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舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』―森元首相は「偉大なる真空」、他
舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』―「政府解釈の変更による集団的自衛権の行使」は2005年に明言されていた、他
内田樹、中田考『一神教と国家』―こんなに違うキリスト教とイスラーム・ユダヤ教

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年04月25日

舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』―森元首相は「偉大なる真空」、他


憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)
舛添要一

講談社 2014-02-20

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 (前回からの続き)

 (4)舛添氏は、「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要がある」と述べた2012年の「第二次草案」に危機感を募らせている。天賦人権説は、人類が長い年月をかけて獲得してきたものであり、国家権力に対して個人の基本的人権を守るのが立憲主義である。舛添氏は、天賦人権説を否定し、立憲主義を知らない政治家が「第二次草案」を書いていることを厳しく批判している。

 だが、ここはもう一つ慎重になる必要があるだろう。絶対王政を倒して天賦人権を勝ち取ったヨーロッパとは違い、日本にはそのような歴史がない。明治時代になって、西欧思想を輸入した植木枝盛や中江兆民らが熱心に天賦人権説を説いたが、一方では国粋主義者の陸羯南が天皇の権威を前面に打ち出した上で国民の精神的統一を説き、天賦人権説を排除した。陸にとって立憲政治とは「君民共治」であり、その限りにおいて国民の自由と権利が認められるとされた。

 西欧では「権力からの自由」が標榜されるが、日本は「権力の中における自由」を志向する社会である。言い換えれば、権力という不自由な枠組みの中で自由を感じるのが日本人だ。この歴史的・文化的背景の違いは無視できないと思う。そもそも、憲法改正はアメリカから押しつけられた自由・権利・民主主義を見直すために始められた。「第二次草案」は天賦人権説を否定しているからダメだと機械的に排除することは、憲法改正の本来の動きと矛盾するように思える。

 (5)民主主義は、国民が立法府に参画することによって、言い換えれば選挙を通じて議員を選ぶという行為によって達成される。そして行政は、立法府が定めた事項を粛々と執行するだけと考えられている。この点に疑問を呈したのが、哲学者・國分功一郎氏だ。国分氏は著書『来るべき民主主義』の中で、地方自治に限定した話ではあるが、政治を実際に動かしているのは立法府ではなく行政だと指摘する。行政の裁量権は広く、民意を大きく無視した政治が可能である。國分氏は、住民投票の仕組みを変えるなど、民主的な行政の実現に向けた提案を行っている。

来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題
國分功一郎

幻冬舎 2013-11-27

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 同じことが国政レベルでも起こっていると考えてよいだろう。国民は国会議員を選び、国会議員の中から内閣総理大臣が選ばれ、内閣総理大臣が国務大臣を選んで、行政の最高責任機関である内閣を形成する。ところが、国務大臣の選任は内閣総理大臣の専任事項であり、かつ「国務大臣の過半数は国会議員でなければならない」(68条1項)という規定に従えば、半数までは民間から自由に登用することができる。この時点で、内閣が民意を正しく反映しない可能性が高まる。さらに、内閣の下にある官僚組織のメンバーは、民主主義的なプロセスによって選出されていない。したがって、ここでも非民主的な度合いがさらに高まる。

 この現状を改善して、国政レベルにおいても行政の民主化を進めるのは容易ではないだろう。しかし、「国会に関する小委員会・内閣に関する小委員会合同会議」における意見の概要を読むと、面白い提案がいくつかされている。そのうちの1つが、「主要な国務大臣の任命については、国会の同意を要することとすべきである」という意見だ。もちろん、これだけで問題が解決するわけではないが、取っかかりとしては高く評価されてもよい提案だと感じる。

 (6)憲法は「国家と個人の関係」を規定し、国家が個人に対して保障する自由・権利と、その見返りに個人が国家に対して果たすべき義務を明記したものである。しかし、国家と個人の間には様々な組織が存在しており、個人は組織を介して国家と関係を持つことが増えている。具体的には、家族があり、企業があり、地方自治体などがあるわけだ。よって、憲法はこれらの組織との関係についても規定する必要があるのではないだろうか?

 現行憲法では、地方自治体との関係について規定があるのみである。ここはもっと踏み込んで、国家と家族の関係や、国家と法人の関係についても規定があってもいいように思える。具体的にどういう規定にするべきかすぐに思い浮かばないのだけれども、例えば個人の生存権を家族にまで拡張して、健康で文化的な最低限度の家族生活を保障するとしたり、国家は法人の自由で経済的・社会的な活動に干渉しない代わりに、納税の義務を課したりすることが考えられる(この辺りは憲法に対する私の無知をさらけ出すようで恥ずかしいが・・・)。

 (7)本書を読んでいて興味深かったのが、森元首相に対する舛添氏の人物評である。森元首相は、えひめ丸事故当時の”ゴルフ問題”や「神の国」発言などで、支持率1桁台という恥ずかしい数字を残したまま辞任したにもかかわらず、その後も約10年にわたり自民党を陰で支えてきた。また、最近では東京五輪組織委員会会長を務めている(早速、失言が問題になったが)。森元首相は、国民からの評判はいまいちなのに、なぜ政治の世界では要職を務められるのだろうか?

 舛添氏は、森元首相のことを尊敬の念を込めて「偉大なる真空」と呼んでいる。舛添氏と森元首相は30年近いつき合いがあるようで、森元首相は大所高所から日本の行く末を案じ、右から左まであらゆる意見を聞き取り、最適な落としどころを考えるのに長けているらしい。これは、自分を無にして「真空」状態にならなければできないことだと舛添氏は高く評価している。また、舛添氏は、森元首相が相手に細かい気を遣いすぎるばかりに、かえって誤解を生み、損な役回りをさせられてしまうというフォローも入れている。

2014年04月24日

舛添要一『憲法改正のオモテとウラ』―「政府解釈の変更による集団的自衛権の行使」は2005年に明言されていた、他


憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)憲法改正のオモテとウラ (講談社現代新書)
舛添要一

講談社 2014-02-20

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 私が在学していた時の京都大学法学部は憲法が必須科目ではなく、法学部なのに憲法を全く勉強せず卒業することも可能であった。既に法律への関心を失ってしまい、ビジネスに傾倒しつつあった私は、憲法の単位を取らずに卒業することも考えた。だが、さすがにそれは法学部生としてまずいと思い直して、憲法を受講することにした。そんな不真面目な学生だったので、憲法に関する私の知識は一般の法学部生以下だ。だから、本書についてのまとまった感想を書くだけの力量がない。よって、本書に関しては雑感をつらつらと並べてみたいと思う。

 (1)本書は、2005年に結党50年を迎えた自民党が、50年前に掲げた結党の目的「憲法の自主的改正」に立ち返って、新しい憲法の草案を取りまとめた際のことを記録したものである。森元首相を委員長とする「新憲法起草委員会」が立ち上がり、天皇、安全保障、基本的人権など憲法の各分野について10の小委員会が設けられて、改正の方向性が検討された。

 本書の帯には「憲法改正とは政治そのものである」と書いてある。10の小委員会にこまめに出席していた舛添氏は、憲法改正が権力抗争の場と化すのを何度も目撃したようだ。一院制の議論が持ち上がれば、参議院自民党から圧力がかかり、地方財源をめぐっては総務省と財務省が対立したという。しかし、本書ではそのような政治的側面は最小限に抑えられている。各小委員会で検討された論点と決議された要綱が整然と並べられていて、最後に舛添氏が自身の主張をつけ加えるというスタイルをとっており、非常に読みやすい。

 率直な感想を言えば、細かい条文をめぐる権力抗争なんてのはみみっちいもので(そんなことを言ったら怒られるか)、2005年の「郵政解散」によって憲法改正の機運そのものが吹っ飛んでしまったことの方が、「憲法改正とは政治そのものである」という言葉にふさわしいのかもしれない。憲法の前文には、日本人の伝統的な精神を反映して「和を尊ぶ」という文言を入れる予定であった。だが、造反組をことごとく敵に回し、総選挙で次々と刺客を送り込むやり方のどこが「和を尊ぶ」なのか?と批判されたという。

 (2)自民党は、新憲法について一括で国民の判断を仰ぐ予定だったようだ。しかし、これにはさすがに無理があると思う。当時の公明党も、一括方式に反対したと書かれてある。新憲法は現在の憲法を踏襲している部分もありながら、大きく変わる部分も結構ある。一括方式にしてしまうと、ある条文の改正案については賛成であるが、別の条文の改正案には反対という場合に、国民投票によって意思を的確に表明することができない。

 ビジネスの世界でもそうだが、大がかりな改革は一発で成功させようと思わない方がよい。まずは小さな改革から始めて、成功体験を積んでから大きな改革に取りかかるのが定石である。憲法改正に関しても、まずはそれほど重要度が高くない分野から着手し(最高法規である憲法の中で、それほど重要でない部分とはどこなのか?という議論がありそうだが)、国民と政治家を憲法改正のプロセスに慣れさせる。その準備段階を踏んだ上で、おそらく憲法改正の本丸であろう9条の見直しへと進んでいくのが筋ではないかと考える。

 (3)今年に入ってから、安倍首相が集団的自衛権の行使について、「政府解釈を変更することで認められる」と発言をして非難を浴びた。ところが実は、2005年の議論で、政府解釈の変更により集団的自衛権の行使を可能にする方向で動いていたことが本書に書かれている。

 舛添氏の解説によると、「安全保障および非常事態に関する小委員会」がまとめた要綱のポイントは、(A)持つべき軍隊の名称を「自衛軍」とすること、(B)国際貢献を明記すること、(C)集団的自衛権の行使については、憲法に明記せず、政府解釈の変更で認めること、の3点であった。2005年の段階では、この点についてそれほど大きな批判はなかったと記憶しているが、今になって安倍首相がやり玉に上がるのはいささかおかしな話だと感じる。

 (続く)

2014年04月22日

内田樹、中田考『一神教と国家』―こんなに違うキリスト教とイスラーム・ユダヤ教


一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (集英社新書)一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (集英社新書)
内田 樹 中田 考

集英社 2014-02-14


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 思想家の内田樹氏とイスラーム(※)法学・神学の第一人者である中田考氏による対談本。中田氏は世界16億人のムスリムの信仰的つながりを取り戻すためには、「カリフ制」の復活が必要であると主張する。カリフとは、7世紀に没した預言者ムハンマドの後継者という意味である。カリフはイスラーム世界を束ねる宗教的・政治的な軸となり、1924年にトルコ建国の父と呼ばれたムスタファ・ケマルが廃止するまで1300年ほど続いた。

 ところが、カリフが廃止されて以降、この16億人のムスリムは、宗教、歴史、言語、文化の面で深い類似性を持ちながら、政治的にバラバラにされ、相互支援、相互扶助のシステムを失ってしまった。イスラーム世界にはOIC(Organization of the Islamic Conference:イスラーム諸国会議機構)が存在するものの、この組織はイスラーム世界の統一を目指すどころか、分裂を固定して再統合を夢のままにとどめておこうとしているらしい。中田氏によれば、この状況を打開するためには、カリフ制の復活しかない、というわけだ。

 本書を読んで、イスラームのことがよく勉強になったが、同じ一神教であるキリスト教、イスラーム、ユダヤ教の中ではむしろキリスト教が異質であり、イスラームとユダヤ教には共通点が多いことに気づかされた。イスラームというと、世界を震撼させる原理主義者の活動のせいか、イスラームだけが特殊であるかのように錯覚していたけれども、どうやらそれは違うようだ。

 (1)イスラーム・ユダヤ教はアニミズム(生物・無機物を問わない全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)に対して寛容である。イスラームでは、アニミズム的なものも事実としてあると認めた上で、創造主は1人という考え方をとる。また、ユダヤ教では、神秘主義やハシディズムに多神教的な要素が含まれる。

 一方、キリスト教は非アニミズム的な一神教である。カトリックは布教の過程でゲルマンの土着信仰と接触して習合的な聖人崇拝を生み出したが、これはアニミズムとまでは言えない。人間だけが理性を持った生き物で、それ以外は全てモノであるという考え方が強い。

 (2)キリスト教は私有の文化、イスラーム・ユダヤ教は共有の文化である。これは、農耕文化・定住文化に基づくキリスト教圏では、「ここからこっちは俺の土地だから入ってくるな」という形で資源を分割し、土地の所有権を認める必要があったのに対し、イスラーム圏・ユダヤ教圏は遊牧文化であり、少ない資源を共同体で分け合いながら生活していたためである。

 イスラーム圏には「施し」の文化が根づいている。食べ物に困っている人がいたら、自分の食べ物を分け与えることが当然とされる。水は回し飲みが基本だ(砂漠では水は貴重である)。また、イスラームの五行の中には「喜捨(ザカート)」というものがあり、収入の一定割合を寄付にあてるべきとされている。逆に、吝嗇は最大の恥と言われる。

 (3)(2)とも関連するが、キリスト教では私有権を保護するための装置として国家が要請される。これに対してイスラーム・ユダヤ教では必ずしも国家を必要としない。冒頭で述べたように、中田氏はイスラーム圏に国家は必要なく、カリフ制を復活させればよいと主張している。事実、内戦が頻発しているシリアでは、政府がある地域よりもない地域の方が治安がよい。このように、イスラーム圏は政府なしでもやっていける、というのが中田氏の見解だ。ユダヤ教に関しては、イスラエルという国家があることが、かえって問題を複雑化させている。

 なお、イスラーム圏に独裁国家が多い理由について、中田氏は次のように分析している。ヨーロッパでは、国王の絶対主義を倒して国家という法人が登場した。国民はその強大な権力を知っていたから、解毒剤として民主主義や人権思想などを用意した。ところが、イスラーム圏では国王がいるところにそのまま国家という装置を導入してしまったため、国王がもともと持っていた拡張主義と結びついて、とんでもないことになってしまったのだという。

 (4)同じく(2)と関連するが、キリスト教圏では個人の自由が優先されるのに対し、イスラーム圏・ユダヤ教圏では、集団の利益が優先される。よって、キリスト教圏における民主主義は個人の自由を確保するための政治原則となるが、イスラーム圏・ユダヤ教圏における民主主義は個人に不自由を課す政治原則となる。

 イスラーム圏やユダヤ教圏における遊牧民は、集団で生きるしかなく、群れから離れる自由がない。離れられないため、反対の人も多数派に従う。いやでも共存を模索しなければならず、その意味で遊牧社会は非常に民主主義的である。自由でないがゆえに民主主義が発生するという具合に、ヨーロッパの民主主義とは異なる帰結となる。

 (5)キリスト教では、神が個人の内心に深く入り込む。神と人間との距離が近く、人間の内面の言葉を聞き取ってもらえると考える。一方、イスラーム・ユダヤ教では、キリスト教ほど神と個人の距離が近くない。キリスト教では、人間の内面に精神というものが確固としてあることが前提とされる。しかし、イスラームでは、人間の内面には最初から悪魔とか悪人とかいろいろなものが入っており、かつ本当の内面は誰にも解らないと考えられている。

 よって、イスラームでは、他人の内面に干渉しない。イスラームは他の土地を征服していく際、自分たちの宗教を強要することは決してなかった。他者に対しては政教分離的であって、宗教としての枠組みと法による共存の枠組みを別物と考えていた。この点ではむしろ欧米の方が混乱しており、政教分離と言いながら宗教的な価値を背負って相手に攻め込んでいるところがある。

 (6)(5)とも関連するが、キリスト教では神と個人をつなぐ場としての教会が非常に重要視される。「聖書のみ」を掲げるプロテスタントですら本質的には同じだ。よって、キリスト教では教会自体が聖化され、さらにカトリックの司祭、プロテスタントの牧師といった聖職者が権威を持つ。

 これに対して、イスラームはキリスト教における教会、仏教における寺院のような組織を持たない。モスクは純粋に礼拝の場であって、所轄の信徒がいるわけではない。キリスト教徒にとっては、どこの教会で祈るかが大きな意味を持つが、イスラム教徒はどのモスクで祈りを捧げてもよい。だから、例えばマレーシアのムスリムがエジプトに旅行して、たまたま道で見かけた現地のモスクに飛び込んで現地の人たちと一緒に礼拝することも可能である。


 (※)「イスラーム」とは、正則アラビア語による「イスラム教」の正式名称であり、本書はイスラームという表記で統一されている。私としては、イスラム教の方が慣れていて使いやすいのだが、経営学においてマネジャーやマネジメントのことをマネージャー、マネージメントと言うと笑いものにされるのと同様、イスラム教、イスラム教と言い続けていると、専門家の失笑を買いそうなので、本記事でもイスラームに統一した。




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