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「平成25年度荒川区製造業実態調査・経営支援事業」サマリ
岡裕人『忘却に抵抗するドイツ』―同じ共産主義が西ドイツでは反省を促し、東ドイツでは忘却をもたらした
日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2014年05月30日

「平成25年度荒川区製造業実態調査・経営支援事業」サマリ


http://www.city.arakawa.tokyo.jp/jigyosha/shien/seizougyouchousa.html 昨年、「荒川区中小企業経営協会」に所属する中小企業診断士が中心となって、荒川区に活動拠点を有する中小製造業を対象に、経営状況や経営環境、区への要望などに関する調査を実施した。私も事務局メンバーとして、調査データのとりまとめや分析に関わらせていただいた。報告書が膨大なので、今日の記事ではポイントを列記してみたいと思う(本当はこういうサマリページを報告書の最初につけるべきなのだが、それができなかったのは反省点である)。

 《報告書全文はこちら》
 平成25年度荒川区製造業実態調査・経営支援事業実施報告書(PDF:3,984KB)
 実施報告書(概要版)(PDF:774KB)

 (1)荒川区が持っているデータベースによると、荒川区には約2,500の中小製造業が存在する。そのうち、今回の調査対象となった企業数は1,898社であり、1,532社から回答を得ることができた(回答率80.7%)。回答率が高いのは、郵送による調査ではなく、中小企業診断士が1社ずつ訪問し、対面で調査を行ったことが大きいと考えられる(お忙しい中調査に協力してくださった経営者の皆様には、本当に感謝の意でいっぱいである)。

 荒川区の中小製造業の特徴としては、ⅰ)資本金で見ると1,000万円以下の企業が約8割、社員数で見ると5人以下の企業が約4分の3、20人以下の企業が約9割と、小規模・零細企業が非常に多い、ⅱ)経営者の高齢化が進んでおり、60歳以上の経営者が約7割を占める、ⅲ)業種別に見ると印刷業、金属製品製造業が多い、という点が挙げられる。

 (2)景況を尋ねたところ、「増収増益」と回答したのはわずか6.3%(97社)にすぎなかった。「横ばい」が17.4%(266社)、「減収減益」が66.9%(1,023社)であった(「増収減益」、「減収増益」などの「その他」は9.4%(144社))。また、「減収減益」企業の約4割(379社)が、事業の廃止・清算を予定していると回答した。60~70代の経営者が多いことを踏まえると、今後10年の間に荒川区の中小製造業が激減する恐れがある。

 (3)現状の経営課題については、「増収増益」企業は「人材不足」、「設備老朽化」といった経営資源面の課題や、「製品技術開発」、「販路開拓」といったマーケティング面の課題を挙げる企業が多かった。これに対して、「横ばい」、「減収減益」企業では、「売上数量減少」、「売上単価低下」、「顧客減少」の割合が高かった。

 これは設問の設計の仕方にも問題があるのだが、「売上数量減少」、「売上単価低下」、「顧客減少」というのは経営悪化という事象を言い換えただけであり、原因を掘り下げたものではない。「横ばい」、「減収減益」企業は、自社の経営課題を正しく認識できていない可能性がある(※)。

 (4)「融資の斡旋」、「セーフティネット保証認定」など、区が実施する24の施策について、認知度と活用度を尋ねたところ、「横ばい」、「減収減益」企業よりも「増収増益」企業の方が、認知度・活用度ともに高い傾向が見られた。逆に、景況感が悪くなるにつれて「いずれの施策も知らない」という回答の割合が高くなった。「増収増益」企業は、区の各種施策についてアンテナを張っており、業績向上のために施策をうまく活用していると思われる。

 (5)「増収増益」企業の方が借入れに積極的であり、借入金額も大きいことが分かった。「増収増益」企業の約8割が借入れを行っている。これに対して、「横ばい」、「減収減益」企業で借入れを行っているのは約5割にとどまる。事業をある程度大きくしようと思ったら、やはり一定のリスクをとって借入れを行い、設備投資などを実施する必要があるのではないだろうか?リスクに及び腰になると、企業の成長可能性を自ら狭めてしまうことになる。

 (6)事業を「後継者に継承」すると回答した企業の割合は、「増収増益」企業が約6割であるのに対し、「横ばい」企業が約3割、「減収減益」企業が3割弱と、だんだん低くなる傾向が見られた。一方、「事業を廃止・清算予定」と回答した企業の割合は、「増収増益」企業が1割弱、「横ばい」企業が約3割、「減収減益」企業が約4割と、だんだん高くなる。ここからは推測の域を出ないが、「減収減益」企業で「事業を廃止・清算予定」と回答した企業の経営者に60~70代が多いことと合わせて考えると、次のようになるのではないか?

 つまり、「減収減益」企業は経営悪化が長く続いていて、経営者が自分で何とかしなければと頑張ってみたものの、結局業績が好転しなかった(むしろ悪化した)。そうこうしているうちに自らも高齢となり、今から後継者を見つけることも難しいため、廃業・清算を決めた、ということである。

 大企業のように、社員が30代の頃から幹部候補生を選抜して中長期的に育成せよとは言わないが、経営者の目が青いうちに事業承継のことも考えておかないと、取り返しがつかなくなってしまう。代替わりの節目というのは、実は大きな変革を行うチャンスでもある。たとえ業績が悪化していたとしても、業績悪化が慢性化して手遅れになる前に事業承継をすれば、業績好転のチャンスが残る。その意味でも、計画的に事業承継を考えることは経営者の責任である。

 (7)「横ばい」、「減収減益」企業に比べて、「増収増益」企業の方が海外と積極的に関わっている。「直接海外と関わりあり」と「間接的に海外と関わりあり」を合わせると、「増収増益」企業では過半数を超える。他方、「横ばい」、「減収減益」企業では、両者の合計は3割弱にとどまる。これについては、海外と関わりがあるから業績がよいというよりも、国内で業績がよいから海外と関わる余力がある、と解釈した方がよいかもしれない。

 ただ気になるのは、海外との関わりに積極的なのは実は少数派であり、海外に「進出したくない」と回答した企業が、「増収増益」企業でさえ約6割、「横ばい」企業では約8割、「減収減益」企業では何と約9割に上る。荒川区の中小製造業は、非常に内向きな性格なのかもしれない。

 (8)販路開拓、新製品・技術開発については、当然の結果であるが「増収増益」企業の方が積極的であるという結果が出た。ちょっと驚いたのは、「横ばい」、「減収減益」企業では、販路開拓に「取り組んでいない」という回答が6割超、新製品・技術を「開発しない」という回答が5割超を占めたことである。新製品・技術を開発せず、販路も開拓しなければ、業績が悪くなるのは必至だろう。「横ばい」、「減収減益」企業は、既存の元請企業から言われた通りの製品を作り続けているだけかもしれない。これでは業績改善・事業拡大は難しい。

 (9)荒川区には「MACCプロジェクト」というものがある(MACC=Monozukuri Arakawa City Cluster)。MACCプロジェクトでは、区内企業を中心とした有機的なネットワークを構築し、技術と知恵を集結して新たな事業を絶え間なく生み出す「荒川区版産業クラスター」の形成を目指している。具体的には、区内に拠点を持つ3つの大学・高専を中心に様々な機関と連携を図るとともに、「MACCコーディネータ」という専属コーディネータを配置し、参加企業・機関同士の調整役としてきめ細かい企業支援を行っている。

 MACCプロジェクトの参加企業を調査企業全体と比較してみると、ⅰ)事業が比較的順調で、売上・利益水準がアップしている企業が多い、ⅱ)顧客企業数が多く、顧客1社あたりへの依存度が低い、ⅲ)制度融資をはじめとする区の各種施策に対する認知度が非常に高く、また施策を利用している割合も高い、ⅳ)新製品・技術開発や販路開拓に対して積極的であり、区に対しても支援を期待している、ⅴ)大学・研究機関との連携に対して高い関心を示している、ⅵ)廃業・清算を検討している企業は1社もない、といった特徴がある。


(※)中小企業経営の研究者である中沢孝夫氏の著書『中小企業の底力―成功する「現場」の秘密』に興味深い記述があったので引用しておく。
 以前、雑誌『プレジデント』(2013年5月13日号)で、中小企業へのアンケートの分析をしたことがある。そのときの項目に「優先的に取り組む経営課題はなんですか」というのがあった。答えを見たら、伸び悩み企業は「売り上げの拡大」「利益を上げること」と答えた会社が多い。業績のよい会社はいうまでもなく、従業員教育を重視していた。
中小企業の底力: 成功する「現場」の秘密 (ちくま新書 1065)中小企業の底力: 成功する「現場」の秘密 (ちくま新書 1065)
中沢 孝夫

筑摩書房 2014-04-07

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2014年05月28日

岡裕人『忘却に抵抗するドイツ』―同じ共産主義が西ドイツでは反省を促し、東ドイツでは忘却をもたらした


忘却に抵抗するドイツ: 歴史教育から「記憶の文化」へ忘却に抵抗するドイツ: 歴史教育から「記憶の文化」へ
岡 裕人

大月書店 2012-06-20

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 以前の記事「熊谷徹『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』―ドイツが反省しているのは戦争ではなく歴史的犯罪」で述べたように、ドイツ国民は、自らの手でナチスを選出し、ナチスの命令に従って600万人以上のユダヤ人を虐殺した過去を、通常の戦争犯罪ではなく、史上稀に見る「歴史的犯罪」として反省している。そのために、「凶悪な犯罪」に関しては時効を停止し、ホロコーストに関与した国民を今でも追訴し続けている。だが、東西ドイツを比較すると、もう少し違った側面が見えてくることが本書を読んで解った。

 西ドイツでは、戦後もナチスの影響が色濃く残っていた。1950年代にはナチスの犯罪を追及した「アウシュビッツ裁判」が行われた一方で、ユダヤ人の墓が破壊される事件などが相次いだ。ホロコーストを反省しようという機運はまだ高くなかった。終戦からそれほど時間が経っておらず、国民が生々しい過去からできるだけ目を背けようとしていたことも大きい。こうした世論が大きく変わるきっかけとなったのが、「68年運動」と呼ばれる学生運動である。
 当時各国でヴェトナム反戦などを訴えて学生運動が高まっていたが、1968年には西ドイツでも多くの学生、市民、労働者をまきこんで、既存の政治体制に対する大規模な抗議運動が起こったのだ。この68年運動をきっかけに、戦後生まれの若い世代が、ナチスの過去を厳しく批判するようになる。(中略)

 1969年、この変革を求める風を受け、かつて反ナチ闘争に参加した社会民主党のヴィリー・ブラントが西ドイツの政権の座に着いた。彼は東欧諸国との関係改善を目指す「新東方政策」を進め、歴代のどの首相よりも真摯な態度でドイツ人の戦争責任を明らかにした。1970年にワルシャワゲットー蜂起記念碑の前にひざまずく彼の姿が全世界に報道され、西ドイツが旧交戦国と和解しようとする姿勢を身をもって示した。
 68年運動によって歴史教育も大きく変化し、過去を直視する方向へと転換する。
 70年~80年代の歴史教育が、国家体制や社会構造を問題にするようになったのは、68年運動がマルクス主義の影響を強く受けた大学教授たちに先導された運動であり、彼らがまず最初に「過去の克服」を訴えたからだ。(中略)68年運動を率いた教授たちは、ナチズムを生み出した土壌は資本主義体制にあるとし、70年~80年にかけて国家体制を批判する勢力となった。この影響のもとに「過去の克服」が進められ、歴史の授業も改革されていったのである。
 以前の歴史授業は人物を中心に扱ったが、それが、国家体制や社会構造を対象にすることが、70年代から80年代の歴史授業の特徴となった。ナチスの戦争犯罪の原因をその国家体制や社会構造に求め、なぜ、どのように戦争犯罪がおこなわれたのか「問い」を発し、批判的に検証する授業が始まったのだ。また、過去の記憶を追体験するため、授業で強制収容所跡記念施設を見学するようになったのも、この頃からである。
 一方、東ドイツでは事情がかなり違ったようだ。
 1949年の建国にあたり、一党独裁体制をとるドイツ社会主義統一党(SED)が、「ソ連による占領統治期間中に、反ファシズムの民主主義変革により東ドイツ地域にあったナチズムを根絶した」と宣言したのだ。もはやナチスの戦争犯罪について議論する余地はなかった。この背景には、「ソ連側に立った反ファシズム主義のドイツ人たちがヒトラーの独裁を打ち倒し、新しいドイツを誕生させた」という建国神話がある。
 東ドイツでは、戦争責任の問題も、共産主義のイデオロギーにしたがって解決してしまったと言う。(中略)東のイデオロギーによると、すべての悪は西側ファシズムからやってきた。共産主義がこのファシズムを根絶してホロコースト犠牲者を救出したのであり、こうして責任をとることで戦争の罪を免れたと解釈した。(中略)

 歴史教育においても、中心となるのは共産主義に基づく階級闘争の歴史だ。東ドイツではホロコーストもこの歴史観の理解に利用された。ホロコーストをファシズムの行き着くところと位置づけ、それを共産主義が解放したという図式で理解した。
 西ドイツが共産主義の台頭によってナチスの過去を厳しく批判するようになったのに対し、東ドイツでは共産主義に基づく建国神話によって簡単にナチズムが清算されてしまい、ホロコーストへの反省が十分に行われなかった。同じ共産主義をきっかけとしていながら、東西で異なる帰結を招いた点は、第三者的な立場に立てば非常に興味深く見える(当事者の立場からすれば、そんな悠長なことを言っていられないゆゆしき問題であるが)。

 旧東ドイツでは現在、深刻な問題が起きている。それは、移民、特にイスラーム圏からの移民に対する排外主義が高まっていることである。移民排斥運動が起こっているのは主として旧東ドイツであり、「移民の増加についてどう思うか?」という世論調査を行うと、旧東ドイツでは否定的な意見の割合が高くなるのだという。

 どうやら、ナチズムに対する反省の機会を満足に得られなかったツケがここに来て回ってきているらしい。こうなると旧東ドイツは左派なのか右派なのかよく解らない。いや、正確に言えば、建国神話を支えていた共産主義が、旧ソ連の崩壊と東西ドイツの統一によって否定されてしまったのだから、もはや彼らは何にすがればよいのか解らなくなっているのだろう。旧東ドイツの人々は、とにかく自分の身を守るために、移民に対して過剰反応を起こしているのかもしれない。

 共産主義というのは不思議なイデオロギーである。資本主義に対抗して共産主義が登場した時には、共産主義の方が圧倒的に優勢だった。資本主義の行く末を憂う世界中の人々が、共産主義に飛びついた。資本主義の最右翼であるアメリカも例外ではない。だが、結局のところ、共産主義が勝利を収めることはなかった。資本主義は共産主義からの批判に基づいて、自らのシステムがもたらす弊害を反省し、その弊害を克服する仕組みを接ぎ木することで生き延びてきた。

 例えば、資本主義が進めば進むほど、労働者の賃金は相対的にも絶対的にも窮乏化するという、マルクスの「絶対的窮乏化説」がある。これは予測としては外れたが、命題としては正しかった。絶対的窮乏化説によって、労働者の団結が高まり、運動が激しくなった。一方、資本家にとっては、労働者が絶対的窮乏状態になれば元も子もなくなり、革命も起こりかねない。そこで、個々の資本家の立場を超えて総資本の立場で社会政策が施行され、労働者の生活がそれなりに改善された。”予想が正しかったからこそ”、予想通りにならなかったのである。社会学者ロバート・マートンは、これを「自滅予言」と呼んでいる。

 共産主義は、外野からの野次としては傾聴に値するが、舞台の主役には不適だ。共産主義は、社会を階級社会としてとらえ、歴史をあくなき階級闘争として描く。仮に共産主義が資本主義に勝利して権力を握ったとしても、共産主義と対決する新たな階級が生まれ、彼らによって打倒されるに違いない。旧ソ連の崩壊とはそういうことだったのだろう。その意味では、共産主義は非常に自滅的なイデオロギーである。だから、社会の中心になってはならず、資本主義の対抗馬にとどまり、弱者の声を代弁して資本主義を修正するよう働きかけるぐらいがちょうどいい。以前、日本共産党が「責任ある野党」を目指すと宣言していたが、その意味がちょっと解った気がする。

2014年05月26日

日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考


 以前の記事「山本七平『日本人と組織』―西欧と日本の比較文化論試論」に続いて、またしても乱暴な(?)日米比較文化論を展開してみたいと思う。抽象的で根拠のない記述と思われるかもしれないが、一つの野心的な試みとしてとらえていただければ幸いである。

 本ブログでは最近、一神教と多神教というキーワードをたびたび用いている。アメリカは言うまでもなくキリスト教の国であり、一神教の国である。実は、世界を見渡してみると、完全な一神教を採用している国の方が稀だ。同じく一神教とされるイスラームやユダヤ教は、アニミズムに対して寛容である。最近でこそ、イスラーム原理主義の排他的な側面ばかりが注目されるものの、歴史的に見ればイスラームは他の民族に自らの宗教を強要することの方が少なかったとされる。

 ヨーロッパはキリスト教圏であるが、キリスト教以前には多神教の文化が根づいていた。そこに一神教のキリスト教が登場したから、最初は暴君ネロやディオクレティアヌスらのローマ皇帝から厳しい迫害を受けた。その後、コンスタンティヌスによってキリスト教が容認され、テオドシウスの時代に国教とされたことで、キリスト教はヨーロッパでの地位を獲得していったわけだが、ヨーロッパの根底には多神教的な要素を受け入れる素地があると言ってよいだろう。

 おそらく先進国の中ではアメリカが唯一、建国当時から一神教であったと思われる。そしてアメリカは、唯一絶対の神に選ばれた国であり、神の意図に従って世界を進歩させる使命を負っているという選民意識が非常に強い。だから、アメリカが正しいと信じることは世界にとっても正しいのであり、アメリカは自国の信念を世界中に浸透させようとしている。具体的には、自由、平等、人権、民主主義、市場主義といった基本的価値観である。

 アメリカ人は、表向きは政教分離のスタンスをとっている。しかし、実際にはこれらの基本的価値観を強く信じているという点では、もはやそれは宗教に近く、キリスト教の代わりに”アメリカ教”とでも呼んだ方がよいだろう。アメリカの政治とは、アメリカ教の布教活動である。そしてこれこそ、アメリカが進めるグローバリゼーションの正体である。

 アメリカは多様性に寛容な国とされるが、アメリカの市場主義は、多様な製品・サービスを共存させる仕組みではない。多様なプレイヤーを激しく競争させて、No.1を決めるのがアメリカの市場主義である。キリスト教では、個人が信仰を通じて神の意思に触れることができるとされる。アメリカ教においてもこの点は同じだ。各プレイヤーは神に祈り、神の意図を予測して、「私は、今の顧客はこういう製品・サービスを求めていると”思い込んでいる”」というものを市場に投入する(もちろん市場調査もするが、アメリカ人はイノベーターの”直観”を称賛する)。プレイヤーの構想はバラバラであるから、市場には多様な製品・サービスが大量にあふれることになる。

 その後、真に神の意図を反映した製品・サービスがどれであるかを決定するデスマッチが始まる。見事、市場シェアNo.1を獲得した製品・サービスこそ、神の意図に沿った”正しい”製品・サービスであり、それ以外は神の意図に反した”誤った”ものだと判定される。神のお墨つきをもらったプレイヤーは、他社の製品・サービスを使っていた残りの顧客に対し、神の力を利用して自社の製品・サービスを”強要”する権利を得られる。こうして、No.1だけが大勝利を収め、他方で大量の敗北者が生み出される。これがアメリカの市場主義である。

 アメリカ国内で神が正しいと認定した製品・サービスは、必然的に世界的にも正しいものだとアメリカ人は考える。アメリカ企業のグローバル化とは、神の認定を受けた自社製品・サービスをそのまま世界中にばらまくことである。国によってニーズが違うことは考慮されない。むしろ、顧客側のニーズを自社の製品・サービスに合わせるよう要求する。2014年3月時点での世界時価総額ランキングを見ると、上位50社の中にアメリカ企業が29社ランクインしているが、そのほとんどは、世界でデファクトスタンダードを確立した製品・サービスを持つ企業である。

 ただ、困ったことに、アメリカ教の神は移り気が激しい。非連続的に進歩を求める神は、「昨日まではこういう世界がいいと思っていたが、やっぱり別のこういう世界の方がよさそうだ」と翻意する。神は1人しかいないので、こうした神の心変わりは多大なる影響を及ぼす。地上にいる企業にとっては、昨日までよかれと思ってやっていたのに、ある日突然はしごを外されるようなものだ。だから、アメリカでは大企業であっても突然潰れる。しかし、それは神の意思によるものだから、アメリカはそういう企業を敢えて救済しない。国民の税金を使って救済しようものなら、国民から厳しい非難を浴びるだろう(GMが政府によって救済されたのは、例外中の例外である)。

 以上が一神教であるアメリカ教の下における市場主義であった。グローバリゼーションというアメリカ教の布教活動に影響されている日本も、市場主義という価値観を一応は共有している。しかし、多神教である日本の市場主義はアメリカのそれとは大きく違う。お客様は神様であり、その神様がたくさんいる。したがって、日本の市場では、多様な顧客が多様なニーズを抱えており、ニーズの数だけ多様な製品・サービスが存在し、バラエティに富んだ製品・サービスを多様なプレイヤーが提供する、という構図になる。つまり、多様なプレイヤーが共存しうる。

 一方、日本では社会制度が硬直的である。企業の新陳代謝が活発なアメリカとは異なり、一度企業ができ上がると、それをできるだけ長く存続させようとする。いわゆる、「ゴーイング・コンサーン」である。興味深いことに、日本では制度は永続性を目指すが、人間的な存在である神様には寿命がある。多神教の日本では、新しい神が生まれては消えていく。よって、企業がその規模を維持するには、常に市場の中に新しい神を探し求め、多様な神々を自社システムの中に取り込み、神々にお伺いを立てて製品・サービスを変え続ける必要がある。

 企業名は同じでも、システムを構成する神々の顔ぶれは時々刻々と変化する。言い換えれば、製品・サービスや事業のポートフォリオが漸進的に変化していく。これが日本企業の特徴である。

 ここで、日本の文化とは馴染みがない企業経営の手法を採用するとどうなるだろうか?具体的に言えば、アメリカ的なグローバル経営を取り入れるとどうなるだろうか?全世界を統治する神の意図を日本人が予測して、「私は、今の顧客はこういう製品・サービスを求めていると”思い込んでいる”」というものを作ったとしよう。

 残念ながら、日本人にはそこまでの構想力はない。日本企業は多様な神々を自社システムの中に囲い込み、神々と意見をすり合わせながら製品・サービスを形にしてきた。そのすり合わせプロセスをすっ飛ばしたら、市場ニーズから遊離した独善的なものしかでき上がらない。しかも、もともと多神教の世界に生きていたせいで、全世界を統治する唯一神も多様なニーズを持っていると勘違いしてしまい、その期待に一気に応えようと、あれもこれもと機能を追加してしまう。

 世界市場から相手にされない製品・サービスを作ってしまった日本企業は、当然のことながら経営不振に陥る。しかし、ゴーイング・コンサーンの考え方があるので、簡単に企業を潰すことができない。そこで、経営不振の部門を切り離し、他の企業に吸収合併させるなどして延命を図る。ところが、吸収合併して規模が大きくなった企業は、企業規模に見合った成果を出さなければならないと焦り、世界に広く通用する製品・サービスを開発しようとする。だが、この試みは先ほどと同じ理由で失敗する。こうして、どうにも打つ手がなくなって最後に白旗を揚げる。エルピーダやルネサス、家電業界がたどった道はこういう道ではなかっただろうか?

 日本企業の強みは、市場に密着し、多様なニーズをくみ取って多様な製品・サービスに反映させると同時に、ニーズの変化に応じて漸次的に自らの組織を変化させる点にあると考える。欧米企業の目には、こうした日本企業のやり方は「戦略がない」、「基軸がない」と映るかもしれない。しかし、これこそが日本的経営なのである。戦略や基軸に縛られないのが日本企業の戦略であり、戦略の曖昧さを利用して漸次的かつ迅速に変身(変心?)することが、日本企業の得意技である。ミンツバーグが「創発的戦略」と呼んだのは、こういうことだったのではないだろうか?


(※)トヨタが年間生産台数1,000万台を突破したことで話題になったが、トヨタもちょっと危ないような気がしている。トヨタの経営はどちらかと言うとアメリカ企業に近く、トヨタ生産方式とトヨタウェイを世界中に輸出して、世界中で均質な自動車を生産する傾向が強い。設計・生産効率を上げるために、部品のモジュール化も進めている。

 今までは、生活スタイルも道路事情も似ている先進国が中心の事業であったから、これでよかったのかもしれない。しかし、最近は経済成長のスピードが全く異なる新興国の国々を相手にする機会が増え、また、先進国の中でも日本のように急速に高齢化が進み交通事情が大きく変わる国が現れている。要するに、市場の多様化が加速している。そのような状況で、従来通りの経営手法で規模の拡大だけを追うと、いつか足元をすくわれるような気がしてならない。

 具体的には、あらゆる国のニーズに対応しようと過剰な機能を盛り込んだ自動車を作ることで、どの国の市場からも見放されてしまう、というシナリオかもしれない。あるいは、多彩な車種と部品の標準化を両立させるために無理なモジュール化を進めた結果、大規模なリコール問題でブランド価値を大きく毀損してしまう、というシナリオかもしれない。いずれにしても、悪夢のシナリオを回避するには、トヨタはもっと多様性を受容し、”現地化”を進めるべきではないかと思う。規模の追求は、それを得意とするアメリカのGMにやらせておけばよい。

《2014年6月4日追記》
 ベイカレント・コンサルティングは著書『日本企業の進化論』の中で、日本企業が生き残るための5つの「進化の方向性」として、(1)海外戦略の進化、(2)ビジネスモデルの進化、(3)生態系(エコシステム)の進化、(4)価値設計の進化、(5)オペレーションの進化を挙げている。

 このうち、(1)と(2)をまとめると、アップルのiPhoneやファイザーのアトルバスタチン(高コレステロール血栓治療薬)のように、海外の複数の国・地域にまたがる大きな市場を想定し、その市場で広く通用する強力な製品・サービスを生み出すべき、ということになる。これは、今回の記事でも示したように、アメリカ企業が得意とするグローバリゼーションそのものである。同書では、日本企業もアメリカにならってグローバリゼーションを進めるべきだとし、日本企業にASEANの6億人市場を攻略することを提言している。

 思うに、世界を単一市場のように見なして、単一の製品を市場に押しつけるのは、一神教文化であるアメリカにしかできない気がする。アメリカ企業以外で、世界に通用する製品・サービスを展開している企業はなかなか思いつかない。一方、「お客様は神様」と考え、かつ多神教文化に根差している日本企業は、もっと泥臭く市場に密着して神々のお顔をうかがい、現地化された多様な製品・サービスで勝負するべきではないだろうか?必然的に、日本企業の経営は規模の経済を追求するのではなく、多様性を尊重したものとなる。

 ASEAN6億人市場をひと括りにするのはあまりに乱暴で、アメリカのグローバリゼーションに毒された考え方である。安易にアメリカにならうと、日本企業は自滅する。国が違えば市場特性も大きく異なる。まして、多様性に満ちたアジア諸国では、その差が決定的となる。同一国の中でさえ、多様性に満ちていることだろう。そのような多様性を無視して「この製品を使いなさい」などと恩着せがましく迫るのは、日本人が得意とすることではないし、日本人の真情にも合わない。


日本企業の進化論日本企業の進化論
ベイカレント・コンサルティング

翔泳社 2014-03-19

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 『週刊ダイヤモンド』2014年5月31日号の中で興味深かった箇所を紹介。馬佳佳は、成人用品のネット通販会社を経営する23歳の女性である。一見単なる色物のようだが、実はマーケティングに関する考え方は顧客志向であり、筋が通っている。中国の不動産デベロッパー大手・万科集団と中欧商学院というビジネススクールで行った講演の資料はネットでも注目されている。
(1)市場の大きさばかりを考え、顧客が誰なのかを考えないと、市場がいくら大きくともうまくいかない。

(2)どんな顧客がほしいかばかり考え、どんな価値を提供するのかを考えなければ、単に黙々と追いかける負け犬にすぎない。

(3)年齢層、収入、都市、性別などの表面的な属性で顧客をポジショニングするものの、相手の心まで読み取ろうとしないため、運がよければ顧客を得られるが、ハートまでは得られず、運が悪ければ顧客もハートも得られない。

(4)多くの資源を持つ相手を競合と見なすが、ひたすら資源を集めても勝てるわけではない。本当の相手は顧客を理解しているブランドであり、大きい会社ではない
 以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」でも述べたが、中国はアメリカと同様に一神教的な文化の国である。よって、アメリカ的なグローバリゼーションに適性があるのは、日本よりもむしろ中国かもしれない。その中国の経営者が「市場の大きさばかりを考えるな」と警告している点は注目に値する。市場の大きさではなく、具体的な顧客のニーズに肉薄する必要がある―本来的に言えば、多神教の文化を有する日本企業こそ、こういう主張をしなければならないはずだ。


週刊 ダイヤモンド 2014年 5/31号 [雑誌]週刊 ダイヤモンド 2014年 5/31号 [雑誌]

ダイヤモンド社 2014-05-26

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