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【ベンチャー失敗の教訓(第41回)】自分の「時間単価」の高さを言い訳に雑用をしない
【数学Ⅱ(三角関数)】tan1°は有理数か?(京都大)
森和朗『甦る自由の思想家鈴木正三』―個人優先・共同体優先のどちらから出発しても全体主義に行き着いてしまう?

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2013年10月27日

【ベンチャー失敗の教訓(第41回)】自分の「時間単価」の高さを言い訳に雑用をしない

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 コンサルタントは人月単価が非常に高い。以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第33回)】営業担当者任せにしすぎたプライシング」でも述べたが、一番ランクが低いコンサルタントで約200万円/月、マネジャークラスになると約400万円/月~500万円/月に上ることもある。私が一番下のランクのコンサルタントだった時、シニアマネジャーからよくこう言われたものだ。「君の人月単価を月の稼働時間=200時間で割ってみなさい。時給が約1万円になるはずだ。毎時間、1万円に値するアウトプットを出しているか厳しく自己管理しなさい」 こう教えられていたので、コンサルティングプロジェクト期間中は、おちおちトイレにも行けない雰囲気すらあった。

 だが、こうした「時間単価」の考え方が行きすぎると、ちょっと困った事態が生じる。X社やZ社では、コンサルタントの給与は約50万円/月、マネジャーの給与は約80万円/月~100万円/月に設定されていた。これを時給換算すると、コンサルタントは約2,500円、マネジャーは4,000円~5,000円となる。私の周りには、「自分の時給に見合った仕事でなければ絶対にやらない」というスタンスの人が少なからずいた。人手不足のベンチャー企業では、ちょっとした雑用が生じたら、今いる社員で助け合ってカバーするしかない。しかし、自分の時給の高さを自負する人は、そういう仕事に手を貸そうとしなかった。

 3社が入っていたオフィスには、コンサルティングや研修開発の資料として、数千冊の書籍が置いてあった。その数があまりに増えたため、一度整理をすることになった。ところが、Z社のシニアマネジャーは、誰に作業してもらうかを何日も議論し、挙句の果てに、本の整理に自社の社員を使った場合のコストと、アルバイトをスポットで雇った場合の人件費を計算して、後者の方が安く済むからアルバイトを使いましょう、とC社長に真面目に進言していた。そんな計算をバカ正直にやっている間に、有志を募ってさっさと片づけてしまえばいい。結局、それから数か月も経った後に、X社の有志が日曜日に集まって、3時間ほどで本を片づけてしまった。

 時間単価の高さを盾に取る傾向は、Z社の人たちに顕著であった。Z社は必ずしも稼働率が高くなく、手が空いているコンサルタントが何人かいた。彼らに対して、X社の研修のテキスト印刷の手伝いをお願いしたところ、Z社のシニアマネジャーから、「そんな仕事にうちのコンサルタントを使わないでくれ」とクレームが入ってしまった。印刷を手伝ったコンサルタントは、「そんな暇があったら、コンサル業務に役立つ勉強をしろ」と注意されていた。シニアマネジャーは言葉にこそしなかったものの、X社の事務作業はコンサルタントの時給に見合わないと言いたげであった。

 やや話が逸れるが、コピーを手伝うことは勉強の機会になる。私はこんな話を聞いたことがある。ある企業で、上司が部下にコピーを頼んだ。部下がコピーを上司のもとに持って行ったところ、上司はこう尋ねた。「君は原稿に目を通したか?」 コピーを頼まれただけだと思っていた部下は、「いえ、読んでいません」と答えた。すると上司は、「いいか、コピーも大事な勉強の時間だ。言われた通りにコピーするのではなく、印刷機が動いている間に原稿をよく読んで、職場でどういう仕事が行われているのか勉強しなさい」と叱責したのだという。

 テキスト印刷を手伝うよう頼まれたZ社のコンサルタントは、X社の研修内容を勉強するいい機会になったはずだ。そしてそれは、3社が事業シナジーの発揮を目指していたことを考えれば、決してコンサル業務の勉強に劣るものではなかったと思う。

 雑用に絶対に手を貸さないZ社に対して、X社は敵対的な目を向けていた。しかし、X社の人たちも、雑用を回避する傾向がなかったわけではない。重箱の隅をつつくような話だが、例えばシュレッダーはいつもごみくずで満杯になっていた。私がシュレッダーを使うと十中八九紙詰まりを起こすので、くず箱を確認してみると、ごみくずがぎゅうぎゅうに押し込められていた。ごみくずの袋の交換を嫌がったX社の社員が、ごみくずを無理やり押し込んでその場をしのいでいたわけだ。

 2009年の末にX社が大幅なリストラを行った際、事務作業を行っていたオペレーションチームもなくなってしまったため、事務員として派遣社員を1人だけ採用した。ちょうどその頃、コンサルティングプロジェクトを終えて顧客企業先での常駐勤務からオフィス勤務に戻った私は、正午になると全員が昼食で外出してしまうことに驚いた。電話番が誰もいないのである。普段電話番をしている派遣社員も休憩に入ってしまうのならば、X社の社員が交代で電話番をするべきであろう。オフィス勤務に戻ってからしばらくは、私がオフィスに残って電話番をしていた。

 人手不足のベンチャー企業では、誰の担当でもない雑用がどうしても生じる。それを誰かがやらなければ、会社の業務は回って行かない。雑用が放置される企業では、知らず知らずのうちにチームワークが蝕まれていく。誰かが困っていても、見て見ぬフリをするようになる。すると、本当に会社の一大事が訪れた時、全員でそれを乗り切ろうという雰囲気が生まれない。今まで誰もやったことがないが、誰かがやらなければならない仕事が発生しても、「それは私の時給に見合った仕事ではない」と言い逃れをしてしまうのである。
(※注)
 X社(A社長)・・・企業向け集合研修・診断サービス、組織・人材開発コンサルティング
 Y社(B社長)・・・人材紹介、ヘッドハンティング事業
 Z社(C社長)・・・戦略コンサルティング
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2013年10月25日

【数学Ⅱ(三角関数)】tan1°は有理数か?(京都大)

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チャート式 基礎からの数学2+B 改訂版チャート式 基礎からの数学2+B 改訂版
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 「【数学Ⅰ】x2+y2+z2=xyz(x、y、zは正の整数、x≦y≦z)を満たす(x, y, z)の組は無数に存在することを示せ(東京大)」以来、約4か月ぶりの数学ネタ。今年に入ってから数学ⅠAの青チャートを少しずつ解いていて、約半年で何とか一通り完了した。その後しばらく数学をサボってしまったが、最近になって今度は数学ⅡBに取りかかり始めた。今年中に数学ⅡBを終わらせるのが目標(もはや仕事とは何の関係もない・・・)。

 今回の記事では、三角関数より京都大学の問題をピックアップ。「tan1°は有理数か」 問題文はたったこれだけ。数学の入試問題の中で、おそらく5本の指に入るであろう問題文の短さだ。そして、問題文が短い問題はたいてい難しい、と相場が決まっている。

 有理数か否かという問題では、背理法を使わない手はない。tan1°が有理数であると仮定し、倍角の公式を利用してtan2°、tan4°、tan8°、tan16°、tan32°が有理数であることを導く。ここで、tan(32°-2°)は加法定理に従うと有理数だが、実際にはtan(32°-2°)=tan30°=1/√3、すなわち無理数であり、矛盾していることを指摘すればOKだ。倍角の公式を用いてtan64°も有理数であることを導き、tan(64°-4°)は加法定理に従えば有理数であるが、実際にはtan(64°-4°)=tan60°=√3(無理数)であることを指摘してもよい。

 別解で示したように、倍角の公式を用いずに、加法定理だけを用いる方法もある。tan1°が有理数であると仮定し、加法定理で1°ずつ増やしていくと、tan2°、tan3°、・・・、tan30°は全て有理数となる。しかし、実際にはtan30°は無理数であるから矛盾している、となる。

tan1°は有理数か

 同じ方法を用いれば、tan2°以降も無理数であることを示せるはずだが、tan9°でつまづいた。どなたか教えてください。なお、この問題についてもっと詳しく知りたい方は「強者の戦略」や「PowerLinker→Libio開発録と、それ以外について」を参照。

【tan2°】
 tan2°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan4°、tan8°、tan16°、tan32°は全て有理数である。
 しかし、tan(32°-2°)=tan30°は無理数である。
【tan3°】
 tan3°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan6°、tan12°、tan24°は全て有理数である。
 しかし、tan(24°+6°)=tan30°は無理数である。
【tan4°】
 tan4°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan8°、tan16°、tan32°、tan64°は全て有理数である。
 しかし、tan(64°-4°)=tan60°は無理数である。
【tan5°】
 tan5°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan10°、tan20°、tan40°は全て有理数である。
 しかし、tan(40°-10°)=tan30°は無理数である。
【tan6°】
 tan6°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan12°、tan24°は全て有理数である。
 しかし、tan(24°+6°)=tan30°は無理数である。
【tan7°】
 tan7°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan14°、tan28°、tan56°、tan112°は全て有理数である。
 加法定理に従えば、tan(14°+56°)=tan70°、tan(28°+112°)=tan140°はいずれも有理数となる。
 しかし、tan(70°+140°)=tan210°(=1/√3)は無理数である。
【tan8°】
 tan8°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan16°、tan32°、tan64°、tan128°、tan256°は全て有理数である。
 しかし、tan(256°-16°)=tan240°(=√3)は無理数である。
【tan9°】
 ??(加法定理を用いてtan30°やtan60°に持ち込めない)
【tan10°】
 tan10°が有理数であると仮定すると、
 倍角の公式よりtan20°、tan40°は全て有理数である。
 しかし、tan(40°-10°)=tan30°は無理数である。

《2014年1月23日追記》
 tan9°が無理数であることは別の方法で証明した。詳細は「【数学Ⅱ(三角関数)】m=0, 1, 2, ……, 89とするとき、tanm°が有理数となるような整数mを全て求めよ」を参照。


カテゴリ: 数学 コメント( 8 )
2013年10月23日

森和朗『甦る自由の思想家鈴木正三』―個人優先・共同体優先のどちらから出発しても全体主義に行き着いてしまう?

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甦る自由の思想家鈴木正三甦る自由の思想家鈴木正三
森 和朗

鳥影社 2010-09

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 童門冬二氏の著書『鈴木正三 武将から禅僧へ』を読んで感じた3つの疑問―(1)自由の思想家でありながら、江戸時代の身分制度を固定的にしかとらえられなかったのはなぜか?(2)仏教とキリスト教の共存を認めず、仏教の教理による一方的なキリスト教の論破を試みたのはなぜか?(3)江戸幕府絶対主義に嫌気がさして出家したにもかかわらず、仏教を広めるために国家権力の力を借りようとしたのはなぜか?―に対する答えを求めてこの本を読んでみた。結論から言うと、満足した答えは得られなかった。(1)に関しては、
 士農工商の身分制度がびくともしないことぐらい、正三は百も承知であったし、自分からびくつかせるつもりもなかった。この身分制度が固まってからまだ日も浅く、いまそれがぐらつきだしたらまた戦国の地獄に戻ってしまう。

 しかし、正三はそれが盤石のものとも、永遠不変のものだとも思っていなかったかもしれない。それに、運用の仕方次第によっては、それはもっと堪えやすいものにできるし、いくらかは平等に近づけることができる。正三は夢に託して身分の逆転を語りながら、過分な年貢の取立てを緩和したり、身分の壁を超えて有能な人材を抜擢するなど、それをもっと融通のきくものにすることを示唆したかったようにも思える。
と、何とも歯切れが悪い。身分の自由という意味では、江戸時代よりも戦国時代の方がはるかに自由であった。しかし、戦国時代の地獄絵図をその眼に確かに焼きつけていた正三は、そんな不安定な自由よりも、身分制を通じて社会が安定に向かうことの方を望んだのかもしれない。結局のところ、正三が追い求めた自由とは、
 権力と対決し、あわよくば権力を奪い取ることに自由を見出すのではなく、権力とはほどほどに共存しながら、自分たちの共同体の中で仲間と打ち解けながら平穏に暮らすこと
であった。(3)に対する答えは、この文言に間接的に表れているように思える。正三の言う自由は、西欧の基本的人権が言うところの生来的な自由とは異なり、権力との共存や共同体における実践を通じて獲得される。そして著者は、これこそが日本人らしい自由であると指摘している。著者は、正三の著書『驢鞍橋』から次の文章を引用している。
 それ人間といふは、自らを忘れて他を恵み、危ふきを救ひ窮まれるを助け、物ごとに情けを<先とし、憐む心あるを仁とすと云へり。慈悲正直にして、義を正すを人間と教え、さてまた、人の面をはって我が手柄とし、面がまちにて人を驚かし、我に劣るを賤しめ、及ばざるをそねみ、欲心我慢を専らとする者は、いかに形人間なりとも、これ畜生なり。よくよく言ひ聞かせよ。
 このように、自我を抑制して他者を尊重し、共同体を優先する自由を、著者は「共同体的報恩互酬主義」と呼ぶ。その対極にあるのが、西欧の「自己主張的個人主義」に基づく自由である。

 私のような短絡的な脳しか持たない人間は、共同体重視と聞くとどうしても戦中の全体主義を連想してしまう。共同体優先を突き詰めれば、国家優先に行き着く。太平洋戦争末期、日本の劣勢が明らかだった状況下で、大本営は沖縄方面の航空作戦として天号作戦を発した。第2艦隊司令長官に着任した伊藤整一は、戦艦「大和」による天一号作戦参加を命じられた。その作戦は実質的な特攻作戦だったため、伊藤は強硬に反対した。ところが、連合艦隊参謀・草鹿龍之介中将の「一億総特攻の魁となって頂きたい」という一言であっさりと作戦を承諾してしまう。伊藤をたった一言で翻意させたこの言葉こそ、日本人の全体主義をよく表しているのではないか?

 最近、安倍首相は、親・祖先に対する敬意と、自国の歴史・伝統・文化に対する敬意を重ね合わせ、地域における絆に支えられた家父長的共同体の再生を通じて、国家の統治能力の回復を目指している。そして、国家に対する信頼を取り戻し、国家を愛する心=愛国心を養うために教育改革に着手しており、これまでの自虐史観を克服する歴史教育や、個より公を優先するモラルの醸成を目的とした道徳教育を掲げ、自国に対する誇りを取り戻そうとしている。

新しい国へ 美しい国へ 完全版 (文春新書 903)新しい国へ 美しい国へ 完全版 (文春新書 903)
安倍 晋三

文藝春秋 2013-01-20

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 これを全体主義の復活だと危惧する声が国内外から上がっている。問題を複雑にしているのは、こうした全体主義的な考え方は、日本人らしい自由と親和性が高いという点だ。言い換えれば、日本人にとって”心地よい”のである。安倍政権に対する支持率が高水準で推移しているのは、アベノミクスに対する期待ではなく、安倍政権が日本人らしい自由を体現してくれると国民が夢想しているからではないだろうか?(私もその1人かもしれない)

 共同体優先の考え方は、同レベル・同規模の共同体の間で利害対立が生じた時、双方の共同体を包含するより大きな共同体の目的を優先することで、問題を解決させる。いや、正確に言えば、問題を”見なかった”ことにする。大義名分を振りかざすなどというのは、この手の問題を解決(回避?)するための常套手段である。しかし、国家同士が対立した場合は、国家を超える共同体が存在しないため、解決策を提示することができない。

 私は、「経路依存性」(path-dependency)を重視する立場からして、共同体を優先する日本人的な自由については、それが日本の歴史に根差したものであれば否定はしたくない。ただ、それを超える新しい自由観を模索しなければならない、とも思っている。

 本書を読んで興味深かったのは、不思議なことに、西欧的な個人主義から出発しても、やはり同じように全体主義に行き着いてしまう、という点であった。キリスト教に裏打ちされた自由な個人は、自らの行為を絶対的な神の行為と同一視し、正当化する。著者は、政治学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』に触れながら次のように述べている。やや長くなるが引用する。
 アーレントによると、ヨーロッパ勢の帝国主義的な急膨張は優越した軍事力に先導されたものであるが、それに伴って工業製品の輸出や対外的な経済取引が拡大した結果、イギリスなどには使い切れないほどの資本が蓄積されてしまった。「この発展のいちばんの原因は、資本家という1つの小さな階級の存在であり、彼らの富が自国の社会構成の枠に収まりきれなくなり、過剰資本の有利な投資先を求めて彼らが貪欲な目で地球をくまなく探しまわったことである」

 このような世界の植民地化の最大のスポンサーが国家であるのは言うまでもないが、暴力と征服が切り拓いていった道を金融投資が進んでいく一方で、輸出された資本の安全を確保するためにその道を国家権力が踏み固める事態となった。かくして、帝国主義国家の保護の下での富の自動的な増殖のメカニズムができあがったが、それが厖大な利子や配当を本国にもたらしたので、無制限な経済の拡張や私的な利益の追求が、あたかも国家的な正義であるかのごとく見なされるようになってしまった。

 このおいしいパターンが現代のアメリカに受継がれて、政府の公認と暗黙の奨励の下に、投資銀行やヘッジファンドが思うままに投機的な利益を獲得しようとしたことが危機(=リーマンショック)の引き金となった、という発言もあった。
 アメリカは、自らが信奉する個人主義や市場原理主義を、国家の力を借りて他国にも押しつけ、グローバリゼーション(というか、アメリカ中心の世界)を実現しようとしている。そして、アメリカの意向に沿わない国は、武力をもって制裁する。これも立派な全体主義ではないだろうか?アメリカはかつて、日本・ドイツ・イタリアの全体主義に対抗し、自国の建国理念である自由の精神を守るために第2次世界大戦に参戦した。ところが、今や自国の建国理念を他国にも押し売りする全体主義国家になっているようなのである。しかも、神の行為にかなっているから正しい、と言われてしまうと、交渉の余地がなくなってしまうだけに厄介だ。


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