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武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない
富松保文『アウグスティヌス―“私”のはじまり』―「自己理解のためには他者が必要」と言う場合の他者は誰か?
三枝匡『戦略プロフェッショナル―シェア逆転の企業変革ドラマ』―欧米流経営に対する3つのアンチテーゼ

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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2015年07月27日

武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない

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デミングの組織論―「関係知」時代の幕開けデミングの組織論―「関係知」時代の幕開け
武田 修三郎

東洋経済新報社 2002-11

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 20世紀は物質の時代であったのに対し、21世紀は精神の時代になると言われる。本書から2つの時代の違いを表すキーワードを拾い上げてみた(個々のキーワードの説明は割愛させていただく)。なお、21世紀は精神の時代というのは、厳密に言えば20世紀の物質の時代が全否定されるのではなく、物質に精神を統合しなければならないということを意味する。

物質の時代から精神の時代へ

 20世紀までの物質の時代は、西洋を震源とする近代化、自然科学の発展の歴史であった。この時代を特徴づけるのは「分割知」である。すなわち、あらゆる物質をそれ以上分けられないほどに分割すれば、物質の本質を理解できるという考え方である。分割知の発明者はデカルトなのかニュートンなのかという議論があるそうだが、著者はニュートンに軍配を上げている。
 ケンブリッジ大学の著名な歴史学者バターフィールドは、13世紀にさかのぼって近代科学の胎動を探索し、発明者をデカルトやガリレイにすこしおくれて現れたニュートンと特定している。(中略)

 ニュートンにも深い見識をもつ物理学者湯川秀樹も、ニュートンとデカルトの知を比較し、大意「対象をはっきり限定し、現象の範囲も限定した上で考察するだけ、ニュートンの方が近代的」とした。この思考には還元法、原子主義、分析主義、専門主義という呼び方がされている。
 20世紀の分割知、要素還元主義に対して、21世紀で重要になるのは「関係知」である。これは、分割知によってバラバラにした要素を再び統合し、全体として知覚することである。
 関係知とは、20世紀に明らかになった精神世界の性質が、分や孤立ではなく、相互関係(ネット・ワーク、システム、プロセス、コンテクスト)を重視することに起因している。

 わたしは、この知の特徴をもっとも明確に議論した人物はさきの思想家ベイトソンであると思っているが、ここで、ボーアやハイゼンベルグたちが明らかにした精神世界の性質を紹介しておきたい。(以下略)
 分割知においては、観察できるものこそが全てであり、観察できないものは考察の対象からは除外されていた。これに対して、関係知においては、目に見えないものが重要なカギを握る。目に見えないものも含めて、システムの構造を統合的に理解することが求められる。

 著者が本書で品質管理の父エドワーズ・デミングを取り上げているのは、デミングの考え方がいわゆるQC7つ道具のような品質管理の手法にとどまらず、関係知の本質に迫るものであるからだ。デミングは、メンバー間の「協力」によって成果を志向する組織システムを重視した。その意味で、デミングの理論は品質管理論を超えて、組織論であった。
 デミングは、お茶の水コースの2日目、7月11日に、「自分は日本人にシステムと協力を教えた」というメモを書き残している。受講者がどう受けとめたかは別として、デミングは「システムと協力の概念」を説いたと考えていたのである。誤解をおそれずにいうと、かれの品質管理手法や資材調達の技術の話はそのための便法にすぎなかった。
 本書によれば、アメリカには関係知に関する優れた研究を行っている人がたくさんいるらしい。だが、現実のアメリカは21世紀にもう一度苦境に陥るような気がする。アメリカは自由を強く信奉し、ヒト、モノ、カネが自由に行き交うシステムを世界中に張りめぐらせている。この点だけを取り上げれば、アメリカは最も進んだシステム思考の持ち主かもしれない。

 ところが、ヒト、モノ、カネのシステムは、それらの要素を全てデータに還元する情報システムによって支えられている。また、本来のシステム思考は、システム全体の調和を目指すべきであるが、アメリカのシステムはアメリカの国益を最優先する。最近流行りのビッグデータはそのための方便だ。そういう意味で、アメリカの関係知はエセ関係知であり、いつかシステム内で亀裂が生じて、憂き目を見ることになるかもしれない(以前の記事「ドネラ・H・メドウズ『世界はシステムで動く』―アメリカは「つながりすぎたシステム」から一度手を引いてみてはどうか?」を参照)。

 一方の日本も、21世紀中に再び停滞を味わうに違いない。日本の場合は、今頃になって要素還元主義に回帰する傾向が見られる。最近は下火になったかもしれないが、私が就職活動をしていた2000年代前半は、ビジネス界でロジカルシンキングが大流行していた。就活生もビジネスパーソンも、ロジックツリーを一生懸命作っていた記憶がある(企業の利益を増やすためには、売上高を増やすか、コストを減らすかのいずれかである。そして、売上高やコストを構成する要素は・・・といった具合に)。だが、ロジックツリーは、まさしく要素還元主義的な手法である。

 もともと日本人は、現象を分割することが苦手であり、要素がごちゃごちゃに混ざり合った状態のままで認識する傾向がある。西欧人はこの世を二項対立で把握するのに対し、日本人は二項「混合」のままで把握する(以前の記事「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」を参照)。これを著者は「根本知(伝統知)」と呼び、分割知よりも前時代的だとする。
 禅者鈴木(大拙)は著書のなかで東洋と西洋の区別をベースの思考の違いでとらえていた。後者の知は、きちんと「ものをわけて知ろう」とする「分割的知性(分割知)」であり、一方、前者の知は、できごとを明確に知ることに重点がおかれるのではなく、「あいまいなままで理解しよう」とする「根本知」であるとした。
 根本知と関係知は、区別が非常に難しい。いずれも、物事を全体としてとらえる点では共通している。しかし、根本知は事象の分割を最初から諦めているのに対し、関係知は事象をいったん分割した上で、それらを再統合する。両者が決定的に異なるのはこの1点である。現在の日本は、実は未だに根本知の社会であって、今さらながら分割知を経ることで、関係知に至る準備をしているのかもしれない。だとすると、分割知の期間は日本が苦しむことになるだろう。

 話がかなり脱線するが、今年のプロ野球はセ・リーグとパ・リーグの実力差が如実に表れた。交流戦ではセ・リーグがパ・リーグに大きく負け越した。パ・リーグでは西武・秋山やソフトバンク・柳田など、強打者が次々と台頭しているのに、セ・リーグの各チームは貧打にあえいでいる。セ・リーグはパ・リーグの2軍とまで言われている。セ・リーグがここまで弱体化したのは、実は何でもかんでもデータに還元する分析主義のせいではないかと思っている。

 データ偏重になると、練習量が減る。データ野球というと野村克也氏が思い浮かぶが、野村氏が楽天の監督だった頃、楽天のキャンプを見た落合博満元中日監督は、楽天の練習時間が短いことに驚いた。かたや中日の練習時間は、12球団一長かった。落合氏は、選手の身体を極限まで動かすことで、自分の身体がどういう状況の時にどんな反応をするのか、選手に文字通り身体で覚えさせようとした。このように、野球には、データにはならないが大事なことがたくさんある(私は野球未経験者なので、それが具体的に何かを表現できないのが残念だが)。

 本当のことを言うと、データ主義で先行したのはパ・リーグである。日本ハムには、選手のパフォーマンスを定量的に評価するシステムがある。年俸の割にパフォーマンスが高い若手選手を発掘し、逆に年俸が高止まりしているベテランをFAやトレードで放出して、チームの新陳代謝を図っている。また、ソフトバンクの選手は全員がiPadを持ち、対戦相手のデータを常にチェックしている。だが、パ・リーグの強さの秘密は、データ主義ではないと思う。そこに何かプラスアルファの要因を統合しているから強いのである(またしてもその「何か」を上手く説明できないのだが)。

2015年07月24日

富松保文『アウグスティヌス―“私”のはじまり』―「自己理解のためには他者が必要」と言う場合の他者は誰か?

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アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)
富松 保文

日本放送出版協会 2003-11

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 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 アウグスティヌスの『コリントの使徒への手紙』にあるこの文章を考察した1冊である。「鏡におぼろに映ったもの」とは、何のおぼろな像なのか?また、私は一体誰と「顔と顔を合わせて見ることになる」のか?私は何の「一部しか知ら」ず、誰によって「はっきり知られて」おり、何を、あるいは誰を「はっきり知ることになる」のだろうか?

 結論から言えば、自己認識を成り立たせるのは他者への認識である。
 鏡に映ったその顔が、私自身の顔であると同時に神の顔でもあるということ、そのおぼろげな二重写しを通じて自分自身を知るという謎が問われるということ、それはまた、私の問いが否も応もなく他者への問いを巻き込まざるをえないということであり、私は他者との関わりのなかで問うということ、私と他者との関係そのものとして問うということ、そして最後に、そうした問いのなかでこそ、「個としての個」、「自我」としての私がはじめて成り立っているということではないだろうか。
 自己知覚はたしかに他者知覚の裏側として、同時にすでに存在している。しかしその他者が内在化されないかぎりは、いまだ「自我」はない。独自の内面世界をもつと同時に、それをまさに独自のものとして意識している私はいない。逆説的に聞こえるかもしれないが、独自の内面世界を独自なものとして意識させるのは、まさに他者なのだ。
 ここで著者は、「鏡像認識」に関する研究を取り上げる。人(小さい子ども)は、鏡に映っている自分の顔をどのようにして自分の顔だと認識するようになるのか?という研究である。研究によれば、幼児の鏡映像への反応は、「他者への反応」、「鏡映像の探索」、「自己認識」という大きく3つの時期に分けられるという。

 ■第1期=「他者への反応」期・・・鏡像を注視し始める4~5か月頃に始まり、鏡像に笑いかけたり触れたりする6~8か月で頂点に達し、その後こうした反応は1歳半までに急速に消失する。
 ■第2期=「鏡映像の探索」期・・・12~14か月を頂点とする時期で、鏡に近づいて後ろをのぞいてみたり、鏡像の動きを積極的に観察する行動がみられる。また、9か月頃からは、尻込みしたり、鏡を避けたりする行動が見られ、これは18~20か月で頂点に達する。
 ■第3期=「自己認識」期・・・1歳半で始まり、この頃になると探索や回避行動が減少する代わりに、照れたりおどけたり見とれたりといった自己耽美的な行動が見られるようになる。

 私は鏡像認識の研究に関して全くの無知なのだが、どうやら生まれたばかりの赤ん坊は、まずは目に見えるもの全てを自分とは異なる存在=他者と認識するように埋め込まれているようだ。第1期の幼児が認識している他者には、まだ自分自身が含まれたままである。鏡の前でお母さんが手を振り、「ほら、鏡の中のお母さんも手を振っているよ」と繰り返すうちに、幼児は手を振っている人と鏡の中の人が同一人物であることを理解する。そして、鏡の中の人は、幼児の意思とは無関係に手を振っているから、間違いなく他者であるという認識が確定する。

 幼児にいろんな人や物を教えたい大人、あるいは幼児の反応を楽しみたい大人は、幼児の目の前にある鏡に、次々と新しい人や物を映し出す。大人はそのたびに、「今映っているのは○○という人だよ」、「○○というおもちゃだよ」と幼児に説明する。そのいずれも、幼児の意思とは無関係に鏡に映り込んでは動き回る。幼児はそれを見て、今鏡に映っているのは他者だと確信する。

 こうした認識を積み重ねるうちに、どの他者とも異なり、自分の自由意思に基づく動作と同じ動きをする存在が鏡の中に残っていることに気づく。ここに至ってようやく、幼児は他者とは違う自己を認識できるようになる(もちろん、親からの「鏡に○○ちゃんが映っているよ」という言葉も、幼児の自己認識を支援している)。つまり、まずは鏡に映る全てを他者ととらえ、本当に他者であるものをそこから取り除いていき、最後に残ったものが自己であると認識するわけである。よって、自己認識には他者が絶対に必要であり、しかも、消去法的に自己が認識される。

 だが、本書を読み進めていくと、いざ「鏡におぼろに映ったもの」を知覚しようとする段階で、他者の存在が消え去ってしまっているような印象を受けた。アウグスティヌスは、私を知るために、私がそこから生まれてきた「始まり」に思いをはせる。しかし、私は生まれた瞬間を知ることができない。生まれた瞬間を知るためには、生まれる直前を知る必要がある。ところが、生まれていない存在が生まれる前のことを知ることは不可能である。同じことは私の「終わり」=死についても言える。私は自分が死ぬ瞬間を知ることができない。

 アウグスティヌスは、自己と他者を区別する境界にも目を向け、内なる私を探索しようとする。しかし、内が私の魂、私の精神、私の心、私の意識であるならば、時間そのものの始まりを「いつ」と問うことができなかったのと同様に、内もまた「どこ」という問いによってとらえられるものではない。したがって、私を成り立たせる時間や内は、逆説的だが私を超越している。
 「あなたは、私のもっとも内なるところよりもっと内にましまし、私のもっとも高きところよりもっと高きにいられました。」(『告白』3、6、11)私という内を超えたところに、「私をこえて、あなたにおいて」、アウグスティヌスは神を、はじまりそのものを見いだす。
 アウグスティヌスにとって、「鏡におぼろに映ったもの」とは神のことである。キリスト教においては、神は自分に似せて人間を創造したとされる。しかし、人間は神の姿を完全に知覚することができない。よって、鏡に映っている神は、どこまで行っても私にとって「おぼろに映ったもの」でしかないのである。自己認識には他者が必要だとしながら、結局のところ神との直接対話で自己認識をしようとする点が、私にはどうしても腑に落ちない。
 鏡を通して、謎において見られるもの、それは同類でありさえすれば誰でもいいような誰かとしての他者の顔ではなく、唯一の、他の何ものとも置き換えのきかない神の顔であった。
 キリスト教圏の人々は、世俗の世界に生きる他者との相互作用について、一体どのようにとらえているのだろうか?この点が今後の探求課題である。

 《参考記事》
 安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?
 岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする

2015年07月22日

三枝匡『戦略プロフェッショナル―シェア逆転の企業変革ドラマ』―欧米流経営に対する3つのアンチテーゼ

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戦略プロフェッショナル―シェア逆転の企業変革ドラマ (日経ビジネス人文庫)戦略プロフェッショナル―シェア逆転の企業変革ドラマ (日経ビジネス人文庫)
三枝 匡

日本経済新聞社 2002-09

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 日本で有数の鉄鋼メーカー・第一製鉄に勤める広川洋一(36歳)が、新日本メディカルという医療系の中小企業に出向して、同社を再生するという物語である。フィクションではあるが、実際の話を基に構成されているそうだ。確かに、MBAで使うケーススタディとは違う面白さがある。だが、同社を取り巻く条件がちょっと有利すぎるような気がした。

 新日本メディカルは医療機器の商社である。広川が再生の柱として位置づけた製品分野は、売上高全体に占める割合こそ低いものの、粗利率が高く、市場も成長期にあった。しかも、代理店元の米国医療機器メーカーが、非常に競争力の高い新製品を投入したところである。競合他社はまだ追随しておらず、新製品投入までに1年ほどかかると予想される。そこで、1年間医療機関へ集中的に営業をすれば、シェアを逆転できるかもしれない。社内の空気は沈滞していたが、元来は真面目な社員が多いこともあり、広川の号令で次第に数字を上げるようになった。

 しかし、本当に再生が必要な企業では、全ての製品・サービスが成熟期または衰退期に突入してしまっている。新たな成長の軸となる新製品・サービスを自社開発する必要があるのに、長らくヒットに恵まれていないため、開発部隊が機能しない。また、ここまで悪化した企業はたいてい、リストラを繰り返し、優秀な社員が大量に離職している。やることなすこと全てが裏目に出てしまう状況で、社内は強い不信感で包まれる。こういう企業の内部状態は筆舌に尽くしがたい(以前、「【ベンチャー失敗の教訓(全50回)】記事一覧」で描写を試みたが、やはり書き切れない)。

 とはいえ、有利な条件があったとしても成果を出している人の方が偉いのであって、私のように自社を再生することができなかった人間が何を言ったところで負け犬の遠吠えにしかならないだろう。それを承知の上で、もうちょっと負け犬の遠吠えを続けることをご容赦いただきたい。本書の著者はボストン・コンサルティング・グループの出身で、欧米流の経営手法がみっちり染みついている。広川の再生ストーリーにも随所でその影響が見られる。ただ、個人的にはその欧米的手法に対して3つのアンチテーゼを提示してみたいと思う。

(1)目標は高く設定しなければならないか?
 広川にとっては、社内に向かって、まず戦略の目標を提示するのが先であった。そして戦略を組み立てるプロセスを利用しながら、同時並行的に組織をいじくっていく、それが彼のアプローチであった。(中略)打ち出された目標と組織の力量にはギャップがある。そういう目標の出し方をしたのだから当たり前だ。そのギャップを埋めるための新しい戦略を開発することが「目標先行のプランニング」のいちばん大切なところだ。目標の数字を出すことよりも、その方がそもそもの目的だったのだとさえ断言できる。
 アメリカの変革リーダーに関する研究には、「高い目標を設定して社員を刺激せよ」と書いてあることが多い。ジョン・コッターの「変革の8つのプロセス」には「大胆なビジョンを実現するために、大胆な戦略を立てる」というものがあるし、ジェームズ・コリンズはビジョナリー・カンパニーの条件として「BHAG(Big Hairy Audacious Goals:社運を賭けた大胆な目標)」を挙げている。

 しかし、高い目標は諸刃の剣だと思う。ホームランをほとんど打ったことがない非力なバッターに、いきなり「今シーズンはHRを30本打て」と言うようなものである。もちろん、その言葉で奮起してトレーニングに励み、猛練習を積んで、本当にHRを30本打つ選手もいるかもしれない。だが、大半の選手には無理な話である。高い目標を掲げて成功したという美談の裏には、その倍以上の失敗談が潜んでいると思われる。そして、さらに悪いことに、目標の未達が繰り返されると、次に目標を設定しても、「どうせまたできやしない」と最初から諦めてしまう。

 ケリー・マクゴニガルの『スタンフォードの自分を変える教室』(大和書房、2012年)では、高すぎる目標を設定することに警告が発せられている。人間は将来の意志力を過大評価する傾向があり、放っておくとどんどん高い目標を設定してしまうらしい。そうではなく、現在の自分と将来の自分とをできるだけ近づけることが推奨される。言い換えれば、高すぎる目標ではなく、現実的だがちょっとストレッチした目標の方が望ましい。現在を1とすれば、いきなり3とか5を目指すのではなく、まずは1.2や1.3を目指すべきである。

スタンフォードの自分を変える教室スタンフォードの自分を変える教室
ケリー・マクゴニガル 神崎 朗子

大和書房 2012-10-20

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 再生が必要なほど苦境に陥っている企業は、低い目標ですら達成できないから業績不振に陥っている。そこに、高い目標という劇薬を持ち込むのは非常にリスクが高い(そういう手法を取る人を私は完全否定はしないが)。それよりも、1を1.1にするような、身の丈に合った目標を5~10個ほど設定する。目標は低いけれども、その代わり目標の数を増やす。そうすれば、さすがにどれか1つは達成できる可能性がある。1つでも達成できたら、大いにそれを褒め称える。すると、社員には「ひょっとしたら自分にもできるかもしれない」という自己効力感が出てくる。

 社員が少し自信を持ったら、次は別の(未達のままの)目標の達成を促す。または、達成できた目標を1.1から1.2へとストレッチする。こうして、社員ができることを徐々に広げていく。企業再生は骨折のリハビリと同じである。足を骨折した人に、いきなり「明日から10㎞走ろう」などと言う医師はいない。まずはベッドの上で足を曲げるところからスタートする。足が曲げられるようになったら、ベッドから起き上がってみる。その次は、松葉づえでトイレまで行ってみる。その次は、廊下を数メートル歩いてみる。リハビリは、細かい目標を1つずつクリアすることの繰り返しである。

(2)ターゲットは狭く絞らなければならないか?
 セグメンテーションは日本語で市場の「細分化」と訳されることが多いが、企業戦略論のなかで「絞り」「捨てる」ための道具としてこれほど有効なものはない。(中略)事業戦略にかかわるプランニング作業のなかで、セグメンテーションは最も「芸術的センス」「創造性」を問われる。多くの場合、セグメンテーションがうまくできれば、戦略の核になる部分はできたも同然である。
 「戦略とは『何をなすべきではないか』を決めることである」と語ったのは、競争戦略論の父マイケル・ポーターである。欧米の戦略論は、ターゲット市場を取捨選択する、自社の事業・製品を取捨選択するといった具合に、とにかく「絞る」、「捨てる」ということにうるさい。

 もう10年近くも前の話だが、あるコンサルタントからマーケティングの研修を受けた時に、シティバンクのセグメンテーションについて教えてもらったことがある。当時のシティバンクは、預金残高によって顧客を3つのセグメントに分けて管理していた。預金残高が非常に多い層は、金の卵であるから様々なサービスで優遇する。一方、預金残高が非常に少ない層は、管理コストばかりがかかる問題児なので、口座維持費を毎月徴収する。表向きは顧客として付き合うものの、「預金残高が少ない貧乏人は我が社に来るな」というメッセージを暗に発しているというわけだ。

 こういうアメリカ企業の発想に、私は少なからぬ違和感を覚えた記憶がある。そして、今でもやはり、顧客を大胆に捨ててターゲットを絞り込むという考え方には、どうも賛成しかねる。もちろん、日本企業とて全ての顧客を相手にすることは難しい。しかし、日本企業はアメリカ企業よりも幅広い顧客層と付き合うべきだと思う。この辺りのことは、以前の記事「上原春男『成長するものだけが生き残る』―日本企業は適度に多角化した方がよい」などで書いた。

(3)戦略はシンプルにしなければならないか?
 私の経験では、良い戦略は極めて単純明快である。逆に、時間をかけ複雑な説明をしないと理解してもらえない戦略は、だいたい悪い戦略である。悪いという意味は、やっても効果が出ないという意味である。(中略)製品の説明がシンプルですむなら、その製品は市場を席巻できる可能性が大きい。同じように、戦略がシンプルであるうちは、その市場を大きく押さえられる可能性がある。
 「戦略をシンプルにせよ」という主張には、半分賛成、半分反対である。戦略とは、一言で言えば、「誰(Who)に、何(What)を、どのように(How)提供するか?」という構想である。誰(Who)と何(What)はシンプルな方がよい。しかし、どのように(How)がシンプルだと、競合他社に簡単に真似される。よって、どのように(How)だけは、できるだけ複雑にするべきである。有名な氷山モデルを使えば、誰(Who)と何(What)は水面より上に出ていてもよいが、どのように(How)は水面下に隠しておかなければならない。そして、水面下の氷は大きければ大きいほどよい。

 トヨタの戦略を考えてみると、誰(Who)と何(What)は極めてシンプルである。レクサスのことをひとまず脇に置けば、トヨタは「大衆」に「安くて高品質な大衆車」を提供しているにすぎない。だが、どのように(How)が非常に複雑であるから、競合他社はその牙城を崩せない。

 どのように(How)の中核をなすのは、いわゆる「トヨタ生産方式」である。トヨタは自社のナレッジの公開に寛容で、数多くの研究者・コンサルタントがトヨタに入り込み、トヨタ生産方式の研究結果をまとめている。にもかかわらず、トヨタ生産方式の全容が明らかになったとは言いがたい。そもそも、当のトヨタ社員でさえ、トヨタ生産方式を十分に理解しているわけではないとされる。そのぐらい、トヨタのどのように(How)は深い(さらに、トヨタには「トヨタ販売方式」というもう1つの車輪があることを考えると、トヨタのどのように(How)はどこまでも深遠である)。

 「戦略をシンプルにせよ」ということがアメリカでなぜこれほどまでに執拗に主張されるのかというと、私はM&Aを積極的に仕掛けたい金融機関の人たちの意向が働いているためではないか?と考えている。彼らは、借入金の割合が少なく、財務状況が良好だが、成長の曲がり角を迎えている企業に狙いを定める。そして、「次の成長ステージに移るためにM&Aをしましょう」と言葉巧みに持ちかけ、M&Aの資金を供給する。

 その言葉を信じてM&Aを行った企業は、最初は順調に拡大路線を走るものの、やがては買収した事業の成長も止まり、借入金の返済負担が重くのしかかる。そうすると、金融機関はもう一度その企業に接近してくる。今度は、「経営が行き詰っているので、この事業とこの事業は売却しましょう」というわけだ。金融機関は2度おいしい思いをすることができる。しかし、企業側は事業を好き勝手に切り刻まれて、元の体を失ってしまう。アメリカではこういうことがよく起きる。

 金融機関側からすれば、M&Aの標的となる企業や、その後売却対象となる事業の戦略がシンプルな方がよい。企業価値評価がしやすくなるためだ。だが、そこには顧客視点が感じられない。だから、「戦略をシンプルにせよ」というアメリカの主張には、諸手を挙げて賛同できない。


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