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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2013年05月09日

ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』―経営に活かせそうな6つの気づき(その1~3)


スタンフォードの自分を変える教室スタンフォードの自分を変える教室
ケリー・マクゴニガル 神崎 朗子

大和書房 2012-10-20

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 「どうしたら悪い習慣を捨てて健康的な習慣を身につけられるか?」、「どうすれば物事をぐずぐずと先延ばしにしないようになれるか?」、「集中すべき物事を決め、ストレスと上手につき合うにはどうしたらよいか?」など、「意志力」をめぐる様々な問題に答えてくれる本。著者の個人的な成功体験をひけらかす安っぽい自己啓発本ではなくて、心理学、経済学、神経科学、医学など豊富な科学的知見に裏づけられており、非常に説得力がある。今日と明日の記事では、本書から得られた気づきのうち、経営にも活かせそうなポイントを6つほど挙げてみたいと思う。
 人は意志力を使っているうちに「使い果たしてしまう」ということです。(中略)研究結果によれば、自制心が最も強いのは朝で、その後は時間が経つにつれて衰えていきます。ですから、ようやくひと息ついて自分にとって大事なことをしようと思うころには―仕事のあとジムに行くとか、大きなプロジェクトに取り組むとか、子供たちがソファにお絵かきしてもキレないようにするとか、いざというときのための引き出しのタバコには手をつけないでおくとか―意志力などこれっぽっちも残っていません。
 本書では、意志力には「物理的な量」があると説明されている。また、意志力は「筋肉」にも例えられる。つまり、意志力は筋肉と同じで、使い続ければ疲労が蓄積して機能しなくなるのである。ということは、重要で決断力が求められる仕事ほど、朝早くに着手した方がよい。難しい意思決定を迫られる会議ほど、朝早くに設定してみよう。出勤後、メールボックスにたまった大量のメールを見て、返信すべきメールはどれか?スルーしてもよいメールはどれか?などといったつまらない判断のために、貴重な意志力の貯金を切り崩すのはあまりにもったいない。

 私の前職での経験は、「【ベンチャー失敗の教訓】シリーズ」でまとめている最中だが、先ほどの引用文を読んで1つ思い出したのは、前の会社では経営会議が必ずといっていいほど夜6時以降に行われていたことだ。会議終了の時間もはっきりしておらず、9時になっても10時になっても会議がだらだらと続いていることが多かった(その時間まで残って仕事をしている私もたいがい非生産的なのだが・・・)。どうりで重要な意思決定が下せないわけだ。
 人は何かよいことをすると、いい気分になります。そのせいで、自分の衝動を信用しがちになります―多くの場合、悪いことをしたってかまわないと思ってしまうのです。(中略)彼らには罪悪感もありません。それどころか、がんばってごほうびを手に入れた自分を誇らしく思う、とさえ語りました。「がんばったんだから、ちょっとぐらいごほうびがなくちゃ」とみずからを正当化しているのです。そんなふうに自分を甘やかすことが、往々にして失敗の原因になります。
 心理学者はこれを「モラル・ライセンシング」と呼ぶそうだ。「衝動買いをぐっと我慢した人が、家に帰ったとたんにおやつをペロッと食べてしまったり、プロジェクトに膨大な時間を取られている社員たちが、会社のクレジットカードを当然のごとく使用に使ったりする」のがその例であるという。

 これは、企業にとっては喜ばしくないニュースである。企業は社員の統率を図るために、様々なルールを設定する。加えて、昨今はコンプライアンスや社会的責任、内部統制、サステナビリティなど、企業にとって何かと制約となりがちな要請が増えている。「モラル・ライセンシング」に従えば、社員は網の目のように張り巡らされたルールを守ろうとする反面、ルールを守ったごほうびとして、網の目の隙間を狙って逸脱行為をする可能性がある。

 こうした事態を防ぐためには、まずは過剰なルールを減らして社員の心理的負担を和らげるのがよいだろう。そしてもう1つは、ルールを守ること自体が目的化して社員が近視眼的にならないよう、「なぜそのルールを守る必要があるのか?」という本来の目的や意義を、折に触れて社員と確認することでは大切ではないだろうか?(月並みな提案だが・・・)
 目標達成の大きな味方であるはずの「やることリスト」でさえ、じつは油断なりません。プロジェクトのために抜けモレのない完璧なやることリストを作成したら、何だかものすごく達成感があって、今日の仕事はこれでおしまいだ、なんて思ったことはありませんか?心当たりがあるのは、あなただけではありません。実際はこれから何をすべきかがはっきりしただけなのに、リストを完成させた達成感があまりにも大きくて、あたかも目標に向かって前進したかのように満足してしまうのです。
 この引用文は、動機づけ理論の1つである「目標設定理論」に真っ向から反対しているようである。この記述に従えば、四半期ごとに上司と面談して次の目標を設定することも、(多くのタイムマネジメントの本に書かれているように)1日の初めにTo-Doリストを作ってタスクの優先順位を明らかにすることも、かえって逆効果というわけだ。実際には、目標達成のプレッシャーが日々かかるから、さすがにここまで怠けてしまうことは少ないだろうが、人事部から言われるがままに渋々面談を実施して目標設定を形式的に済ませたり、To-Doリストを作った後に一息入れたせいで、早速1日のプランに遅れが生じたりすることはよくある。

 目標を立てただけで満足しないようにするには、「あなたは目標を達成するために、どれくらい真剣に『努力』していますか?」と問いかけることが重要だと著者は指摘する。安易に達成感を味わうのではなく、まだ目標に至る道の途中にいることを自分に意識させるのである。面談で設定した目標を紙に書いてデスクに張り出し、毎朝その紙を見ては先ほどの問いを自分に投げかけ、5分間じっと考えてみる、To-Doリストを2時間ごとに見直し、やはり同じように自問自答してみる。こうすることで、常に目標と現在との距離感を認識することが有効かもしれない。

 (続く)
2013年05月07日

内田樹『日本辺境論』―U理論の宇宙観に対する違和感の原因が少し解った


日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹

新潮社 2009-11

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 水曜どうでしょう藩士でもある内田樹教授の本。本書の骨格はいたってシンプルだが、それを裏づける論証は実に多岐に渡る。すなわち、
 ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている
という日本人=「辺境人」、もっと解りやすく言えば、「他国をお手本とすることでしか自らを変えることができない」という日本人の特性を、思想史家・丸山眞男、民族学者・梅棹忠夫、法社会学者・川島武宜に始まり、澤庵禅師や新渡戸稲造、さらには武道や宗教、果ては養老孟司のマンガ論まで幅広いテーマを扱いながら論じている。その中でも個人的に印象に残ったのは、日本人と西洋人の「学び」の構造を比較している部分だ。
 「その意味を一義的に理解することを許さぬままに切迫してくるもの」について、「理解したい。理解しなければならない」ということが先駆的に確信されることが「学ぶ」という営みの本質をなしている。その前提については洋の東西では違いはありません。
と著者は前置きをした上で、「学び」を「胎児」の成長に例えたヘーゲルと、「果実」に例えたハイデガーの思想を紹介している。
 胎児はやがて人間になるはずであり、その下絵が胎児のうちにすでに書かれており、胎児はその下絵をそれと知らずに忠実にトレースしているのである、というのがヘーゲルの考え方です。胎児から人間への「命がけの跳躍」と見えるものは、実際には生物学的下絵が描かれている。ですから、主観的には「跳躍」でも、客観的には決められた道筋を歩んでいることになる。(中略)

 ヘーゲル的に言えば、「学び」というのは、本質的には自己発見だということになります。自分の中にすでに置いてあったものをあとから発見する。もともと設計図に書いてあった自分と、実際に構築された自分がぴたりと合致する。それが自己の成就である、と。
 ハイデガーもやはり、学ぶものは学ぶに先んじて、学ぶべきものについての一覧的なリストを、自分がそうなるべき姿の「下絵」をすでに潜勢的に所有していると考えているのではないかと思います。現に、ハイデガーは現存在の本態的なあり方を「熟す」という言い方に託したことがあります。(中略)

 「果実」の比喩はヘーゲルの「胎児」の比喩と本質的には同じです。果実のDNAのうちには熟果に至る全行程の下絵がすでに書き込まれている。だから、それが未熟なまま落果したとしても、それの熟果としての完成形は権利上は先取りされている、と。
 ヘーゲルもハイデガーもまともに勉強したことがない自分が、このまま話を続けることの危険性を承知の上で言えば、西洋人にとっては、「学ぶべきこと」は「アプリオリ」として生まれた時から(あるいは生まれる前から(?))人間の中にインプットされており、「学び」とはそれを引っ張り出してくる営みである、ということになる。これは日本人には理解しがたい発想だ。日本人は、「学ぶべきことは誰か他の人が与えてくれるもの」と考える。そしてまさにこの姿勢こそが、「他国をお手本とすることでしか自らを変えることができない」辺境人の生き方そのものである。こうした西洋の思考構造の違いを、著者は宇宙観の違いに求める。
 「帰還」や「円環」の比喩(※ヘーゲルが「学び」を描写するのに用いた表現)は、自分たちが「世界の中心」であるという宇宙観になじんだ精神にとっては違和感のないものでしょう。けれども、自分たちは世界の中心だったことが一度もない集団(※つまり日本人)には身に添わないものです。
 ここまで読んで、私がかねてから「U理論」に対して抱いていた一種の違和感の正体が少し解った気がする。U理論とは、「学習する組織」で知られるピーター・センゲらが近年取り組んでいる理論であり、従来のリーダーシップ論とは異なる新しい変革の理論である。その詳細は旧ブログの記事に譲るとして、U理論の前提となっている考えについて簡単に述べておきたい。

 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(1)-『出現する未来』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(2)-『出現する未来』

出現する未来 (講談社BIZ)出現する未来 (講談社BIZ)
P. センゲ O. シャーマー J. ジャウォースキー 野中 郁次郎 高遠 裕子

講談社 2006-05-30

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U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
C オットー シャーマー C Otto Scharmer 中土井 僚

英治出版 2010-11-16

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 U理論の基礎となっているのは、物理学者デイビッド・ボームが提唱した「内蔵秩序」という概念である。内蔵秩序とは、平たく言えば「宇宙」、「全体」であり、我々が普段目にする世界=「顕前秩序」を生み出す源泉である。内蔵秩序は精神と物質の区別すらない「統合」された世界であるのに対し、顕前秩序は近代的、デカルト的な「分析」が支配する世界であり、精神と物質は分離され、さらに社会は人間の諸活動によって細分化されている。

 ボームは、人間は誰でもこの内蔵秩序につながることができると主張する。我々が意識のレベルを上げて内蔵秩序へアクセスする時、自分と他者という境界が崩れ、「我々は皆一体である」という感覚が得られる。すると、顕前秩序で起きている様々な問題を解決へと導く革新的な方向性を、内蔵秩序が「教えてくれる」。内蔵秩序は、人間の「大いなる意思」を包摂する世界であり、「世界が望む通りに世界を実現させることができる」。そのための一連のアプローチを、ボームは「ダイアローグ(対話)」というコンセプトでまとめた。

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ
デヴィッド・ボーム 金井真弓

英治出版 2007-10-02

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 「内蔵秩序」からおのずと答えが出てくる―この部分が(日本人の特性として)私の中ではどうしても引っかかっていた。あらゆる知を包摂する内蔵秩序など本当に存在するのだろうか?そして、人間が内蔵秩序と一体となり、内蔵秩序の知を利用することは果たして可能なのだろうか?西洋人ならばこうした疑問は出てこない。なぜならば、人間は宇宙の中心である。宇宙はあらゆる知を持っている。よって、宇宙の中心にいる人間はあらゆる知を手に入れることができる、という三段論法が成立するからだ。

 しかし、日本人の宇宙観はこれとは異なる。日本人にとって宇宙とは、「絶対に人間の手が届かない存在」であり、「その正体は遂に理解することができない」ものではないだろうか?「そんなことをしたら神様の罰が当たる」、「どこかで仏様が私の行いを見ている」と日本人が言う時、具体的な神様や仏様を想起することはない。神様や仏様はたくさんいらっしゃるが、その数は誰にも解らないし、お顔を思い浮かべることも難しい。そのようなとらえどころのない宇宙に対して、日本人は畏怖の念を抱く。相手のことはよく解らないのだけれども、人間を超越した存在だから畏れる。そして、畏れを軽減するために、宇宙に近づく努力をする。それが「学び」となって現れる。

 日本人にとっての「学び」がこのような契機で発動される限り、「学び」には「ゴールがない」。学ぶべき対象である宇宙は、どれほど深く学んでも完全に理解することができないからだ。このような「学び」の精神が、日本では「道」と呼ばれる。本書では「道」に関する考察も行われているが、それに関連して親鸞の思想が紹介されている。
 親鸞はここで修行の「目的地」という概念そのものを否定しています。行の目的地というのはいずれにせよ現在の自分の信仰の境位においては、名づけることも類別することもできぬものである。だから、それが「どこか」を知ることはできないし、私が間違いなく「そこ」に向かっているのかどうかを訊ねれば教えてくれる人もいない。だから、目的地について論じることは無意味である。
 「学び」にゴールがなく、また現在の到達点を知るよしもないということは、必然の結果として、「学び」に捧げた努力が必ずしも報われるとは限らないことを意味する。著者は、「武士道」をまとめた新渡戸稲造に触れて、次のように述べている。
 努力と報酬の相関を根拠にして行動すること、それ自体が武士道に反する。新渡戸稲造はそう考えていました。私はこのような発想そのものが日本文化のもっとも良質な原型であるという点において新渡戸に同意します。努力とその報酬の間の相関を予見しないこと。努力を始める前に、その報酬についての一覧的開示を要求しないこと。こういう努力をしたら、その引き換えに、どういう「いいこと」があるのですかと訊ねないこと。これはこれまでの著書でも繰り返し申し上げてきた通り、「学び」の基本です。
 最近、元巨人軍のエース・桑田真澄氏の著書を何冊か読んだのだが、桑田氏は早稲田大学の大学院でスポーツ論を学び、「新しい野球道」を確立しようとしている。では、桑田氏の言う「野球道」とは何なのだろうか?佐山和夫氏との共著『野球道』の中のこの部分がヒントになりそうだ。
 メジャーリーグでは、シンプルに野球を楽しむ姿勢や力と力のぶつかり合いなど、ベースボールの魅力を肌で感じました。その反面、基本的なプレーを雑にすること、道具を粗末に扱うこと、ドーピング問題に代表されるようにフェアプレー精神が欠けていることなどを目の当たりにしたぼくは、アメリカのベースボールにはない日本野球の良さを感じるようになりました。

 そして、日本野球の真髄は、野球を通じて人間性を磨こうとする姿勢―礼儀や道具を大切にし、一つひとつのプレーに手を抜かず、技だけでなく心を大切にする―にあることを再認識しました。
野球道 (ちくま新書)野球道 (ちくま新書)
桑田 真澄 佐山 和夫

筑摩書房 2011-08-08

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 つまり、「野球道」の中身は「野球をプレーする姿勢」なのである。ここでは、「どういう戦略・戦術で挑めば野球の試合で勝つことができるのか?」、「どういう試合運びが最も理想的なのか?」という、野球の本来のゴールは問われない。ゴールは一旦棚上げして、プロセスを重視する。この基本原則は、他のあらゆる「道」からも抽出することができるように思える。

 U理論は、既存のデカルト的、近代的な問題解決法ではどうにも対処できないほど複雑に絡み合った問題を紐解くのに有効とされる。集団の意識が内蔵秩序との統合に成功すると、進むべき方向性が突然明らかになり、一気呵成に集団が動き出すイメージである。したがって、U理論による変化は、非連続的・飛躍的なものとなる。

 これに対して、日本人の「学び」は、その性質からして少しずつしか進まない。不明確で、しかも到達することが不可能とあらかじめ解っているゴールに向かって、それでも「道」を究めるために精神的精進を怠らないのが日本人である。その歩みは漸進的な改善となって現れる。もちろん、ある日突然目覚しい跳躍を見せることはあるかもしれない。しかしそれは、これまでコツコツと積み上げた訓練の結果、半ば偶然にもたらされたのであって、初めから跳躍後の自分自身を明確に描いて、意図的にジャンプしたわけではないのだ。
2013年05月05日

【ベンチャー失敗の教訓(第16回)】かえって逆効果だった「豊富な資金源」


 >>シリーズ【ベンチャー失敗の教訓】記事一覧へ

 3社とも、事業計画らしい事業計画をまともに作ったことがなかった。過去の資料を振り返って見てみると、まだ初期の頃(2007年頃)は具体的な収支計画を立てようとした形跡が見られるのだが、年を追うごとに計画もいい加減になっていった。目標値は年間の売上高しか設定されず、具体的な戦略的施策も社内で共有されることがなくなった。コンサルタントが最も多く集まっているZ社でさえ、事業計画書をのぞいてみると、市場や競合他社の動向に関する定性的な分析しかされておらず、有益な計画書とはなっていなかった。

 そして、月末が近づくと経理担当者が「今月は何百万円資金が足らない」と騒ぎ出し、社長に資金繰りのことを相談するのが日常茶飯事となっていた(その相談に行った時に、X社のA社長が資金調達(?)のために、デイトレードに熱中していたことがあるという話は、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第3回)】製品開発・生産をしない社長」でも紹介した)。

 3社ともずるずると赤字を垂れ流しながら、それでも存続できたのは、ひとえにA社長とC社長が個人的に潤沢な資金を持っていたからに他ならない。3人の社長のうち、この2人はもともとある大手コンサルティングファームの創業時からのメンバーであり、パートナーに上り詰めてからは自社株を保有していた。そのコンサルファームが後に上場したおかげで、2人は多額のキャピタルゲインを手にすることができたという。その正確な額は解らないが、噂によると2人とも数億~十億円単位で個人資産があると言われていた。

 月末に経理担当者から相談を受けた2人の社長は、その都度会社に対してポケットマネーからお金を貸し付けていた。また、年度末に債務超過になりそうであることが判明すると、その度に増資を繰り返して倒産を免れていた。そのため、X社とZ社は、特に大規模な設備投資や研究開発を行っているわけでもなく、社員数もせいぜい数十人程度の小規模企業なのに、資本金が1億円近くまで膨れ上がっていた(もっとも、その大半は累積損失で消えていたのだが・・・)。

 創業間もないベンチャー企業が一番苦労するのは資金繰りである。だから、2人の社長の豊富な資金源は、強力なアドバンテージになるのではないか?と思われるかもしれない。しかし実際には、資金が潤沢だったがために、利益を早く出さなければならないというプレッシャーにさらされず、事業をいつまでも軌道に乗せることができなかった、と言う方が正しい。プレッシャーのなさに拍車をかけたのは、3社とも外部企業からの調達がほとんどなく、買掛金を抱える必要がなかった点も挙げられる。買掛金があれば、取引先に迷惑をかけるわけにはいかないから、もっと必死で運転資金を捻出しようとしたに違いない。

 潤沢な資金が悲劇を招いた例としては、かつてのアルゼンチンが思い浮かぶ。資源国であったアルゼンチンは、20世紀初頭、先進国並みの国民所得を誇っていた。統計によれば、1920年代の1人当たり実質国内総生産額は、ドイツより若干高く、日本の約2倍もあったという。ところが、天然資源も多く農作物も豊かであったため、他の産業で生産性を上げようという内圧が働かなかった。結果的にイノベーションが阻害され、2001年には財政破綻を招いていしまった。

 石油資源国には、多かれ少なかれアルゼンチンと似たような状況が見られる。サウジアラビアの人は昼間働かないのが常識だと言われており、 20代前半の実に30~40%が失業者だとされる。また、エジプトでも人々は2~3時間しか働かないと聞く。確かに、石油資源は「いつかなくなる」と言われながら結局はその寿命を半永久的に伸ばしているようであり、サウジアラビアもエジプトも今の生活をこのまま継続できるかもしれない。だが、万が一石油資源が枯渇したら、両国の経済がどうなるか想像するだけでも恐ろしい。

 逆に、資金のなさが功を奏した興味深い例として、「破壊的イノベーション」で知られるクレイトン・クリステンセンは、ホンダのスーパーカブを取り上げている。1958年、ホンダはアメリカンのオートバイ市場を標的に定めた。この時、経営陣は勘と経験から、売上目標を米国市場の1%に相当する、年間6,000台に設定した。米国での冒険的事業のための財源を確保することは、社長の本田を説得すれば済む問題ではなかった。大蔵省からも、米国拠点設立に必要な外貨の放出について承認を得る必要があった。トヨタによるトヨペット車の導入が失敗に終わっていたことから、大蔵省は乏しい手持ちの外貨の放出を渋り、許可された投資額はわずか25万ドル、うち現金はたった11万ドルに制限され、残りは現金で持っていくことになった。

 1960年になると大型バイクがぼつぼつ売れ始めたが、それらはすぐにオイル漏れを起こし、クラッチが摩耗した。ホンダの優秀なエンジニアは、混雑した道路で急発進や急停止を繰り返す運転に適した製品の開発には優れていたが、米国のオートバイ乗りに多い、高速の長距離連続走行に求められる技術にはお手上げだった。ホンダには、故障したバイクを修理のために日本に空輸することに貴重な外貨を費やすほか、取るべき道はなかった。会社は破産寸前だった。

 ホンダが資金潤沢な既存の大手企業に対抗して、故障の多い大型マシンの推進宣伝に心血を注いでいた頃、米国ホンダ社員が移動手段として50ccのスーパーカブを使い始めた。スーパーカブはどのみち売れない製品だった。米国には、これほど小型のオートバイの市場などあるはずないと考えられていた。だが、ホンダ社員がロサンゼルスでスーパーカブを乗り回すうちに、意外にもその光景が一般の人々や小売業者の目を引くようになる。目をつけたのはオートバイ販売業者ではなく、スポーツ用品店だった。大型バイク販売の難航で資金繰り難に陥っていたホンダは、破綻を免れるためにやむなく、スーパーカブの販売に踏み切った。

 スーパーカブの販売が軌道に乗り始める一方、大型バイクはその後も期待を裏切り続けたため、ホンダは徐々に方向転換し、やがてオフロード・バイクという全く新しい市場分野の開拓に取り組むようになった。このバイクは大型ハーレーの4分の1の価格に設定され、それまでの欧米の老舗メーカーの、轟音を響かせる大排気量の二輪車には見向きもしなかった。スーパーカブは、革ジャンなど着ない上品な人々向けに販売された。彼らは、スーパーカブを長距離移動ではなく、楽しむためのバイクとして使った。

 クリステンセンは、ホンダにこの市場の開拓を強いたのは、資金のなさだったと指摘する。資金が十分でなかったがゆえに、経営陣は多額の損失を許容できず、その結果、米国拠点のマネジャーが思いがけない成功を開拓しなければならない状況が生み出されたのである(※)。人間は、多少制約がある状況の方が創造力を発揮しやすいと言われる。そういう意味では、資金は多すぎるよりむしろ少ないぐらいの方がよい。どうすれば少ない資金を最大限に活用し、早く利益を出せるようになるか、社員は必死に知恵を絞ることだろう。

 3社は、社長の個人的な貸し付けではなく、銀行から資金を借り入れていれば、もう少し事態は変わっていたかもしれない。なぜならば、銀行と話をつけるには、ちゃんとした事業計画を立てて、借入金を返済できるメドをつけておかなければならないからだ。中小企業にとって銀行は、それほどお金が必要ではない好景気の時には熱心に融資を勧めるくせに、本当にお金が必要な不景気の時には一斉に貸し渋りをする厄介な存在と映っているかもしれない。だが、見方を変えて、自社の事業計画や資金回収のシナリオを点検してくれるパートナーとしてみなせば、もっと良好な関係が築けることだろう。3社にもそういう視点がほしかった。
(※注)
 X社(A社長)・・・企業向け集合研修・診断サービス、組織・人材開発コンサルティング
 Y社(B社長)・・・人材紹介、ヘッドハンティング事業
 Z社(C社長)・・・戦略コンサルティング
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(※)クレイトン・クリステンセン『イノベーションへの解―利益ある成長に向けて』(翔泳社、2003年)を参照。

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)
クレイトン・クリステンセン マイケル・レイナー 玉田 俊平太

翔泳社 2003-12-13

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