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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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最新記事

2013年01月27日

【ベンチャー失敗の教訓(第2回)】営業活動をしない社長

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 >>シリーズ【ベンチャー失敗の教訓】記事一覧へ

 私は、中小企業やベンチャー企業の社長の役割を次のようにとらえている。

 (1)経営ビジョンを策定し、社内に浸透させる。
 (2)営業、または製品開発・生産を主導する。
 (3)社長が営業担当ならば製品開発・生産に長けた右腕を、製品開発・生産担当ならば営業に長けた右腕を連れてくる。
 (4)社長や右腕がいなくても会社が回るように、営業や製品開発・生産の仕組みを構築する。

 (1)の経営ビジョンの重要性については、「【ベンチャー失敗の教訓(第1回)】経営ビジョンのない思い入れなき経営」で述べた通りである。(2)(3)に関しては、中小企業やベンチャー企業は慢性的に人手不足であり、人を採用する余裕もないから、社長自らが現場に出て仕事をしなければならない。その主たる仕事が、売上に直結する営業と製品開発・生産の2つである。しかし、いくら社長が優秀でも、この2つに同時に長けた人はそうそういない。だから、社長はどちらかの活動を主導し、もう一方の活動に強い人材を自らの右腕として引っ張ってくる必要がある。

 現在の大企業が創業間もない頃、技術のトップと営業のトップを置いて、ワンマンならぬツーマン体制を敷いていたケースが見られる。例えばホンダでは、本田宗一郎が製品開発に専念し、藤沢武夫が営業(と経理)を担当していた。本田は苦手な販売や資金繰りといった経営全般を全て藤沢に任せ、社長を退任するまでついに社長印を見たことは一度もなかったという。ソニーも、井深大が技術担当専務、盛田昭夫が営業担当常務として事業をスタートさせた。森永製菓では、菓子作りに強かった森永太一郎が、松崎半三郎を営業として招き入れて以降、アメリカ進出などを成功させるようになる(なお、松崎半三郎の娘・昭恵氏は、安部晋三総理の夫人である)。

 しかし、会社の規模を大きくするには、いつまでも社長とその右腕に頼り切った経営ではダメだ。あるいは、社長や右腕への依存度が高いと、社長や右腕に万一のことが起きた場合に会社の業務がストップしてしまうため、リスクマネジメントの観点からしてもよろしくない。そこで社長とその右腕は、(4)のように自らが担当する領域の「仕組み化」を行う必要がある。具体的には、自社の営業や製品開発・生産を他の人でもできるようプロセスを標準化すること、さらにその標準プロセスにヒト・モノ・カネ・情報といった経営資源が適切に投入されるようにすること、この2つである。ヒトに関しては人材育成、モノに関しては営業や製品開発・生産の能率を上げるツールや道具の整備、カネに関しては資金調達、情報に関しては現場のIT化の支援などが挙げられる。

 翻って私の前職はどうだったかと言うと、特にX社とZ社の社長は、営業と製品開発・生産(コンサルティングの場合は、コンサルタントとしてプロジェクトを遂行することが製品開発・生産に該当する)のどちらに軸足を置こうとしているのか最後まで解らなかったし、右腕的な存在を探そうともしなかった。とりわけ私がいたX社はひどかった。A社長は、自らが積極的に営業をするタイプではなかった。顧客企業向けの提案書を作ろうとしても、X社が提供している各種研修サービスのコンセプトを、コンサルタントらしく抽象的なコンセプト図で表現することばかりに腐心していた。

 提案書というからには、顧客企業が抱えている課題を明確にし、その課題解決に自社の製品がどのように貢献できるのかを明らかにしなければならない。だが、A社長が作っていたのは提案書ではなく、製品紹介資料の導入部分にすぎなかった。ある時、そんなA社長の様子に業を煮やした副社長が、「Aさん、丸とか三角とかばかり描いている場合じゃないですよ!」と激高したこともあったが、事態は改善されなかった。

 A社長は自分が営業に向いていないことを自覚してか、知り合いの営業代行サービスを利用したこともあった。その知り合いは各方面にコネクションを持っていたので、知り合いから見込み顧客を紹介してもらい、A社長がその後の営業をフォローすることになった。確かに、この知り合いのおかげで、一時的に見込み顧客は増えた。しかし、A社長は表敬訪問をすればそれで営業をしたとでも思っているかのようであり、受注につながった案件は皆無と言っても過言ではなかった。毎週の営業ミーティングで、営業部長から「A社長はお客さんのところで何を話しているのですか?」と問い詰められると、A社長は答えに窮してしまい、逆に「じゃあ何を話せばいいと思う?」と営業部長に質問するありさまだった。

 A社長に比べると、Z社のC社長はまだ営業に強い方であったけれども、そもそも本気で自社のサービスを売り込もうとしていたかどうかはかなり疑問である。最下部の(※注)には書かなかったが、実はZ社には、本業のコンサルティング事業とは別に、ファンド事業があった。C社長が自分の知り合いから出資金を募って運用するという、C社長の全くの個人的な仕事であり、コンサルティング事業とはシナジーのない事業であった。

 C社長は毎朝出勤すると、コンサルティングスタッフがいるブースを無視して、ファンド担当者がいる部屋に挨拶をして入っていき、運用状況を確認するのを日課にしていた。この行動を見たコンサルティングスタッフはどう思うだろうか?私ならば、「C社長にとっては、コンサルティング事業よりもファンド事業の方が大事なのだろう」と考える。もしもC社長が営業を重視していたならば、出勤して真っ先にすることは、今日の訪問予定を確認したり、部下の営業活動の進捗や問題について話し合ったりすることであるはずだ。社長の言動には、社長の優先順位が表れる。そして、社員は社長の一挙一動を、社長が思っている以上に注視しているものである。
(※注)
 X社(A社長)・・・企業向け集合研修・診断サービス、組織・人材開発コンサルティング
 Y社(B社長)・・・人材紹介、ヘッドハンティング事業
 Z社(C社長)・・・戦略コンサルティング
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2013年01月26日

【数学C】「レムニスケート」のグラフを直交座標による方程式のまま描いてみた

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曲線 (x2+y22=x2-y2 について、次の問いに答えよ。
(1)与えられた曲線がx軸、y軸、原点に関して対称であることを示せ。
(2)与えられた曲線の極方程式を求め、概形をかけ。
 いわゆる「レムニスケートの極方程式」の問題。これを素直に解けば次のようになり、グラフは綺麗な8の字型を描く(文系で数学ⅡBまでしか習わなかった自分は、こういうグラフが出てくるだけでちょっと興奮)。

レムニスケートの極方程式(1)

 では、(2)で極方程式を求めずに、直交座標による方程式のままグラフを描くとどうなるだろうか?数学Ⅲの微分の面倒くさい問題だと思って実際にやってみた。

レムニスケートの極方程式(2)
レムニスケートの極方程式(3)

 というわけで、当たり前だけど直交座標による方程式のまま解いた方が数倍大変だった(汗)。だが、極方程式に基づいてグラフを描いた時には解らなかった、グラフの4つの極値が明らかになったのが収穫(?)。

《追記》
 もっと鮮やかに極値を求める方法がありました。

 (x^2+y^2)^2=x^2-y^2のグラフ|Yahoo!知恵袋
カテゴリ: 数学 コメント( 2 )
2013年01月25日

【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~(※過去問代わりにご活用ください)

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 前回の「【戦史検定】初級セミナーノート~陸軍編~」の続きで、今回は海軍編。


【戦史検定】初級セミナー海軍編(1)【戦史検定】初級セミナー海軍編(2)

(※服部卓志郎『大東亜戦争全史』第1巻[1953年]中の地図に一部加筆して作成。この本が置いてあった図書館では白黒コピーしかできなかったので、地図中で陸軍と海軍の区別がつかなくなってしまった点はご容赦ください。あと、諸々事情があって地図が二分割されている点もお許しください・・・)

(1)真珠湾攻撃
■背景:オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。

 だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。米国長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えていた。1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。
■年月日:1941年12月8日(※この年月日は重要)
■指揮官:(日)山本五十六南雲忠一 VS (連)ハズバンド・キンメル、ウォルター・ショート
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・真珠湾奇襲の訓練は、鹿児島県の錦江湾(※鹿児島湾の別名。場所はこちらを参照)を中心に行われた。これは、錦江湾と真珠湾の地理的条件(水深の深さ)が類似しているためである。
・日本の機動部隊は、択捉島単冠湾を出発して真珠湾へと向かった。
・真珠湾攻撃を機に、軍艦中心から航空機中心の戦闘の時代へと突入した。


(2)マレー沖海戦
■背景:日本軍によるマレー上陸作戦が開始されると、マレー侵攻を阻止すべく、イギリス海軍の東洋艦隊がシンガポールを出航した。36センチ砲10門を備えた最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、38センチ砲8門を持つ巡洋戦艦「レパルス」が基幹である。
■年月日:1941年12月10日
■指揮官:(日)松永貞市小沢治三郎 VS (連)トーマス・フィリップス
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・イギリス軍は日本軍航空部隊の能力を「イタリア軍と同程度、ドイツ軍よりもはるかに劣る」と見積もっていたため、東洋艦隊に護衛の戦闘機をつけていなかった。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは日本軍の航空機によって撃沈、しかも、航行中の戦艦を飛行機だけで撃沈したのは、このマレー沖海戦が世界で初めてであり、当時のチャーチル首相は、「あらゆる戦争で、私はこれほどの直接のショックを受けたことはなかった」と後に回想している。


(3)スラバヤ沖海戦
■背景:太平洋戦争の勃発とともに、日本海軍はマレー沖海戦で英国東洋艦隊の主力戦艦2隻を撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除した。日本軍は資源地帯である蘭印(オランダ領インドネシア)占領を目標としていた。1942年2月になると、その中心地であるジャワ島占領を目的として、行動を開始した。
■年月日:1942年2月27~3月1日
■指揮官:(日)高木武雄 VS (連)カレル・ドールマン
■結果:日本の勝利
■ポイント:
太平洋戦争初の軍艦同士の戦闘である。


(4)珊瑚海海戦
■背景:日本軍は、南方作戦に続く第2次の作戦については方針が定まっていなかった。海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。その海軍が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第2にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。

 陸軍は、あくまで日中戦争(支那事変)解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって、大兵力を中国の支那派遣軍や、満州の関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。

 ここで企画されたのが米豪遮断作戦である。この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)と、ニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)から構成された。MO作戦の上陸部隊をポートモレスビーへ輸送中に起こったのが珊瑚海海戦である。
■年月日:1942年5月8日
■指揮官:(日)井上成美、五藤存知、高木武雄、原忠一、丸茂邦則、山田定義 VS (連)フランク・J・フレッチャー、オーブリー・フィッチ、J・C・クレース
■結果:日本軍の戦術的勝利・戦略的敗北
■ポイント:
世界初の空母同士の対決である(日本軍:「翔鶴」、「瑞鶴」、「祥鳳」 VS 連合国軍:「レキシントン」、「ヨークタウン」)。
・この海戦は日本軍の戦術的勝利・戦略的敗北と呼ばれる。戦術的勝利とは、双方の沈没艦「祥鳳」と「レキシントン」を比較すると、軽空母である「祥鳳」に対して「レキシントン」は大型空母だったからである。一方、戦略的敗北とは、珊瑚海海戦で日本海軍が損害を被ったため、主目的のMO作戦が中止に追い込まれたことを指す。


(5)ミッドウェー海戦
■背景:山本五十六は、ミッドウェー攻略を餌に、真珠湾攻撃で撃ち洩らしたアメリカの機動部隊をおびき出し、殲滅しようという作戦を立てた。しかし、作戦を決定する海軍軍令部と、島の占領にあたる陸軍の参謀本部は、仮に占領しても日本から離れすぎていて維持は困難であり、また作戦そのものも非常に危険だという理由で反対していた。ところが、山本の強い意志でこの作戦は実行された。
■年月日:1942年6月5日~6月7日
■指揮官:(日)山本五十六南雲忠一、近藤信竹 VS (連)フランク・J・フレッチャー、レイモンド・スプールアンス
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・山本が最優先したかったのはアメリカの機動部隊の殲滅であったが、機動部隊指揮官の南雲には、作戦の目的がミッドウェー島攻略なのか、アメリカの機動部隊殲滅なのかがはっきりと伝わっていなかった。
・海軍は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」の4空母を全て失うという歴史的敗北であった。


(6)第1次ソロモン海戦
■背景:ガダルカナル島で日本の陸戦平が死闘を展開している時、海上でも海軍が壮絶な戦いを繰り広げていた。主な戦場はガダルカナル島とその北に浮かぶサボ島周辺で、その海域が「鉄底海峡」と呼ばれるようになるほど、海戦で多くの艦艇や輸送船が海底に沈んでいった。ガダルカナル島をめぐる海戦は、第1次ソロモン海戦、第2次ソロモン海戦、サボ島沖夜戦、南太平洋戦争、第3次ソロモン海戦、ルンガ沖海戦が主なものであった。ガダルカナル島争奪戦における海軍の役割は陸軍部隊の支援で、輸送船の護衛などが主な任務であった。そのため、海戦は輸送の最中に起こったものがほとんどであった。
■年月日:1942年8月8日~9日
■指揮官:(日)三川軍一 VS (連)ヴィクター・クラッチレー
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・夜襲でアメリカ軍を破ったが、揚陸中の輸送船団を攻撃しなかったことが問題視された。


(7)南太平洋海戦
■背景:第1次ソロモン海戦と同じく、ガダルカナル島をめぐる海戦である。
■年月日:1942年10月26日
■指揮官:(日)山本五十六南雲忠一、近藤信竹 VS (連)ウィリアム・ハルゼー、トーマス・キンケイド、ジョージ・マレー
■結果:日本の勝利
■ポイント:
・米空母「ホーネット」を撃破したが、この海戦が事実上日本最後の勝利となった。
・ちなみに、米空母を撃沈させたのは日本だけである。


(8)海軍甲事件
■年月日:1943年4月18日
■ポイント:
山本五十六がショートランド島方面に視察と激励に行く最中、ブーゲンビル島上空でアメリカ軍機により撃墜された事件。
・海軍大将の後任には古賀峯一が任命された。


(9)マリアナ沖海戦
■背景:1944年6月15日、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に上陸を始めた(※「【戦史検定】初級セミナーノート~陸軍編~」の「サイパン島の戦い」を参照)。上陸部隊を支援するのは空母15隻を持つアメリカ第五艦隊であった。フィリピン付近にいた日本の空母機動部隊はこの米第五艦隊に戦いを挑んだ。本来ならばサイパン上陸が始まる前に戦闘を開始すべきだったが、サイパン上陸直前まで日本軍は確かな情報をつかめなかった。
■年月日:1944年6月19日~6月20日
■指揮官:(日)小沢治三郎、栗田健男、角田覚治 VS (連)レイモンド・スプルーアンス、マーク・ミッチャー
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・小沢はアメリカの飛行機では攻撃できない遠い距離から航空部隊を出撃させるアウトレンジ戦法を採用した。日本軍機はアメリカ軍機よりも軽く、その分航続距離が長かったからである。
・しかし、日本の艦上機隊はアメリカの待ち伏せ攻撃により壊滅。アメリカ軍は、日本軍機を背後から撃墜する様子を、捕まえようとして追いかけるとよたよたと逃げ惑う七面鳥に似ているとして、「マリアナの七面撃ち」と呼んだ。
・日本の空母「大鳳」、「翔鶴」、「隼鷹」も大破した。


(10)レイテ沖海戦
■背景:1944年6月のマリアナ沖海戦は日本の敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥してマリアナ諸島の喪失も確実なものとなった。大本営は新たな防衛計画「捷号作戦」を立案し、地域別に捷一号から捷四号と名付けられ、このうちフィリピン方面の防衛作戦が捷一号作戦とされた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が遮断されることであり、戦争全体の敗北につながるものであった。
■年月日:
■指揮官:(日)栗田健男、小沢治三郎、西村祥治、志摩清英 VS (連)ウィリアム・ハルゼー、トーマス・キンケイド
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・栗田はレイテ湾の80km近くまで到達した時、突然「反転北上せよ」と命令し、レイテ湾突入を中止してしまった。これにより、海軍の捷一号作戦はレイテ突入を果たせず、決定的に挫折した。
・日本は戦艦「武蔵」をシブヤン海で失うなど、海軍の艦隊戦力が事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
・この海戦で日本側は初めて神風特攻隊による攻撃を行った。
・ちなみに、神風特攻隊と言えば学徒出陣を連想するが、学徒出陣は1943年10月1日に当時の東條内閣が公布した在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)に基づくものである。第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ7万人が集まった。


(11)沖縄戦
■背景:アメリカ軍の目的は、日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地軍は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦(持久戦)」を意図するという不統一な状況であった。
■年月日:1945年4月1日~6月23日(※この年月日は重要)
■指揮官:(日)牛島満、長勇、大田実 VS (連)サイモン・B・バックナー、ブルース・フレーザー、レイモンド・スプルーアンス、ジョセフ・スティルウェル
■結果:連合国の勝利
■ポイント:
・大本営は太平洋戦争の末期になると、連合軍の進攻に対して、作戦方面を東シナ海周辺および南西諸島方面に指向し、航空兵力を主力として打撃を与えることを目的とした。この時に立てられた作戦が「天号作戦」であり、「天一号作戦」が沖縄方面の航空作戦であった。この「天一号作戦」中に展開された神風特攻隊の作戦を「菊水作戦」と呼ぶ。
・沖縄戦では、九州に神風特攻隊の基地が設置された。陸軍は知覧万世などに、海軍は串良鹿屋などに基地を置いた(それぞれの場所はこちらを参照)。
伊藤整一海軍大将は、戦艦「大和」による天一号作戦参加の命令に対し、伊藤は「制空権・制海権もなしの出撃は、沖縄に到達すべくもなく、それを承知の上で、七千人の部下を犬死させるわけにはいかない」と執拗に疑問を投げかけ反対したが、草鹿龍之介中将の「一億総特攻の魁となっていただきたい、要するに死んで貰いたいのだ」との一言で命令を受諾した。
・4月7日に戦艦「大和」が撃沈(奄美大島の西方に沈没)。残存戦艦は佐世保に帰還した。
・ちなみに、「大和」の主砲は46cmで世界一であり、ギネスブックにも登録されている。


《参考図書》

オール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべてオール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて
太平洋戦争研究会

日本文芸社 2005-07

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図解 太平洋戦争 (歴史がおもしろいシリーズ!)図解 太平洋戦争 (歴史がおもしろいシリーズ!)
後藤 寿一

西東社 2010-07

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大東亜戦争全史大東亜戦争全史
服部 卓四郎

原書房 1996-06

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