2013年11月28日
中村天風『運命を拓く』―天風哲学はアメリカ的なキリスト教の匂いがする(2)
運命を拓く (講談社文庫) 中村 天風 講談社 1998-06-12 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
(前回の続き)
アメリカという国家は、煎じ詰めると、「自由と市場原理を基礎とし、競争的な経済活動を通じて物質的な富を増大させ、それを通じて人々を幸福にする」というたった1つの明確な目的に向かって邁進している。目的をこの1つに絞り込んでいるのは、アメリカはこの目的こそが神の意志であり、目的が達成されたあかつきには、神の思い描く理想世界が実現されると信じているからだ。だから、自国のルールを他国に押しつけ、従わない国には制裁を加える。極言すれば、全世界のアメリカ化を目論んでいる。アメリカ政府はそのための戦略を構想し、アメリカのグローバル企業は、その戦略の実行部隊として機能している。
アメリカのやり方は、建国当初から変わっていない。西部開拓者は、「白人入植者による植民地拡大は、神の与えた運命である」という「マニフェスト・デスティニー」(明白なる運命)を感じており、開拓に伴う領地拡大と犠牲者の増大を当然の運命だと考えていた。西部開拓が終わると、マニフェスト・デスティニーが転じて、今度は「白人が世界経済におけるプレゼンスを増すことは、神の与えた運命である」というものに変質した。アメリカはまず、自国の通貨を世界通貨の基軸とした。その上で、先進国と途上国に対しては、次のような戦略を使い分けた。
先進国に対しては、米国債を大量に発行した。そして、借金で得られたお金を国内に流していった。その結果、アメリカ国内では金余りの状態が生じ、インフレとなる。短期的には買い控えなどが起こるものの、長期的には値上げの分だけ企業の利益も増加する。すると、株主からは配当増の圧力がかかり、株価が押し上げられる。高騰を続ける株に投資をしていたアメリカ人は、莫大なキャピタルゲインを獲得する。そこで儲かったお金を使って、外国製品を次々に購入する。アメリカで儲けた国々には、貿易代金決済のためにドルが蓄積されていくが、放っておいても仕方ないので、再び米国債を購入する。その結果、プロセスの振り出しに戻る。
途上国に対しては、先進国とは逆に、経済支援という名目で各国の発行した国債を購入する。次に、各国に経済使節団を派遣して、その国の経済政策を徹底的に変えさせ、繁栄させる。途上国の企業が力をつけてアメリカに輸出できるようになれば、アメリカの狙い通りだ。最初は、途上国がアメリカで儲けたお金は、自国債の償還に使われるだけだ。しかし、国債の償還が終われば、ドルが国内に蓄積されるようになる。そうすれば、立派な先進国の仲間入りである。彼らもまた米国債の購入先となり、先ほどのプロセスの担い手となる。
20世紀も終盤に入ると、物質的な豊かさが限界を迎えたため、代わりに投資銀行を中心として、実体経済ではなく金融経済の世界で勝負をする金融資本主義が幅を利かせるようになった。だが、この投資銀行も、ある日突然出現したものではない。アメリカ建国当初から、その芽はすでに存在していたのである。
1869年に全通したアメリカ横断鉄道は、「鉄道債」を発行することで資金を集め、建設された。延伸されればされるほど、沿線の地域が発展していくので、これほど安定的で儲かるものはない。そこで、この鉄道債を大量に売りさばくブローカーが大勢現れた。実は、このようにして始まったのが、アメリカにおける投資銀行である。アメリカの投資銀行のルーツは、市場が日増しに拡大することを前提とした鉄道関連ビジネスにある(※)。
一神教のキリスト教に対して、多神(仏)教である日本は、特定の神や仏に絶対的な真理を求めない。むしろ、神仏の数だけ真理は存在すると考える。だから、アメリカのように国家の目的を1つに絞ることはない。アメリカは多くの民族が流れ込む多様な国家であり、日本は単一民族国家だとしばしば指摘される。しかし、社会を下支えする思想に関して言えば、日本の方がむしろ多様性に対して寛容であり、アメリカの方が単一的であるような気がする。
キリスト教においては、人間は神の化身であり、人間の中に神が存在すると考えられている。これと同様に、日本の仏教や神道においても、我々の身体の中には神仏が宿っているとされる。ところが、私が思うに、キリスト教の神は完全な形で一人ひとりの人間の中に存在するのに対し、日本の神仏は不完全な形でしか人間の中に存在しない。
したがって、キリスト教では、各個人が正しく信仰を続ければ神に通じることができるものの、仏教や神道では、個人の単独修行だけでは真理に到達することができない。自分と同じように神仏の一部をその体内に宿す他者、そして自然と連帯することによって、初めて真理を導き出すことができる。日本の場合、家族、共同体、地域社会、企業、組合、団体といった組織が重視されるのはそのためである。キリスト教が個人主義的であり、このような組織はあくまでも冒頭で述べたアメリカの目的を実現するための一時的な手段に過ぎないのとは対照的だ。
進歩や向上に関する姿勢も、よく考えるとアメリカと日本では大きく異なる。日本人も進歩や向上を重視する民族であるのは間違いない。それを端的に表すのが「道」という言葉である。その分野で理想とされる人物像に向かって長年にわたり修業を積み、精神を磨き上げることを日本では「道」と呼ぶ。だが、アメリカが進歩や向上と言う場合、まずはアメリカが絶対視する目的を明確に定め、その目的から外れた状態を排除し、目的に適うように矯正することを意味する。
これに対し、日本の進歩や向上は、明確な目的を持たない。「道」においても、理想とされる人物像は、実は誰にも解らない。おそらくそういう理想があるのだろうと、おぼろげに観念することしかできない。理想自体が日々変化し、理想に到達するための手段も頻繁に変わる。アメリカにおいては、目的と現実の乖離がはっきりとしており、目的に向かって変革している様子がありありと体感できる。ところが、日本の場合は、現在よりもよいと思われる状態に向かって、何となく変化しているようにしか感じられない。アメリカ人は短距離ランナーのように、直線的な変化を遂げるが、日本人はよちよち歩き、千鳥足的な歩みによってのみ変化を遂げるのである。
(※)アメリカに関する記述は、原田武夫『教科書やニュースではわからない 最もリアルなアメリカ入門』(かんき出版、2012年)を参考にした。
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