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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年06月21日

市野川容孝『身体/生命』―「個体と全体」、「物質と精神」の「二項混合」

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身体/生命 (思考のフロンティア)身体/生命 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2000-01-21

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 「はじめに」で著者(本書を書いた時の年齢が私と同い年だった)は「生物学や生命科学における最先端の知見を動員しながら、今世紀初頭のE・ヘッケルさながら「生命の驚異」を解き明かすことなど、一社会学徒にすぎぬ私のはるか及ばぬところである」と書いているが、一介の中小企業診断士・コンサルタントである私が「身体/生命」について論じるなど、さらにはるか及ばぬことである。それでも何とか記事にしてみたいと思う。

 著者は、「個体(自己)―全体(他者)」、「物質―精神」という2つの対立軸を用意し、両軸の中間に「身体/生命」を配置している。対立軸が出てくると、私などはすぐに「二項混合」のことを想起してしまう。以前の記事「『寧静致遠(『致知』2017年6月号)』―日本が編み出した水平・垂直方向の「二項混合」について」でも書いたが、AとBという二項対立があった場合、日本人はAとBの間をまるで高速反復横飛びするように自在に移動する。そして、AでありながらB、BでありながらAという状態を作り出す。それは一種の酩酊状態とでも言うことができるだろう。

 まず、「個体(自己)―全体(他者)」という二項対立について考えてみたい。ここで、個体と全体を単純に混合すると、「1が全体でありながら、全体が1である」ということになる。ただし、この言葉には注意が必要である。というのも、この言葉はややもすると全体主義に結びつく恐れがあるからだ(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」を参照)。全体主義においては、1が全体に等しいと言いながら、実は1は全体に圧殺されている。全体は1に優先しており、識別可能は1は存在しない。つまり、全体は全体なのであり、この点で全体主義は個人にとって過激なまでに暴力的である。

 ここで言う全体とは、本書に従えば王である。王とは、社会の存立を支える身体/生命の集合体が1つに凝集し、化身した特異な身体である。日本であれば、天皇が該当する。よって、個体と全体の関係は、国民と天皇の関係と読み替えることができる。ここで、国民と天皇が二項混合するとはどういうことであろうか?まず、天皇は、国民に接近し、全体の中から識別可能なそれぞれの1を発見する。一方、国民の側は、天皇に接近してその全体性を吸収しつつ、自身が全体とは同一視されない1、全体を超克しようとする特異な1を志向する。逆説的だが、国民は天皇との距離を詰めることで、天皇から離れようともする。そして、天皇は再び国民に近づき、全体を突き抜けていく国民を包摂し、全体へと統合する。両者はこのような複雑な関係にある。

 今上天皇は、憲法に定められた国事行為にとどまらず、被災地や太平洋戦争の戦地を積極的にご訪問され、国民1人1人の心に寄り添うことを大切にされた。これは、前述した天皇から国民に対する働きかけをよく表している。一方で、国民の側は、天皇との関係を意識して、何事かを実践したと言えるだろうか?天皇が日本国民の何を象徴しているのか(以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」を参照)、日本人の精神とは何なのかを考えると同時に、今日的な世界・社会情勢に鑑みて、さらに望ましい精神を発揮する努力をしたであろうか?多くの国民は天皇制を支持するが、形だけの支持に終わっていないか、反省する必要があるだろう。

 ところで、生前退位をめぐる議論の中で、保守派の識者が「天皇は祈るだけでよい」と発言したことに、天皇は非常にショックを受けられ、国民の目線まで下りてくるというこれまでの生き方を否定されたとお感じになっていると毎日新聞が報じていた(毎日新聞「退位議論に「ショック」 宮内庁幹部「生き方否定」」〔2017年5月21日〕を参照)。だが、私は右派の『正論』と左派の『世界』を両方定期購読しているから解るのだが、天皇は国事行為だけやっていればよい、それ以外の公務はおまけであると主張していたのは左派の方が多い(以前の記事「『「3分の2」後の政治課題/EUとユーロの行方―イギリス・ショックのあとで(『世界』2016年9月号)』―前原誠司氏はセンターライトと社会民主主義で混乱している、他」を参照)。

 生前退位についてもう1つ議論を展開したい。本書には、スーダンのシルック族の風習が紹介されている。シルック族は、王(レス)が病気になったり老齢によって衰弱したりすれば、民族もまた病気になってしまうため、王を殺害すると言われている。では、日本で天皇が病気になったり衰弱したりした場合、天皇は退位するべきなのだろうか?ここでは、天皇が自身のご意思で退位するようになると、政府の政策がお気に召さない時に退位して、政府に影響力を発揮できるようになってしまうといった、政治面の議論はひとまず脇に置いておく。

 国民と天皇の関係が、「1が全体に等しく、全体が1に等しい」という静的な関係であるならば、天皇は天皇「である」だけで十分である。天皇という人物が存在することに意味がある。逆に言えば、天皇は存在し続けなければならないのであり、自身の意思でその存在から降りることはできない。よって、生前退位は認められないという結論になる。しかし、冒頭で述べたように、「1が全体に等しく、全体が1に等しい」という前提は、全体主義に転落する危険性と紙一重である。

 先ほど見たように、二項混合における国民と天皇の関係は、天皇が個別の1を識別し、全体からはみ出していこうとする1を再び全体へと統合していくような動的な関係である。その能力が十分でなくなった場合には、天皇を「する」ことが困難になるため、生前退位が正当化されるようにも見える。ただし、この考え方にも問題はある。なぜなら、天皇の条件として、血縁以外に何かしらの能力を要求することになるからである。その能力要件はどのようにして正当化されるのか?天皇の能力はどのように評価するのか?天皇の能力を第三者が評価することが許されるのか?仮に、天皇の能力が十分でないにもかかわらず天皇が退位を選択しない場合、国民には天皇の交代(=革命?)を要求することができるのか?などといった様々な論点が噴出する。

 さらに、天皇に血縁以外の条件を要求するのと同様に、動的に振る舞うべき国民にも能力面の要求がなされることになる。全体性を吸収しながらも全体とは同一視されない特異な1、全体性を超克していく1、そういう1を目指すことのできない国民は国民ではないことになってしまう。この点で、特に障害者など能力面でハンディキャップを抱えた人たちにとって、絶望的な結論となる。残念ながら、生前退位を認めるべきか否か、私の中で立場を明確にすることができない。

 生前退位の問題は、結局1代限りの特措法で解決されることになった。私は恒久法による解決を望み、あれこれと逡巡した結果、最終的には憲法を改正するしかないと思っていた。特措法による解決は、「法外の法」で解決を図るという点で、いかにも「日本教」的(山本七平)なやり方である(以前の記事「山本七平『日本人とユダヤ人』―人間本位の「日本教」という宗教」を参照)。法律の文言に「お気持ちへの共感」という文言を盛り込むことで(時事通信社「「お気持ち」への共感、第1条に=退位特例法案、政府が与党に提示」〔2017年5月12日〕を参照)、疑似的に憲法改正を行ったという形に持ち込みたいというのが政府・与党の意向であろう。

 続いて、「物質―精神」という二項対立について。本書では脳死の問題を取り上げている。伝統に従えば、死にとって機能的な中心を占めるのは肺の死であり、時間的に見て最も遅れてくるのが心臓の死である。脳の死は間接的で弱い影響しか他の器官に及ぼさず、時間的に見ても比較的早い段階で生じるものと考えられていた。また、肺と心臓を「有機的生命」、脳を「動物的生命」と分類し、死の条件は有機的生命が死ぬことであり、動物的生命の死のみをもって死とすることはできないというのが共通認識であった。ところが、20世紀に入ってから動物的生命の死を人間の死とする定義の書き換えが起こり、それが脳死を人間の死と認める現在の見解につながっているという。脳死をめぐる議論では、有機的生命が動物的生命に優先するという従来の原則を守るため、有機的生命の源を脳に求めるという転換も行われている。

 この議論が興味深いのは、人間の死をめぐる議論においては、有機的生命=物質が動物的生命=精神に優先するとされていることである。我々は高度に発展した物質的社会を目の前にして、精神世界の退廃を嘆くのが普通である。今こそ精神を取り戻さなければならないというのは、社会的スローガンのようにもなっている。ところが、脳死に関する議論では、これと逆のことが起きているように見えるのである。ただ、私は生物学や生命科学に関しては全くの素人であるから、脳死の議論にはこれ以上立ち入らない。物質と精神の二項混合を考えるにあたって、私が10数年以上前に読んだシュレディンガーの『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』を読み返してみた(案の定、内容は全く覚えていなかった、苦笑)。

精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察
エルヴィン シュレーディンガー Erwin Schr¨odinger

工作舎 1999-01

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 本書は様々な内容から成り立っているが、まずはラマルクとダーウィンの進化論の比較について触れてみたい。ラマルクは、動物が生存中に訓練や環境への適応などによって獲得した特別な形質は、100%ではないが遺伝によって子孫に伝達されると主張した。一方、ダーウィンは、進化というのは偶然の長い連鎖と自然淘汰によって実現されるものだとした。ラマルクの主張は精神の働きを、ダーウィンの主張は物質の働きを強調している。

 ここで、シュレディンガーは両者の中間的な立場を主張する。すなわち、最初の変異は偶然であり、それが子孫に遺伝するが、親は変異によって新しく獲得した器官の使い方を例示や教育によって子孫に学習させなければならないという。例えば、変異によって手が器用に動かせるようになったとしよう。子孫には手の構造は伝達されるものの(物質)、その手を器用に動かせるかどうかは、親が子を適切に教育するか否かにかかっている(精神)。このように考えると、シュレディンガーの主張は精神と物質の両方の世界を統合していると言える。

 物質と精神の対立は、客体と主体の対立と言い換えることもできる。自然科学は客体を客観的に記述することにある程度成功してきたが、よく言われるように、客体を観察する主体も世界の一部であり、それを取り除いたまま記述した客体は十分な客体ではない。特に、感性的な性質が欠落している。もちろん、これはある意味仕方がないことであった。客体と主体が未分離のまま世界を語ろうとすると、人々は好き勝手に世界を語ってしまう。これではコミュニケーションが成立しない。そこで、一旦主体と客体を切り離して、客体に関する共通言語を生成する必要があった。だが、その作業が一段落ついたら、今度は主体と客体を統合しなければならない。

 主体と客体を統合するとは、主体を客体の言葉で語り、客体を主体の言葉で語ることである。主体(精神)を客体(物質)の言葉で語る試みは、シュレディンガーも含め、多くの自然科学者が取り組んでいる。近代的な自然科学の手法では、世界の全体像を把握するのに限界があるという強烈な危機感を持ったためである。一方で、客体を主体の言葉で語る活動が一体どこまで進んでいるのか、正直なところ私にはよく解らない。例えば文学が精神世界を飛び出して物理世界を描写するということが考えられるが、あいにく私は文学論に疎く、語る素地がない。

 ところで、日本人は、本当は対立している2つの事項を渾然一体と把握することに元々長けている。これが、物事を基本的には二項対立でしかとらえられない西洋人に対する決定的なアドバンテージである。だから、主体と客体に関しても、何となく融和した形で認識することができてしまっている。一例としては、日本人の精神と自然の調和などが挙げられるだろう。だが、日本人がその「何となく」を抜け出し、高度で明確化された思考を獲得するには、渾然としている二項を一旦切り離し、それを再統合する作業が必要である。これこそ本当の二項混合であり、21世紀に求められる「関係知」である(以前の記事「武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない」を参照)。

 シュレディンガーの著書では、科学と宗教の関係についても触れられている。科学と宗教の関係も、物質と精神の関係と置き換えることができるだろう。そして、科学と宗教の二項混合とは、宗教を科学の言葉で語り、科学を宗教の言葉で語ることである。シュレディンガーは、プラトン、カント、アインシュタインという3人の科学者(初めの2人は科学者ではないが、彼らの哲学的疑問への強烈な専心と世界に対する熱い興味は、科学から出発したものと言ってよいだろうとシュレディンガーは述べている)が、宗教に対して時間の概念を提供したと指摘する。もちろん、ここで言う時間とは、客観的に測定可能な時間のことではない。その時間軸を超えた存在を認め、そこに精神の意義を見出した点に注目している。科学が宗教を語ったのである。

 宗教の言葉で科学を語った事例としては、シュレディンガーの著書を離れ、またオカルトの話になってしまうが、以前の記事「川久保剛、星山京子、石川公彌子『方法としての国学―江戸後期・近代・戦後』―国学は自由度の高い学問である」で書いた、平田篤胤と国友藤兵衛の名前を挙げることができるかもしれない。彼らは霊界を見ることができる特殊能力を持つという少年・寅吉から霊界の話を聞いて、仙砲や弩弓といった武器を完成させた。しかも、それらの武器の性能は、西洋製の武器を上回っていた。評論家の池田清彦氏は、現代科学とはそもそもオカルトの嫡子であり、今日我々が偉大な科学者であったと考えているケプラーやニュートンも実のところはオカルト信者だったと述べている。宗教の側から科学との境界線を越えていくことが今日、特に日本にとって、二項混合を実現する上で重要な課題となるであろう。
2017年06月19日

「社員の失敗に対して寛容になる」とはこういうことかと改めて思い知らされた一件

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失敗

 社員が新規事業やイノベーションに積極的に取り組むようになるためには、失敗を罰せず、失敗に対して寛容な組織文化を醸成することが重要であると言われる。個人的には、IBMの創業者であるトーマス・ワトソン・Sr.の話が好きである。ある若手マネジャーは、リスキーなベンチャーで失敗をし、1,000万ドルの損失を出してしまった。ワトソンのオフィスに呼ばれたそのマネジャーはすっかり恐れをなして辞表を出したが、ワトソンはこう言ってはねつけた。「とんでもない。教育のために1,000万ドルを使った後で、君を手放すとでも思っているのかね?」

 日本でも似たような話がある。現在GUの代表取締役である柚木治氏は、2000年代初頭にユニクロが農業に参入した時の責任者であった。ご存じの通り、ユニクロは26億円の損失を出して農業から撤退した。柚木氏は柳井正氏に責任を取りたいと申し出たところ、柳井氏は「お金を返してください」という独特の言い回しで慰留し、辞めさせるどころかGUの責任者に任命した。

 この2つの事例に比べるとはるかに損失は小さいものの、その損失に対して組織の責任者が寛容に対処したケースを最近体験したので、そのことを記しておく。私は色々な非営利組織に所属しているが、そのうちの1つの組織で起きた事例である。ある時、役員会(私も参加していた)に対して、役員ではない若手のメンバーから、「広報活動の一環として、Twitterを活用してはどうか?」という提案があった。ところが、役員会のメンバーに高齢者が多く、Twitter自体がどんなものか知らない人が多かった(このご時世にそれはそれでどうかと思うが)。そのため、その役員会では議論が進まず、次回の役員会で実際にTwitterの画面を見ながら議論することにした。

 2回目の役員会では、提案者である若手メンバーが、Twitterを活用して顧客と良好なコミュニケーションを行っている大企業のアカウントの事例をいくつか紹介し、非営利組織における活用方法を提案した。だが、それでも役員会のメンバーにはTwitterの活用イメージが具体的に湧かなかったようである。仮にこの非営利組織のアカウントを作成して、提案者である若手メンバーに運用を任せた場合、彼のツイートがこの非営利組織の見解を代表していると見なされることに抵抗感を示す役員がいた。それよりも問題になったのは、役員はTwitterを使って炎上したというニュースだけは知っているため、「炎上した時には誰が責任を取るのか?」、「そもそも、『炎上している』と認定するのは誰なのか?」などといった点であった。

 実は、役員会が開かれていた非営利組織には上位組織があり、議論を行っていた非営利組織はその上位組織の一部門でしかなかった。つまり、東京に本社がある企業において、大阪営業部が自発的に大阪営業部のTwitterアカウントを作成するようなものである。この場合、仮に大阪営業部のアカウントが炎上したら、大阪営業部の責任者が謝罪をするだけでは済まされない。当然のことながら、東京本社の経営陣が謝罪のメッセージを発表しなければならないだろう。それと同じような運用を、この非営利組織の上位組織に期待することは難しいと懸念された。

 2回目の役員会でも結論が出ず、もう一度日を改めて役員会で議論することになった。だがやはり、炎上した時などのリスクマネジメントが十分にできないという理由で、この若手メンバーからの提案は却下された。役員会の議長を務めていた非営利組織の責任者は、現場からの提案を積極的に歓迎するタイプであったため、この結末には少々がっかりしたようである。

 私は、若手メンバーが積極的に提案したという姿勢は素晴らしいと思う反面、中身を十分に詰めないまま会議にかけたのはあまりよくなかったと思う。リスクという点に関して言えば、役員会の議論では出てこなかったが、反社会的勢力のアカウントとつながってしまうというリスクが考えられる。アカウントをフォローして仲良くツイートし合っていたら、実は相手が反社会的勢力のメンバーだったという可能性がある。すると、この非営利組織は反社会的勢力と関係がある団体だという、全く意図しなかったメッセージを発してしまうことになる。

 それよりも、今回の提案の大きな問題は、計画の中身があまりにも不明確であったことだと私は思っている。提案者はこの非営利組織の知名度を上げることが目的だと説明していたが、具体的にどのセグメントに対してメッセージを送るのか?彼らに対して、この非営利組織についてどのようなイメージを形成してもらいたいのか?彼らにアプローチする手段として、なぜTwitterが最も最適だと言えるのか?仮にTwitterが最適だとして、彼らにこちらが狙っているイメージを形成してもらうために、具体的にどのようなツイートをするのか?ツイートの頻度はどのくらいが適切なのか?広報活動の成果をどのように定量的に測定するのか?フォロワー数なのか、ツイートの平均リツイート数なのか?目標とするフォロワー数を獲得するために、どのような仕掛けをするのか?などといった点が一切説明されなかった。これでは役員会を通すのは難しい。

 3回にわたって役員を拘束し、結局前向きな結論が得られなかったという点では、今回の提案は残念ながら失敗であったと言わざるを得ない。IBMやユニクロの例とは比べ物にならないが、潜在的な損失もそれなりに発生している。だが、今回の話にはまだ続きがある。

 この非営利組織では、年に1回「チャレンジ賞」という表彰を行っている。これは、その年に非営利組織の事業の発展に大きく貢献したメンバーを他薦によって選出し、年1回の総会において、責任者が大勢のメンバーの前で表彰するというものである。今年のチャレンジ賞に選ばれた人のうちの1人が、今回Twitterの活用を提案した若手メンバーであった。しかも、最も多くの他薦を受けたのだという。彼は少々困惑した表情を浮かべていたが、私は「組織が失敗に対して寛容になる」というのはこういうことなのだろうと感じた。役員会の議論は非常にタフなものである。しかし、今回のTwitterの件で懲りずに、他の若手メンバーからも積極的に提案が上がってくるとよいと思う(ただし、もう少し事前によくプランを練ってほしいという注文だけはつけておきたい)。

 (※)最近、どんどん1本の記事が長くなっているため、今回は短めにしてみた。
カテゴリ: 経営 コメント( 0 )
2017年06月16日

『共謀罪と「監視国家」日本(『世界』2017年6月号)』―「帝国主義」は終わっていない

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世界 2017年 06 月号 [雑誌]世界 2017年 06 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-05-08

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 以前の記事「『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他」、「『死の商人国家になりたいか(『世界』2016年6月号)』―変わらない大国と変わり続ける小国、他」で書いたことと重複するが、国家には自衛権があることを否定する人はまずいない。だが、仮に世界中の全ての国が最低限の自衛権のみを持つことを約束するならば、どの国も他国を攻撃することはないから、自衛権そのものが不要となるはずである。自衛権があるということは、本来は認められていない武力攻撃を行う国が現れる可能性を想定している。

 ここで、A国とB国という2か国があり、B国が明らかに自衛の範囲を超えた軍事力を保有しているとしよう。A国は、B国から攻撃されるかもしれないと感ずるだろう。そこで、A国は自衛のレベルを上げる。するとそれを見たB国は、A国が過剰な軍事力を保有してB国を攻撃しようとしているのではないかと感じる。今度は、B国が自国の軍事力のレベルを上げる。こうして、A国とB国の間で軍拡競争が起きる。一定のレベルまで軍拡競争が進むと、両国の緊張はピークに達する。この段階に至って初めて、両国は最悪の状況を避けるために交渉に入り、お互いの軍事力削減に努める。もちろん、そのまま軍事衝突に突入する恐れもあり、交渉は綱渡りになる。

 核兵器に関しても似たようなことが言える。核兵器の抑止力を説明するものとして、「相互確証破壊戦略」というものがある。これは、相手国から核攻撃を受けても、こちらが核兵器で必ず反撃・報復すると約束することで、相手国に核攻撃を思いとどまらせるというものである。しかし、仮に相互確証破壊戦略が完全に機能しているならば、どの核保有国も核兵器を保有する意味を失うから、世界から核兵器はなくなるはずである。

 ところが、実際には一向に核軍縮は進んでいない。これは、仮に相手国から反撃・報復を受けても、こちらがさらに攻撃を加えることで相手国を殲滅させることができると考えているからに他ならない。核兵器に関しても、拡大の動きは止まらない。そして、核保有国同士の緊張がピークに達すると、両国は危険を回避するための交渉に入り、お互いの核兵器削減を検討する。冷戦時代の米ソの対話はこのようにして行われた。そして、北朝鮮が急速に核の能力を向上させる中で、トランプ大統領がようやく対話の準備があると発言したのもその一例である。

 リベラルの人々は、そんな回りくどいことをせずに、最初から軍事力や核兵器を全面的に禁止してしまえば、世界平和が実現するのにと思うことだろう。しかし、リベラルの世界観は、全ての人類が完全に理性的で、お互いに完全に信頼できることを前提としている。これに対して、現実の国際政治の世界では、国家も人間も理性が限定されており、基本的にはお互いのことを信頼しておらず、相手のことを恐れている。だから、平和を実現するには、一歩間違えば大規模な武力衝突に至るような方法と表裏一体の道を選択するしかないのである。

 リベラル派は、日本の平和主義は素晴らしいと言う。憲法9条をノーベル平和賞の対象にしようという動きもあるようだ。しかし、日本が戦後曲がりなりにも平和にやってこられたのは、アメリカが核の傘を日本にかぶせ、日本国内に米軍基地を置いて日本を守ってくれたからである。その事実に目をつぶって、日本は最も進んだ平和主義の国だと主張するのは傍ら痛い。現在の日本は、例えるならば、家の中にいる日本人は武器を持たないが、ドアの外ではピストルを持ったアメリカ人に警護してもらっているようなものである。これのどこが平和主義なのだろうか?

 日本人は、自分が直接関与していないことに対して恐ろしく無頓着になるという悪癖がある。話が国際政治の舞台から外れることをご容赦いただきたいが、日本の製造業は過去の公害などの反省に立って、高い環境意識の下に工場を運営していると思われている。日本人は、そのようにして製造された環境負荷の低い製品を使用・消費していると信じて疑わない。

 ところが、工場から出る廃水の処理を専門にしているある中小企業の経営者から聞いた話によると、廃水の汚染度が国などの基準を満たさない工場が少なくないのだという。基準を守ろうとすると莫大な費用がかかるというのがその理由である。この中小企業は最近、従来の技術よりもはるかに低コストで廃水をきれいにする新技術を開発した。それを聞きつけた日本中の製造業から問い合わせが絶えないそうだ(福島県からも、放射能の除染に使えないかと聞かれている)。裏を返せば、今までいかに多くの製造業が基準を満たさない廃水を垂れ流していたかということである。多くの日本人はこういうことを知らない(恥ずかしながら、私も知らなかった)。

 本号には、「私たちの食べている卵と肉はどのようにつくられているか―世界からおくれをとる日本」(枝廣淳子)という記事があった。卵や豚肉は、効率的に生産することが最優先されており、鶏や豚が動物らしく生きることは二の次にされている。具体的には、鶏や豚が自由に動くことのできないほどの狭いスペースに押し込み、鶏なら年間に約300個の卵を、豚なら年間に約2.5頭の子豚を産むように厳格に管理される。欧米では「アニマルウェルフェア」というコンセプトが広まっている。動物にふさわしい環境で飼育されたものを消費しようという考え方である。食品スーパーの商品には、アニマルウェルフェアの基準を満たしているかが一目で解るラベルが貼られている。日本人は「いただきます」、「ごちそうさま」と言うことで動物の命を大切にしていると信じている。だが、動物の飼育の実態を知る人は少ない(恥ずかしながら、私も知らなかった)。

 話を元に戻そう。日本はアメリカの軍事力を頼りにしており、全く平和主義ではない。そして、近年は、アメリカが守ってくれているにもかかわらず、日本への侵入を試みようとする国がある。言うまでもなく中国である。中国は尖閣諸島近辺で、何度も領海侵犯をしている。日本人の家の前でアメリカ人がピストルを持って防護しているのに、中国人が包丁を振り回してアメリカ人の静止を振り払い、家の中に入り込もうとしているようなものである。仮にこういう状況になったら、家の前の警備をもっと厳重にするのが普通だろう。ところが、平和主義を掲げる左派は、「戦争法反対」などと口を揃えて主張する。あまりにもおかしな話である。

 中国の脅威に対しては、日本の防衛能力を上げなければならない。すると、冒頭で書いたA国・B国と同じになるが、日本の軍事力強化を見た中国は、日本が中国を攻撃するのではないかと感じ、さらに軍事力を上げる。日本はそれに対抗して軍事力を上げる。こうして、両国の緊張がどうしようもなく高まったところで、対話の可能性が生じる。この対話を日本にとって有利に進めるには、中国に「日本を攻撃すると中国に損害が生じる」と思わせる状況を作っておくことが重要である。つまり、日中がお互いの軍事力を高める一方で、日本に対する中国の依存度を強めておく。私は、安倍首相が最近言及した、AIIBへの加盟というのはいいアイデアだと考える。

 日本が対中戦略を練る上で、私はアメリカがある日突然はしごを外す可能性も視野に入れておくべきだと思う。アメリカ・ファーストを掲げるトランプ大統領は、同盟国を守らないかもしれない。アメリカを当てにできないなら、日本は自らの手で自国を防衛するしかない。幸いにも、日本は国土が狭いため、攻撃の対象となる地域が限られる。それぞれの地域について綿密な防衛戦略を立て、仮に中国が日本を攻撃してきた場合はその防衛戦略で対抗し、早期に政治的・外交的決着に持ち込むというシナリオを用意しておく。国家の自然権である自衛権をまともに行使できる「普通の国」になるためには、こうした準備をしておくことが必要不可欠である。

 国家の成立には諸説あるが、ホッブズ的な考え方に従えば、人間は自然状態に置かれると闘争が絶えないため、各々の財産を守るために国家という約束の共同体を創造したとされる。初期の段階では、世界中に局所的に国家が誕生する。国家はまだら模様で、どの国家も存在しない空白地帯もある。ところが、ある程度の時期が過ぎると、最初に設立した国家では、国民が生活するのに十分な財産・資源がないことが判明する。すると、国家は周辺の空白地帯へと領土を拡大し、新たな資源を獲得する。こうして、徐々に世界から空白地帯は消えていく。空白地帯がなくなって、世界中に国家が隙間なく成立した後でも、なお自国の資源が足りないと思う国家は、遠方の国家を略奪するようになる。これが帝国主義であり、略奪された国家は植民地となる。

 20世紀の2度の世界大戦を経て、植民地は禁じられることになった。ところが、帝国主義の時代は終わっていない。未だに、領土拡大を画策する国が存在する。ロシアのクリミア編入もそうであるし、中国が南シナ海を自国の領海だと主張してはばからないのもそうである。帝国主義は、資源を奪うか奪われるかというゼロサムゲームを戦っている。もし、帝国主義の時代に終止符を打とうとするならば、限られた資源から双方の国が利益を得られるようなWin-Winの関係構築を志向する新しいゲームのルールが必要となるのであろう。ただし、私の浅知恵では、それが具体的にどのようなルールになるのか、現時点では少しも明らかにすることができない。

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