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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2012年12月20日

自分を苦しめていた怒りからの脱却、そして思想的転換


 夏場にブログを一時休止し、この冬に新ブログを立ち上げたことから推し量っていただけるように、今年の夏は個人的にかなりのドタバタがあり、同時にこれまでの人生と今後の自分についてじっくりと考えさせられる機会があった。

 この3か月ほどで変わったこと。上手く表現できないのだが、今年の夏ぐらいまでは、「頭の中の思考は未来を向いているのに対し、現実の体験は過去を向いていた」。独立してちょうど1年ぐらいだったこともあって、自分が目指す事業を構想し、ビジネス書を読み漁って新しい知識の吸収に努めていた。しかしその一方で、仕事をするたびに昔の苦い経験を思い出しては、不適切な怒りで自分自身を苦しめていた。前に向かって一生懸命走ろうとしているのに、過去への怒りが足かせになって、なかなか真っ直ぐ前に進むことができなかった。

 やや話がそれるが、怒りっぽい人は心筋梗塞になりやすい。これには医学的根拠があるようだ。レッドフォード・ウィリアムズ&ヴァージニア・ウィリアムズの著書『怒りのセルフコントロール』には、怒りが心筋梗塞へとつながるシナリオがリアルに描かれている。簡単にまとめてみると、こんな感じだ(一応断っておきますが、私は何らかの心臓病になったわけではありません)。
 ・怒りを感じると視床下部が刺激され、神経細胞が副腎にシグナルを送って、アドレナリンとコルチゾールを血中に大量に分泌させる。
 ・アドレナリンは身体を戦闘モードに切り替えるべく、動脈を拡張させて心臓と筋肉に血液を送り込む。
 ・視床下部は交感神経を刺激して、皮膚や腎臓、腸に血液を送る動脈を収縮させる(戦闘モードの時は、食べ物を消化している場合ではないため)。
 ・コルチゾールには、アドレナリンの効果を増幅させる働きがある。さらに視床下部は、副交感神経系の働きを抑制し、これによってアドレナリンの効果を持続させる。
 ・アドレナリン&コルチゾールのタッグで血圧が上昇したことにより、冠状動脈の内膜にある内皮細胞が侵食される。すると、血小板がその傷を治そうと集まってくる。
 ・血小板が分泌する化学物質は、冠状動脈壁の筋肉細胞を動脈内面に移動させ、動脈内で肥大、増殖させる。
 ・血中の細胞群であるマクロファージが冠状動脈の損傷箇所に集まり、傷ついた組織や残骸を飲み込んでいく。
 ・アドレナリンは脂肪細胞にも働きかけ、戦闘に使用するエネルギーを供給するために、脂肪を運動エネルギーに変換する。
 ・しかし、本当に戦闘をするわけではないからエネルギーは過剰となり、余ったエネルギーは肝臓でコレステロールに変えられ、血中に放出される。
 ・血中のコレステロールは、冠状動脈の損傷箇所に溜まっている血小板やマクロファージに吸収されて、泡沫細胞となる。
 ・コレステロールが詰まった泡沫細胞は、怒りを感じるたびに上記のようなプロセスを繰り返して肥大し、冠状動脈を圧迫する。
 ・ある日冠状動脈が完全にふさがれてしまい、心筋梗塞に至る(怖い・・・)。
怒りのセルフコントロール怒りのセルフコントロール
レッドフォード ウィリアムズ ヴァージニア ウィリアムズ Redford Williams

創元社 1995-05

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 今は反対に、「頭の中の思考は過去を向いているのに対し、現実の体験は未来を向いている」。経営の流行を追いかけるのはひとまず止めた。新しいビジネス書もほとんど読んでいない。前のブログを休止する直前に、「将来的には今の個人事業を法人化する」とか、「法人化したらこういう方針で人材を採用する」といったプランを練っていたが、そういうことを一切合財ストップさせた。私の精神は、どちらかというと、「戦後の日本社会はどうやって創られたのか?」、「あの戦争は一対何だったのか?」と、今までとは正反対に過去へと遡りつつあり、突き詰めていくと結局のところ「日本とは何か、日本人とは何か、日本の文化や価値観とは何なのか?」そんなことに関心が移行しつつある。

 では、現実の体験はどうかというと、過去の呪縛から徐々に解き放たれて、今はとにかく、目の前にある1つ1つの出来事に、自分ができる範囲で取り組もうと前向きな体験を求めている。といってもごくごく単純なことで、毎日規則正しい生活をする、日記を書く、家事を手伝う、セミナーに足を運ぶ、友人や中小企業診断士の集まりに顔を出すなど、本当に些細な活動を積み重ねることである。そして、再びコンサルティングの仕事を軌道に乗せようとしていること、それ以外の何物でもない。言うなれば、後ろを振り返りながら前向きに走っている。走りにくいけれども、今まで私の足を縛っていた鎖はなくなった。過剰な怒りを感じることも少ない。だから、以前よりむしろスムーズに走ることができている。

 自分でも何を書いているのかよく解らなくなってきた(汗)。時が経てば、今年の夏の意味がもっとクリアになるのかもしれない。そして思うに、今の精神と身体、すなわち「日本人とは何か?」という壮大な問いに答えようとする「過去志向の思考」と、目の前のタスクを粛々とこなしていく「未来志向の体験」は、いつの日か融合して、「日本らしい経営のあり方」という、骨太の思想へと私を導いてくれるような気がする(何だこの禅問答みたいな記事は!?)。
カテゴリ: 人生 コメント( 0 )
2012年12月18日

佐々木玲仁『結局、どうして面白いのか─「水曜どうでしょう」のしくみ』―「嬉野Dのカメラ=視聴者の目線」という構図


結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ
佐々木玲仁

フィルムアート社 2012-09-13

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 昨日の記事「佐々木玲仁『結局、どうして面白いのか─「水曜どうでしょう」のしくみ』―物語の二重構造」の続き。昨日は、「メタ物語」として展開される水曜どうでしょう固有の「型」が、「人生は偶然に左右されやいものであり、偶然はしばしばより好ましい状態を生む」という人生の法則に合致しており、それゆえに視聴者が共感しやすいと書いた。だが、視聴者が”何度も見たくなるほど”強く共感してしまうのはなぜだろうか?

 それはひとえに嬉野Dのカメラワークにあると私は思う。本書でも嬉野Dのカメラワークに関して考察が試みられているが、ここでは私論を述べてみたい。結論から言えば、嬉野Dのカメラワークには、あたかも視聴者がどうでしょう班と一緒に旅をしているかのような気持ちにさせる作用がある。

 水曜どうでしょうの撮影は、車の中で移動しながら行われることが非常に多い。この時、嬉野Dはどこに座っているかというと、助手席か運転席の斜め後ろのどちらかである。助手席は、車で言えば下座にあたる。また、複雑な道でミスターが地図を見ながらナビをする場合は、ミスターが助手席、嬉野Dが運転席の斜め後ろに座るのだが、運転席の斜め後ろも、どちらかというと地位が低い人が座る席である。

 ここで嬉野Dは、出演者の2人を撮ったり、外の景色を撮ったりと、かなり自由に撮影を行っている。藤村Dが嬉野Dのカメラワークに口出ししたことはないと本書にも書かれているから、嬉野Dが何を撮るかは完全に嬉野Dの裁量に委ねられている。そして、嬉野Dがあの座席で撮っているのは、「何となく旅について来てしまった人が見る風景」なのだ。

 「何となく旅について来てしまった人」だから、上座には座れない。下座にちょこんと座って、成り行きを見守る。他の3人の会話で重要そうなポイントが来れば3人の方を見るものの、それ以外の時は外の車窓の外に目をやり会話に耳を傾けている。そして、時々退屈になって寝てしまう(実際、嬉野Dが撮影中に居眠りをして、道がガバッと横になった映像になってしまったり[ヨーロッパ・リベンジ]、重たいデジカムを大泉さんにぶつけたり[四国八十八か所Ⅱ]したことがある)。

 車以外のシーンでの撮影はどうかというと、やはり嬉野Dは遠慮がちなポジションに立ってカメラを回している。マレーシアのジャングルや洞窟を探検する時も(「マレーシア ジャングル探検」、「ジャングル・リベンジ」)、東京で大泉さんが行きたいスポットを歩いて回る時も(「東京ウォーカー」)、嬉野Dはタレントの後ろについて行ってバックショットを撮っている。タレントを正面で受けることはあまりない。せいぜい横に並んで大泉さんの横顔のアップを押さえるぐらいである。

 こうした嬉野Dの一連の行動は、仮にどうでしょう班の旅に視聴者が同伴していたら、視聴者が取るであろう行動そのものなのである。2011年の「原付日本列島制覇」では、大泉さんに「彼(嬉野D)はもはや作り手でも何でもない。どうでしょうの旅に選ばれて参加した素人みたいなもの」と揶揄されているけれども、この発言こそ嬉野Dの立ち位置を最もよく表現している。

 嬉野Dのカメラワークは、視聴者にどうでしょう班の旅を仮想体験させる効果がある。さらに、ほどよい”手振れ加減”が、旅の臨場感を増幅させる(「原付日本列島制覇」では、嬉野Dがカメラを回さず、撮影がプロのスタッフに任せられた結果、嬉野D特有の手振れが減ってしまいちょっと残念だった)。よって、どうでしょうのメタ物語は、旅の記憶として視聴者の頭にインプットされる。そして、私たちが旅の思い出を写真で時々振り返りたくなるのと同じような感覚で、番組を何度も観てしまうのではないだろうか?
2012年12月17日

佐々木玲仁『結局、どうして面白いのか─「水曜どうでしょう」のしくみ』―物語の二重構造


結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ
佐々木玲仁

フィルムアート社 2012-09-13

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 北海道の人気ローカル番組「水曜どうでしょう」を、九州大学の臨床心理学者である佐々木玲仁准教授が分析するという、一風変わった試み。帯には藤村・嬉野両ディレクターに加え、何と評論家の内田樹氏がコメントを寄せている。内田氏も熱烈などうでしょうファンらしい。

 文章は平易で非常に読みやすいけれども、内容は何となく解ったかなぁ?という感じ。もっとも、著者自身も、この本でどうでしょうの仕組みが完全に明らかになったとは言っていないし、明らかにしようともしていない。あくまでも一つの見方であると断っている。

 音楽、映画、ドラマ、バラエティー、舞台、絵画などどんな作品でも、繰り返し観たり聴いたりできるものには、必ず何らかの「型」があると思う。例えば、世界には長年にわたり多くの人に受け継がれている英雄の物語が数多く存在するが、物語の展開パターンはだいたい決まっているとされる。ジョセフ・キャンベルの研究によると、英雄物語は、(1)旅に出て、(2)何事かを成し遂げ、(3)生還する、という3つのステップで構成されるという。

千の顔をもつ英雄〈上〉千の顔をもつ英雄〈上〉
ジョゼフ キャンベル Joseph Campbell

人文書院 2004-03

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千の顔をもつ英雄〈下〉千の顔をもつ英雄〈下〉
ジョゼフ キャンベル Joseph Campbell

人文書院 2004-03

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 そして、その型が人生や社会の構図をうまく切り取ったものであれば、鑑賞者の共感を呼び、「また観てみたい、聴いてみたい」と思わせる力を持つのだろう。先ほどの英雄物語で言えば、大抵の人は人生で一度ぐらい、何か大きなことをやり遂げたい、周囲が無謀だと言っても挑戦してみたい、という願望を持っている。その願望にうまくフィットする英雄物語は、多くのファンを集め、繰り返し読まれ、さらには後世にも語り継がれていくに違いない。

 英雄物語に比べれば、水曜どうでしょうは本当にバカバカしい(?)番組ではあるものの、ちゃんと一定の型を備えている。私なりにどうでしょうの型を整理すると、(1)ミスターか藤村Dが「ここに行きたい」と言い出す、(2)乗り気でない大泉さんを強引に旅に連れ出す、(3)企画段階では楽しいはずだと思っていた旅が、意外と過酷であることに気づく、(4)道中の偶然の出来事に振り回されて、4人の間で罵り合いが始まる、(5)最終的には、旅の本来の目的からかけ離れた、バカな方向へと向かって行く、という感じだ。どうでしょうの型は、「人生は偶然に左右されるものだし、偶然がより好ましい状態を生むこともある」という人生の法則に対応している。そして、予定調和があまりにも見事に崩れていくところが、視聴者を惹きつける大きな要因の1つと考えられる。

 ただ、英雄物語の場合は、物語の中に3段階からなる型が全面的に現れているのに対し、どうでしょうでは、典型的なバラエティーの「企画」の"裏に"(あるいは企画と混合して)、前述の型が存在するという特殊性を著者は指摘している。著者は裏で進行している物語を「メタ物語」と呼び、本来の企画=物語と、このメタ物語の二重構造こそがどうでしょうの仕組みであり、その複雑さゆえに面白さを説明しにくいのだと分析している。

 具体例を挙げると、番組史上、最高視聴率を叩き出した「ヨーロッパ・リベンジ」は、表向きは北欧4カ国をレンタカーで回り、パリをスタート地点としてフィンランドのヘルシンキにゴールする、という企画である。しかしその企画の裏では、どうでしょうの型に沿った別の物語が進行しているのである。すなわち、ミスターと藤村Dがあらかじめ用意していたメルヘン小ネタを凌駕する「ムンクさん」が登場して、即興でドラマ撮影が始まる、フィヨルドの美しい風景に退屈を覚えて、せっかくの海外旅行なのに全員が精神崩壊する、といった具合だ。

 より複雑な企画としては、「桜前線捕獲大作戦」が挙げられるであろう。これは、桜前線の最前線を見に行く、つまり北海道から順番に南下して、桜が咲き始める場所を特定するという、今のバラエティで言えば「鉄腕DASH」あたりがやりそうな企画である。しかし、道中でミスターが嫌いな甘いものを見つけては、ミスターに”生き地獄”を味わわせる方がメインになってしまう。一方、”加害者側”の大泉さんも、最初は前沢牛のサーロインステーキを食べて一人だけいい思いをしたのに、最後は平泉のわんこそば攻撃を受けて酷い目に遭う。こうなると、桜の話は完全にどこか脇へ追いやられてしまう。

 さらに、この「桜前線捕獲大作戦」からは、水曜どうでしょうのファンの人たちを対象に、当時のロケ地を回る2泊3日の東北バスツアーが企画されている(「東北2泊3日生き地獄ツアー」)。これは表の物語であって、裏ではどうでしょう班の4人がツアー客にドッキリをしかけるという物語が同時進行している。しかし、4人が企んだドッキリの内容とは全く無関係に、藤村Dが夜な夜な大泉さんの部屋に乱入し、「腹を割って話そう」と息巻くシーンばかりがOAされ、ミスターが体を張ってツアー客を驚かせようとしたシーンは全部カットされてしまう。

 本来の「桜前線の最前線を見に行く」という企画から第1の裏の物語(ミスター生き地獄&大泉さんわんこそば事件)が生まれ、そこから第2の裏の物語(ツアー客へのどっきり)が派生し、さらに止めを刺すように第3の裏の物語(「腹を割って話そう」事件)が展開されるという、非常に複雑な構造になっている。結果的に、「腹を割って話そう」事件で大泉さんが最後に言った「僕は一生どうでしょうします」という言葉のおかげで、本当に水曜どうでしょうは一生続く番組になってしまったのである(こういう形で番組の命運が決まったことも、第4の裏の物語と言えるかもしれない)。

《追記》
 ところで、DVD第18弾『ゴールデンスペシャル サイコロ6/onちゃんカレンダー/30時間テレビの裏側全部見せます!』の副音声を聴いていたら、ミスターがいいことを言っていた。自分は今までバイクに乗って猛スピードで走ってきた。だが、スピードを出せば出すほど、視界が狭くなって(※これは車やバイクを運転する人なら解るはず)、大事なものを見落としてしまう。だから、バイクから降りることにした。そうしたら、今まで見えていなかったものが見えるようになってきた、と。

 企業の経営でも同じなのだろう。あまりに猛スピードで成長しすぎると、足元の重要なものを見失う可能性がある。万が一、脇道から何かが飛び出してきて事故でも起こせば、一気に組織がダメになってしまう。しかも、速度が上がれば上がるほど、組織へのダメージは大きくなる。一点突破で突っ走っている時でも、経営者には常に冷静さを忘れない努力が求められそうだ。

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