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【ドラッカー書評(再)】『見えざる革命』―本当に「社会主義」的に運用されてしまったアメリカの企業年金(2/2)
【ドラッカー書評(再)】『見えざる革命』―本当に「社会主義」的に運用されてしまったアメリカの企業年金(1/2)
『先哲遺訓(『致知』2015年10月号)』―未だ「我以外皆我師」(吉川英治)の境地に達しえない私

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2015年09月30日

【ドラッカー書評(再)】『見えざる革命』―本当に「社会主義」的に運用されてしまったアメリカの企業年金(2/2)


見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)
P.F.ドラッカー 佐々木 実智男

ダイヤモンド社 1976-06-24

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なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠
ロジャー ローウェンスタイン Roger Lowenstein

日本経済新聞出版社 2009-02

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 (前回からの続き)

 労働組合は給付金の増額だけに飽き足らず、様々な付帯サービスを追加した。歯科、眼科などの医療サービス、生命保険、疾病・身体障害・事故などに対応する各種保険、無料の法律相談(!)などである。さらに、早期退職と、退職した時点からの年金受給も認めさせた。新たに生じる費用は、企業や市だけにのしかかる。ここまで来ると、まさに「社会主義」だ。ただし、ドラッカーが言うような、労働者による生産手段の所有という意味での社会主義ではなく、国民が働かないのにほとんど負担なしで充実した社会福祉を受けるという意味での社会主義である。

 労働組合は、交渉が難航するとすぐにストライキをちらつかす。ストライキが起きれば、GMの工場はストップし、ニューヨークの交通機関は麻痺する。それだけは避けたい企業・市側は、やむなく要求を呑んでしまう。本書を読んだ印象では、新しいサービスによって将来的にどのくらい負担が増えるのかについて、交渉のテーブルについた者は誰もまともに計算していないようだった。ストライキまでの期限を考えれば、そんな計算をしている余裕はないのだ。

 年金基金への拠出負担が増えたGMは、コストアップの分を自動車価格に転嫁させた。これに対して、日本から輸入される自動車は、年金基金への拠出負担がない分だけ安い。そのため、GMは価格競争でどうしても不利な立場に立たされる。また、年金基金への拠出金を増やした代償として、GMは研究開発への投資を削らざるを得なかった。GMが環境対応の技術開発に乗り遅れたのはそのためだと同書は分析している。 ただここで、私は興味深い数字を見つけた。
 SDCERSの保険計理士の計算によれば、現在の債務を維持するには、(ニューヨーク)市は職員の年間給与総額の8.6%を拠出しなければならなかった。給付額が引き上げられれば、負担は11%に跳ね上がる。
 これはニューヨーク市の数字なので、GMの実態は解らない。仮にGMもニューヨーク市と同等であるとした場合、このパーセンテージは果たして異常なほどに高い数値なのだろうか?

 JETROの投資コスト比較によると、日本企業の社会保険負担率は、給与の14.795~23.645%とある。一方、アメリカ企業は、連邦分が給与の8.25~13.65%で、これに各州のパーセンテージが1~8%ほど乗るため、合計すると9.25~21.65%程度になる。さらに、企業年金の拠出金(ここでは、ニューヨーク市の数値8.6~11%を使う)を上乗せすると、トータルでは給与の17.85~32.65%程度となる。32.65%は確かに高いものの、数値の範囲を見れば、日本企業の負担と変わらないアメリカ企業も多いはずである。よって、GM破綻の原因を、企業年金に対する拠出金負担増だけに帰着させるのは、やや単純化しすぎているようにも思える。

 とはいえ、企業の拠出金が、社員の医療・保険サービスなどに消えている点はやはり問題なのだろう。そもそも企業年金の目的は、社員にとっては老後の生活資金を貯蓄することであるが、アメリカ経済全体で見れば、集めた拠出金をアメリカの新たな投資機会へと回すことであった。

 現在アメリカでは、企業がイノベーションや技術革新に対して積極的に投資しないことが課題とされている。新たな投資をしない企業は、内部留保ばかりが厚くなる。だが、お金を貯め込んでも仕方ないので、自社株買いに走る。自社株買いは株価上昇をもたらすから、それによって株主に報いようというわけだ。新規投資に対して企業が消極的になっている点は、ドラッカーも1970年代に本書で指摘していた。ドラッカーは、この課題をクリアする役割を年金基金に期待した。

 ここで問われるべきは、資本家兼労働者となった社員が、企業に対してどのように関与し、どのような役割を果たすべきか?ということである。社員は今や、企業年金を通じて自社株の一部を保有する株主である。よって、一般の株主と同様に経営陣をモニタリングし、株価上昇や配当増につながる分野に対して適切に資本を投下するようプレッシャーをかけなければならない。ドラッカーは、新しい取締役会のあり方を提案する。
 企業には、消費者と、被用者と、投資者すなわち年金基金という新しい型の所有者の3つの構成要素がある。とくに大企業の統治に当たるべき機関としての取締役会は、これら3つの構成要素を代表するものによって構成されなければならない。
 本書では、取締役会に入った社員は具体的にどのような責任を負うのか?他の多数の社員の利益をどのように代表するのか?また、他の取締役との利害調整はどのように行うのか?などといった点があまり書かれていなかったことに、個人的にやや物足りなさを感じた。さらに言えば、ある社員は年金基金を通じて自社株を保有すると同時に、他社の株式も保有している。この場合、この社員はその他社に対してどのように影響力を及ぼすのであろうか?

 前述の通り、アメリカの労働組合は早期退職を企業に認めさせている。当たり前の話だが、退職者が増えれば、その分だけ年金基金の負担は重くなる。よってドラッカーは、高齢者ができるだけ長く働けるような社会の実現を要請する。
 今日もっとも必要とされていることは、非常な勢いで増大しつつある後年退職者人口を扶養するという就業者人口の肩の荷を、いかにして軽減するかということにある。ところが現在、硬直化した年金制度に期待できる唯一の変化は、早期退職の促進という逆の方向の変化だけである。だがわれわれは、経済的にも人道的にも、少なくとも早期退職制度と同じ背程度には、退職延期制度を必要としている。
 私も、定年は70歳まで伸ばすべきだなどと軽々しく口にしていた。医学的に見ると、人間の知力や身体機能が急激に衰えるのは70歳以降であるというのも、その1つの根拠であった。ところが、最近高年者の方と一緒に仕事をする機会が増えて思うことは、どうやら知力や体力が充実しているのは65歳までで、それ以降は急激に衰える人が大半らしいということである。

 定年70歳時代に向けては、65歳以降の急激な衰えをもたらす原因を解明し、衰えを防止する方策を考えなければならない。社員はおそらく40代、50代のうちから色々と気を配る必要があるだろう。また、企業としても、社員が65歳以降に急激に衰えないような仕事の与え方、職場環境の整備に配慮することが、これからは重要となるに違いない。

2015年09月29日

【ドラッカー書評(再)】『見えざる革命』―本当に「社会主義」的に運用されてしまったアメリカの企業年金(1/2)


見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)見えざる革命―来たるべき高齢化社会の衝撃 (1976年)
P.F.ドラッカー 佐々木 実智男

ダイヤモンド社 1976-06-24

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 2012年3月に旧ブログで「【シリーズ】ドラッカー書評(再)」を開始した(旧ブログの記事は現行ブログに移行済み)。当初は約50冊あるドラッカーの著書を1月に1冊のペースで再読してレビュー記事を書き、2015年中には完了させる予定であったが、私の大いなる怠慢で、2013年5月から滞ってしまった。ひとまず今月から再開させて、2020年頃までのんびり続けることにしよう。

 『見えざる革命』は、他の著書と比べるとかなり異色である。それは、本書が次のような書き出しから始まることからうかがえる。
 社会主義を労働者による生産手段の所有と定義するならば、アメリカこそ史上初のかつ唯一の真の社会主義国というべきである。しかも、この定義こそ、社会主義の伝統的かつ唯一の厳格な定義である。
 ドラッカーは、アメリカに広がる私的な「企業年金」に注目した。企業年金は、企業側と社員側がそれぞれ拠出金を出し、その拠出金をアメリカの債券や株式に投資しリターンを得ることで、社員が退職した後の年金を支払うという仕組みである。言い換えれば、社員は企業年金を通じてアメリカ企業の株式を所有している。このことをもってドラッカーは、社員が生産手段=資本を所有する社会主義であると論じた。こんなことを主張した経営学者は他にいないだろう。ドラッカーは後年、本書は非常にユニークであり、自分でも気に入っていると語っている。

 ドラッカーが注目したのは、GMの会長チャールズ・ウィルソンである。ウィルソンは、1950年10月に新しい企業年金を創設した。もちろん、アメリカにも公的な年金制度は存在していた。全米自動車労組(UAW)など当時の労働組合は、政府による社会福祉の充実を主張していた。しかし、ウィルソンは、企業が私的に年金基金を創設することを主張した。そのインパクトは強烈だったらしく、GMに年金基金ができてから1年の間に、実に8,000もの年金基金が誕生したという。

 ウィルソンは、債券のみに投資する年金基金は間違いだとした。アメリカ中の社員が企業年金に加入し、あらゆる年金基金が債券に投資したら、債券を発行するアメリカ政府は深刻な財政難に陥るというのがその理由である。また、ウィルソンは、年金基金が自社株買いをすることにも反対した。一般的に、自社株買いは株価上昇につながりやすい。ところが、年金基金が自社株買いを続ければ、やがてその企業の株式を全部食い尽くしてしまうことは容易に想像できる。よって、年金基金はアメリカ中の企業の株式に投資すべきだとウィルソンは考えた。

 ドラッカーもウィルソンの方針を全面的に支持する。本書に限らず、ドラッカーの思想の根底には、政府に対する強い不信が横たわっている。
 今日では、アメリカをはじめとする先進国には、政府の計画の正しさだけを信じて疑わないような人間は、あまり多くない。むしろ今日、政府は巨大な官僚機構をつくり、膨大な資金を使うだけであって、その計画を実施する能力に欠けるのではないかという見方が広く浸透している。(中略)事実、過去30年をふり返って見ると、私的年金基金の発展こそが、真に成果をあげ、その公約したものを生み出すことのできた唯一の経済社会計画であるといってよい。
 ただ、ここで1つの疑問が生じる。アメリカ中の企業株式に幅広く投資する手段として、絶対に民間の年金基金でなければならない明白な理由は存在しないのではないか?ということである。日本の場合はアメリカと異なり、大部分の国民が国民年金か厚生年金に依存しているが、両年金は公的機関によって運用され、日本中の企業に幅広く投資している(もちろん、債券や海外株式への投資もある)。日本のような仕組みではダメなのだろうか?

 ドラッカーは1つの回答として、民間企業が様々な年金基金を創設すれば、健全な競争が生じ、パフォーマンスの高い企業年金が選別されるとしている。
 多元的であることが実験を可能にした。実験によって、いろいろな方法が試され、その中からもっとも適切な方法が生き残り、発展してきた。それがすなわち、年金基金の運用を投資メカニズムを通じて行なうというGMの方法であった。
 ところが、アメリカ中の企業に投資するという方針に従えば、投資ポートフォリオにはそれほどバラエティはないはずだ。多元主義に基づく実験アプローチは、年金基金によって投資ポートフォリオに違いがあることを前提としている。ある年金基金は高いパフォーマンスを上げる一方で、運用実績が芳しくなく解散に追い込まれる年金基金もある。財テク目的の投資信託などであればそれでもよいだろう。しかし、年金は退職後の生活を支える絶対不可欠な資金である。それを高いリスクにさらすのは、あまり健全ではないように思える。

 年金基金はリスクを幅広く分散させることで、ぼろ儲けすることはないけれども、大負けすることもないという道を選択したはずだ。別の言い方をすれば、パフォーマンスを長期的に平均すると、アメリカの経済成長率程度の運用実績で満足することを選んだ、ということだ。そうすれば、アメリカ国民は、飛び抜けて高い年金はもらえないものの、皆がそれなりの年金を受け取れる。これこそ、社会主義という言葉にふさわしいのではないだろうか?

 アメリカの企業年金の実態に関する本として、ロジャー・ローウェンスタインの『なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠』(日本経済新聞出版社、2009年)がある。同書は、GMが経営破綻し国有化された2009年に出版されたものであるためか、GMの話が中心であるかのようなタイトルになっている。しかし実際には、GM以外にも、ニューヨーク市やサンディエゴ市が年金基金によって破滅に追い込まれた様子が描かれている。

なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠なぜGMは転落したのか―アメリカ年金制度の罠
ロジャー ローウェンスタイン Roger Lowenstein

日本経済新聞出版社 2009-02

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 同書を読むと、労働組合が企業や市に対して無茶苦茶な要求を続けていたことが解る。最初は、年金の給付額を増やすよう要求する。給付額を増やすためには、拠出金も増やさなければならない。ところが、労働組合側は社員の拠出金増額を認めない。よって、企業側の拠出金負担だけが重くなる。さらに企業にとって悪いことがある。ある年の給付額は、その年までの拠出金の運用資産を原資としている。ところが、ある年に給付金が上がると、企業はその年までの運用資産では足りない分を充当する必要がある。これもまた、企業にとって重い負担となった。

 (続く)

2015年09月27日

『先哲遺訓(『致知』2015年10月号)』―未だ「我以外皆我師」(吉川英治)の境地に達しえない私


致知2015年10月号先哲遺訓 致知2015年10月号

致知出版社 2015-10


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 『致知』2015年10月号で、作家・吉川英治の「我以外皆我師」という言葉が紹介されていた。この言葉は小説『宮本武蔵』に出てくるものである。大事を成し遂げた人というのは、人間的にスケールが大きく、あらゆる人を包み込む器を持っている。その器に様々な人を分け隔てなく招き入れ、彼らから大いに学ぶことで、さらに大きく成長する。逆に、器の小さい者は、他人に会う前から「あの人は自分の役に立ちそうだ/役立ちそうにない」などと偉そうに評価を下し、会う人を取捨選択する。その結果、他者からの学びが限定され、偉人との差がどんどんついてしまう。

 日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、生涯のうちに約500もの事業に携わった、非常に多忙な経営者であった。渋沢の下には、各方面から色んな人たちが相談にやって来る。次の政策はどうすればよいかという政治的な話や、低迷する企業経営を救ってほしいというビジネス面の相談、果てはお金を貸してほしいなどという些末な相談まであったという。渋沢が卓越しているのは、どんな人が来ても門前払いしなかったことだ。お金を貸してほしいというすねかじりであっても、まずは話を聞く。そして、最低でも二言三言は助言を与えて帰した。

 渋沢は決して、人を見る目が甘かったわけではない。むしろ正反対である。渋沢は、『論語』の「子曰く、 其の以てする所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)、 其の安(やす)んずる所を察すれば、 人焉(いづく)んぞかくさんや、 人焉んぞかくさんや」(為政第二)という言葉を大切にしていた。これは、「第一に、その人の外面に現れた行為の善悪正邪を視る。第二に、その人のその行為の動機は何であるかをとくと観きわめる。第三に、さらに一歩を進めて、その人の行為の落ち着くところはどこか、その人は何に満足して生きているかを察知すれば、必ずその人の真の性質が明らかになるもので、いかにその人が隠しても隠しきれるものでない」という意味である。

 渋沢が師と仰いだ孔子もまた、人々に対して広く門戸を開いていた。そうでなければ、3,000人もの弟子を集めることはできなかっただろう。孔子は「三人行けば、必ず我が師あり。その善者を択んでこれに従い、その不善者にしてこれを改む」(述而第七)と述べている。徳ある者からは大いに学び、徳のない者は反面教師にして自分を改めた、という意味である。しかし、徳のない者であっても、その人が真面目に孔子に教えを乞うてきたら、孔子は頭をフル回転させてそれに答えただろう。『論語』には、「子曰く、吾知ること有らんか、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う。空空如(くうくうじょ)たり。我その両端を叩き而して竭(つく)せり」(子罕)とある。

 中国には「周公三たび哺(ほ)を吐き、沛公三たび髪を梳(くしけず)る」という言葉がある。周公は孔子が聖人と崇める人物である。周公は、どんな人が訪問してきても、食べているものを吐き出し食事を中断して面会したと言われる。また、沛公とは漢の高祖のことだ。沛公もまた、髪を整えている最中にどんな客が訪ねてきても、必ずその人に会ったと伝えられている。二人は、どんな人も自分の師になりうるのだから、絶対に拒絶しないことをポリシーとしていた。
 私の社会人としての出発はPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所)に入社したときから始まる。PCLに入社するようになったのはケルセルに関する特許を出したとき、清水という親切な審査官がいてPCLで君のような人をほしがっているからといって、当時所長をやっていた植村泰二氏(経団連副会長植村甲午郎氏の弟)のところへ引っ張っていってくれたからである。
(日経BPnet「私の履歴書 井深大(5)社会人第一歩 請われてPCL入社 約束と違う初月給に文句」〔2012年4月23日〕)
 先日、この清水という審査官を知っている元特許庁審査官にお会いする機会があった。この敏腕審査官は、若い時は人が嫌がるような仕事を色々と押しつけられ、特許庁以外のあちこちの役所に顔を出していたせいか、妙に人脈が広がったと振り返っていた。この審査官が出世すると、不思議なことに様々な人が相談に訪れるようになった。しかも、特許とは関係のない相談が大半であった。証券会社の営業担当者が訪ねてきて、「誰かこの株を買ってくれそうな人を知らないか?」と言われたこともあったという(特許庁に似つかわしくない証券会社の人がやって来たせいで、周りからはその審査官の方に隠し資産があるのではないかと疑われたらしい)。

 なぜ自分のところにこんなにも色んな人が相談にやって来るのか考えてみると、若い時に培った人脈を当てにしているのももちろんあるが、「話を口外しない」という点が一番大きかったのではないか?と分析されていた。この審査官は何でも話を聞いてくれる上に口が堅いから、周囲の人はとりあえず相談したくなったに違いない(その話をこうしてブログで口外している私は問題外なのだろうが、この方の話はもう何十年も前のことであり、時効ということで許してもらおう)。

 中小企業診断士は(私のように)一匹狼が多い。中小企業診断士で社員を抱えながらコンサルティング会社をやっている人はあまりいない。一方で、実際のコンサルティングプロジェクトは、診断士が1人で全部カバーできないことがほとんどである。そのため、一匹狼同士がお互いの専門性を補完し合い、チームで課題解決にあたる。こういう現実があるから、診断士の間では常に自分の売り込み合戦が行われる。私も自分を売り込むし、私の元に売り込みが来ることもある。

 ベテランの診断士で経験も豊富になると、様々な診断士から売り込みが来る。中には、経験や専門性、能力や資質に疑問符がつく人も来るはずだ。だが、ベテラン診断士の尊敬すべき点は、履歴書や職務経歴書だけでその人を判断しないことである。まずは1回会って話を聞いてみる。さらに、その人のために新たに仕事を作り出そうとする。私もそういう懐の深い診断士の人に助けられたことがある。私がほとんど経験のない分野のコンサルティングだったにもかかわらず、プロジェクトのタスクを上手く細切れにして、私に仕事をあてがってくれた。

 このブログでは、たびたび日本の多神教文化に触れている。日本では、それぞれの人に異なる神が宿っている。ただし、明快な唯一絶対神を崇める欧米の一神教文化とは異なり、日本人にとって自分に宿る神はおぼろげなままである。欧米人は神に触れるために教会で祈りを捧げる。だが、日本人は自らに内在する神と向き合うだけでは、真実に到達できない。よく言われるように、良質な学習は異質との出会いによって得られる。だから、自分とは異なる神を宿している他者に積極的にアクセスしなければならない。そうした学習を永続させるのが、いわゆる「道」である。

 これをビジネスの世界に置き換えると、次のようになる。顧客や協力企業を選り好みしてはならない。様々な顧客に対し、様々な協力企業の力を結集して、様々な価値を実現する。これこそ日本の経営である。アメリカ企業のように、市場をセグメンテーションしてターゲットを絞り込むとか、自社の組織能力を補完し、かつ自社の価値観にフィットする協力企業を選択するといった話は、日本企業には馴染まないのかもしれない(この点はもっと理論武装する必要がある)。

 私自身はまだ人間が非常に浅いので、「我以外皆我師」などという境地には遠く及ばない。お金にならない仕事は、ただ単にお金にならないという理由で断りたくなるし、ちょっとでも能力に問題がありそうな診断士とは最初から話をしたくないと思ってしまう。だが、そういう了見の狭さが、自分の成長に蓋をしているのかもしれないと反省した。お金にならなくても、何か勉強になることがあるに違いないと考える。診断士の能力に問題があっても、なおその問題をカバーして余りある強みを活かす道があるのではないかと工夫する。こういうことを少しずつ心がけていきたい。




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