プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)
⇒2021年からInstagramを開始。ほぼ同じ内容を新ブログに掲載しています。
>>>@tomohikoyato谷藤友彦ー本と飯と中小企業診断士

2012年12月25日

Merry Christmas 2012


クリスマスカード

 I wish you a Merry Christmas and a Happy New Year!
 Thank you for your kindness all the time.
 I hope next year will be an even better year for you.
2012年12月24日

「重要な意思決定を自分自身で下すとたいてい失敗する」という私的パラドクス


 今年の夏にこれまでの自分を色々と振り返る機会があり、その時に解ったことが1つある。それは、「人生で重要な意思決定は自分自身で下したいと思っているのに、自分で決めた場合は大抵失敗している」という、にわかには認めがたい事実である。このブログをスタートさせた時の記事"I declare that I'm free to write WHATEVER I like."で、「これからはもっと自由に生きてみたい」と書いており、周りからは「自分で意思決定を下したいのではないのか?」と言われそうだが、これまでに自分で下した重要な意思決定が失敗したことは紛れもない事実である(もちろん、失敗から学んだこともあるから、完全な失敗と決めつけるのもよくないが・・・)。

 新卒で入社したシステムエンジニアリングの会社は1年ちょっとしかもたなかったし、前職も苦い経験だらけだった。ファーストリテイリングの柳井正氏が言う「1勝9敗」どころか、「1勝29敗」ぐらいの、DeNAもビックリする勝率(DeNAファンの皆様ごめんなさい・・・)だったのではないか?と思うぐらいだ。実は2社とも、周囲は入社に反対していた。今振り返ってみると、2社とも危ない会社であるというサインが、採用面接の時からビシビシと発せられていた。当時の私もそのサインに薄々気づいていたにもかかわらず、それよりも入社後のメリットの方が大きいに違いないと勝手に判断し、周囲の反対を押し切って入社を決めてしまった。

 もう少し遡ると、中学生の頃に「法学部に入って弁護士になる」と将来の進路を決めていたものの、いざ望み通り法学部に入ってみたら、2年で見事に頓挫した過去もある。今でもよく覚えているが、2年生の冬に民法(物権法)の試験を受けた時のこと、私は授業にあまり出席しておらず、単位認定率が低いことで有名なその教授の試験に、友人からコピーしてもらった講義ノートと市販の教科書の内容をほぼ一夜漬けて頭に詰め込んで挑むことになった。試験が無事終わると、私は寝不足と脱力感に襲われ、帰宅途中に立ち寄ったサークルの部室で2時間ほど昼寝をしてしまった。そして夕方になって起きてみると、昨晩覚えた内容をすっかり全部忘れてしまったことに気づいたのである。その瞬間、私は法律を学ぶのに向いていないと絶望し、それ以降の冬の試験を全てパスしてしまった(それでも、私がいた大学は進級時の取得単位数の基準が存在しなかったことから、よくも悪くも留年せずに済んだ)。

 ただ、大学そのものを決めたのは私ではない。そして、その大学に行ったこと自体は全く後悔していない。今でも親交が続く大事な友人たちとの出会いをくれたのは、まぎれもなくあの大学である。あの大学を目指したのは、高校1年の時の担任の先生が、入学後初の実力テストでたまたま私の点数がよかったのを見て、「この成績ならあの大学を目指せるよ」と言ったのがきっかけである。それまでは正直なところ、地元の大学ぐらいしか考えていなかった。あの大学は雲の上のような存在で、私のような分際の人間が行けるところではないと勝手に決めつけていた。担任の先生がそう言ってくれていなければ、絶対にあの大学には行っていなかったと思う。

 5年前に取得し、現在の生業の中心となっている中小企業診断士の資格も、実は私が積極的に狙ったものではない。大学で生協食堂のコンサルティングなどをやっていた時に(今振り返ると、あれはコンサルと呼べるほどのものではなかったが・・・)、経営知識に乏しい私を見かねたある先輩が、「中小企業診断士の資格でも取ってみたら?」と私にアドバイスした。結局、在学中に診断士の勉強をすることはなかったが、先輩の言葉がずっと耳に残っていて、後に新卒入社した会社を半ば勢いで辞めてしまい、さてこれからどうしようか?となった段階で、購入だけしてあった診断士のテキストを見て、「診断士でも受けてみるか」という気持ちになったわけである。

 もう1つ嘘のような本当の話を。私は珠算・暗算とも有段者で、そのおかげで脳が鍛えられたと思っているのだが、そろばんを始めたきっかけは何ともあっさりしている。母親に連れられて見学に行ったそろばん塾で、先生に「1足す1をやってごらん?」と言われ、親指で2回そろばんの珠を弾いたら、「すごいじゃん。君はそろばんできるよ」と褒められたから入塾したのだ。もっとも、大人がそれを聞けば、先生なりのセールストークであることは簡単に見抜けたかもしれないが、何はともあれ先生にそう言われなければ、私は7年もそろばんを続けていなかったに違いない。

 どうも私は自分の意思決定能力を過信していたみたいである。重要な局面では、自分の判断力を信じるよりも、他人の意見に素直に従った方が、今のところうまくいっているようだ。"I declare that I'm free to write WHATEVER I like."の内容と一貫性を持たせるならば、次のように解釈できるだろう。20代の私は、人生を左右する重要な意思決定を自分で下したが、それが失敗の始まりであり、その後意思決定を覆して環境を変えることが難しく、流れに身を任せていたら余計にひどい目にあった。簡単に言えば、「重要な場面=自分頼み、重要でない場面=他人頼み」だった。30代はこれを逆にして、「重要な場面=他人頼み、重要でない場面=自分頼み」としてみよう。その結果どんな人生になるか解らないが、自分の判断力を過信しがちな私の弱みが災いすることは、20代に比べれば少なくなると信じている。
2012年12月22日

曾野綾子『二十一世紀への手紙 私の実感的教育論』―相手に期待しすぎなければ、裏切られることも少ない


二十一世紀への手紙 私の実感的教育論 (集英社文庫)二十一世紀への手紙 私の実感的教育論 (集英社文庫)
曾野 綾子

集英社 1995-05-19

Amazonで詳しく見る by G-Tools
 個人の存在は、大きいようでいて小さい。一人一人の生を大切に取り出し、それに深い思いを馳せ、限りなくいとおしむということ以外、小説家の仕事の基本的な姿勢もないものである。しかしそれは、自分の体験が、絶対であり、正しく、人はすべて自分の存在を大切に考えてくれるのが当然だ、と要求する幼児的な精神構造を許容することとは違う。

 自分の子供がかわいくてたまらない話など投書するな。ゴルフの話なら誰でも興味を持つと思うな。下手な歌をカラオケで聞かせることは罪悪に等しいと思え。自分史をやたら人に配るな。自分が閑だからと言って気楽に他人に手紙を書くな。アンケートには必ず返事が来るものと思うな。信仰の話など気楽に人にするな。自分のかわいがっている犬や猫なら客もかわいいと思ってくれるだろうと思うな。自分の苦労話を他人が感動すると思うな。
 引用文には厳しい例が並んでいるが、要するに「自分の中で勝手に相手に対する期待値を上げてはならない」ということだと解釈している。これは私が今年学んだ大きな教訓の1つである。私は仕事であれプライベートであれ、いろんなシチュエーションで、相手にこうしてほしい、あるいはこのレベルまではやってくれて当然だ、という絶対的な基準を設定することが多かった。しかし、相手が私の期待値を超えず怒りを感じる。だが、その発散方法が解らずに怒りを溜め込んでしまう。その繰り返しで随分と心身を痛めつけていたのだろう。

 だから、最近は些細なことは受け流すように努めている。マンションの住民から挨拶が返ってこなくても、近所で新築マンションの工事をしているために自宅が揺れても、勉強や仕事目的で入ったカフェに大声で話す先客がいても、バカみたいにでかいエンジン音で突っ走るバイクとすれ違っても、スーパーで商品を選ぶのに夢中なあまり狭い通路をふさいでいることに気づいていない人がいても、3,700円の買い物をしてこちらが4,200円を出したところ500円のおつりが100円玉5枚で返ってきたとしても、まぁいいかと思うようにしている。まだまだ不完全だが、怒りを受け流す技術が少しずつ身についてきている。

 怒りを受け流す技術に長けている人物の1人として、私は落合博満前中日監督を挙げたい。落合氏は3冠王を3度獲得した稀代の大打者であるから、普通であれば選手に教えたいことは山ほどあるだろうし、「何でこんなこともできないんだ」と怒りたくなるケースも多々あるに違いない。しかし、試合前の練習にはほとんど姿を見せず、試合になれば、選手交代でベンチを出る時以外は石のように動かない。参謀の森繁和前ヘッドコーチをして、あそこまで動じない人は見たことがないと言わしめたほど、感情を表に出さない不動の人である。

 落合氏はハナから選手にあまり期待していなかったのだと思う。監督退任後にテレビのインタビューをたくさん見たが、「オレの思い通りに選手が動いてくれれば8回とも優勝していた」とか、「8年間で成長した選手なんて1人もいない」などと柔和な笑顔で放言(?)してしまうあたりに、選手への期待値の低さが表れている。8年という長期にわたって、常に優勝争いの強いプレッシャーにさらされながら、それでも結果を出すことができた(リーグ優勝4回、日本一1回)秘訣の1つが、このどっしりとした心構えにあるような気がする。落合氏が選手に過剰な期待をかけて、思い通りにいかないたびに怒りをあらわにしていたら、チームは早い段階で崩壊していただろう。

 それでも、落合氏も人間であるから、自軍の攻撃が終わって監督室に戻ると、「バカヤロー、あいつあんな球振りやがって」と怒ることもあったというし、「選手はオレが相当怒っているのを感じていたと思う」とも述べている。長嶋一茂氏は落合氏とのインタビューを通じて、「おそらくサンドバック的な存在の人が誰かいたのではないか?」と推測している。それぐらい、怒りを完全にコントロールすることは難しい。最近になって落合氏が顔面麻痺に見舞われたのは、監督時代のストレスが少なからず影響していると思われる。



  • ライブドアブログ
©2009 free to write WHATEVER I like