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プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。ほとんど書評ブログ。たまにモノローグ。

 中長期的な研究分野は、
 ①日本の精神、歴史、伝統、文化に根差した戦略論を構築すること。
 ②高齢社会における新しいマネジメント(特に人材マネジメント)のあり方を確立すること。
 ③20世紀の日本企業の経営に大きな影響を与えたピーター・ドラッカーの著書を、21世紀という新しい時代の文脈の中で再解釈すること。
 ④日本人の精神の養分となっている中国古典を読み解き、21世紀の日本人が生きるための指針を導くこと。
 ⑤激動の多元的な国際社会の中で、日本のあるべき政治的ポジショニングを模索すること。

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)


2018年08月14日

DHBR2018年9月号『発想するチーム』―トップマネジメントチームにしかできない7つの仕事(1)


DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年9/号 [雑誌]DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年9/号 [雑誌]
ダイヤモンド社 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部

ダイヤモンド社 2018-08-10

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 20代の初めにピーター・ドラッカーの著書を読んだ時、「トップマネジメントはチームで仕事をしなければならない」という記述を見て、社会人経験の浅い私は、「トップマネジメントと言えば社長もしくはCEO1人なのではないか?」と素朴な疑問を持ったものである。もちろん、今ではトップマネジメントはチームでなければ機能しないことを十分に理解している。CEOの他にCFO、CIO、CISO(最高セキュリティ責任者)、CMO、CDO(最高デジタル責任者)、CHRO(最高人事責任者)、CTO(最高技術責任者)、CKO(最高知識責任者)、CPO(最高購買責任者)、CSRO(最高社会的責任担当者)など、様々なCスイート人材がチームを組んで経営にあたっている。

 トップマネジメントチームの仕事は、一言で言えばもちろんマネジメントなのだが、マネジメントに関する業務を全て引き受けていてはチームがパンクする。ミドルマネジメントや現場社員に権限移譲できる仕事はどんどん委譲し、トップマネジメントチームはトップマネジメントチームでなければ遂行できない業務に注力するべきである。では、トップマネジメントチーム固有の仕事とは一体何であろうか?ドラッカーは、経営者が答えるべき問いとして、①我々のミッションは何か、②我々の顧客は誰か、③顧客にとっての価値は何か、④我々の成果は何か、⑤我々の計画は何か、という5つを挙げたが、この5つの質問に答えることだけが仕事ではないと思う。

 本号には、競争戦略論で有名なマイケル・ポーターと、ハーバード・ビジネス・スクール学長であるニティン・ノーリアによる「延べ6万時間のデータ分析から見える理想と現実 CEOの時間管理」という興味深い論文が掲載されていた。ポーターは近年、経済的価値と社会的価値の創出を両立させる「CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)」という概念を提唱しているのだが、その傍らで、2006年から大企業のCEOの時間の使い方を調査していたようだ。

 ドラッカーも、「時間の使い方をマネジメントするのが経営者である」と述べていたもののの、実際にCEOがどのように自らの時間をそれぞれの業務に配分しているのかという点に関する研究は少ない。ポーターによれば、ヘンリー・ミンツバーグが5人のCEOに5日間密着した研究と、ラファエラ・サドゥンが114人のCEOに1週間にわたって毎日電話をかけて実施した研究があるぐらいだそうだ(ただ、私の記憶によれば、変革リーダーシップ論で知られるジョン・コッタ―も、若い頃にCEOの仕事に密着した研究を実施したことがある。その研究結果は、1984年の『ザ・ゼネラル・マネジャー』の復刊本にあたる『J. P. コッター ビジネス・リーダー論』〔ダイヤモンド社、2009年〕で知ることができる)。ポーターの調査は、27人のCEOに3か月間密着した研究であり、調査期間の長さに特徴がある。収集したデータは延べ6万時間分に上る。

J. P. コッター ビジネス・リーダー論J. P. コッター ビジネス・リーダー論
ジョン P.コッター 金井 壽宏

ダイヤモンド社 2009-03-13

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 調査結果の具体的な中身は論文に譲るとして、この調査から明らかになったCEOの時間の使い方、すなわちCEOが実際に行っている仕事の種類をベースに、私がトップマネジメントチームにしかできないと考える仕事を7つ挙げてみたい。

 (1)企業文化の醸成
 私は、トップマネジメントチームが真っ先に取り組まなければならないのは、次に述べる戦略の立案よりも、この企業文化の醸成であると思う。具体的には、自社がよりどころとする価値観を定め、それを組織の隅々まで浸透させる。とはいえ、価値観は決して普遍・不変ではなく、トップマネジメントチームから現場社員に対して一方的に伝達されるものではない。トップマネジメントチームは価値観について社員と積極的に対話し、価値観に対する理解を深め、時に価値観を修正する必要がある。言い換えれば、価値観は組織的な学習プロセスを通じて進化する。

 価値観とは、自社が意思決定を下さなければならない時に判断の基準となるものである。ブログ別館の記事「稲盛和夫『生き方―人間として一番大切なこと』―当たり前の道徳を実践することの重要性」で書いたように、人間として当然守らなければならない基本的な道徳・倫理を価値観としている企業もあれば、もう少し複雑な価値観を持っている企業もあるだろう。重要なのは、価値観を組織の中に埋もれたままにするのではなく、全て可視化することである。トップマネジメントチームが我が社の価値観はこれで十分だろうと思っても、細かい価値観が業務慣行や職場環境などの中に埋め込まれていることがある。そのような価値観を発掘し、価値観同士の間で矛盾がないようにするのがトップマネジメントチームの仕事である。

 そして、その価値観を企業文化へと昇華させなければならない。つまり、価値観を戦略や製品・サービスといった企業の基本的要素、研究開発、マーケティング、購買、製造、物流、営業、販売などの各種業務プロセス、組織構造、人事制度、予算制度、情報システムといった企業のインフラに浸透させ、それぞれのコンポーネントが自社の価値観を完全に体現するものにすると同時に、各コンポーネント間で価値観をめぐる矛盾や対立がないようにする必要がある。これは非常に重要であるが、価値観が首尾一貫している企業は少ない。例えば、マスコミにとっては、国民の生命を守るための情報を提供することが重要な価値観の1つである。だが、NHKはニュースで「熱中症の危険があるため、日中の運動は避けよ」と呼びかける一方で、灼熱の甲子園で試合をする高校野球を放映して視聴率を稼いでいる。これは大きな矛盾である。

 (2)戦略の構想
 戦略にはマーケティング戦略とイノベーション戦略の2つがある。マーケティングとは、既存市場のパイを奪い合う行為である。これに対してイノベーションとは、新しい市場を創造するか、既存市場の産業構造やビジネスモデルを抜本的に破壊する行為である。トップマネジメントチームは常にこの2つの戦略を意識する必要がある。

 ただ、ブログ別館の記事「河合忠彦『複雑適応系リーダーシップ―変革モデルとケース分析』―複雑系の理論を取り入れたことで論理展開がカオスに」で述べたように、マーケティングに関しては、既に事業構造やビジネスモデルが確立しているから、現場への権限移譲を積極的に進めるべきである。既存の市場・顧客に関する情報は、トップよりも現場の方がたくさん持っている。もし、現場社員が生の情報に基づいて、製品・サービスの改良、価格の改定、販売チャネルの再構築、プロモーションの改善を思いついた場合には、そのアイデアをトップマネジメントチームが吸い上げ、マーケティング戦略を改善する。

 その過程で、トップマネジメントチームも受動的になっていてはダメであり、普段から定期的に重要顧客に会いに行き、ニーズを汲み取っておく必要がある。現場社員が個別の顧客から得た局所的なアイデアと、トップマネジメントチームが重要顧客から得た大局的なアイデアを突き合わせて、マーケティング戦略を高度化させる。ポーターの調査によれば、CEOが重要顧客のために費やす時間はわずか平均3%であり、これでは少なすぎるであろう。

 トップマネジメントチームがより注力すべきなのは、イノベーション戦略である。だが、これも非常に難しい。以前の記事「【戦略的思考】事業機会の抽出方法(「アンゾフの成長ベクトル」を拡張して)」で書いた「新市場開拓戦略」は、既存市場に新たな市場を付加するものであるからそれほど問題は起きない。だが、「代替品開発戦略」は、既存事業の製品・サービスに取って代わる非連続的な技術を用いた製品、顧客のニーズを別の形で満たす新製品・サービス、あるいは破壊的イノベーションなど、既存事業を脅かすものである。トップマネジメントチームのメンバーは、基本的に既存事業で成功を収めたことで現在の地位に上り詰めた人たちばかりである。イノベーション戦略は、彼らに自らの過去の成功を否定せよと迫るわけである。

 しかし、トップマネジメントチームがイノベーション戦略から目を逸らし、既存事業のマーケティング戦略に安住していれば、やがて新興企業がゲームのルールを破壊しながら参入し、自社を窮地に追いやるであろう。そして、トップマネジメントチームは業績不振の責任を取らなければならない。だとすれば、裏を返せば、自社が新興企業のイノベーションによって業績不振にならないよう、自ら能動的にイノベーション戦略に着手し、自社の構造を抜本的に刷新して経営の維持、業績の拡大を図ることは、トップマネジメントチームの責任に他ならない。

 (3)コア人材の育成
 日本企業も経営幹部の後継者育成に着手し、Aクラス人材を選抜して集中的に教育するプログラムを展開しているところが増えている。だが、後継者育成プログラムの対象となる社員数は、せいぜい数十人程度であろう。エド・マイケルズらの『ウォー・フォー・タレント―人材育成競争』(翔泳社、2002年)によると、海外の企業のトップマネジメントは、自社の300~500程度の重要なポジションについて、現在そのポジションについている社員(マネジャー)を育成し、彼らのその後のキャリアパスを想定すると同時に、彼らの後継者として誰を据えるかについて、事業部門のトップ、人事部門などを巻き込みながらかなりの時間をかけて議論をしているという。これらのポジションは、価値観を組織内に浸透させ企業文化を醸成するとともに、戦略の立案・実行において重要な役割を果たすから、トップマネジメントが育成に注力しているわけである。

 (※)『ウォー・フォー・タレント―人材育成競争』は、そのタイトルからして、労働市場において優秀な人材を奪い合う方法について書かれた本なのだろうと勝手に思い込んでいた。最近、アメリカではGoogleやApple、Facebookなど一部の強力な企業が優秀な人材を囲い込んだ結果、ますます企業間の競争力の差が拡大し、それが賃金格差の広がりにつながっているとして問題になっている。だが、本書を読んでみると、実際には内部人材をいかに育成するかに焦点が当てられているように感じた。だから、副題が「人材”獲得”競争」ではなく、「人材”育成”競争」になっているのであろう。本書については、ブログ別館でも取り上げる予定である。

ウォー・フォー・タレント ― 人材育成競争 (Harvard Business School Press)ウォー・フォー・タレント ― 人材育成競争 (Harvard Business School Press)
エド・マイケルズ ヘレン・ハンドフィールド=ジョーンズ ベス・アクセルロッド マッキンゼー・アンド・カンパニー

翔泳社 2002-05-18

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 アメリカの場合、元々本社の人事部門の力が弱く、給与計算や福利厚生、全社共通の基礎的な研修の運営などが中心である。採用、配置、異動、評価の権限は、それぞれの事業部門の中に配置された人事部が持っている。だから、全社的に人材育成を行おうとすると、本社の人事部門に頼ることはできずに、各地に散らばっている事業部門のトップや人事部を一堂に集めて議論しなければならない。そのため、どうしても時間がかかる(トップマネジメントチームが重要顧客に会う時間が少ない要因の1つになっているかもしれない)。逆に、日本の場合は、本社の人事部に強大な権限がある。よって、トップマネジメントチームがコア人材の育成を行うには、本社人事部の力を大いに借りるとよい。本社人事部は、各社員の能力・経歴・キャリア志向などに関する情報をたくさん集めている。トップマネジメントチームはその情報を活用して、数百名のコア人材を育成する。そうすれば、アメリカ企業ほど時間はかからないであろう。

 (続く)
2018年08月10日

『致知』2018年9月号『内発力』―日本人が「外発性」を活用するための「内発力」が弱っている


致知2018年9月号内発力 致知2018年9月号

致知出版社 2018-08


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 「内発力」―この言葉は辞書にはない。本誌の造語である。「内発的」なら辞書にある。外からの刺激によらず、内からの欲求によって起きるさま、と説明されている。内からの欲求によって湧き出す力。これを称して内発力という。
 だが、私は内発力のみによって自分を駆り立てることができる人間は、特に日本人の場合は少ないのではないかと考えている。内発力だけで動くことが可能なのは、アメリカの一部のイノベーターである。以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」で示したマトリクス図で言うと、左上の<象限③>は「必需品でない&製品・サービスの欠陥が顧客の生命(BtoCの場合)・事業(BtoBの場合)に与えるリスクが小さい」という領域が該当する。必需品ではないから、新たに需要を創造するイノベーションである。また、まだ市場も顧客も存在していないので、伝統的なマーケティングリサーチは役に立たない。

 そこで、イノベーターは次のように考える。「自分ならこういう製品・サービスがほしい。自分がこれだけほしがっているということは、世界中の人々も同じようにほしがっているはずだ」。そして、自分のアイデアをベンチャーキャピタルに売り込み、多額の資金を調達して、全世界に向けて自分が考案したイノベーションを大々的にプロモーションする。イノベーターの読み通り、実際にそのイノベーションが世界中で受け入れられたとしよう。もっとも、必需品ではないから、全世界の人口70億人がそれを購入するわけではない。しかし、その人口のわずか数%でも購入してくれれば、イノベーションとしては大成功である。そして、イノベーターは巨万の富を手にし、後は自分の企業をGoogleなどに売却して、悠々自適のセカンドキャリアを過ごす。

 彼らの動機は内発的である。だが問題は、内発的であると同時に利己的であることだ。もちろん、世界に貢献したいという利他心も一部にはあるだろう。しかし、それよりも、イノベーションで一山当てたいという利己心の方が勝っているように私には思える。こういうイノベーションは、<象限③>の領域を出ることはない。そして、<象限③>のイノベーションは寿命が短く、顧客に飽きられればすぐに売上高や利益が減少する(イノベーターはそれを見越しているので、早々に自分の企業を売却してキャピタルゲインを獲得する)。

 ただし、中には<象限③>から出発して、<象限①>や<象限②>に移動する、つまり、人々の必需品となるイノベーションもある(<象限②>に移動するのは、イノベーションが多くの顧客に売れるに従って顧客の要求水準が上がり、高い品質が求められるようになる場合である)。これは私の仮説だが、こういう移動をするイノベーションに限っては、イノベーターが利己心中心ではなく、利他心中心で動いているのではないかと考える。ただ、いずれにせよ、アメリカのイノベーターの大多数は、内発的である。アメリカ人が、キリスト教はよいものだと信じて全世界中に布教させようとしたり、自由・平等・基本的人権・民主主義・資本主義などが普遍的価値だと言って世界中の国を改変しようとしたりしているのを見るにつけ、余計にそう感じる。

 だが、アメリカ人の中にも、外発性を重視する人はいる。例えば、キャリア開発の研究で有名なエドガー・シャインは、キャリア・アンカーという個人の価値観のタイプを明らかにし、それを軸に生きることを提案したが、同時に、自分を取り巻く組織や事業の環境の現状や、将来予測される変化をとらえて、自分に期待される役割を想定し、価値観とバランスを取りながらキャリアビジョンを描くべきだと主張している。つまり、内発的であると同時に外発的でもあるわけだ。

 日本の一部のキャリアコンサルタントは、シャインの後半の主張を無視して、ひたすら自分の内なる声に従って生きればよいなどと主張する。私の前職のベンチャー企業ではキャリア開発研修も取り扱っていたが、キャリア開発研修の講師も同じことを言っていて、マインドマップで自由に夢を描きましょうなどと呑気なことを教えていた。こうした考えに深刻な欠陥があることは、以前の記事「横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ」で書いた。

 日本人の場合、内発性よりも外発性の方が先行するというのが私の考えである。前掲の記事で書いたマトリクス図において、日本企業は右下の<象限②>に強い。<象限②>は、「必需品である&製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きい」という領域である。まず、必需品であるから、顧客の声に真摯に耳を傾けなければならない。さらに、品質に対する要求水準が高いため、それに応えるべく相当な企業努力が求められる。この点で、<象限②>で事業を行う企業は外発的に活動している。外発的というと、外部からの変化に対して、受動的に、またややもすると嫌々ながら対応している印象を与えるかもしれない。だが、日本企業は外部からの変化を受ければ、それに対して非常に真摯に向き合い、他者に貢献しようという強い利他心を持っている。これがアメリカのイノベーターとの決定的な違いである。

 日本人が外発的に動くことが多いことを一番よく理解していたのは、実はオーストリア生まれのピーター・ドラッカーなのではないかと思う。ドラッカーは、「変化を予測することは難しい。だが、変化を利用することはできる」とよく述べていた。ドラッカーの著書『イノベーションと起業家精神』には、イノベーションの機会として7つが挙げられているが、実はどれも環境変化が起こってからの対応である。「マネジメントはなぜ変化が起こったのか、その理由を分析する必要はない。分析は研究家の仕事である。マネジメントに必要なのは既に起きた変化の波に乗ることである」とまで述べている。こういうスタンスなので、ドラッカーの著書は、人口あたりの売上で見ると、アメリカよりも日本の方が上回っていたのだろう(ただ、後年の著書には「チェンジ・リーダーは自ら変化を起こすべし」という主張も見られ、私は若干混乱しているのだが)。

 《参考記事》
 【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(上)』―ドラッカーの「7つの機会」メモ書き
 【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(上)』―変化を活かすのか?変化を創るのか?
 【ドラッカー書評(再)】『イノベーションと起業家精神(下)』―イノベーションの保守思想

イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集)イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集)
P.F.ドラッカー 上田 淳生

ダイヤモンド社 2007-03-09

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 歴史を振り返ってみると、日本は外圧によって変化の必要性に目覚め、そこから一気に国家を作り直すということを何度も繰り返している。今年は明治維新から150年の節目にあたるが、明治維新はその典型だろう。また、戦後の日本も、アメリカからの外圧によって奇跡的な復活を遂げた。古代に目を向ければ、日本は常に中国からの影響を受けていた。私は、中国人が朝鮮人を通じて日本に漢字を伝えた理由が未だによく解らないのだが、1つの仮説を立てている。当時の日本には文字がなかった。一方、中国は自国が世界の中心だと思っている国である。そこで、日本に漢字を持ち込めば、日本を中国中心の世界に組み込めると考えたのではないか、という仮説である。漢字を学んだ日本人は、中国が親切心で漢字を教えてくれたわけではないことを感じ取ったのかもしれない。逆に中国の脅威を感じた当時の朝廷は、急いで中国の政治制度を学び、日本を中国並みの国家にすることで我が身を防衛したのではないだろうか?

 もちろん、日本はいつでも外発性を自分にとって有利に活用できたわけではない。日本人は、外圧によって右往左往することも多い。本号の「【第11回】時流を読む 多極化が進む世界で、日本がまず守るべきは国益である。国益を忘れて世界に翻弄されてきた近現代日本の悪しき教訓に学べ」(中西輝政)という記事では、いくつか例が紹介されている。

 ①20世紀初頭、日本はイギリスと日英同盟を結んでいた。清で革命が起きると、立憲君主国であるイギリスは当然王朝側を支持すると日本は考えていた。ところが、イギリスは革命家の孫文を支持したので、日本は慌ててしまった。②1936年、日本はソ連に対抗するため、ドイツと日独防共協定を締結した。だが、ドイツは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、ソ連と手を結んで日本人を驚かせた。当時の首相・平沼騏一郎は、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して総辞職した。③独ソ不可侵条約を結んだドイツであったが、1941年にドイツがソ連に侵攻し、条約は破棄された。日本はこの情勢の変化にもついて行くことができなかった。④戦後で言うと、キッシンジャー外交が挙げられる。ソ連と冷戦状態にあったアメリカは、中ソの分断を図るため、突然キッシンジャーを北京に派遣した。そして、1972年、ニクソン大統領が中国を電撃訪問した。これに慌てた田中角栄は、中国との国交を正常化し、台湾との国交を断絶した。

 こうした重大な事案はいくつかあるものの、総じて日本は外発性をきっかけに自己を刷新してきた。そうでなければ、2000年以上も万世一系の天皇を戴とする国家が存続するはずがない。元々中長期的なビジョンを持たず、仏教の教えに従って「今、ここ」という瞬間を大切にする日本人は、外発性によって少なからず動揺する。それでも、日本人にはそれを乗り越えるだけの底力が備わっていると思う。底力という言葉は極めて曖昧だが、私はそのヒントを複雑系の理論に求めることができるのではないかと考えている。以下の記述は、マーガレット・J・ウィートリー『リーダーシップとニューサイエンス』(英治出版、2009年)を参考にしている。同書を読むと、組織を変化させるトリガーは外発的であるものの、変化を加速させるのは内発性であることが解る。この二面性こそが、アメリカのイノベーターには見られない日本人の特徴である。

リーダーシップとニューサイエンスリーダーシップとニューサイエンス
マーガレット・J・ウィートリー 東出顕子

英治出版 2009-02-24

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 ニュートンの機械論的組織観に従うと、組織は要素還元可能な複数の部品から成り立っている。これは、それぞれの部品間には有機的な連携がないことを意味する。組織の中身も、部品が単線的につながっているだけで、部品以外の空間は空っぽである。こういう組織を動かすには、トップが強力なリーダーシップを発揮して、それぞれの部品に働きかける必要がある。

 これに対して、複雑系の理論では、構成要素間に有機的なつながりがあると考える。つまり、要素間の「関係」を重視する。だから、ニュートンのように要素還元することはできない。そして、この有機的につながり合った要素を覆っているのが「場」である。ニュートンが考える組織とは違って、組織は空ではない。組織の場を構成する具体的なものとしては、例えば組織の価値観などがある。そして、このような組織が環境からの変化を受け取ると、その情報は場を媒介として、有機的につながり合った要素に一斉に伝わる。ニュートン的組織では、トップが部品を1個ずつしか動かせないのに対し、複雑系の理論における組織では、場が組織全体を動かす力となって、各要素の有機的連関の間を一瞬にして情報が駆けめぐる。

 物理学では光より早く移動するものは存在するのかが議論になっている。物理学者ジョン・ベルは、「即時的遠隔操作」が起こり得ることを数学的に証明した。詳細はここでは省略せざるを得ないが(『リーダーシップとニューサイエンス』には書かれている)、要するに物質は、光の速度よりも早く移動する影響によって変化しうる。こうした影響が複雑系の理論における組織で作用すると、ある要素の変化は瞬時に他の要素を変化させることになる。どんなに他の要素が遠く離れていても、光よりも早い速度で影響するから、組織全体の変化は一発で起きる。

 しかも面白いことに、それぞれの要素は他の要素から受け取った情報や変化をそのまま反映しない。少しずつ異なる解釈でその情報や変化を受け止める。これは、場を構成する価値観を解釈する方法が要素によって少しずつ違うことが影響しているのだろう。よって、各要素の振る舞いはバラバラになる。すると、組織全体は混乱に陥るのではないかと思われるかもしれない。実際、環境からの変化を受けた諸要素はバラバラに動く。だが、全体としては秩序が取れているという不思議な現象が起きる。これが「決定論カオス」である。これによって、組織は崩壊せずに、新しい秩序へと移行することができる。一般的に、秩序と変化は両立しないと考えられる。ところが、複雑系の理論においては、組織は秩序を保ちながら変化するのである。

 とりわけ、明治維新で起きたのは、こういう現象だったのではないかと私は思う。明治時代は、中央集権的な国家ができ上がった時代だと言われる。しかし、私はそれは一面的な見方にすぎないと考える。むしろ、各地の豪傑が多様性を発揮しながら、新しい国創りを必死に模索した時代である。大隈重信は、政府から渡された大蔵省租税正の辞令を執拗に拒んだ渋沢に対して、「君は八百万の神達、神計り(陰暦10月の神様会議)に計りたまえと言う文句を知っているか。新政府がやろうとしていることは、誰も解らない。我々が八百万の神なのだ。君もその神々の一柱に迎えるのだ」と言って説得した。これこそがこの時代の精神ではないかと感じる。

 近年、日本人が外発性を活かす力が弱くなっている気がする。国際政治では諸外国の動向に振り回されているし、企業はグローバル競争ですっかり消耗している。その疲れが国内に向くと、ちょっとした愚か者をネット上で必要以上に叩く風習ができ上がり、叩かれた人はなす術を失ってしまう。その原因を複雑系の理論に従って考えると、場を形成する価値観が弱っているせいではないかと思う。先ほどの記述を裏返せば、場の力が弱くなるにつれて、環境の変化情報を諸要素に即座に伝播させることが難しくなり、決定論カオスが実現しない。

 ここで言う価値観とは、日本が伝統的に大切にしてきた道徳、倫理、文化、伝統のことである。こういう価値観があったからこそ、言い換えれば内発性があったからこそ、外発性を上手に活用することができた。しかし、戦後の外来的な自由主義の影響でそれらが破壊されたことが、問題を深刻にしている。にもかかわらず、政府がちょっと道徳の復活を唱えると、復古主義だの封建主義だの、果ては軍国主義への逆戻りだのと的外れな批判が巻き起こってしまう。
2018年07月31日

『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他


世界 2018年 08 月号 [雑誌]世界 2018年 08 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-07-06

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 官僚によるセクハラ問題や世界的なMeToo運動の広がりを受けての特集である。
 性的な問題という意味では、例えば不倫に対して日本社会は非常に厳しい。芸能人の不倫に対しても、マスコミ報道も大きくバッシングする。道徳に対しては針が振れるのですが、人権については針は振れない。人権問題として捉えず道徳の範囲で捉えるから、バッシングされる。しかし、不倫はともかくもお互い合意してのことですが、セクハラは相手が合意もしていないのに性的な関係を強要しているわけです。最悪の人権侵害であるにもかかわらず、「男とはそういうものだから」となだめられたり、女性の方にもスキがあった、落ち度があった、という話にすらなる。この決定的な人権感覚の欠如はいったいどこから来ているのか。それを理解することから始めなければ、セクハラ問題に関して日本は先に進めない。
(金子雅臣「セクハラという『男性問題』」)
 上記の文章をはじめ、本号の特集ではセクハラを「女性問題」ではなく「男性問題」としてとらえ、加害者である男性を徹底的に糾弾する文章が続く(実際には、女性から男性に対するセクハラや同性間のセクハラもあるが、セクハラの9割は男性から女性に対して行われているという本号の記述に従って、以降は男性から女性に対するセクハラに焦点を絞って話を進める)。

 本号の特集は「セクハラ・性暴力を許さない社会へ」となっており、セクハラと性暴力が一緒に論じられている。性暴力に関しては法務省が発表している『犯罪白書』に統計があり、Wezzy「性犯罪加害者は異常者ではなく『普通の働く人』であることが多い」によると、「昭和60年~平成26年(1985-2014)の30年間ずっと、強姦、強制わいせつの検挙人員は、20代と30代の者が全体の5~6割を占めてい」るという。強姦、強制わいせつは、女性をもはや恋愛対象としてではなく、支配の対象として見なしている犯罪である。言い換えれば、被害者を人間ではなく快楽のための道具として扱っている。一方、セクハラについては、セクハラ自体が未だ明確に定義されていないこともあって被害者・加害者に関する詳細なデータが存在しない。

 厚生労働省によると、セクハラには「対価型」と「環境型」の2種類がある。対価型とは、女性労働者の意に反する性的な言動を行い、当該労働者の対応によって、当人が解雇、降格、減給など、不利益を受けることである。環境型とは、女性労働者の意に反する性的な言動により、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、その労働者が就業する上で見過ごせない程度の支障が生じることを指す。セクハラの加害者の年齢に関する統計を私は発見できなかったのだが、性暴力とは異なり、40~50代の男性が最も多いのではないかと推測する。そして、一般には、こうした加害男性は、組織内で一定の地位に就いており、権力を駆使してセクハラを働くと言われる(対価型セクハラにつながりやすい)。

 しかし、これもまた推測の域を出ないものの、実はセクハラというのは、福田元財務事務次官のように権力のある者が見返りを求めるケースというのは案外少なくて、一定のポストに就いていない一般の中高年男性が、あるいは一定のポストに就いている中高年男性であっても、女性に対して性的な言動を取ることで、女性に対する支配欲を手っ取り早く満たそうとしているケースが多いのではないかと思う。「キスをさせて」、「抱かせて」、「胸を触らせて」などと言う男性には、本当にそれを実現させる意思はない(実際にキスをしたり胸を触ったりしたら性犯罪である)。「君の服装はセクシーだね」、「旦那さんとは上手くいっているのか?」、「どんな体位が好きなのか?」と尋ねる男性も、女性を抱きたいとか旦那から女性を略奪したいと考えているわけではない。こうした発言によって女性が困惑する姿を見ることが男性の快楽なのである。

 仮に、男性が相手女性に好意を抱いており、真剣に交際を検討しているのならば、女性を困惑させるようなことを意図するはずがない。男性が敢えて女性を困惑させるのは、女性が困惑したという事実が、男性側の影響力が及んだことを示す証左であるからだ。ここに、性犯罪とセクハラの共通点を見出すことができる。いずれも、女性を恋愛対象としてではなく、支配の対象として、快楽のための道具としてとらえているということである。つまり、女性に対する認知が歪んでいる。ということは、性犯罪やセクハラは、脳の病気である可能性がある。

 実際、性犯罪に関しては、「前頭側頭型認知症」という病気に注目が集まっている。『世界』2018年4月号には次のように書かれている。
 この病気は、よく知られているアルツハイマー型認知症の特徴である記憶障害が初期には起こらず、社会的逸脱行為が主たる症状として表れるものです。たとえば40~50代の万引きなどの背景にも、この病気があり得ます。(中略)あるいは男性の場合、比較的社会的地位のある人が、盗撮をしたり性器を露出したり、地位に見合わない事件を起こしてニュースになることが度々ありますが、これも同様です。このように衝動のコントロールができなくなることが、性犯罪の原因になることが多々あるのです。
(福井裕輝「”性犯罪は繰り返す”を変えるため」)
世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 福井氏によると、性犯罪者は海外では「パラフィリア(性嗜好障害)」という病気として認識されているという。だから、認知行動療法や薬物療法を受けることができる。一方、日本ではそもそも性犯罪が病気であるという認識が薄く、仮に病気と診断されても保険適用外となっており、厚生労働省の体質に問題があると福井氏は批判している。日本においては、まずは性犯罪の方が病気であるという認識が確立されることが先決であろうが、セクハラについても、その発生メカニズムを解明し、病気であるか否かを判断する研究が待たれるところである。

 ここからが私の主張の核心になる。仮にセクハラが性犯罪と同じく前頭側頭型認知症などの脳の病気であるならば、加害者の救済策を検討しなければならない。左派は普段、加害者にも人権があると主張する。日本では加害者の人権が尊重されすぎており、逆に被害者の人権がないがしろにされていると批判されるぐらいだ(例えば、国際派日本人養成講座「Common Sense: 加害者天国、被害者地獄」〔2008年6月15日〕を参照)。左派が自らの主張を貫き通すならば、また冒頭の引用分にあるように、セクハラを人権問題と位置づけるならば、加害者の人権も保護する必要があると言わなければおかしい。一般の事件に関しては、客観的な立場から被害者と加害者の人権のバランスを取ろうとするのに、自らがセクハラの当事者となった途端に、被害者としての一面しか強調しないのは、単なる狂気である(誤解していただきたくないが、私は決してセクハラを正当化しようとしているわけではない)。

 セクハラ・性犯罪の問題からは離れるものの、本号にはもう1か所、左派の矛盾を見て取ることができた。カンボジアでは現在、フン・セン首相による権威主義化が進んでいる。カンボジアには政府与党の人民党と、野党の救国党がある。この救国党の党首であるケム・ソカー氏が2017年8月3日、「国家転覆罪」で逮捕された。同氏が数年前にオーストラリアで受けたインタビューの中で、「アメリカとともに現政権を転覆する」と発言したことが容疑とされている。そして、
 「党首が重罪で逮捕された政党は解散させられる」という(※政党法・選挙法の)条項を適用し、11月16日、最高裁は救国党解党の決定を下し、野党幹部政治家118人の政治活動を5年間にわたって禁じた。その結果、300万人もの有権者からの信託を受けた救国党の議席はすべて消え、その55席は他の政党に振り分けられた。
(熊岡路矢「カンボジアで何が起きているか」)
 カンボジアでは7月29日に総選挙が行われたが、救国党解党によって人民党に対抗する勢力が事実上消えたため、人民党が議会の議席をほとんど総取りするという異常現象が起きた。欧米諸国は公正な選挙ではないとして、カンボジアを非難している。

 フン・セン氏による権威主義化はこれだけにとどまらない。
 現在、カンボジア政府・与党は、保健や教育などの地域開発、福祉型の活動は監視しながらも許容する一方、人権、環境、土地問題、選挙監視など、政府と緊張関係になる分野のNGOには徹底的に圧力を加えている。(同上)
 カンボジアは、太平洋戦争が終結した後、真っ先に対日賠償請求権を放棄してくれた国である。それ以降長年にわたり、日本はカンボジアに対して様々な支援を行ってきた。あの悪名高いポル・ポトが政権を握っていた共産主義時代にも、関係を断つことはなかった。しかし、最近のカンボジアの情勢を受けて、熊岡氏は次のように述べている。
 日本政府・外務省の開発協力大綱は、重点政策の中に、普遍的価値の共有、平和で安全な社会の共有という項目を設け、「自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的価値の共有や平和で安定し、安全な社会の実現のための支援を行う」と謳っている。ここ数年のカンボジアの現状は、この規範から明らかに逸脱している。カンボジアへの支援は停止、あるいは検証・再考すべきである。(同上)
 日本がカンボジアから手を引けば、中国の影響力が強くなることが懸念される。中国は日本や欧米諸国と違って、内政にはほとんど干渉しない。熊岡氏は、カンボジアが中国寄りになったとしても、カンボジアへの支援の停止を検討するべきだと主張する。

 だが、これは左派の主張としてはおかしい。というのも、カンボジアよりもはるかに権威主義的(もはや全体主義的と言ってよい)であり、普遍的価値観を蹂躙する中国に対する日本の支援は批判の対象となっていないからである。同じく権威主義的(全体主義的)な北朝鮮に関しても、統一に向けて日本が積極的に支援を行うべきだとしている(北朝鮮に対する支援には、実は私も賛成している。以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」を参照)。それなのに、現在のカンボジアへの支援はダメだと言う。明らかに左派の中にはダブルスタンダードが存在する。中国や北朝鮮の支援はOKでカンボジアの支援はNGというのは、まるで社会主義国であれば支援が認められると言っているに等しい。左派は、日本ではもはや夢となった社会主義の亡霊を、未だに中国や北朝鮮の中に追いかけていると言われても仕方がないであろう。

 大国にはパワーがあるから、少々の小国との関係を断ち切ったとしても大してダメージは受けない。だから、アメリカは簡単にイランとの核合意を反故にできる。ところが、小国である日本が、この国は好きだからつき合う、あの国は嫌いだからつき合わないと選り好みをしていては、相手国の間に不信の種を植えつけることになる。やがてその種は激しい憎悪へと育ち、日本に対して必ず負のエネルギーとして向かってくる。小国日本にはその負のエネルギーに耐えられるパワーがない(今までの北朝鮮を見よ)。だから、嫌いな国であってもつき合わなければならない。最初から不信を決め込むのではなく、信頼できる部分を探す。そして、その分野において、日本は支援を行う。その支援を通じて培われたパワーを行使して、嫌いな国の嫌いな部分を少しずつ改善するように働きかける。これが、小国日本に求められる外交であると考える。

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