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大島正二『漢字伝来』―古代の日本―中国・朝鮮間の文化交流の謎
義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴
斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年08月28日

大島正二『漢字伝来』―古代の日本―中国・朝鮮間の文化交流の謎


漢字伝来 (岩波新書)漢字伝来 (岩波新書)
大島 正二

岩波書店 2006-08-18

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 本書は、漢字がたどった”日本語化”の道筋を追跡した1冊である。4世紀末~5世紀の初め頃には、阿直岐(あちき)や王仁(わに)のような百済からの学者によって、既に朝鮮半島に伝わっていた漢籍が日本にもたらされ、一部の上層階級の人によって、本格的な漢字・漢文の学習が行われ始めたと推測される。5~6世紀にかけては、漢字の使用はまだ渡来人の手に委ねられていた。しかし、7~8世紀に入ると、漢字は庶民にも浸透していたと考えられる。例えば、法隆寺五重塔の初層天井の組木からは、<万葉仮名>による落書きが発見されている。

 漢字の<音>を用いて、日本語の固有名詞を漢字で表記した例は、5世紀半ば頃から現れた。稲荷山古墳(埼玉県)、江田船山古墳(熊本県)、隅田八幡宮(和歌山県)から出土した金石文などがその例である。稲荷山古墳出土の金石文には、「獲加多支鹵(ワカタケル、雄略天皇のことか?)」の文字が見られる。その使用方法が洗練されたものが<万葉仮名>である。<万葉仮名>は、『万葉集』(7世紀後半~8世紀前半)によく使用されたことからその名前がついた。例えば、日本語の「あ」を表す漢字としては、阿、安など様々な候補がありうるわけだが、『万葉集』では文脈に応じて興味深い漢字の使い分けがされているという。

 漢字の表<音>的な用法と並行して、漢字を借りた日本語表記方法は新しい展開を見せるようになった。それは、<訓>の成立である。例えば、「池」という漢字に対して日本語の「カワ」、「ウミ」、「ヌマ」、「イケ」などのどれもが結びつく可能性がある中で、「イケ」が固定してくる。これが<訓>の成立である。<訓>の成立時期を特定するのは非常に難しいが、6世紀初頭より前には成立していたと考えられている。

 <万葉仮名>には、<音仮名>と<訓仮名>の2種類がある。<音仮名>とは、「春」を”波流”、「秋」を”阿伎”などのように、漢字の<音>を借りて表現する仮名である。これに対して<訓仮名>とは、「懐(なつかし)」を”名津蚊為”のように、漢字の<訓>を用いて表現する仮名である。『万葉集』には<音仮名>と<訓仮名>の両方が見られるため(ただし、大部分は<音仮名>であった)、漢字の<訓>の成立は『万葉集』よりも前であると言える。

 <訓>が浸透すると、日本人は漢文の<訓読>という画期的な読み方を生み出した。通常の翻訳のように原文から離れた訳文を作るのではなく、原文の漢字を1つ1つ追いながら、片端から日本語に置き換える方法である。漢文<訓読>は、7世紀末頃に始まったとされる。その後、漢文を読みやすくするための補助的な記号である<訓点>(返り点、送り仮名、ヲコト点など)が生み出された。最古の<訓点>は、奈良時代末の『華厳刊定記』(783年)に見られる。9世紀に入ると、万葉仮名で助詞・助動詞(てにをはなど)を漢字の傍らに記入するようになった。

 個人的には、この<訓読>、<訓点>の発明は、日本史上の発明の中で上位にランクインするものだと思っている。<訓読>、<訓点>のおかげで、多くの日本人が漢文を読めるようになった。しかも、原文から離れた訳文を作るわけではないため、意訳が生じる余地が少なく、原義をかなり高い精度で把握することが可能となった。<訓読>、<訓点>によって、中国文化の咀嚼スピードが格段に上がったはずである。

 漢文を読む方法と合わせて、日本語を漢字を用いて書く方法も確立されていった。まず、漢文<訓読>を前提とした<漢字文>が7世紀後半に成立した。<漢字文>とは、例えば「薬師像を作る」を、「作薬師像」(動詞+目的語)と書くのではなく、日本語の文法にのっとって、「薬師像作」(目的語+動詞)と表現する方法である。これは決して、漢文をつづる能力が未熟だったのではない。むしろ、規則正しい漢文から脱して日本語を写そうとする意図の反映である。

 <漢字文>に活用語尾や助詞・助動詞などを<万葉仮名>で補ったものが<宣命書き(宣命体)>である。宣命とは、「宣読(読み上げる)勅命(天皇の命令)」を意味する。<宣命書き>は、名詞・動詞・形容詞などの実質的な要素を主として<訓>によって大字で書き、助詞・助動詞など付属的な要素は<万葉仮名>によって小字で書き添えるという「漢字・万葉仮名まじり文」である。その<万葉仮名>を平仮名に変えると、後代の「漢字・仮名まじり文」とほぼ同じになる。日本語表記の展開史の上で注目すべき出来事であった。

 ところで、大陸の人々はなぜ日本に漢字を伝えたのだろうか?文字は民族を支配する手段である。支配者は、人々から既存の文字を奪い去り、新たな文字を強要することで、人々を政治に束縛する。漢族の王朝・南宋を滅ぼし、大帝国を築いたモンゴル族の元は、漢族の文字である漢字を捨てて、新しい国字<パスパ文字>を生み出した。日韓併合後の朝鮮半島では、ハングルが禁じられ、日本語教育が実施された。現代では、アメリカがTPP交渉の場において、日本語が日本市場への参入障壁になっているとして、英語を強制しようとしている。

 逆に、文字を奪われた民族は非常に非力であることも、歴史が証明するところである。マヤ文明を築いたマヤ族は、スペイン人の制服によってスペイン語を強要され、マヤ語を失った。そのため、現在ではマヤ語の読み書きができる現地人はほとんどいない。マヤ族が蓄積した高度な文明の遺産は、大半が未解明のままとなっている。

 そう考えると、朝鮮半島からの渡来人が日本に漢字をもたらしたのは、単なる文化交流のためではないように思える。百済からは仏教という宗教がセットで伝わっていることもポイントである。宗教を外国に広める場合には、何らかの政治的意図があるのが普通である。イエズス会が日本でキリスト教を熱心に布教したのは、日本を植民地化するためであったことはよく知られた話だ。当時の朝鮮半島の国々は、どのような政治方針で日本と接していたのだろうか?

 ここでもう1つの疑問が生じる。それは、漢字や仏教の伝来の始まりが、なぜ中国ではなく朝鮮半島の国々(具体的には百済)だったのか?ということである。古代の中国は中華思想(中国こそが世界の中心であるとする考え方)に基づく冊封体制を敷いており、周辺国を次々と属国に組み入れていた。朝鮮半島も属国の一部であり、日本も当然のことながらターゲットとなっていた。中国が日本を狙う際、中国が直接日本に赴くのではなく、地理的に最も近いという理由で、朝鮮半島の国々を手下のように使って日本に接近させたのだろうか?

 一方の日本も、中国・朝鮮半島に対して受け身ばかりではなかったようだ。室谷克実氏は『呆韓論』(産経セレクト、2013年)の中で、新羅には相当数の倭人が住んでいたと述べている。朝鮮半島の最古の正史『三国史記』には、新羅の4代目の王・脱解(たれ)の出身が日本であると書かれている。脱解は王になると、倭人を大輔(大臣)に起用した。国王とナンバー2だけが外国人という国はありえないので、一定の倭人が住んでいたと考えるのが自然であるという。

呆韓論 (産経セレクト)呆韓論 (産経セレクト)
室谷克実

産経新聞出版 2013-12-05

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 朝鮮半島の国と言うと、高句麗・新羅・百済の名前は挙がっても、任那は政治的な理由から避けられることが多い。任那には任那日本府という倭国の出先機関があり、朝鮮半島に政治的・軍事的影響力を及ぼしていたらしいということが、朝鮮半島の人々の自尊心を傷つけるためだ。

 しかし、任那に限らず、朝鮮半島南部では日本固有の前方後円墳がいくつも発見されていること、倭が新羅や百済を臣民としたと書かれている広開土王碑の信憑性が高まったことから、日本が何らかの形で朝鮮半島に関与していたことは確実とされている。以上のことを踏まえると、日本・中国・朝鮮半島の3者間の関係は、文化交流という耳触りのよい言葉だけでは語り尽くせない何かがありそうである。この辺りをもっと掘り下げることが今後の課題である。

2015年08月26日

義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴


神仏習合 (岩波新書)神仏習合 (岩波新書)
義江 彰夫

岩波書店 1996-07-22

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 以前の記事「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」で、欧米(特にアメリカ)は物事の本質を二項対立で認識するのに対し、日本は二項を混合したままで把握すると書いた。欧米では、Aという事象が正統性を獲得しても、やがてAに対抗するBという事象が現れ、Aとの間に緊張関係を生じる。AとBとの争いは、必ずどちらか一方の勝利に終わり、敗れた方は跡形もなく駆逐される。仮にBが勝利したとしよう。しかし、Bの勝利も永遠ではない。今度はBの対抗馬としてCという事象が現れる。欧米的な二項対立はこの繰り返しである。アメリカが米ソ冷戦に勝利したのち、新たにテロとの戦いに突入しているのは、1つの象徴かもしれない。

 《2016年10月13日追記》
 佐藤優『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)より引用。上記で述べたことと合致していると思う。
 『精神現象学』の中で展開されているヘーゲルの弁証法は、矛盾が綜合された瞬間に、新たな矛盾がでてきて、安定した綜合はいつになっても達成されないのである。むしろ矛盾が解消しないという構えのカントのアンチノミー(二律背反)に近いような構成になっている。
 右派であれ、左派であれ、既存の体制の破壊を指向する政治勢力がないと実は国家はまわらないんですよね。だから非和解的に除去するときれいな社会を作ったつもりでも、必ず前と同じぐらいの反対体制が出てくるんです。それはソ連も、チェコも、イギリスも、イスラエルも一緒ですよ。
国家と神とマルクス  「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)
佐藤 優

角川グループパブリッシング 2008-11-22

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 一方の日本は、対立項が生じても全体を混合した状態でとらえようとする。Aに対してBが生じると、AがBの要素を取り込んでA’に変質する。同時に、Bも完全には駆逐されず、Bとして形を残す。A’への変質後、新たにCが生じれば、A’は再び変質してA’’となる。そして、Cもまた、形をとどめる。日本の場合は、主流となる巨大なA’・・・’と、それらに対抗する少数のB、C、D・・・が併存する。かつての自民党の派閥政治は、多様な利害対立を調整した結果として生じたA’・・・’であり、社会党、共産党などはB、C、D・・・であった。

 《2017年4月12日追記》
 出光佐三『人間尊重七十年』(春秋社、2016年)より引用。
 いかなる主義も必ず、ある部分真理を有し美点をもっている。これらは日本の偉大なる国体に咀嚼され日本国の栄養となり、日本の国体に包容せられて真の発達を為す、仏教しかり、儒教しかり、芸術文化しかりである、われわれは国民の一員として、外来の何ものを咀嚼、摂取して国家の発達、国威伸張の資料とするだけの準備をしておけばよい。それには個人として切磋琢磨、国民として修養しておけばよいので、実力ある国民の要らないはずはない。自己を信じて迷うべからず。
人間尊重七十年人間尊重七十年
出光 佐三

春秋社 2016-03-08

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 以前の記事「安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵」で、日本は二項対立の緊張状態が続くと社会分裂の危機に陥るから、それを上手く回避する方策を歴史の中で身につけてきたと書いた。そして、その代表例として、神仏習合を挙げた。神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し、1つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象のことである。前置きが長くなったが、本書は神仏習合を4段階に分けて解説した1冊である。今回の記事では、その1段階目だけをまとめておきたいと思う。

 もともと日本では、農作のための土地は、各地の神から与えられた共有財産であると考えられていた。種まきの時期には、農民は神から種籾をいただいたことに感謝し、神を祀る。そして、収穫を迎えると収穫祭を実施して豊作を神に感謝し、収穫の一部を神に捧げる。古代の律令国家は、この仕組みを国家レベルにまで引き上げたものである。まず、公地公民制により、朝廷が各地の行政官を通じて農民に土地を配分する。そして、収穫の一部は租という税の形で徴収する。朝廷は律令制度を正統化するために、神祇信仰を活用した。

 ところが、律令制度は土地の不足という問題に早くも直面する。朝廷は、土地を自ら開墾した者には土地の所有を認めることにした。これは私有財産の容認であるから、大きな政策変更である。これによって一部の農民は、大規模な私有地を獲得し豪農となった。しかし、いつの時代でもそうだが、私有は欲を生むものである。そして、豪農は煩悩に苦しむことになる。

 そんな豪農に救いの手を差し伸べたのが仏教であった。仏教は私有財産を前提としながらも、煩悩からの解放を目指す宗教である。仏教に傾倒した豪農は、自らの土地を寺院に寄進して庇護を求めた。とはいえ、豪農は神祇信仰を完全に捨て去ったわけでもなかった。彼らがこれまで信仰していた神が、神のままでは煩悩に苦しむから、仏の形になって救済を求めている、ということにしたのである。仏の形になった神を祀るのが、神社の中に建設された寺院=神宮寺である。また、興福寺の僧形八幡神像に代表されるような彫刻も製作されるようになった。

 神宮寺は仏教の庇護を求め、当初は南都六宗に接近した。南都六宗とは、奈良時代に平城京を中心として栄えた仏教の宗派(三論、成実、法相、俱舎、華厳、律)の総称である。しかし、南都六宗は理論が厳格すぎたため、新たに生じた神仏習合という形態を受け入れることができなかった。そこで、当時新興であった密教を選択した。空海(弘法大師)が始めた密教は、時代を経るに従って抽象的になりすぎており、個別具体化を図るべきだという声が内部から挙がっていた。その個別具体化の動きの一環として、神仏習合との結合が行われたわけである。

 以上が、豪農側から見た神仏習合であった。言い換えれば、朝廷が原則として掲げる共有財産制に反して私有財産を持つに至ったアウトサイダーの信仰である。これを、インサイダーである朝廷側はどう見ていたのであろうか?実は、朝廷はアウトサイダーを排撃しなかった。彼らは律令国家の枠組みから外れているものの、彼らを攻撃するとかえってアウトサイダーが増えることを朝廷は危惧した。そのため、神宮寺を王権としてむしろ積極的に支持するという方策を採用した。こうして、神仏習合は、民衆側からも王権側からも積極的に推進されることになった。

 <本書を読んで新たに生じた疑問など>
 ・仏教の側から神祇信仰に近づいた例としては「本地垂迹説」がある。本地垂迹説とは、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであり、平安時代に成立した。中世に入ると、古事記や日本書紀の神話を、本地垂迹説に基づいて仏を中心に再解釈・再編成する「中世日本紀」が現れた。

 仏教側からの結合は神祇信仰の内容を変質させるという具体的な成果を伴ったのに比べると、神祇信仰側からの結合はその成果がいまいち判然としない。神宮寺や僧形八幡神像などは神祇信仰側の変質であり、神祇信仰が仏教にどのような変質を迫ったのかは本書では解らなかった。本地垂迹説に対して反本地垂迹説(仏が神の権化であり、神が主で仏が従うとする鎌倉中期の考え方)が現れたこともあったが、本地垂迹説ほど大きな動きにはならなかった。神祇信仰には仏教のような明確な教義が存在しないことが影響しているのかもしれない。

 ・日本には中国から儒教や道教が、西洋からキリスト教がもたらされている。これらの宗教と神祇信仰(神道)との関係をもっと深く掘り下げる必要があると感じた。江戸時代には儒教が幕府の正統とされ、キリスト教が禁止されたが、仮に神道が日本的なA’・・・’であるならば、単に儒教に従属したり、キリスト教を排斥したりせずに、何らかの質的変化を伴ったはずである。同時に、儒教やキリスト教に対しても、神道の立場から何らかの変化を加えたのではないだろうか?

 ・江戸時代には荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤による国学が興り、神道から仏教的な要素を取り除く努力が行われた。明治時代に入ると政府は神仏分離令を施行し、神道を国家レベルに引き上げる一方で、仏教の分離を加速させた(その結果、廃仏毀釈運動が起きた)。その後、太平洋戦争の敗戦で国家神道が批判されると、神道は政治の舞台から姿を消した。

 以前の記事「武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない」で、21世紀という関係知の時代には、近代的な分割知によって分解した知を再統合する必要があると書いた。現在の神道と仏教は、お互いに分離したまま、人々の心から距離を置いた状態にある。これをもう一度再統合することが、現在の日本人には必要なのではないだろうか?おそらくそれが、世界で起きる様々な宗教対立を理解し、日本としての立ち位置をはっきりさせる上での足がかりになるように思える。

2015年08月24日

斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる


デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)
斎藤 慶典

日本放送出版協会 2003-05

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 デカルトは幼少の頃から、文学、雄弁術、詩、数学、神学、哲学、法学、医学などといった様々な書物を読み漁っていた。ところが、書物をいくら読んでも、デカルトは「何一つ疑わしくないものはない」と感じ、真理を発見することができなかった。そのため、学業を修めるべき年限を終えると、書物による学問にきっぱりと別れを告げ、新たな探索の旅に出る。考察の対象となったのは、「世界(世間)」と「私自身」という2つである。

 とりわけ、デカルトは「私自身」という対象に強く惹かれた。デカルトがどんなに考察を重ねても、「絶対に疑うことができないもの」は存在しなかった。あらゆる事物、事象を真理ではないと排斥した末に、「そのような思索を行っている私が存在する」ということだけは疑いようもないことに気づく。こうして、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉に行き着くわけである。

 この言葉は理性万能主義の表れであり、よってデカルトは近代科学の祖であると私は理解していたが、どうやら思い違いだったようだ。デカルトによれば、理性は絶対的な真理ではない。
 もしかしたら私たちの世界も、その中に存在する私たちも、そしてその私たちがもっていると考えられている理性も、すべては神が創ったものかもしれない。(中略)その神が「欺く神」であって、私たちの理性をそもそも根本から誤るように仕立て挙げたのだとしたら、どうか。
 理性は誤っているかもしれないが、それでもなお、神に理性を欺かれた私が存在するということは疑いようがないというのが、「われ思う、ゆえにわれあり」の意味である。ここでは、理性すら超越する、さらに絶対的・普遍的なものが想定されているように思える。

 もう1つ私が誤解していたのは、個人主義との関係である。「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉は、私という存在に何らかの特別な意味がある、別の言い方をすれば、私を他者から明確に区別できる特徴的なアイデンティティがあるかのように感じさせる。しかし、デカルトが言いたかったのはそういうことではない。それどころか、デカルトは「私とは人間ではない」と言い放つ。
 方法的懐疑の極点で出会っているものは人間ではありえない。なぜなら人間とはこの現実世界の中に存在するものたちの一種であって、しかも理性を備えたものということになっているが、そのような現実世界の存在や理性といったすべてが夢と狂気の想定の下で潰え去った地点に私は立っているからである。
 「われ思う」時の私とは、知覚可能な特徴を持った私ではない。そういう特徴を全て取り払った後に残る、純粋に「思考すること」こそが、私の正体である。そもそも、他者との差異を知覚するのは、理性の働きである。しかし、その理性が欺かれているかもしれないのだから、認識した差異も誤りである可能性がある。よって、他者との差異は問題にすることができない。「われ思う」時の私は、言葉、人種、性別、年齢、居住地域、文化的背景、知識などの違いを不問にする。

 考えてみると、これは恐ろしいことである。この世界のあらゆる差異を超えて、全ての存在が「思考すること」という1つの絶対的な次元でつながっているというわけだ。こういう思想を「全体主義」と呼ぶのではないだろうか?ピーター・ドラッカーは、著書『産業人の未来』の中で次のように述べた。リベラリズムの系譜の先頭に、デカルトの名前も追加することができるように思える。
 政治や歴史の本によれば、今日われわれが享受している自由のルーツが啓蒙思想とフランス革命にあることは、ほとんど自明のこととされている。今日ではこの考えがあまりに広く受け入れられるようになったため、18世紀理性主義の弟子たちが、自由の名を独り占めにして自らリベラルを名のるにいたっている。

 (中略)しかし彼らが与えた影響は、まったく否定的なものだった。(中略)19世紀の秩序が基盤とする自由の構築に対しては、いかなる貢献も果たさなかった。それどころか、啓蒙思想とフランス革命、および今日の理性主義のリベラルにいたるその弟子たちは、自由にとって許すべからざる敵の役割を果たした。基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。

 過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 デカルトは、他の多くの哲学者と同様、「神の存在証明」をいくつか行っている。「有限」な私の存在という観念の中には、「無限」の神という観念を収めることができない。私は、自らの存在を認識する時、有限の観念をはみ出し、破ってしまうものを経験する。そのような経験を経て、私は神を知る。この意味で、デカルトの証明は「ア・ポステオリな(経験の後に続く)証明」と呼ばれる。

 しかし、ここで注意が必要なのは、デカルトは「無限」という観念を「本有観念」としていることである。本有観念とは、私=「思うこと」の内部に初めから含まれている観念である。ただし、無限は私に含まれているとはいえ、私は無限をはっきりと理解することができない。繰り返しになるが、私という存在が有限であることを自覚したその時に、私という有限を突き破っていく無限があることをわずかに知るにとどまる。デカルトはこれを「無限に触れる」と表現する。

 触れるしかないが、逆に言えば触れられるのである。神は遥か彼方の存在ではない。本有観念である無限は、私が「思うこと」という絶対に疑いようがない境地に達した時、まさにその瞬間において私とともにある。1人1人の差異を取り払い、神と一体になった、理性を超越した絶対性を追求する―これこそまさに全体主義ではなかったか?
 私がデカルトの内に見て取ったたった1つの主題とは、このことなのである。本書は、挙げてこの1つの主題と対話を積み重ねてきたのだ。この主題のもとでは、「私」と「神」(すなわち他者)という一見まったく別のものに見える主題が、ぴったりと重なり合ってはいないか。徹底したエゴイズムとその外部の問題が、表裏一体をなしてはいないか。





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