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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」資格スクエア
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2017年03月08日

『「学び方改革」への視座(『世界』2017年3月号)』―アクティブ・ラーニング(AL)をやるなら知識詰め込みを加速させなければならない、他

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世界 2017年 03 月号 [雑誌]世界 2017年 03 月号 [雑誌]

岩波書店 2017-02-08

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 (1)「アクティブ・ラーニング(AL)」に関する特集である。技術や社会環境が急激に変化し、教育機関で学んだ内容がすぐに陳腐化してしまう現代の知識基盤社会において、将来にわたって必要なスキルを身につけさせる学習法として注目されており、国内外で様々なALが実施されているという。その多くは発見学習、問題解決学習(課題解決型学習)、体験学習、調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワークなどを有効に取り入れている。「アクティブ・ラーニング」という横文字に対しては『致知』の中で占部賢志氏(中村学園大学教授)が頻繁に批判しているが、私なりに解釈すると、要するにALというのは、知識だけでなく、自分で考えて表現する力、他者と議論し対話する力の習得を目指しているのだと考える。

 私もALの方向性には賛成である。私が大学時代に困ったのは、高校までの授業スタイルと大学のそれとが全く違うことであった。高校までは、教科書や参考書に書かれていることをそのまま覚えていればよかった。ところが、大学では様々な知識を論理的につないで文章にする力が求められた(行政学を担当していた教授は、「最近の学生は文章を書く力が落ちている」と嘆いていたのを思い出す)。また、少人数の講義やゼミでは、学生同士、あるいは教授と議論する場が増えた(私のゼミでは、私を含め参加者が皆議論が下手だったため、毎回沈黙の時間が流れて苦痛だったのを思い出す)。高校から大学に円滑に接続するためのALは必要である。

 ただし、ALを導入すれば、従来の知識詰め込み型の学習が軽減されるかというと、私は違うと思う。むしろ、ALの導入によって、さらに知識の詰め込みは加速するはずである。
 カリフォルニアで中学生時代をすごしたAさんが、ディベートで学ぶギリシャ・ローマ史の授業を紹介してくれた。両方の時代について、先生から1週間講義をうけ、さらに自分たちで2週間リサーチワークをした後、クラスの生徒が二手に分かれて、どっちの時代が優れているのかディベートする(※太字下線は筆者)。
(渡部淳「アクティブ・ラーニングは可能か」)
 引用文にあるように、知識の詰め込みはALの前提である。高校までは、1年間にせいぜい10冊程度の教科書の内容を覚えればよかった(国語、数学、英語、理科、社会それぞれ2冊ずつと仮定)。ところが、大学に入ると、週に15コマの授業を取れば、それだけで半年間に必要な参考図書は15冊以上になる。しかも、高校の教科書のように内容がコンパクトにまとめられた薄い本ではなく、専門用語を連発する難解で分厚い本を読まなければならない。大学よりアクティブ・ラーニングが進んでいると思われるMBAにおいては、毎回の授業の前に、100ページ単位の資料を読み込むことが要求される。資料を読まずに授業に参加したがために議論についていけないとしても、教授がフォローしてくれることはなく、本人の自己責任として片づけられる。

 知識を大量に詰め込んでも大半は役に立たないとしばしば批判される。しかし、新しい知識というのは、既存の知識の組み合わせによって創出される。しかも、隣接分野の知識ではなく、一見何の関連性もない分野同士の知識から革新的な知識が生まれる。だから、知識はないよりもあった方が絶対によい。そして、創造のためには知識の無駄を恐れてはならない。知識をシャワーのように大量に浴びるというプロセスを省略して、深い洞察を行うことは不可能である。

 ALと並んで近年注目されているキーワードとして「デザイン思考」というものがある。元々はデザイナーがデザインを行う過程で用いる特有の認知的活動を指す言葉であったが、とりわけ北欧ではその概念が拡張され、社会的に難易度の高い課題について、利害関係者を巻き込みながら解決を目指す技法として発達している。デザイン志向もALと同様に、自分で考えて表現する力、他者と議論し対話する力を重視する。デンマークでは、初等教育の段階からデザイン思考が導入されているという。だが、子どもたちの知識基盤が脆弱であるために、論理的一貫性を欠くケースが多いと報告されている(下記文献を参照)。ALでもデザイン思考でも何でもよいのだが、深い学習の根底には、無駄も含めた十分な知識が流れていなければならないのである。

一橋ビジネスレビュー 2014年WIN.62巻3号: 特集:小さくても強い国のイノベーション力一橋ビジネスレビュー 2014年WIN.62巻3号: 特集:小さくても強い国のイノベーション力
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2014-12-12

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 ALの導入は、高校の段階から始めるのが現実的であると思う。その場合、高校生が読まなければならない本の数は、少なくとも現在の教科書の倍以上になるであろう。高校教育は大学受験のために知識偏重になっていると言われるが、ALを導入すればより一層知識偏重になることを覚悟しなければならない。高校生にはカフェで友達とスマートフォンで遊んでいる暇はない(私としても、カフェでバカ騒ぎして私の仕事を妨害する高校生が減るので、願ってもない話である)。そして、部活や学校管理業務で忙殺されていると言われる教師の負担もぐっと増える。生徒がALをやるならば、やらせる側の教師は当然のようにALを実践できていなければならない。ということは、教師は生徒以上にもっと知識をたくさん詰め込む必要がある。
 広田:今回の答申では、先の3要素(※①知識・技能、②思考力・判断力・表現力など、③学びに向かう力・人間性のこと)を各教科に当てはめてエクセルの一覧表のようにしています。やりすぎです。例示や参考のつもりだと思いますが、現場では無反省にそれに準拠しようとする、機械的な形式主義が蔓延するかもしれません。
(氏岡真弓、広田照幸「新しい学習指導要領は子どもの学びに何を与えるか―政策と現場との距離」)
 広田:教員の勤務実態調査を調べると、昭和41年の時点では自主研修の時間がある程度取れていましたが、最近はほとんどそういう時間が持てないようです。まずは全体として、教員の余裕が必要です。教員が答申を読む時間的余裕すら見いだせないようなら、今回の改訂は現場に根づかないでしょう。(同上)
 文部科学省は、現場の教師が疲弊しているため、少しでも負担を軽減するためにエクセルの一覧表を作成したのだろう。ところが、それは現場への過剰な介入だと批判し、現場に裁量を持たせるべきだと主張する。しかしながら、答申すら読む時間がないという実態からすれば、おそらく自分の頭で考えて学習を組み立てられる教師は少数派にすぎない。よって、この議論は破綻している。その原因は、教師の「忙しい」という言い訳にある。往々にして、忙しい、忙しいと騒ぐ人に限って、時間を与えてもその時間を有効に活用しないものである。仕事ができる人は、忙しい時間の合間を縫って知識のインプットを行っている。もちろん、労働法違反の長時間労働は改善しなければならないが、忙しいからALはできないという言い逃れは通用しないと思う。

 (2)シリア内戦は、国際政治に疎い私からすると訳が解らない状態なのだが、青山弘之「終末に向かうシリア内戦―失われたシリアの当事者性」を読んで、少しだけ頭の整理がついた。

シリア内戦

 アメリカは「反テロ」かつ「反アサド政権」であり、ロシアは「反テロ」かつ「親アサド政権」である。事態をややこしくしているのは、トルコ、サウジアラビア、カタールの存在である。これらの国は「反アサド政権」でありながら、アサド政権を打倒するためにそれぞれが異なるイスラーム過激派を支援してきた。トルコは、カタールとともにアル・カーイダ系のヌスラ戦線やシャーム自由人イスラーム運動、非アル・カーイダ系のシャーム軍団を含むイスラーム過激派全般を支援した。一方、サウジアラビアは、非アル・カーイダ系のイスラーム軍を後押しした。

 ロシアは、反体制派とテロとの区別はできないと主張したのに対し、アメリカは両者を区別できると反論した。この両国のスタンスの違いが、その後のシリアにおける主導権の行方を左右することになったと私は考える。ロシアは、テロの問題をいったん脇に置いて、シリアの内戦をあくまでも親アサド政権派と反アサド政権派の対立という枠に押し込んだ。(本ブログでしばしば書いているように、)大国ロシアらしい二項対立的な発想である。これに対してアメリカは、大国らしくなく二項対立的な発想をせずに、アサド政権とも戦うし、テロとも戦うという姿勢を崩さなかった。しかし、結果的にこの姿勢が、アメリカの迷走を招くことになる。

 オバマ政権は、イスラーム国の中心拠点であるラッカ市に向けて進軍を目指すシリア民主軍への支援を続け、大規模な空爆を連日実施した。その結果、シリア民主軍はラッカ市の西約20キロの距離に位置する戦略的要衝タブカ市に迫った。その一方、アメリカ軍は、ロシアやトルコに同調するように、バーブ市に対する空爆に参加し、同地でシリア民主軍とも対峙するトルコ軍に加勢するだけでなく、イドリブ県やアレッポ県内のヌスラ戦線を攻撃するとの名目で、それまで支援してきたヌールッディーン・ザンギー運動などの「穏健な反体制派」の拠点を破壊した。

 こうしたアメリカの奇行に先立ち、ロシアとトルコの間では停戦合意が成立している。ロシアの戦闘機をトルコが爆撃するという事件があったにもかかわらず、トルコはロシアに対して正式に謝罪をし、関係を改善していた。アメリカは完全に蚊帳の外であった。二項対立に持ち込んで問題を解決するという大国の昔ながらの流儀に従ったロシアの方が、外交的にはアメリカよりも上であった。アサド政権をめぐる対立を片づけてから、テロとの戦いに着手するというのがロシアのシナリオである。これに対して、アサド政権ともテロとも同時に戦うという不慣れな戦略を展開したアメリカは、シリアでのプレゼンスを低下させてしまった。
2017年03月06日

『シン・保守のHOPEたち 誰がポスト安倍・論壇を担うのか/慰安婦合意(『正論』2017年3月号)』―保守とは他者に足を引っ張られながらも、なおその他者と前進を目指すこと

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正論2017年3月号正論2017年3月号

日本工業新聞社 2017-02-01

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 まず、日本の国の成り立ちや幾十世代もの先人たちが大事にしてきた価値観を理解し維持する揺るぎない気持ちを持っているということでしょう。同時に、変わりゆく世界と歴史の進歩に背を向けるのではなく、柔軟に対応する開かれた姿勢を持ち続けることも保守の資質に欠かせません。従って、保守主義の第一の特徴は、日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置き、世界に広く心を開き続けることだといえます。

 第二に、社会や国を構成する個々の人間を大事にするということです。それは単に一人一人が安寧に暮らしていける社会を目指すというのではなく、一人一人の思想・言論の自由を尊ぶということです。国民を圧迫する専制や独裁を許さず、真に自由闊達な生き方を皆に許容する価値観です。
(櫻井よしこ「これからの保守に求められること」)
 以前、「『習近平の蹉跌/中韓の反日に汚される世界遺産(『正論』2015年11月号)』―右派と左派の違いに関する試論」という記事を書いたが、この時は左派の整理が大半であった。今回は右派に関する記述を中心にしたいと思う。今まで左派の論理については自分なりに色々と整理してきたつもりであり、それを裏返せば右派の論理を上手く説明できるような気がする。

 左派は、人間の理性が唯一絶対の神に等しく、完全無欠であるという前提に立つ。これに従えば、人間の理性は生まれながらにして完全であるのだから、事後的に教育などによって手を加えてはならないことになる。とはいえ、実際問題として、生まれたての人間にできる仕事は限られている。そこで、そういう仕事の1つである農業を絶対視する。ここに農業共産制が成立する。左派は知識人を敵視する。左派政権が知識人を徹底的に排除するのはこういう理由による。

 一方の右派は、人間の理性を完全無欠とは考えない。人間の資質や能力、価値観や考え方は皆多様である。人間の理性は不完全であるであるから、その不完全性を埋めるために学習が発生する。そして、学習によって新しい理論や新しい技術が生み出される。左派が革新、右派が保守と呼ばれることに反して、左派こそが硬直的であり、右派の方が進取的である。しかし、どんなに右派が学習によって進歩を遂げたとしても、神と同じ完全性を手にすることは絶対にない。右派はそのことに対して劣等感を抱いている。その劣等感が学習を継続させるモチベーションとなる。どこまでも学習し続けることを、日本の言葉を借りれば「道」と呼ぶことができるだろう。

 もちろん、右派が生み出す技術が問題を引き起こすことは多い。自動車メーカーが燃費向上の研究に力を入れても、自動車が地球温暖化の元凶であるという声は一向に消えない。原子力発電は事故が発生した時の被害が甚大であること、また、原子力発電の研究が核兵器の研究に応用される危険性があることに対して批判がある。インターネットやスマートフォンは子どもにとって有害であるから、子どもから遠ざけておくべきだと考える親は多い(実際、インターネットやスマートフォンを利用する子どもの割合は、日本が先進国の中で圧倒的に下位である)。

 左派的な思考に従えば、こうした問題を解決するには、その技術そのものをなくしてしまえばよいということになる。だが、この思考を突き詰めていくと、「人間が問題を起こすのは人間がいるからだ」という極論になり、人間が集団自殺するしか解決法がないという何とも救いのない話になる。右派は、技術のメリットとデメリットを勘案して、人間が何とかその技術を上手に活用するための方策を検討する。もっとも、右派的人間の理性は不完全であるから、その方策も決して十分とは言えない。しかし、集団自殺する左派よりはずっと人間的である。

 左派は、人間の理性と唯一絶対の神が直線的につながることを重視するため、両者の間に何かしらの階層や組織が介在することを嫌う。教会ですら糾弾の対象となる。左派は国家や政府を目の敵にし、資本家の打倒を目指す。彼らのゴールは、全人類が完全にフラットな関係に立つコスモポリタニズムである。しかも、どの人も唯一絶対の神と同じ理性を有しているため、ある人の考えがそのまま全体の考えに等しいことになる。1は全体に等しく、全体は1に等しい。換言すれば、極限まで効率的な民主主義が成立すると同時に、民主主義と独裁が両立する。

 右派の場合、人間の能力や価値観は多様である。言い換えれば、人によって得手、不得手がある。また、不完全な理性しか持たない右派的人間は、誰一人として、単独で物事を完遂することができない。ということは、自ずと役割分担が生じることを意味する。役割分担が生じれば、物事を命じる側と命じられる側に分かれ、階層社会が出現する。そして、各々の人間は、それぞれの特性に応じて、その階層社会の中に配置される。

 プラトンは、社会の階層を、基本的な生産活動を行う層、社会を内外の脅威から守る防衛活動の層、そして、社会全体を制御・統制する政治活動の層という3つの階層に分けた。現在の日本社会は、本ブログで何度か提示しているが、「(神?⇒)天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭⇒個人」という重層的な階層構造になっている。そして、それぞれの階層の内部もまた多層化している。例えば、八百万の神は階層構造をなしているし、企業の層に目を向ければ、メーカーは系列を形成し、流通は欧米よりも多段階の構造となっている。日本の超多重階層社会がどのように成立したのかは、今後も引き続き追求していきたいテーマであるが、ひとまず今回は日本社会が多重構造になっているという点に着目したい。

 人によって能力が異なる右派的人間は、その特性に応じて階層社会に配置される。右派の中には、「結果の平等は確保できないが、機会の平等は確保すべきである」と主張する人がいるが、個人的には機会の平等ですら実現は困難であると考える。渡辺和子の言葉を借りれば、人間は置かれた場所で咲かなければならないのである。ただし、中世の身分制と異なり、それぞれの人はこの階層社会の中で特定のポジションにずっと縛りつけられているわけではない。

 本ブログでも何度か書いたが、人間は階層社会の中で垂直方向に「下剋上」と「下問」、水平方向に「コラボレーション」する自由を有する。これによって、限定的ではあるが、階層社会の中を動き回ることができる。これが右派的な自由である。左派の無制限な自由とは異なる。ここで言う下剋上は山本七平から借りた言葉であるが、上からの命令に対して、「もっとこうした方がよい」と提案し、実行することである。一般的な下剋上とは異なり、上の階層を打倒することを目的としていない。あくまでも下の階層にとどまりながら、上の階層から権限移譲を勝ち取り、自分のアイデアを実行することを指す。下剋上は、その人がやがて出世して上の階層に立つことを見据えて、より高い視点から物事を考えるためのよい訓練となる。

 上の階層に対する働きかけが「下剋上」であるならば、下の階層に対する働きかけが「下問」である。下問とは本来、上の階層の人が下の階層の意見を聞くことを指すが、ここでは、上の階層が下の階層に対して、「あなた方が成果を上げるために私に何か支援できることはないか?」と申し出ることを意味する。確かに、上の階層は下の階層に指揮命令する権限がある。だが、上の階層が下の階層に命令をするのは、別の見方をすれば、上の階層の人が単独では成果を上げることができず、他者の力を絶対的に必要とするからである。下問とは、他者、特に自分より弱い立場にある者に対して人間的・共同体的な配慮を見せることである。

 水平方向には「コラボレーション」をする自由がある。右派的人間の理性は不完全であり、自分が何者であるかを知ることは難しい。適材適所によって階層社会の中に配置されているとはいえ、今いるポジションが正解とは限らない。そこで、「私とは一体何者なのか?」というアイデンティティの探求が始まる。私を知るための最も効果的な方法は、自分とは異なる理性を持っているであろう他者と触れ合うことである。手垢がついた言葉だが、学習は異質との出会いから始まる。かつての日本企業は積極的に企業間連携をしていた。ソニーは特許を公開し、家電メーカーと広く連携していた。また、企業内でも部門を超えた異動が頻繁に見られた。ところが最近では、知的財産を守るという名目で企業間連携の機運がしぼみ、また企業内では成果主義のプレッシャーで各部門がタコツボ化しているのが気がかりである。

 日本的な多重階層社会においては、政治が行われるのはピラミッド上層の一部分に限られる。建前上は国民主権、議会制民主主義を導入しているが、実際に政治を動かすのは一部の人のみである。しかも、その一部の人の理性は皆バラバラであるから、意見集約をするのは非常に難しい。左派の民主主義が極めて効率的であるのに比べると、右派の政治はとても面倒臭い。だが、その面倒臭さゆえに、左派のように集団全体が危険な傾向に流れるリスクは低くなる。行きつ戻りつを繰り返しながら、漸次的に物事を進めていくことに右派の美徳がある。

 かつてプラトンは、人間が理性を発揮するのは政治を通じてであると主張した。これに従うと、大多数の右派的人間は理性を発揮できないことになってしまう。だが、私はそれは違うと思う。階層社会の中に自分の居場所を見つけ、そこを拠点に下剋上や下問、コラボレーションの自由を発揮して共同体圏を形成し、その共同体圏のために働くことが、右派的な理性の働きであると考える。右派的社会は機会の平等すら保障されない不平等な社会である。しかし、各々の人間が自由を発揮し、理性的に生きることは十分に可能である。

 そして、ここからが右派の特徴として最も重要な点であるが、階層社会というのは、基本的に上の階層の方が年長であり、下の階層の方が年少である。年功序列的な日本社会では、特にその傾向が強い。上の階層の年長の者が下の階層の年少の者に命令をする時、下の階層の者は年齢の若さ、経験や能力の不足ゆえに、上の階層の思い通りに動かないことが多い。言い換えれば、上の階層は下の階層に足を引っ張られる。上司は仕事のできない部下に悩まされ、親は言うことを聞かない子どものしつけに苦労する。それでもなお、上司は部下を大切にし、親は子どもを育てなければならない。教育に時間とお金を投資しなければならない。

 短期的に見れば上司や親にとってマイナスでも、やがて部下や子どもが十分に成長すれば、かつてのマイナスを補って余りあるほどの前進が得られる。絆という字は「ほだし」とも読み、元は「馬の足をつなぎとめるための縄」のことを指していた。そこから転じて「手かせや足かせ」を意味する。この「絆」の二面性こそ、保守における人間関係のあり方をよく表している。

 これが左派となると、人間は無制限の自由を有しているから、他者によって自分の自由を阻害されることに強い不快感を表す。部下の仕事ができなければ、上司が部下の仕事を取り上げて自分で仕事をやってしまう。近所の保育園の子どもの騒ぎ声が静かに暮らす権利を侵害していると裁判を起こす。電車で子どもが泣く声がうるさいからと言って、老人が子どもを殴る。しかし、こうした行為が続けば、企業や社会の中長期的な発展が望めないことは言うまでもない。

 部下や子どもに足を引っ張られていると感じる右派的人間は、かつては自分が上司や親の足を引っ張っていたことに気づく。その事実を知る時、右派的人間は、それでも自分を我慢強く育ててくれた上司や親に感謝の念を抱く。そして、その上司や親にもまた、彼らに足を引っ張られながらも彼らを立派に育て上げた昔の上司や親がいる。こうして教育の連鎖をたどっていけば、右派的人間は歴史の重みというものを否が応でも自覚せざるを得ない。右派的人間は歴史の上に立ち、そして将来に向けて歴史を紡いでいくのである。
2017年03月03日

『顧客は何にお金を払うのか(DHBR2017年3月号)』―USJ、Supership(nanapi)、ユニリーバの戦略比較

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ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 03 月号 [雑誌] (顧客は何にお金を払うのか)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2017年 03 月号 [雑誌] (顧客は何にお金を払うのか)

ダイヤモンド社 2017-02-10

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製品・サービスの4分類(修正)

製品・サービスの4分類(修正)

製品・サービスの4分類(具体的な企業)

 (※)上図の説明については、以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」を参照。

 今回の記事では、DHBR2017年3月号の企業事例を用いて、上図を補足したいと思う。まず、左上の【象限③】はいわゆるイノベーションであり、アメリカ企業が得意とするところである。イノベーションは顧客のニーズを先取りするものであるから、伝統的な市場調査は役に立たない。代わりに、イノベーター自身を最初の顧客に見立て、「自分ならこういう製品・サービスがほしい」と構想する。そして、「自分がこれだけ心の底からほしがっているのだから、きっと世界中の人も同じようにこれをほしがるはずだ」と考えて、イノベーションを世界中に普及させることを決意する。
 正直なところ、ユーザーのニーズはよくわからないですし、わかっている人はほとんどいないというのが私の認識です。成功した人は「わかっていた」と言いますが、それは後付けにすぎないと思います。そもそも、人間のニーズはそれほど簡単に把握できるものではありません。せいぜい自分のニーズを把握するのが関の山で、自分のニーズに合うものをつくること以外はできないと考えています。
(古川健介「【インタビュー】曖昧さと複雑さがサービスのカギ 人の好みはいまも昔も変わらない」)
 nanapiの創業者として知られる古川健介氏のインタビュー記事より引用した。nanapiのようなBtoC向けのインターネットサービスは、上図の【象限③】に該当すると考える。

 宗教的な表現を使えば、アメリカは唯一絶対の神を信奉する国である。人間はこの世でなすべきことを神と「契約」するという考え方が根底にある。イノベーターは、自分が考案したイノベーターを世界中に普及(布教)させることを神と契約する。ただし、神と結ばれた契約の全てが正しいわけではない。どの契約が正しいか、つまり、どのイノベーションが全世界に普及するかを知っているのは神だけである。人間に解ることと言えば、あるイノベーションが全世界に普及した段階で、あのイノベーターは神と正しい契約を結んだのだということだけである。大半の契約は失敗に終わる。よって、アメリカではごく少数の勝者と多数の敗者が生まれる。

 どのイノベーションがヒットするか解らないのであれば、イノベーターは、次から次へと新しいイノベーションを市場に投入して、イノベーションの成功確率を少しでも上げようとする。すると、中には「自分がお金を支払ってもよいから、自分のイノベーションを全世界に広めたい」と考えるイノベーターが現れる。こうしたイノベーターを束ねるのがプラットフォーム型企業である。

 代表例は、AppStoreやGoogle Playである。AppleやGoogleは、アプリのユーザーだけでなく開発者からもお金を取る。伝統的な商慣習に従えば、AppleやGoogleから見たアプリ開発者は製品・サービスの仕入先であり、AppleやGoogleが彼らに対してお金を支払わなければならない。彼らからお金をもらうことはリベートにあたり、場合によっては法律に抵触する。だが、AppleやGoogleは堂々とアプリ開発者からお金を取っている。他には、芸能事務所もプラットフォーム型企業に該当する。芸能事務所はテレビ局からお金をもらうと同時に、「何としても売れたい」と考えるタレントからもレッスン代などと称してお金を取る(吉本興業のNSCが解りやすい)。
 「こんなものをつくってみましたけどどうですか」と提示した瞬間、ユーザーはそれが自分のニーズにマッチしたものかどうか判断します。「こんなものがほしかったんだよ」と思えば興味を持つ。つまりユーザーの動きがあったものはニーズがあって、動きがないものはニーズがない。それだけです。こちらとしてはいろいろなものを出していくしかありません。(同上)
 最後の一文がイノベーターのニーズであり、プラットフォーム型企業はそこに目をつける。

 【象限③】は必需品ではないから、イノベーターは顧客に対して、必要性を超えた経験価値を訴求しなければならない。経験価値とは極めて主観的なものである。より簡単に言えば、そのイノベーションを使うと楽しい、面白い、ワクワクする、感動する、癒される、気持ちいい、安心する、などと顧客に思わせる必要がある。【象限③】のイノベーションは情緒面が重視され、本来はデータとの相性が悪い。ところが、最近のアメリカ企業は、この象限にデータ分析を持ち込もうとしている(以前の記事「『未来を予測する技術(DHBR2017年1月号)』―予測が困難なのにデータ重視のアメリカ、予測が容易なのにデータ軽視の日本、他」を参照)。

 例えば、映画がヒットするかどうかは、脚本の中身やキャスティングなどではなく、映画のタイトルにどんな文言を盛り込むかで決まる、といったモデルを統計学的に構築する。また、イノベーターが世界中にイノベーションを普及する段階では、国や地域ごとにイノベーションの受け入れ度合いが異なるのが普通である。この場合、日本企業ならば、顧客セグメントごとのニーズの違いに応じて製品・サービスをカスタマイズするだろう。しかし、アメリカ企業の場合は、どうすれば多様なセグメントが単一のイノベーションを受け入れるか、セグメント別に作戦を練るためにデータを活用する。これはちょうど、アメリカが自由、平等、人権、資本主義、民主主義といった普遍的価値観を全世界に広めるために、各国の情報を徹底的に集めて分析するのと似ている。

 【象限③】に該当するUSJは、「数学マーケティング」を導入している。USJはここ数年、段階的に何度も値上げを行っているが、値上げの根拠を数学的に算出しているという。
 ①消費者にとってのブランド価値(X)に対し、値上げにより総売上げがプラスとなる上げ幅(Y)を求める。
 ②ブランド価値(Y)(※Xの誤りではないかと考える)を向上させるドライバー(変数A、B、C、Dなど)を特定する。
 ③これらをもとに値上げにより最大集客リスク(Z)を求める。

 この中で、Y(※Xの誤りではないかと考える)に影響を与えるドライバー、A、B、C、Dを規定するのは、戦略家として実務家としての主観から生まれることになり、これらはマーケターとしての豊かな経験と深いノウハウに基づいてのものである。これを客観的に戦略化していくのが、言わば数学マーケティングである。
(森岡毅、今西聖貴「なぜ値上げをしても来場者が増えるのか USJで実践した数学マーケティング」)
 ただ、USJは日本企業であるから、【象限③】のアメリカ企業的な発想と、【象限②】に強い日本企業の発想のハイブリッド型経営を行っていると感じる。仮にアメリカ企業がUSJを経営していれば、その企業は「我々の考えるエンターテイメントとはこういうものだ」という理想像を顧客に押しつけたに違いない。ところが、USJはそうしなかった。USJはまず、「映画の専門店」から「世界最高のセレクトショップ」というコンセプトに転換した。次に、統計学を用いて顧客セグメントを分類し、購買金額の”伸び代”を特定した。そして、顧客セグメント別に、その伸び代を埋めるために、どのようなカスタマイズサービスを提供すべきかを検討した。

 ファミリー層に対しては、ファミリーエリア「ユニバーサル・ワンダーランド」を作った。最大の集客月である10月には、ゾンビがパークを埋め尽くす「ハロウィン・ホラー・ナイト」を開催した。また、アニメのワンピースなどとのタイアップを進め、アニメファンを取り込んだ。さらに、スリルを求める若者が意外と多いことに気づき、2013年にはジェットコースターを逆向きに走らせる「バックドロップ」を導入した。アメリカのディズニーランドも分析的経営に力を入れているらしいが、USJほど細かくカスタマイズされたサービスを提供しているのか、私にはやや疑問である。

 《参考》森岡毅、今西聖貴『確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力』(角川書店、2016年)

確率思考の戦略論  USJでも実証された数学マーケティングの力確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力
森岡 毅 今西 聖貴

KADOKAWA/角川書店 2016-06-02

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 【象限③】が情緒面を重視するのに対し、【象限②】は機能面を重視する。自動車であれば燃費が、産業機械であれば加工精度が、BtoBのITシステムであれば信頼性が重視される。機能は数字で表しやすく、顧客のニーズも把握しやすい。よって、分析的なマーケティングの手法が現在でも十分に通用する領域である。他方、【象限①】は、機能面も情緒面も重視されるというやや複雑な領域である。我々はのどの渇きを潤すためにジュースを飲むが、同時においしさも求めている。そして、おいしさとは主観的なものであり、人によってバラバラである。【象限①】は、必需品であるがゆえに市場全体の規模は予想しやすいものの、顧客の好みが多様であるため、数多くの企業が参入し、様々な製品・サービスを供給する。

 【象限①】は参入障壁がそれほど高くない。しかし、国や地域によって生活習慣や嗜好、価値観や文化が異なることから、他の象限に比べるとグローバル規模で事業を展開する巨大企業が生まれにくい。世界の時価総額ランキング・トップ20の企業を各象限にマッピングした冒頭の図でも、【象限①】に該当する企業が少ないことが解る。【象限①】は、各国(特に新興国)において雇用の受け皿となっている業種が多いことから、外資規制が導入されていることも影響している。【象限①】の中心を占めているのは、地場の中小企業である。

 顧客ニーズの機能面を充足するには分析的マーケティングが、情緒面を充足するには主観や直観が重要になる。しかし、中小企業には分析的マーケティングに投資するほどの余裕はない。とはいえ、敢えて肯定的に考えれば、主観や直観だけでもある程度は事業をやっていけるとも言える。だから、【象限①】には中小企業が多くなる。

 世界の時価総額ランキング・トップ20の企業の中で、【象限①】に該当するグローバル企業はネスレ、ウォルマート、P&Gである。ネスレは経営の現地化を進めており、各国の市場にフィットした製品を開発している。P&Gは分析的マーケティングに強いことで有名だが、各国の市場をデータで解析すると同時に、社員が小売店や消費者のニーズを直接体験することに多大な時間を投資しており、ネスレと同様に製品を各国の事情に合わせている。機能面と情緒面の両方を重視する企業の中から、例外的にグローバル企業が生まれると言えるだろう(なお、ウォルマートは全世界共通のオペレーションで成長したが、近年はローカリゼーションを進めている)。

 本号では、ユニリーバの事例が紹介されている。ユニリーバは【象限①】に該当する企業である。事例を読むと、ネスレやP&Gの取り組みと共通点が多いことに気づく。
 CFOのグレイム・ピトケスリーはアナリストに向けて、世界中の現地市場に経営資源を移転するという、大規模な新規施策を発表した。文化の独自性やライフスタイルに合ったブランドや製品を、消費者が求めるようになっており、その結果、特に新興国市場において現地企業が急成長し、競争力を高めている、という。
(フランク・ファンデンドリースト、スタン・スタヌナサン、キース・ウィード「新たな競争優位の源泉 インサイトエンジン:データから顧客を知る力」)
 CMI(※消費者・市場インサイト部門)は、自社製品が暮らしの中で果たす役割や顧客ニーズに関する知見を得るために、顧客と接するよう全社員に奨励し、役立つツールも提供している。

 一例として、ピープルボイスという施策によって、アジアの工員、グローバルブランドチームの一員、さらにはCEOに至るまで、社内のあらゆる人材が、「持続可能性」「買い物客の経験」などのテーマを掲げたイベントで、顧客とじかに意見を交わす機会を得る。あるいはDiscuss IOという新興企業が開発した「いつでも使える」プラットフォームを利用して、あらゆる地域の消費者とバーチャル会議を開く方法もある。(同上)
 今回の記事で、【象限①】と【象限③】は情緒面を、【象限①】と【象限②】は機能面を重視すると書いたが、それを図示すると以下のようになる。

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