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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2013年12月27日

「うさんくさい補助金申請書」を見極める7つの審査ポイント(その4~7)

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 (前回の続き)

(4)「日本で初」、「ターゲットエリア内では初」の製品というのがうたい文句になっている
 補助金によっては、審査ポイントに「市場に存在しない独創的な製品か?」という項目が入っていることがある。それを知ってか知らでか、「日本で初」、「ターゲットエリア内では初」というのをアピールポイントにしている申請書が結構ある。だが、インターネットで調べると、そういう製品はだいたい既に存在するものだ。全く新しい製品というのは、よほどのことがない限りありえない。そこで嘘をつかれると、申請書の他の部分でも嘘をついているのではないか?と疑いたくなる。

 以前の記事「とある中小企業向け補助金の書面審査員をやってみて感じた3つのこと(国に対して)」でも書いたが、独創性が低くても、競合他社との差別化ポイントが明確で、事業計画がしっかりしていれば、それなりに高得点になる(少なくとも私はそのように採点する)。だから、余計な見栄を張らずに、堅実な申請書を作成してもらいたい。

(5)事業計画を見ると、1年目から黒字になっている
 補助金の申請書には、3年~5年間の事業計画を記入する欄がある。そして、将来的な事業化の可能性も、審査の重要ポイントとなっている。だが、事業の収益性をよく見せようとしているのか、1年目からいきなり黒字になるという計画をしばしば見かける。1年目から黒字になるほど魅力的な事業ならば、補助金など不要なはずだ。この場合は、売上が過大に見積もられているか、何か重要なコストが抜け落ちている可能性が高い。

 コストの抜け漏れで一番多いのは、必要な設備投資が抜けていたり、販促費が過少に見積もられていたりするケースである。やや解りにくいのは人件費だ。社員数の割に人件費の総額が少ない場合は要注意である。中小企業の場合、中高年社員であっても月給20万円台ということはざらにあるので、単に人件費が安いと感覚的にとらえるだけでは決め手にならない。ところが、年間の理論総労働時間から時給を割り出すと、実は最低賃金を下回っていた、ということが稀にある。この場合は法令違反であるから、補助金を受給する資格はない。

(6)公的機関との共同研究やビジネスコンテストでの優勝といった実績をアピールしている
 申請内容に箔をつけるためか、こういう実績を書いてくる申請書がある。公的機関との共同研究を持ち出されると、何かすごい事業をしているかのように思えて、高得点をつけたくなる。だが、そこは一歩踏みとどまって、よく調べなければならない。公的な研究結果はHP上で公開されている。そこに研究実績が載っていなければ、虚偽の申請書である可能性が高い。

 HPで公開されている公的機関の研究内容は、調べるのも簡単だ。一方、ビジネスコンテストの結果は必ずしもHPで公開されていないから厄介である。そもそも、ビジネスコンテストで優勝するぐらいの案件ならば、ビジネスコンテストの賞金が出るか、ベンチャーキャピタルから出資が受けられるか、金融機関から融資してもらえるはずである。それなのに、わざわざ補助金に応募するということは、事業計画に重大な欠陥があるか、優勝実績そのものが虚偽であるかもしれない。

(7)申請者の年齢や企業の財務状況の割に、補助金が交付されるまでのつなぎ資金として多額の自己資金が充てられている
 補助金は、採択されたらすぐにお金が支払われるわけではない。実際にかかった経費の事後清算という形をとるので、補助金が支払われるのはおおよそ採択から1年後である。その間、つなぎの資金が必要になるため、自己資金で賄うか、金融機関から融資を受けなければならない。

 申請書には、つなぎの資金の調達方法について申告する欄がある。若い申請者や、手持ち現金が少ない企業が、ここに多額の自己資金を記入している場合は要注意である。私が見た申請書の中には、30歳前後の申請者が2,000万円のつなぎ資金を自己資金で賄うとか、つなぎ資金に使う自己資金の額をB/Sの現金・預金から引いたらマイナスになった、というケースがあった。こういうケースでは、申請者が金融機関との関係構築ができておらず、とりあえず自己資金と申告しているだけかもしれない。ということは、いざという時に金融機関から融資が受けられずに、ビジネスが破綻するリスクを抱えていることになる。

2013年12月26日

「うさんくさい補助金申請書」を見極める7つの審査ポイント(その1~3)

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 今年はアベノミクス効果で中小企業向けの補助金が非常に多く、私は幸いにも、申込者の申請書類を審査するという仕事に数多く携わることができた。この1年間で、約100社ほどの事業計画書に目を通した計算になる。中小企業診断士は他の士業とは異なり、法律で定められた独占業務がないのだが、こういう書面審査はいかにも中小企業診断士らしい、あるいは中小企業診断士にしかできない仕事だと思う。来年度も様々な補助金があるようだから、独立している診断士も企業内の診断士も、機会があれば是非書面審査の仕事を引き受けていただきたい。

 私は基本的に、新事業や新製品開発に取り組もうとしている中小企業経営者の背中を押してあげたい、という前向きな気持ちで審査をしている。私自身は何か新しいことを発想するのが非常に苦手なので、新しい事業を立ち上げよう、新しい製品を作ろうとしているだけでも尊敬できる。ただ、そうは言っても、中には補助金をせしめようとする輩もいる。書面審査は、国民の税金の配分先を決める重要な仕事だから、そういう不届き者は徹底的に排除しなければならない。今日は、”これはうさんくさい”と私が注意してチェックする申請書の特徴を7つにまとめてみた。

(1)申請額に占める人件費の割合が異常に大きい
 以前の記事「平成26年度経済産業省概算要求 中小企業関連政策についての雑感」でも書いたように、人件費は不正の温床になりやすいと言われる。実際には仕事をしていないのに、「働いた」と虚偽の週報を提出して、人件費の補助を受けようとする場合がある。もっとあくどい経営者は、自分の知人などを利用したりする。すなわち、補助金の対象期間だけ一時的に知人を雇用し、給与を支払ったかのように見せかけて補助金を受給する。そして、補助金の対象期間が終了した後に知人を解雇して給与を返還させるのである。

 ビジネスの特性上、設備費など他の経費がかかるはずなのに、人件費ばかりが計上されている場合は、不正受給を狙っている可能性がある。例えば、新規店舗を出店すれば、必ず店舗設備のコストが発生する。また、新製品を開発する場合には、相応の原材料費がかかるはずだ。そういう設備費用や原材料費などが申請されていない場合は、不正受給を疑った方がよい。

(2)シナジー効果の薄い複数事業・複数製品を同時に展開しようとしている
 秘密保持の関係上、具体例を挙げられないが、全く異なる顧客層をターゲットとして、複数の事業や製品を同時に展開しようとするケースが時々ある。補助金には、申請可能な最低金額というのが決まっている。このケースでは、1つの事業・製品だけでは申請可能な最低金額に届かないので、申請基準をクリアするために別の事業・製品を追加して、申請額をいたずらに膨らませている可能性が高い。つまり、追加された事業・製品は、ほとんど中身のないものである。

 仮にそうでないとしても、全く異なる顧客層に対して複数の事業や製品を同時に展開するのは、非常に難易度が高い。申請者はきっとアイデア先行型の人間で、「あれもこれもしたい」症候群に陥っているのだろう。審査員からすると、何がしたいのかがさっぱり解らない。的が絞りきれずに、すぐにビジネスが行き詰まるのは目に見えている。

(3)市場分析にマクロデータばかりが並んでいる
 どの補助金でもたいてい、審査のポイントとして「市場分析が適切に行われているかどうか?」という項目が入っている。そして、定性的な分析だけでなく、定量的な分析も行われていると、得点が高くなる。だが、間違えてほしくないのは、「定性的な分析+定量的な分析」ならば高得点になるのであって、「定量的な分析」だけで高得点になるわけではないということだ。

 申請書の中には、統計データを駆使して高度な定量分析を行っているものがある。しかし、定性分析が行われていない申請書は顧客の”生の声”が聞こえてこず、血の通った申請書になっていない。こういう申請書はたいてい、経営者が外部のコンサルタントに丸投げしている。外部のコンサルタントは、定量分析には長けているものの、顧客に直接リーチできないので、どうしても定量分析一辺倒の申請書になってしまう。外部に丸投げした申請書が仮に採択されたとしても、その申請書には経営者の気持ちが入っていないから、補助金は無駄に使われるだけだろう。

 (続く)

2013年12月24日

安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ

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安岡 正篤

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 陽明学者・安岡正篤が『論語』の読み方を解りやすく解説した一冊。通り一遍の解釈なら今やWebでも調べられる時代だから、安岡流の独自の解釈が施されている部分をまとめてみた。
 子曰く、民は之を由(よ)らしむべし。之を知らしむべからず。(泰伯)
 《よくある誤解》
 「民衆というのは、服従させておけばよいのであって、知らせてはいけない。知恵をつけてはいけない」と誤解されることが多い。そして、孔子はおよそ非民主的な人間で、封建制度の代弁者に過ぎないという、余計な注釈までついていることがある。

 《安岡流の解釈》
 「民は之を由らしむべし」とは、先ずもって民衆を信頼させよ、政治というもの、政治家というものは何よりも民衆の信頼が第一だという意味であり、この場合の「べし」は「・・・せしめよ」という命令のべしである。また、「之を知らしむべからず」の「べし」は。可能・不可能のべしで、知らせることはできない、理解させることは難しい、という意味である。

 民衆というものはみな、自己自身の欲望だの、目先の利害などにとらわれて、本質的なことや遠大なことは解らない。個々の利害を離れた全体というようなことは考えない。したがって、それを理解させることはほとんど不可能に近い。できるだけ理解させるようにしなければならないことは言うまでもないけれども、それはできない相談である。

 そこで、とりあえず民衆が、何だかよく解らぬけれども、あの人の言うことだから間違いなかろう、自分はあの人を信頼してついて行くのだというふうに持っていくのが政治である。この一文は、政治家に与えられた教訓であって、決して民衆に加えた批評ではない。

 孟武伯孝を問ふ。子曰く、父母は唯(た)だ其の疾を之憂ふ。(為政)
 《通常の解釈》
 孟武伯が孝とはどういうことですかと尋ねたところ、孔子がいうには、「父母はただ子どもの病気のことだけを心配する」 だから、子どもは自分が病気にならないように注意しなければならない、という意味である。あるいは、「父母は唯だ其の疾を之れ憂へしめよ」と読むこともある。この場合、「父母には病気のことだけで心配をかけよ」、つまり子どもはやむを得ず病気になることはあっても、それ以外のことで心配をかけてはならない、という意味になる。

 《安岡流の解釈》
 孟武伯ともあろうような堂々たる人間に対する答えとしては、少々幼稚すぎる。随分色々な注を読んでみたが、どうもしっくりするものがない。ところが、『呂氏春秋』の注を見ると、「疾」は「争ふ」に同じとある。近頃の子どもは、ことあるごとに反抗して、親の言うことを素直に聞かないので、随分悩んでおられる方が多い。疾を憂うとはそのことを言っている。つまり、親子の断絶を憂うるのである。これなら孝の答えにぴったりである。

 子曰く、 人の己を知らざるを 患(うれ)へず、己、人を知らざるを患ふ。(学而)
 《通常の解釈》
 孔子先生がおっしゃった。「他人が自分を知ってくれないということはどうでもよい。そもそも自分が他人を知らないことが問題である」と。優れた思想を持ちながら、なかなか世の政治家に用いられることがない孔子に向かって弟子が心中を尋ねたところ、このような答えが返ってきたという。つまり、政治家に自分の評判が及んでいないことが問題なのではなく、自分の修練がまだまだ足りないことが問題なのだ、という謙遜の答えである。

 《安岡流の解釈》
 もっと突っ込んで考えると、「人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ」と解釈した方が、もっと切実に感じられる。案外人間というものは、自分自身を知らないものである。自分が自分を知らないのだから、人が自分を知らないのは当然である。したがって、問題は、まず己が己を知ることでなければならない、ということになる。

 子曰く、苟(いやしく)も仁に志せば、悪(にく)むこと無きなり。(里仁)
 《通常の解釈》
 普通は悪むをあしきと読んで、いやしくも仁を志せば、悪いことはなくなる、という解釈になる。

 《安岡流の解釈》
 悪むは退ける、拒否するの意味であり、「仁に志せば、人の言うことをあれもいけない、これもいけない、というふうに退けることをしなくなる」と解釈する方がよい。仁は色々な意味に用いられているが、最もよく『論語』に出てくるのは、天地が万物を生成化育するように、我々が事物に対して、どこまでもよくあれかしと祈る温かい心、尽くす心を指す場合である。したがって、仁に志すようになれば、何事によらずそのものと一つになって、それを育てていく気持ちが起こってくる。

 斉の景公、孔子を待って曰く、季氏の若(ごと)きは則ち吾れ能はず、季孟の間を以て之を待せん。曰く、吾れ老いたり、用うること能はざるなり。孔子行(さ)る。(微子)
 《通常の解釈》
 斉の景公が孔子を待遇するのに、「魯の国の三卿の中でも貴い上卿の季氏と同じような待遇はできないが、季氏と下卿の孟氏との中間の待遇をいたしましょう」と言った。そして、「私ももう年を取った。到底あなたを用いることはできない」と言ったので、孔子は斉を去った(いかにも待遇が不満で、孔子が去ったかのような解釈である)。

 《安岡流の解釈》
 当時、景公を補佐した人に、晏子という名宰相がいる。晏子が孔子を用いることにあまり賛成ではなかったため、景公もその心を察して、孔子を尊敬しているけれども、それほど立ち入って話をしなくなった。それで孔子も諦めて、斉を去ったと推定される。

 だが、もう少しよく考えると、晏子という人は己の利益などを考えて反対するような人ではない。いつの時代でもそうだが、人を用いようとする場合には、必ず反対者がいる。斉においても、もちろん反対者がいたに違いない。そういう連中が、晏子が孔子を用いるのに進んで賛成ではないのを知って、それを利用して、いかにも晏子が孔子を排斥したようにしてしまった、というのが真相であろうと思われる。そのあたりの事情は、『晏子春秋』からうかがい知ることができる。

 子曰く、甯武子、邦(くに)に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。其の知及ぶべきなり、其の愚及ぶべからざるなり。(公冶長)
 《よくある誤解》
 甯武子は春秋初期の人で、衛の国の大夫である。現代語に訳すと、「甯武子は、国に道がある時は智を発揮し、国に道がない時は愚になった。その智は真似することができるが、その愚は到底真似ることができない」となるが、これを「その馬鹿さ加減が話にならない」と解して、甯武子に対する批判だととらえているケースが見られる。

 《安岡流の解釈》
 これは讃嘆の言葉である。「邦に道無ければ則ち愚」は、「国家が乱れている時こそ愚直であるべきだ」と解釈するのがふさわしい。知―頭がよい、気が利くということは五十歩百歩で、真似できないことはない、学んで至り得ぬことではない。けれども、人間というものは、なかなか愚―馬鹿にはなれぬものである。甯武子は、人が真似できない馬鹿になれた人だというわけだ。

 「馬鹿殿」という言葉は、本来は賛辞である。殿様は、内には世話の焼ける領民と大勢の厄介な家来を抱え、外には幕府という絶対権力者を戴いて、一日として心の休まる時がない。下手をすると、いつ取り潰されるか解らない。そういう内外の苦境の中にあって、殿様としてやっていくには、利口になってはいけない。解っても解らぬような顔をして、馬鹿にならないと務まらない。

 子貢、問うて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、女(なんじ)は器なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚連(これん)なり。(公冶長)
 《一般的な解釈》
 子貢がこう言って尋ねた。「賜、つまり私などはどうでしょうか」、「お前は器だ」、「何の器ですか」、「国家の大事な祭祀に用いる立派な器だ(国家の大事な仕事に従事させることのできる立派な人物だとの意)」

 《安岡流の解釈》
 子貢は他人の批評をするのが好きな人物であったから、自分の評価も気になるわけだ。本文では子貢がたいそう褒められているように見えるが、実は、未だ至らざることに対して孔子が戒めている。器は用途によって限定されている。瑚連であろうが、茶碗であろうが、またそれがいかに立派であろうが、便利であろうが、どこまでも器であって、無限ではなく、自由ではない。

 これに対して道は、無限性、自由性を持っている。したがって、道に達した人は、何に使うという限定がない。非常に自由自在で、何でもできる。こういう人を道人と言う。本文は、子貢は立派な器であるが、まだ道には達していない、ということを孔子が言っているわけだ。


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