2014年03月17日
山本七平『日本人と組織』―西欧と日本の比較文化論試論
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山本七平の著書はまだまだ私にとってハードルが高い。こういう文明評論に慣れていないせいなのだが、主張の全体像を把握したり、理論展開を予測したりすることが難しい。にもかかわらず、本書の内容を下敷きに、私なりの比較文明論を書いてみようという無謀な試みである。
西欧は言うまでもなく一神教(モノティズム)の文化である。人間は神の創造物であり、神が理想とする世界を作り上げるために人間は生まれてきたものとされる。人間は神の意思をくみ取り、理想世界の実現に邁進する。それが、彼らにとっての宗教である。彼らの世界では、神と人間は直接つながっている。人間は信仰を通じて、神に直接アクセスすることができる。聖書には、「神に誓う」、「(神以外に)誓ってはならない」という言葉が見られる。そして教会は、そのアクセスを手助けする場として機能する。ここに、人間―教会―神という関係図が成立する。
だが、人間は様々な組織を作り出す。それは家族のように生存的な理由によるかもしれないし、企業のように実利的な理由によるかもしれない。人間は、自らが構築した組織を、先ほどの関係図の中に入れ込もうとする。その規模が小さい順に並べるとすれば、人間―家族―企業―地域社会―国家―教会―神といった感じになるだろうか?ここで問題になるのは、それぞれの組織は、単に人間がそれを必要とするからという理由だけでは存在を正当化できない、ということである。各組織は、人間と神とを直線的に結ぶ構図の中でどういう意味合いを持つのか?言い換えれば、神との関係において、各組織はどのように正当化されるのか?が問われる。
例えば、国家と宗教の関係は古くから議論されてきた。中世の政治思想家の主たる関心は、ローマ教皇と国王はどのような関係にあるのか?という点にあった。そして、ローマ教皇の影響力が絶頂期にあった頃には、ローマ教皇=主、国王=従という関係がはっきりと確立されていた。
20世紀に入ると、企業の正当化が経営学者の間で議論されるようになった。我が心の師ピーター・ドラッカーの初期の著書を読むと、この論点が頻繁に登場する。当時のアメリカでは大企業が急速に台頭し、労働者を搾取して利益を貯め込んでいるという批判が盛んだったという。
私なんかは短絡的な思考の持ち主なので、「いや、大企業の登場によって、各個人が自営業のままなら到底実現しなかったであろう低価格で良質な製品を人々は享受できるようになった。また、大企業で働く労働者も、(搾取されているとはいえ)自営業の頃より高い報酬を手に入れることが可能になる。よって、企業には存在理由がある」と言えば十分であるように考えてしまうのだが、アメリカではそれが許されなかった。企業には、それ以上の理由が要求された。
ドラッカーの著書を読んだ当時は、なぜドラッカーがこれほどまでに企業の正当化にこだわっていたのか、正直私には理解できなかった。しかし、神との関係で正当性を持たなければ認められないという西欧人の精神的構造を考慮すれば、至極当然の論点であることに気づかされた。
西欧がモノティズムの文化を持つのに対して、日本はパンティズム(汎神論)の国である。西欧では神が唯一絶対であるから、人間―家族―企業―地域社会―国家―教会―神という関係図は1パターンしか存在しない。他方、神が複数存在する日本では、人間―家族―企業―地域社会―国家―教会―神という連関が幾通りにも存在しうる。ただ、それではあまりにも皆がバラバラすぎて、日本が日本たりうる理由を失ってしまう。多様な関係を束ねて日本を形成しているのは、西欧人には絶対に理解できない「国体」という概念と、西欧世界ではもはや見られなくなってしまった「万世一系の天皇」という存在であろう。
パンティズムとモノティズムという違いのほかに、日本と西欧ではもう1つ決定的な違いがある。西欧では、人間であれ家族であれ企業であれ、関係図を構成するそれぞれの組織体は、神を直接信仰する。これらの組織は、神との関係において正当性を認められているのだから、これは当然である。だから、関係図の上では、企業は地域社会の下部組織であるかのように書いたが、企業は地域社会に仕えるのではなく、神に仕えている。
これに対して、日本では組織間の主従関係がはっきりしている。すなわち、個人は家族に仕え、家族は企業に仕え、企業は地域社会に仕え、地域社会は国家に仕え、国家は神に仕える、というわけだ。日本人は、潜在的に不安を抱えた民族だと思う(根拠ははっきりしないが)。だから、自分よりも一回り大きな組織を形成し、大きな組織に身をゆだねる。このマインドが、組織間の主従関係を生み出していると考えられる。
本書には、江戸時代の政治家・新井白石がキリスト教を退けた理由が紹介されているが、その理由こそ、日本における組織間の関係をよく表している。白石はがキリシタンを排撃した最大の理由は、「二尊」主義にあった。白石は、キリスト教の神や天を、だいたい中国のそれと同じようにとらえている。彼は中国を例にとり、中国では天を祀ってよいのは皇帝だけであり、個人は天を祀ることが許されないという。皇帝は天を祀り、諸侯は皇帝を天として祀り、臣下は諸侯を天として祀り、子は父を天として祀る。これによって秩序が成り立っているから、もし個人がこの秩序を飛び越えて天を祀れば、その個人には「二尊」ができてしまう。
子はあくまでも親を天とすべきで、親を飛び越えて子が天と直結したら、その子は親と天という2つの天につながるから、心の中に「二尊」ができる。同様に、武士には「二君」ができてしまい、妻には「二夫」ができてしまう。これでは全ての秩序が崩壊してしまうから、キリシタンは排除しなければならない。これが、白石の主張である。
この点を理解すると、西欧で企業のCSR(企業の社会的責任)という概念をわざわざ持ち出さなければならなかった理由も、日本ではCSRが当たり前すぎて「西欧人は何をいまさら言っているのか?」と懐疑的にならざるを得なかった理由も見えてくる。西欧では、企業は地域社会に仕えているのではなく、神に仕えている。神との間で責任を果たしていれば、地域社会のことは考えなくてもよい。西欧人の思考回路からすれば、それが自然なのである。だから、そこにCSRという概念を持ち込むには相当の理論武装が必要であった。
一方、日本は企業が地域社会に使えるのが当然であるから、CSRという言葉は不要である。戦後、現在の大企業を作った多くの起業家が、創業当初から社会的責任を重視していたのは偶然ではない。また同時に、日本における組織間の明確な主従関係は、家族制度の固持や(最近は左派の攻撃によってかなり弱っているが)、家族を犠牲にして企業のために働く企業戦士を生み出し、さらに国民の政治的・宗教的無関心を生み出している理由もよく解るのである。