を果たすこともある。そうした仕事以外の役割も総合的にとらえた場合のキャリアがこの類型に該当する。

 ホールが人間の一生をキャリアの対象としていることからも解るように、キャリア開発は、能力開発とは違い中長期的視点で行われる。我々がキャリア開発をする場合、まずは過去の経験の棚卸をする。能力開発における能力が企業側の論理で客観的に設計されていたのに対し、キャリア開発によって棚卸される経験は、本人の主観と固く結びついており、不定形である。例えば、上司に毎日怒られながら製品設計の仕事をしたという経験があったとしよう。仕事の直後には、「あのクソ上司が!!」と怒り心頭であったかもしれないが、一定の時間が経って冷静になってみると、あの時上司が厳しくしてくれたからこそ、マネジャーとなった今、部下が作成する設計図の勘所がよく解るようになったと思えることがある。

 また、ある役割における経験は、別の役割の経験の影響を受けることがある。例えば、40代の脂が乗りきった時期に部長となったものの、突然父が脳梗塞で倒れ、父の介護をしなければならなくなった。部長の激務と父の介護を両立させることが難しくなり、離職を余儀なくされた。新しい仕事では年収が大幅に下がったけれども、父の介護を通じて、相手を思いやる心が身につき、新しい職場でそれが役に立った。あのまま前の会社で部長を務めていたら、部下の気持ちも解らずに身勝手なマネジメントをしていたかもしれない、といったケースもあるだろう。

 繰り返しになるが、キャリア開発で棚卸しされる過去の経験は、非常に長い時間をさかのぼるものであり、本人の主観的な影響を受けた不定形なものである。そして、これらのパーツを基に、金井教授の言う「将来展望のパターン」を構築する。手持ちのパーツはどれも不揃いで、能力開発のジグソーパズルのようにぴったりと埋め込むことができない。不揃いのパーツを組み合わせるという意味では、キャリア開発はパズルよりもレゴに似ている。ただし、レゴの場合は、完成形が最初から決まっているパズルとは違い、自由度が高いという利点もある。本人が手持ちのパーツをどのように組み合わせて、どんな形を作るかは本人次第である。パーツが上手く組み合わせられない場合は、パーツ=経験に対する解釈を変えて、パーツの形を変更すればよい。

 そういう試行錯誤を繰り返しながら、手持ちのパーツをできるだけ全て使い切って1つの形を完成させていく。1つ1つのパーツは不恰好で、それだけを見ているととても統一性がないようであっても、パーツを組み合わせれば何かしら整合的な形を作ることができる。つまり、これまでの様々な経験に一本の横串を通し、その人なりのストーリーを構築することができる。ここにキャリア開発の醍醐味がある。そして、でき上がった形は、私が何者であるかを示すと同時に、私が将来どういう方向に向かえばよいのかを示す象徴となる。ある人は森を作るかもしれないし、建物を作るかもしれない。動物を作るかもしれないし、幾何学的な模様を作るかもしれない。何ができ上がってもよい。それがその人のキャリアなのだから。

 ただし、能力開発と違って、キャリア開発の責任は本人にある。今回の職業能力開発促進法の改正で決まったことは、企業が社員によるレゴの組み立てを支援してくれるということにすぎない。この点を勘違いしてはならないと思う。
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2017年02月16日

神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他

ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)ニーチェ―どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
神崎 繁

日本放送出版協会 2002-10

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 以前の記事「金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?」と同様、ニーチェの主要な著書である『悲劇の誕生』、『反時代的考察』、『人間的な、あまりにも人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知識』、『ツァラトゥストラはかく語りき』などを一切読まずに、本書だけを手がかりに記事を書くという暴挙。この年齢になって、大学生の時にしっかりと勉強しなかったことを本当に後悔している。

 ニーチェは非常に多産な哲学者であった。多産な物書きの宿命として、後代の人によってその人の文章から一部分だけが断片的に取り出されて好きなように解釈される、ということがある。私が敬愛するピーター・ドラッカーも多産な文筆家であり、そのような運命に陥っているように感じる(というか、私もその運命の片棒を担いでいる)。ニーチェの場合もこの運命を逃れることができなかったようだ。とりわけニーチェの場合は、親族によって著作が改竄されるという憂き目に遭っている。ニーチェの妹・エリザベートは、『力への意志』をナチスの活動と共鳴させる意図を持って出版した。その結果、ニーチェはナチズムの先触れという汚名を浴びることになった。

 『力への意志』はともかく、ニーチェの文章を(ニーチェには悪いと思いながら)断片的に追っていくと、『力への遺志』以外の文章においても、全体主義に通ずる部分があると感じる。
 この世界は、はじめも終わりもない巨大な力であり、増大も減少もせず、消尽されず、ただ変化するのみの、不動で固定的な一定量の力であり、支出も損失もないかわりに、同時に増殖も収入もなく、自らの限界以外の限界は「何も」なく、一定の力として一定の空間に収められ、しかもその空間のどこにも「真空」はなく、むしろ力として遍在し、力と力動の戯れとして、一にして同時に「多」であり、(以下略。太字下線は筆者)
 以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」で、全体主義に関する私の(浅はかな)理解を書いたが、改めてもう一度簡単にまとめておく。啓蒙主義以前の西洋には、唯一絶対の神と、神によって造られた不完全だが多様な人間がいた。ところが、啓蒙主義によって人間の理性が合理化されると、かつては人間の「あちら側」にあったメシアニズムが「こちら側」に手繰り寄せられ、人間が神と同じ絶対性を獲得することとなった。一般的に、啓蒙主義は脱宗教・世俗化のプロセスと説明されるが、私はむしろ人間が神になったと認識している。全ての人間は唯一絶対の神と等しいわけだから、個人と全体は同義である。多様性という考えはなくなる。これが、私有財産を否定する社会主義や、独裁と民主主義を同一視する全体主義へとつながっていく。
 卒業に際して提出した論文は、紀元前6世紀の詩人・テオグニスについてのものだが、その詩句の一節に、「地上に生きる人間にとっては生まれぬことこそ、また焼き焦がす陽の光を見ぬことこそ、すべてにまさって善きこと、だが生まれしうえは、一時もはやく冥府の門をくぐり、うず高い土塊の下に眠るにしかず」というのがあるが、(以下略)
 『悲劇の誕生』の第三節においても、ミダス王の追手から逃れつつ、頑に沈黙を守り続けたシレーノスから強いて聞き出したこととは、「人間にとって、生まれ来らぬことこそ最善のこと、だがしかし次善のこととしては、生まれた以上は、できるだけ速やかに死に至ることであり、これこそ人に可能な最善のこと」という言葉であった。
 以前の記事「『子どもの貧困―解決のために(『世界』2017年2月号)』―左派的思考を突き詰めると、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という救いのない話になる、他」で、左派の思考を突き詰めると、人間は生まれない方がよいという結論に至ると書いた。人間が生まれなければ、人間は絶対無である。ところで、神は無から有を創造する存在であるから、その本質は絶対無である。つまり、人間が生まれなければ、人間は神と同じ絶対性を達成できる。

 だが、実際には人間は生まれる。そこで、考え方を変えなければならない。人間が唯一絶対の神と同一であるということは、生まれながらにして完成していることを意味する。だから、生まれた瞬間という現在の1点が、時間の全てを支配している。そこには過去も未来もない。よって、過去から学ぶとか、未来に向かって能力を鍛えるという発想もない。そして、この時間軸における現在の絶対性を際立たせるために、人間は死ぬ。人間が早く死ねば死ぬほど、現在はより際立った時間となる。死んだ人間は無に帰すが、実はその無は再び有=新しい人間を生み出す源泉となる。神が無から有を生み出すのと同様に、人間もまた無から有を生み出す。こうして、人間の有と無は連関する。現在という絶対的な時間において、生まれては死ぬことを繰り返す。

 ニーチェの言葉を借りれば、これは「永遠回帰」である。
 おまえが現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いやさらに無数の回数、おまえは生きなければならぬだろう。そこに新たなものは何もなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、おまえの人生の言いつくせぬ大小さまざまの事柄の一切が、おまえの身に回帰せねばならない。しかも、何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって。
 見るがいい、この「瞬間」を!この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。われわれの背後にはひとつの永遠がある。およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?(中略)

 そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるすべてのものをひきつれているのではないだろうか?したがって、―自分自身をも。まことん、およそ走りうるすべてのものは、この向こうへ延びている長い道を―やはりもう一度走らなければならないのだ!―
 本書の副題は「どうして同情してはいけないのか」である。我々の道徳的感覚に反するような問いに対して、ニーチェは次のように答えている。
 他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの怯懦を確認させるであろう。(中略)われわれはこの種の苦痛と侮辱を拒絶して、憐れむという行為によって、それらに復讐する。この行為のなかには、巧妙な正当防衛や、あるいは復讐すら込められている。
 啓蒙主義がもたらした全体主義においては、1人は全体と等しいと書いた。よって、ある人がマイナスの感情を持てば、それは直ちに他者にも共有される。味わう必要のないマイナスの感情を負わされることになる。だから、それを真面目に受け止めて同情してはならないというわけである。ニーチェは、憐れみは「正当防衛」であり、「復讐」であると書いている。これはおそらく、ある人がマイナスの感情を自分に負わせることに対して、自分が憐れむ、すなわち同じようにマイナスの感情を抱くことで、その人にマイナスの感情を跳ね返して攻撃するという意味だろう。

 マイナスの感情を持つ他者に同情してはならないということは、同時に、自分もマイナスの感情を抱いて他者を害してはならないことを要求する。つまり、1人が全体と等しい世界では、感情があまりにも急速に共有されるから、一切の感情が禁止される。社会主義者は連帯を、全体主義者は民族意識の高揚を解く。しかし、逆説的だが他者と心理的につながることは禁止されているのである。オルテガの言うところの「トゥゲザー・アンド・アローン」という状態である。

 このように見ていくと、ニーチェの主張には救いがないように感じる。だが、ニーチェは全体主義的な傾向に陥らないための方策をいくつか用意していると私は解釈している。
 心酔し傾倒する相手に対して、その相手をまず二重化して、優れた点・好ましい点だけに注目して、そこに自己の模像もしくは分身を見出し、そして反対の劣った点・好ましくない点をそれと闘わせ、競い合わせて、前者の優れた点・好ましい点を高めていくという方法である。(中略)反発し敵対するようになったからといって、相手に対する敵対者としての尊敬を失うわけではない。
 これは、本ブログの言葉を使えば、「二項対立」を導入したということである。そして、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたように、フランス啓蒙主義の影響を受けて独立したアメリカが全体主義に陥らなかったのは、二項対立のおかげである。二項対立的発想によって、自分とは異なる他者の存在を認めることができるようになった。つまり、自己の絶対性は消える。二項対立においては、お互いに対立はするが、相手を完全に消し去ろうとはしない。相手を消し去ってしまえば、自己が絶対になってしまうからだ。だから、二項対立においては常に敵を必要とする(以前の記事「アメリカの「二項対立」的発想に関する整理(試論)」を参照)。

 次に、永遠回帰についてだが、ニーチェはこれを理想とはしていない。永遠回帰は人間にとって「重し」である。ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』には、「鷲の首に絡みついた蛇」という比喩が登場する。「鷲」が表すのは「飛翔」、「蛇」が表すのは「円環」である。そして、同書の中で、鷲と蛇の関係は次のような結末を迎える。
 そのとき彼(※ツァラトゥストラ)は、この円環の象徴である蛇をかみ切るのである。してみると、「永遠回帰」の思想はついに「飛翔」のモチーフとは一体になれずに、愚かさをともなった「誇り」として「飛翔」を続けることを、ツァラトゥストラ自身予感していることになる。
 たとえ全体主義という、思想的には全く欠点がないように見えるものがあっても、人間は愚かなことにそれを捨て、いやそれどころか、愚かでありながら誇りを持ってそれを捨て、飛翔するのである。この時の人間の精神状態は、ニーチェが唱えた「ラクダ⇒獅子⇒子ども」という3段階説によれば、「子ども」の状態である。子どもにできるのは、「笑う」ことである。
 『善悪の彼岸』第26節は、そのことをもっとも端的に示す箇所であり、誇り高い孤高の人間が、邪悪な魂とは異なる低劣な魂のうちに誠実さを求めて下降する過程が描かれている。その邪悪ではない、低劣な魂とは、もっとも典型的には動物である。
 キュニコス的な真の自由は、自分の動物性を認めそれを感ずることのうちにある。それを肯定する人間にとっての最高の表現状態が哄笑なのである。人間という動物のみが笑うことができる。
 同情を禁じたニーチェは、未来回帰という考え方に基づいて全体主義に接近した。引用文の「誇り高い孤高の人間」とは、全体主義者のことである。ところが、ニーチェはそれを「重し」と感じて、最終的には放棄した。「低劣な魂」に下り、子どものように「哄笑」することを選択した。これにより、全体主義の暴力性と決別し、愚かであっても人間らしい暖かさを得られるようになった。

 本書の「はじめに」の部分で、著者は本書を9.11テロ事件の前後に書いたと述べている。テロの犠牲者に対して、我々は普通同情の念を禁じえないだろう。ところが、ニーチェの「同情の禁止」という命題が頭にあった著者は、本書でこの問題に触れないわけにはいかないと感じたそうだ。だが、本書を読んでも、我々はテロの犠牲者に対してどのような感情を抱けばよいのか、明確な回答は得られなかった。本書の最後は「子どもの笑い」で締められている。「子どもの笑い」のような感情であのテロ事件を、そしてテロ犠牲者を思うということは一体どういうことなのか、ない知恵を一生懸命絞って考えてみたものの、いい考えが思い浮かばなかった。

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