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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」資格スクエア
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年03月29日

『原発事故に奪われ続ける日常―3.11から6年(『世界』2017年4月号)』―福島第一原発事故は「想定内」だった、他

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世界 2017年04 月号 [雑誌]世界 2017年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-03-08

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 (1)
 「私の理解している限りでは、事業者のJCOに事故収集の全責任があり、その経営者の責任において作業従事者を決め、作業命令を出してもらわないことには始まらない。(中略)しかし、この時点での会社側の考え方は、どうもそうではなかったようだ。国が乗り出してきて、臨界解除の手段にまで介入したからには、作業そのものも役所の責任で行ってくれるのではと期待したらしい。(中略)」 このときのJCOの対応は、ある意味で、福島第一原発の二号機の危機に際して東電がとった、直接作業に関わらない職員や協力企業の作業員を第二原発に「撤退」させた措置に近い。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 JCOも東京電力も、事故の当事者であるにもかかわらず、その責任は国が取ってくれるものだろうと期待していたようだ。これは日本人の決定的な弱みである。

 通常、階層社会では、一番上の階層が最も大きな権限と責任を有する。そして、階層が下に下るにつれて、上の階層からの命令を粛々とこなすだけの存在になり、権限も責任も小さくなる。ところが、日本の場合は、本ブログで山本七平の言葉を借りて何度も書いてきたが、下の階層が上の階層に向かって、「命令の内容は解るが、もっとこうした方がいいのではないか?」と「下剋上」する(ただし、山本の言う下剋上は、通常の下剋上と異なり、上の階層の打倒を目的としていない点に注意が必要である)。提案を受けた上の階層は、「君がそこまで言うならやってみよ。ただし、責任は私が取る」と言って、権限を委譲してくれる。下の階層は、責任は上の階層に持たせたまま、自由に振る舞う。こうして下剋上を果たした下の階層は、今度はより下の階層から下剋上を受ける。これが繰り返されると、下の階層に向かって次々と権限移譲が生じる。

 日本社会は、非常にラフなスケッチだが、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層構造である。通常の階層社会の考えに従えば、神が最も大きな権限と責任を有し、家庭はわずかな権限と責任しか持たない。ところが、前述のように上の階層から下剋上が繰り返された結果、神は最も大きな責任を有するが最も権限が少なく、家庭は最も大きな権限を有するが最も責任が小さいという状態になる。そして、最上位の神を除く階層はいずれも、上の階層が責任を取ってくれるという安心感の下、自由に権限を行使する。

 こうした日本社会の構造は、より下位の階層の創意工夫を引き出し、彼らを動機づけるという点では極めて優れている。トップのリーダーシップに過度に依存せず、下位の階層の多様なアイデアを活かすことができるため、トップのリーダーシップに問題があるがために組織全体が間違った方向へ進むというリスクが少ない。しかしながら、日本社会の特徴は、ひとたび問題が生じた場合に、責任の所在が曖昧になるという弱点を抱えている。

 JCOも東京電力も、現場の社員は下剋上によって上司から大きな権限を獲得していた。ところが、事故が起きると、その責任は上司にあると言って逃げてしまう。その上司はというと、同じく下剋上によってさらに上の上司から権限を獲得していたものの、責任はその上司にあると言う。組織の階層を上に上っていけば、最終的な責任は経営陣に帰着しそうなものだが、その経営陣は今度は、原発を許可した国に対して下剋上をしており、責任は国にあると主張する。これが、JCOや東京電力の無責任な態度につながっていると考えられる。

 では、国は責任を取るのかと言うと、ここからは観念的な話だが、国は天皇に対して下剋上をして責任を天皇に押しつけ、天皇は神に下剋上をして責任を神に押しつける。そして、和辻哲郎によれば、神の世界もまた階層化しており、究極的な始点を持たないため、責任逃れはどこまでも上の階層へと続く。こうして、日本人総無責任状態とでも言うべき状況が生じる。太平洋戦争で結局昭和天皇の戦争責任を問えなかったのは、このロジックで説明できる。この悪癖は、日本社会の強みと密接に関連している。そのため、どうすればこの悪癖を矯正できるのか、今の私には妙案がない(以前の記事「日本企業が陥りやすい10の罠・弱点(1)(2)」を参照)。

 (2)福島第一原発事故は想定外の津波によって引き起こされたと言われているが、事故後の様々な検証の結果、どうやら東京電力は3.11クラスの津波を想定していたようである。まず、2008年の時点で、東京電力は各種研究結果から、津波対策の重要性を十分に認識しており、具体的な対策も立てていた。にもかかわらず対策の実行を意図的に怠ったことが判明している。また、事故当時、吉田所長をはじめとする作業員が場当たり的に事故に対応する場面が何度もマスコミで流れたが、実は、あのクラスの事故に対応するためのマニュアルが存在した。

 マニュアルにはいくつかの種類がある。1つ目は「事象ベース手順書」であり、事故の原因を特定し、その原因を取り除くことを目的としたものである。事象ベース手順書はアメリカが発祥だが、原因と結果の因果関係をはっきりとさせることに主眼を置いているのがいかにもアメリカらしい。ところが、アメリカのスリーマイル島で事故が起きた際、原因の特定が上手くいかず、事象ベース手順書が機能しなかった。この反省に立って、「徴候ベース手順書」が作成された。これは、事故の原因特定に時間をかけるのではなく、今目の前で起きている事象に対して、包括的に対応することを目的としている。このやり方は日本人にも馴染みやすい(以前の記事「『叙述のスタイルと歴史教育―教授法と教科書の国際比較』―whyを問うアメリカ人、howを問う日本人」を参照)。これ以外には、「シビアアクシデント手順書」と「原子力災害対策マニュアル」がある。

 福島第一原発事故は「徴候ベース手順書」を適用すべきケースであったが、実際には無視された。それどころか、吉田署長をはじめとする関係者は、徴候ベース手順書の中身を十分に理解していなかった。発電事業は絶対に事故を起こしてはいけないし、万が一事故が起きた場合には早期に収束させる必要があるから、作業員の行動を事細かく規定するマニュアルの塊のような事業であるはずだ。ところが、東京電力ではマニュアルが全く活用されなかった。

 その原因を思いつく限り挙げてみると、

 ①本社が現場を十分に理解しておらず、マニュアルの内容が実態とかけ離れていた。
 ②マニュアルが十分に機能するか、現場で事前に十分な検証を行っていなかった。
 ③マニュアルが実態とかけ離れていることを本社にフィードバックしていなかった。
 ④本社と現場との間に信頼関係がなかった。
 ⑤上記4つ以外にも大小合わせて様々なマニュアルがあり、現場の理解を超えていた。
 ⑥必要な時に必要なマニュアルを参照できる環境がなかった。
 ⑦現場では普段からマニュアルを守らないことが横行していた、
 ⑧現場の権限が強すぎるため、本社の指示が頻繁に無視された。
 ⑨マニュアルを現場に浸透させる教育訓練が不足していた。
 ⑩マニュアルの順守度合いを評価する人事制度になっていなかった。

などが考えられる。これらの原因間のつながりをさらに考察し、東京電力におけるマニュアル軽視の組織風土を改める解決策を導出することが必要となるであろう。

 (3)
 田中:しかしそもそも、たまたま電力会社に入社し、発電所に配属された人が、いったん事故が起きたときには自分の生命をかけて対応しなければならない、ということなどあっていいのだろうか、と思います。命がけでやれ、逃げてはならない、ということになれば憲法に抵触する重大な問題だと思います。
(田中三彦、田辺文也、海渡雄一、澤井正子「原発事故の反省を共有するために」)
 (※諸外国では)命をかけることが義務付けられ、その代わりに命を落とした兵士は「英雄」となって遺族は国に手厚く遇されるのだ。日本の自衛隊にはこの仕組みはない。そしていま現在、原発事故緊急時のオンサイトの作業に自衛隊が加わることすら想定されていない。

 これまで何度も主体性が疑問視された原子力事業者の「自発的」緊急作業で、すべての危機が乗り越えられるのか、不安に思うのが自然だ。だが、それを不安と思えば、改憲で自衛隊を国防軍という名の軍隊にしたい政治勢力に隙を与えることになる。この不安は「取扱い注意」なのだ。実は、その不安を解消する方法がもう一つある。原子力をやめることだ。
(七沢潔「原発事故の収束は誰が担うのか」)
 たまたま電力会社で原発部門の担当となり、事故の際には命を懸けて対応にあたらなければならないのは過剰な要求だというのはまだ理解できる。一方で、七沢氏の主張は、原発事故のオンサイトの作業に自衛隊が加わった場合、自衛隊員に死者が出る可能性があり、それは許されないから原子力は止めるべきだという倒錯した主張にも読める。まるで、我が国の自衛隊はひ弱だから、危険から遠ざけておかなければならないと、自衛隊を卑下するかのようでもある。

 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」でも書いたが、人間は放っておくとリヴァイアサン的な状態になるため、自己の権利と財産を守るために国家を建設することに合意した。国家の役割は国民の権利と財産を他者その他の要因による侵害から守ることである。そのために、対内的には警察、対外的には軍隊を有する。さらに、警察では対処できない国内の重大な危機についても、軍隊の出番となる。国家が軍隊を有するのは必然であり、軍隊が命を賭して国民を守るのは当然である。そういう軍隊に対する敬意がない国民は、国民たる資格を有しない。そんなに自衛隊が嫌いなのであれば、日本を捨てて、この世界でただ1人で生きていけばよい。

 左派はどうも自衛隊が嫌いなようだが、仮に中国や北朝鮮が日本を攻撃し、自衛隊が十分に機能しなかった場合に、彼らが見せる反応は大体予想がつく。「自衛隊 備えは十分であったか?」、「アメリカ依存の弱点が露呈した日本の防衛」、「見破られていた日本のレーダー網」、「自衛隊の能力不足で民間人に死者」などといった見出しが朝日新聞あたりに載るだろう。今まで散々自衛隊の存在を否定しておきながら、今度は自衛隊ありきで自衛隊の粗探しを始め、さらには自衛隊を十分に活用できなかった政府をも批判するのである。

 (4)
 辺野古が唯一という合理性のある根拠は、アメリカからも示されていません。なぜ辺野古なのか、なぜ沖縄の県内移転なのか。アメリカ側が軍事的合理性をもって主張しているとは思えません。
(呉屋守將「沖縄の未来に新基地はいらない―「誇りある繁栄」の実現に向けて」)
 「公民館に防衛省の人がきたときにね、こちらは『なぜここなのか』ということを一番聞きたかった。場所を決めるうえで調査したのなら、その調査項目を教えてくれと言ったけど、今日は資料もないのでそれはできない、と」
(島本慈子「宮古島市長選が問う代表制民主主義」)
 以前の記事「守屋武昌『日本防衛秘録―自衛隊は日本を守れるか』―基地の必要性を国民に納得させることはできない」で書いた通り、「なぜこの地に軍事基地が必要なのか?」を国民に説明することは不可能である。軍事基地の必要性は国防戦略の要であり、国家の重要な機密情報である。それを国民に伝えることは、下手をすれば特定秘密保護法に反する恐れがある。
2017年03月27日

『人材育成(DHBR2017年4月号)』―人事考課は不要かと聞かれれば「それでも必要だ」と私は答える、他

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ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 04 月号 [雑誌] (人材育成)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 04 月号 [雑誌] (人材育成)

ダイヤモンド社 2017-03-10

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 CEBが2014年に行った推計によると、米国企業の12%が年次の人事査定を完全に廃止したという。ウィリス・タワーズワトソンの推計値は8%だが、このほかに、廃止を検討ないし計画中の企業が29%に上るとされる。デロイトは2015年に、業績評価制度を再検討する予定のない企業は、全体のわずか12%だとする報告を出している。この傾向は米国以外にも広まっているようだ。
(ピーター・カッペリ、アナ・テイビス「業績評価から人材育成へ 年度末の人事査定はもういらない」)
 アメリカでは人事考課、人事査定が廃止される傾向にあるそうだ。旧ブログで「GEの「9Blocks」というユニークな人事制度」という記事を書いたが、そのGEもCEOがジェフリー・イメルトに交代してから、人事制度を見直しているという。私の前職の企業は、人材・組織関連のコンサルティングと教育研修サービスを提供するベンチャー企業であった。日本の場合、賞与を年2回支給する関係で、人事考課を年2回実施する企業が大半であろう。私は前職の企業に5年半在籍していたから、単純に考えれば11回人事考課の機会があったはずだ。

 ところが、私が実際に人事考課を受けたのはわずか2回だけである。しかも、そのうちの1回は面談で昇給額を告げられただけだった。人材・組織関連のコンサルティングを提供する企業がこのありさまなのだから笑い話にもならない。最近、その企業が「日本企業にはもう人事考課はいらない」といった内容の書籍やコラムを発表しているらしいが、全くバカげている。人事考課をさんざんやってきた結果、その限界に気づいて人事考課はいらないと主張するならいざ知らず、人事考課をさぼってきた企業が人事考課はいらないと言ったところで、何の説得力もない。

 次の点を誤解してはならないのだが、人事考課を廃止する企業は、人材の評価を放棄しているわけでは決してない。上司が部下の仕事に関して、頻繁にフィードバックを行うというやり方に改めているのである。こうすることで、人事考課の際に、直近の業績が過大に評価され、期初の業績が過小評価されるというエラーを回避することができる。

 そもそも、人事考課には4つの目的があると私は考える。その4つとは、①給与の額を決定する、②仕事ぶりについてフィードバックする、③能力開発計画を策定する、④昇進・配置転換を決定する、である。このうち、②については、前述の通り、人事考課を廃止しても、代わりに日常業務の中で頻繁に部下にフィードバックすることで、人事考課と同様、あるいはそれ以上の効果を期待することができる。また、①に関しては、私は今のところ年功制こそが最も公平な給与体系だと信じているため、人事考課を続けようと廃止しようと関係がない(以前の記事「『戦略人事(DHBR2015年12月号)』―アメリカ流人材マネジメントを日本流に修正する試案」を参照)。残った③と④のために、私は依然として人事考課は必要であると考える。

 究極的に理想的な企業とは、外部環境の変化に応じて、あるいは外部環境の変化を先取りして、常に柔軟にビジョンを変化させ、ビジョンとリンクした戦略を短期間で何度も立案する。そして、戦略を変更するたびに自社のビジネスプロセスを再構築し、どのプロセスにどういう能力を持った社員を何人紐づけるのか、どこからどこまでのプロセスをひと塊として組織を分けるのか、それぞれの組織内ではどのようにビジネスプロセスのマネジメントを行うのか、そのマネジメントのために、どのようなマネジメント能力をもったマネジャーを何人必要とするのか、などといったことを決めていく。そして、その構想に合わせて全社員の配置をドラスティックに変える。いわば、ミスミの「ガラガラポン」を常にやり続けているという状態である。

 しかし、この曲芸的な経営ができる企業はまず存在しないであろう。よく、「走りながら考える」と言う人がいるが、そういうことを言う人に限ってろくずっぽ考えないものである。常に走っている企業では、社員の誰もが大量のメールやSNSのメッセージに溺れ、上司や同僚からの度重なる介入によって仕事を中断されている。こういう状態をカル・ニューポートは「シャロー・ワーク」と呼んでいる。シャロー・ワークのせいで、我々は新しい戦略を立てるといった、深い考察によって上手くいく大きな取り組みをバラバラに寸断してしまい、質を低下させている。

 大きな取り組みを行うためには、「ディープ・ワーク」が必要である。それは通常一定のまとまった時間を必要とし、認識能力を限界まで高め、注意散漫のない集中した状態でなされる活動である。最近では、ビル・ゲイツが年に2度、「考える週(Think Weeks)」を設け、その間は湖畔のコテッジに引きこもり、本を読んだり大きな構想を練ったりしているそうだ。つまり、ビジョンや戦略のように高度な知的活動を必要とする場面では、喧騒を離れ、一度立ち止まってじっくりと考える時間が必要なのである(以前の記事「『リーダーシップの神髄(『致知』2016年1月号)』―リーダーはもっと読書をして机上の空論を作ればいい」を参照)。

大事なことに集中する―――気が散るものだらけの世界で生産性を最大化する科学的方法大事なことに集中する―――気が散るものだらけの世界で生産性を最大化する科学的方法
カル・ニューポート 門田 美鈴

ダイヤモンド社 2016-12-09

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 ディープ・ワークで策定されたビジョンや戦略によって、望ましい組織の姿が見えてくる。すると、誰を昇進させ、誰を異動させるべきかが決まる。新しいポジションは、その人が既に有する能力を発揮しさえすれば成果が上げられるというものではない。もちろん、新しいポジションが要求する能力のうち、一定の割合をカバーしているから新しいポジションに移すわけだが、同時に、新しいポジションで新たに身につけてほしい能力もある。その能力をどのように開発するのか、入念に計画を立てなければならない。ビジョンや戦略の構想をディープ・ワークで行う限り、ディープ・ワークのタイミングに合わせて、前述の③と④の目的で人事考課を行う必要がある。

 そもそも、シャロー・ワークによって前述のような曲芸的な経営ができる能力が人間に備わっているのであれば、おそらく1年365日という概念は存在しなくてもよかったであろう。有史以来、朝日が昇る回数を単純にカウントしていけば済む話である。それをわざわざ1年365日と決めたのは、1年単位など、一定のタイムスパンで強制的にディープ・ワークを行った方が、その後の活動で大きな成果を上げられることを知っていたからではないだろうか?
 MEP事業部に新たに着任したゼネラルマネジャーは、この高コストなプログラム(※リーダーシップ研修のこと)の成果を評価することを要求した。そして、それを実行したところ、プログラム自体が啓発的なものだったとはいえ、最終的にほとんど変化を生み出していないと判断した。マネジャーたちは、チームワークやコラボレーションに関する学習を実施したところで、その内容を現場で応用するのは不可能だと悟っていたのだ。それは、社内にマネジメントや組織の面で数々の障壁が存在するためである。
(マイケル・ビア、マグヌス・フィンストローム、デレク・シュレーダー「変化を阻む6つの障壁を乗り越えろ リーダー研修はなぜ現場で活かされないのか」)
 前職でリーダーシップ研修を開発・販売していた身としては、非常に耳が痛い話である。以前の記事「鈴木克明『研修設計マニュアル―人材育成のためのインストラクショナルデザイン』―研修をデザインするのがIDではなく、組織的な学習をデザインするのがID」でも書いたように、研修を現場で機能させるためには、研修で学習する内容を現場の業務プロセスや、プロセスを支えるIT、人事評価制度などの仕組みにも反映させる必要がある。ところが、営業や生産管理などのように、一定の技術的・技能的なプロセスがある分野とは異なり、リーダーシップというのはプロセスを持たない極めて曖昧なものである。これを研修でどう扱えばよいかは難題である。

 ここからは、まだ十分にまとまっていないが私見を述べたいと思う。リーダーシップの役割は「アジェンダ(課題)設定」と「ネットワーキング」の2つだと言われる。「アジェンダ設定」はさらに、①ビジョンの策定と②課題解決の技法に、「ネットワーキング」は③プレゼンテーション(リーダーの考えを発信する)、④傾聴(メンバーの考えを聞く)、⑤交渉(利害関係者と調整する)、⑥動機づけ(energize=motivate以上の強烈な動機づけ)に分けることができる。これらはリーダーの基礎作法とでも呼ぶべきものであり、まずはベーシックな研修で押さえておく。

 ただし、リーダーシップ研修がここで止まっている場合、その研修は十中八九失敗する。研修の参加者には、半年ないし1年程度の長い時間をかけて、実際にリーダーシップを発揮して解決したい課題を設定してもらうべきだ。そして、その課題解決のために、前述の①~⑥を活用して、変革プログラムを実行する。さらに、研修の参加者は、1か月に1回、難しい場合は3か月に1回ぐらいのペースで定期的に集まり、変革プログラムの進捗状況を共有する。リーダーシップには定型のプロセスがないから、各人のやり方や進捗度合いがバラバラであっても構わない。リーダーは現場では孤独である。定期的に”同志”が集まることで、違う視点から有益なアドバイスがもらえるかもしれない。あるいは、顔を合わせるだけで癒しの効果が得られるかもしれない。

 引用文にあるように、変革プログラムを実行する途中で組織やマネジメント上の障壁に直面することがある。その場合は、その障壁を取り除くことも変革プログラムに盛り込めばよい。ただし、明らかに研修参加者の権限や責任範囲を超える行動が必要になる場合には、研修参加者の上司や経営陣などがサポートに回れるよう柔軟に調整しておくことが重要である。リーダーシップ研修は、前述の①~⑥の能力の習得をゴールとするのではなく、変革プログラムの完遂そのものをゴールとするべきであるというのが私の考えである。
2017年03月24日

海外派遣前研修 『グローバル・マネジメント』(研修メモ書き)

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外国人との会議

 とある機関で「海外派遣前研修『グローバル・マネジメント』」を受けてきた。私自身は海外に赴任する予定はないのだが、最近はコンサルティングで海外ビジネスの案件に関与する機会が増えてきたため、勉強のために受講した。結果から言うと、今回の研修はいまいちだった(だから、研修機関名は伏せてある)。そのいまいちな内容を何とか膨らまして今回の記事を書いているので、中身が薄くなっている点はご容赦いただきたい。

 私が所属している東京都中小企業診断士協会には、「国際部」という部署がある。国際部は年に数回、交流会を企画しており、海外経験のある診断士が多数参加しているそうだ。ただ、交流会に参加した私の知り合いの診断士によると、この交流会はすこぶる評判が悪い。というのも、言わば飲み会であるにもかかわらず、年配の診断士が次々と登場しては、「私が○○年代に△△という国にいた時の話”では”、・・・」という話を延々と続けるのだという。海外情勢は常に変化しているから、はっきり言って昔話を自慢されても迷惑なだけである。知り合いの診断士は、こうした年配診断士のことを、山形県・出羽山地の神に例えて「ではの神」と揶揄していた。今回私が受講した研修の講師も、これに近いものがあった。「ではの神」とはこういう人かと実感した。

 (1)日本企業の海外子会社は、現地スタッフから高く評価されている点もあるものの、批判も多い。真っ先に挙げられる批判が、「日本人は自分の考えをはっきりと言わない」というものである。それゆえ、意思決定は曖昧になりがちであり、この点が現地スタッフの不満の種となっている。日本人は、普段はあまり積極的にしゃべらないのだが、現地スタッフの部下が何か提案を持っていくと、部下の話を途中で遮って、「これではだめだ。ここはもっとこうするべきだ」と話し出す。これも、現地スタッフにとってはストレスの原因である。

 現地スタッフが日本人上司の指示に従って資料を作成し上司のところに持って行くと、「私が指示したのはこういうことではない。こういうことだ」といった具合に、今まで聞いたことのない要望を出してくる。さらに、資料の細かいところまでこだわって修正を命令してくる。これもまた、現地スタッフには奇異に映る。そのくせ、上司の無茶な要望に従って仕事を完成させても、上司から「ありがとう」とも言われず、「この資料のこの点がよかった」などとフィードバックを受けることもない。逆に、アウトプットの質が上司の期待水準を下回っていようものなら、現地スタッフは皆の目の前で日本人上司に怒鳴りつけられる。現地スタッフにとっては非常につらいものがある。

 なぜこんなことが起きてしまうのか?私は、日本人上司が日本で顧客の立場にある時に取引先に対して取る態度を、海外赴任した際に今度は自分の部下に対して取ってしまうのではないかと考えている。母親から虐待を受けて育った子どもは、成長して自分が母親となり子どもを持つと、同じように虐待をする傾向が高いのと同じ理屈である。

 私はIT業界とコンサルティング業界に身を置いていたが、どちらも最終的な成果物が目に見えにくい業界である。だから、営業をかけても、顧客企業の担当者は初期段階では何を必要としているのか自分で解っていないことがほとんどである。こちらから、色々な角度から仮説ベースでソリューションを提示すると、初めてコミュニケーションが開始される。しかし、商談の中で仕様をしっかりと決めて、後はその通りに粛々と作業を進めればよいというケースなど皆無に等しい。仕様は、契約後も極めて流動的に変化するのが常である。

 有名な話だが、IT業界では、基幹業務システムの開発のように大規模案件になると、開発は進んでいるのに見積金額が固まらず、プロジェクトの最終段階になってようやく見積金額が決まるものである。しかし、見積が固まったことは、仕様が固まったことを意味しない。システム開発もコンサルティングも、プロジェクトの終盤になってシステムの画面や最終報告書の形がある程度形になると、顧客企業はそれをトリガーとして別のアイデアを思いつくのか、「いや、我が社がほしいのはこんなものではない」とちゃぶ台返しをしてくる。顧客企業の期待水準とあまりにかけ離れている場合は顧客企業が怒り出し、「これでは御社にフィーを支払えない」といった話に発展することもある。こういう話は、どの業界でも見られるのではないかと思う。

 日本では「お客様は神様」である。そして、日本企業は神様であるお客様に鍛えられて競争力を高めてきた。神様は多くを語らないから、企業側が神様の意図を察するしかない。神様が発する言葉以外に、五感を通じて入ってくる情報を頼りに、神様の真意を汲み取る。だから、日本企業は、P&Gの”Livin' it”プログラムのような、消費者や販売チャネルの行動をつぶさに観察するエスノグラフィックなマーケティングを行う前から、観察を重視した顧客ニーズの把握に努めてきた。日本企業の方法は、顧客に共感しすぎないという点も大きなポイントである。顧客ニーズを深く知るためには、顧客と同じ体験をすることが有効であるように思える。ところが、あまりに共感しすぎると、顧客のことをかえって誤解するリスクがあることが報告されている(以前の記事「『組織の本音(DHBR2016年7月号)』―イノベーションにおける二項対立、他」を参照)。

 顧客からああでもない、こうでもないと言われ、時には厳しいクレームに耐えながら、日本企業は自社の製品・サービスの品質や価値を高めてきた。そして悲しいかな、これだけ一生懸命製品・サービスを作って提供しているのに、顧客から本当に真心のこもったお礼を言われることは非常に少ないのである。私の経験で言うと、通り一遍のお礼を言ってくれる顧客の割合が約3割、「いやぁ、御社のこの製品・サービスはこの点が本当によかったですよ!おかげでこんなに助かりました」と心の底から感謝してくれる顧客は1割にも満たないという感触である。

 日本人が日本にいる時に、自社内であれ私生活であれ、顧客の立場で上記のように振る舞う癖がつくと、海外赴任しても、上司である自分は社内顧客、現地スタッフは自分のニーズに応えるべき社内取引先だと見なして、前述の悪癖が露呈する。こういう悪癖を矯正する方法は、ありていに言えば教育ということになるのだろうが、残念ながら海外に赴任してしまった日本人に教育は通用しない。だから、海外赴任した日本人が、日常生活の中で、顧客としての言動を改めるしかない。具体的には、自分が何をほしがっているのか事前によく考え、それを明確に相手企業に伝える、大した理由もないのに自分の考えをコロコロと変えない、製品・サービスを提供してもらったこと、誠実に対応してもらったことに対してお礼を言う、製品・サービスや顧客応対のどの点がよかったのかを企業にフィードバックする、といったことを実践するべきであろう。

 (2)(1)で日本人はあまり褒めず、相手の欠点に対して怒ることの方が多いと書いた。アメリカでの駐在経験が長い講師によれば、海外では「まず褒めること」が重要なのだという。だが、この点は、特にアメリカ企業において、部下が上司からクビにされるのを恐れて、上司に意見を言いたがらない点と矛盾する。仮に、部下が上司に何を言っても褒められるのであれば、自分がクビになることを心配する必要はない。部下がおかしなこと、上司の考えに反することを言うとクビになるかもしれないと考えるから、上司に意見を言わないのである。

 コーチングは、「上司が絶対で部下は上司に意見してはいけない」というアメリカ的慣行への反省として生まれたものであると私は思う。アメリカの常識に従えば、上司の命令は絶対であり、上司が部下に質問をして部下の考えを引き出すなどというのは考えられない。しかし、そういうマネジメントでは限界があると感じたから、コーチングがアメリカで生まれたに違いない。

 日本の場合、(1)のような横柄な上司はいるし、とりわけ大企業では部下に命令だけを出していれば仕事をしたと感じる人もいることは事実である。しかし、以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などでも書いたように、上司は部下に対して命令するだけでなく、部下が成果を上げるために上司として支援できることはないかと「下問」することがよしとされる。だから、コーチングという言葉が輸入される前から、コーチングを実践していたマネジャーは決して少なくないのではないかと思う。

 もう1つ、アメリカから輸入されたマネジメント手法で私が不思議に思うのは「メンタリング制度」である。今回の研修講師も言っていたが、アメリカ企業では命令一元化の原則が徹底されている。1人の社員が2人以上の上司から命令などを受けることは許されない。ある部下に対して、直接の上司でもない他部門や他チームのマネジャーが、「もっとこうするといいよ」とアドバイスすることは、直属の上司のメンツをつぶすことになる。だが、部下が成長する上で、直属の上司との縦の関係だけでなく、他のマネジャーなどとの斜めの関係も重要であるという研究成果があったことが、メンタリング制度というものを生んだと考えられる。

 日本の場合、コミュニケーション経路が複雑であるから、直属の上司以外にも、普段から色々なマネジャーが何かと面倒を見てくれた。メンタリングという言葉がなくても、メンタリングが実施されていたわけだ。ところが、成果主義が導入されたことで、とにかく自部門の成果を追求しなければならなくなり、組織がタコツボ化した。そこで、組織内のコミュニケーションを活性化する目的で、アメリカのメンタリング制度に注目が集まっているというのが私の見立てである。

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