2013年02月22日
相澤理『東大のディープな日本史2』―架空の島・トカラ島の謎
歴史が面白くなる 東大のディープな日本史2 相澤 理 中経出版 2012-12-26 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
『東大のディープな日本史』の続編。前回は本全体の内容を俯瞰した記事を書いたが、今回はピンポイントで1つの設問を取り上げてみたいと思う。
次の文章(1)(2)は、1846年にフランス海軍提督が琉球王府に通商条約締結を求めたときの往復文書の要約である。これらを読み、下記の設問A・Bに答えなさい。沖縄の歴史は、教科書ではごく簡単にしか記述されていないのに、それを1つの大問にしてしまうあたりがすでにいやらしい。その上、資料から琉球王府が「隠そうとした国際関係」を読み取らせようとするのだから難問である。だが、よく考えてみると、沖縄は日本の米軍基地の4分の3が集中する日米同盟の要であり、尖閣諸島をめぐる中国との衝突を抱えるなど、日本にとっては非常に重要な土地である。その沖縄のことをもっとしっかり勉強しなさい、という東大教授陣のメッセージが込められているのかもしれない。
(1)[海軍提督の申し入れ]北山と南山の王国を中山に併合した尚巴志と、貿易の発展に寄与した尚真との、両王の栄光の時代を思い出されたい。貴国の船はコーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた。あのすばらしい時代はどうなったのか。
(2)[琉球王府の返事]当国は小さく、穀物も産物も少ないのです。先の明王朝から現在まで、中国の冊封国となり、代々王位を与えられ属国としての義務を果たしています。福建に朝貢に行くときに、必需品のほかに絹などを買い求めます。朝貢品や中国で売るための輸出品は、当国に隣接している日本のトカラ島で買う以外に入手することはできません。その他に米、薪、鉄鍋、綿、茶などがトカラ島の商人によって日本から運ばれ、当国の黒砂糖、酒、それに福建からの商品と交換されています。もし、貴国と友好通商関係を結べば、トカラ島の商人たちは、日本の法律によって来ることが禁じられます。すると朝貢品を納められず、当国は存続できないのです。
(フォルカード『幕末日仏交流記』)
【設問】
A.15世紀に琉球が、海外貿易に積極的に乗り出したのはなぜか。中国との関係をふまえて2行(60字)以内で説明しなさい。
B.トカラ島は実在の「吐喝喇(とから)列島」とは別の、架空の島である。こうした架空の話により、琉球王府が隠そうとした国際関係はどのようなものであったか。歴史的経緯を含めて、4行(120字)以内で説明しなさい。(06年度第3問)
さて、まず設問Aについてだが、時の中国は明王朝である。洪武帝は周辺諸国の王に朝貢させ、爵位・称号を授けるという、中国中心の伝統的な国際秩序=冊封体制の回復を目指した。一方で、中国沿岸で猛威をふるっていた倭寇を禁圧するため、中国人商人の海外渡航を禁止する海禁政策をとった。その結果、明は海外の商品の入手ルートを自ら断つことになった。
そこで明が目をつけたのが、海上の要所に位置する琉球であった。明は、琉球王国に朝貢させる形で中継貿易を行わせようとした。文章(1)にある「コーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた」船とは、この朝貢船のことである。
しかし、16世紀に入って東アジアにポルトガルが進出し、中国人密貿易商と結びついて貿易を始めると、琉球の優位性が低下した。そこに日本人の侵攻が始まり、1609年に島津家久に軍を送られると、さしたる抵抗もできないまま首里を占領されてしまった。その後、江戸時代には薩摩藩を介して幕府に、将軍の代がわりごとに慶賀使が、琉球国王の代がわりごとに謝恩使が遣わされた。と同時に、見かけ上は独立国として中国との冊封関係が維持されたため、江戸時代の琉球王国は、日中両属の状態に置かれた。
次に設問Bであるが、予備校界で流通する解答例はこうした日中両属関係について指摘して終わっており、何か腑に落ちないとして、著者はさらなる考察を進めている。仮に琉球王府が日中双方からの独立を望んでいるならば、列強からの使節はホワイト・ナイトであって、それを「隠そう」とする必要などない。裏返せば、琉球王府は日中両属関係を維持したいと考えているのであって、そう考える理由にこそ本当に隠したいものがあるということになる。
文章(2)で語られているトカラ島とは、実は薩摩のことだ。19世紀前半になると、薩摩藩は琉球ルートを利用した中国(清)との密貿易に乗り出す。薩摩藩は、松前産の俵物や奄美産の黒砂糖を、長崎出島を通さずに取引し、利益を上げようとした。また、琉球にとっても、米などの必需品の入手に薩摩は欠かせない存在であった。琉球王府は、列強と友好通商関係を結べば、こうした貿易が途絶えて存続できないと訴えているのである。
以上を踏まえて著者は、次のような解答例を載せている。
A.明が倭寇禁圧のため海禁政策をとるなかで、朝貢形式で中継貿易を行うことで、海外の産品を入手するルートとしての期待に応えた。ここまでが本書における著者の解説である。だが、この琉球王府の応答は、個人的にどうも腑に落ちない。中国(清)への朝貢が不可能になって琉球王国が存続できないことを訴えるのであれば、特段トカラ島の話を持ち出すまでもないと思うからだ。
B.琉球王府は近世初頭に島津氏に征服されて以降、薩摩藩の支配を受け幕府に使節を送る一方、中国の冊封関係も維持するという日中両属関係にあった。近世後期には、この関係を利用して薩摩と清との密貿易の窓口となるとともに、必需品も薩摩から入手した。
つまり、フランスと友好通商条約を結ぶと、本来清に持っていくはずの朝貢品がフランスに流れてしまい、朝貢ができなくなる。すると、怒った清は、琉球を滅ぼそうと攻めてくるに違いない、と言えば十分なのである。フランスも、琉球王国との貿易によって琉球王国自体がなくなってしまえば本末転倒であるから、おとなしく引き下がっただろう。それなのに、トカラ島という名前を出すことで、清以外にも琉球王国の弱みを握っている存在を匂わせるのは、あまりにも危険な賭けではなかっただろうか?フランスがちょっと本気を出してトカラ島の実態を調べ、薩摩の存在を暴いてしまったら、琉球王府はどうするつもりだったのだろうか?
一方のフランスも、押しが足りなかったような気がする。フランス提督が条約を申し入れた1846年と言うと、アヘン戦争(1840~42年)の直後である。イギリスが清を破ったという情報は、フランスも当然知っていたはずだ。弱体化している清をフランスが叩くことも容易だったに違いない。仮に条約締結によって琉球王国が清に攻め入られても、フランスが琉球王国を支援すれば、清を撃退できたであろう。また、薩摩の存在がばれて薩摩藩や江戸幕府とフランスが戦うことになったとしても、当時の戦力差を考えれば、フランス優位は変わらない。フランスがあっさり手を引いたのは、仮にフランスが清を破ると、将来的に英仏の間で利害が衝突する危険性があると見通していたためかもしれない、というのは行き過ぎた推測だろうか?