この月の記事
『終わりなき「対テロ戦争」(『世界』2016年1月号)』
『南シナ海・人民元―中国の野望、日本と世界の岐路/沈黙は敗北だ 「中国というアンモラル」に世界が覆われる前に/パリ同時多発テロの衝撃(『正論』2016年1月号)』
「創業促進フォーラム」に出席して思ったこと

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2016年01月29日

『終わりなき「対テロ戦争」(『世界』2016年1月号)』


世界 2016年 01 月号 [雑誌]世界 2016年 01 月号 [雑誌]

岩波書店 2015-12-08

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 (1)
 沖縄の海兵隊は日本を守るために配備されているのではない。普天間飛行場は、西太平洋において、ハワイよりも西側にある唯一のヘリコプター基地である。アメリカは世界で7つの主要な安全保障条約を締結しており、そのうちの5つ、日本・韓国・フィリピン・タイ・オーストラリアが西太平洋地域にある。この地域の安全保障条約を担保するため、米軍は毎年それぞれの国々で軍事演習や合同訓練を行う。沖縄の海兵隊の主な役割は、その演習や合同訓練に参加することであり、日本はその居場所として基地を提供しているにすぎない。
(伊波洋一「軍事戦略の中の沖縄」)
 沖縄の基地は中国に対する抑止力となっているのか、軍事の門外漢である私にはよく解らない。上記のような記述があったかと思うと、同じ記事の別の箇所には次のように書かれている。
 キャンベル国務次官補が「辺野古新基地は中国との戦争のための第三の滑走路」と説明したことが、ウィキリークスの暴露した極秘公電で明らかになっている。当時のルース駐日大使が米国務省やホワイトハウスに同年(※2009年)10月15日に送った長文の極秘公電に、「中国の軍事力の劇的な増大により、何か事が起きた場合、少なくとも3つの滑走路が利用できることが必要になってくる、とキャンベル国務次官補は述べた。(中略)」と記述されている。(同上)
 沖縄は日本の国土の0.6%しか占めていないにもかかわらず、73.8%もの米軍専用施設が集中している。素人的な発想だが、軍用施設があまりに集中しすぎていると、攻撃力は上がる反面、敵国から集中攻撃を食らうリスクも高くなる。軍事技術が発展した現代にあっては、沖縄ぐらいの広さの土地を一瞬にして焦土化することは難しいことではない。だから、そのようなリスクを回避するため、もっと基地を分散してもよいのではないかと考える。

 基地の分散化は、軍事戦略の複雑化にもつながる。沖縄に基地が集中している現状では、日本が取りうる軍事戦略の幅もたかが知れている。つまり、敵国は簡単に日本の戦略を読むことができる。軍事戦略は機密事項である。それが他国に容易に察知されてしまうようでは、戦う前から勝敗が決しているのと同じだ。逆に、基地を分散化すれば、複数基地による合同作戦など、攻撃の選択肢が増えるから、それだけ軍事戦略を複雑にすることができる。辺野古が唯一の解決策と固執するばかりではなく、そういう視点からも軍事戦略を検討してほしいと思う。

 日本は海洋国家である。日本の領土面積は38万平方キロメートルで世界61位だが、海洋面積(領海を含めた排他的経済水域の面積)は447万平方キロメートルと領土面積の約12倍で、世界第6位である。日本の海岸線の長さも、約3万キロメートルで世界6位だ。にもかかわらず、日本の自衛隊の構成を見ると、陸上自衛隊が約14万人であるのに対し、海上自衛隊はわずか約4万人しかいない(航空自衛隊も同じく約4万人)。これだけ広い海洋と長い海岸線をこの人員で防衛できるのか、はなはだ疑問である。どうやら自衛隊は、敵軍が領土に上陸した際の防衛に主眼が置かれているため、このような人員構成になっているらしい。

 (2)
 「なんで大阪に企業がいつかないのか。京都には京セラ、ワコール、村田製作所、ローム・・・。どこも東京に絶対に本社を動かさない、大阪は住友をはじめみんな東京にいってしまった。大阪に魅力がなくなっているからですよ」
(加藤正文「大阪ダブル選挙 市民は何を選んだのか」)
 11月の大阪府知事、大阪市長のダブル選挙で、自民推薦の候補者を応援した伊吹文明によるこの演説を聞いた聴衆はヤジを飛ばしたそうだ。ただこれは、大阪都構想に反対する自民党にヤジを飛ばしたと見るのが適切で、大阪から企業が消えているのは動かしがたい事実である。
 政治や中央官庁がある東京への集中度合いは、ここへきて加速する一方だ。銀行貸出残高の東京圏のシェアは52%。外国法人数は85%、資本金10億円以上の企業の本社数は62%、情報サービス・広告業の従業者数は61%。人口の約3割を占める東京圏が主要な経済指標で過半のシェアを握る。(同上)
 私も東京圏に住み、東京圏で仕事をしているので、偉そうなことを言える立場では全くないのだが、それを承知で少しだけ意見を述べたい。大阪から流出した人口を取り戻すのは容易ではない。東京の本社を大阪に移転させるのは極めて難しい。オペレーションを再構築しなければならないし、何よりも、大阪への移住を強いられる社員の負担が大きすぎる。

 ここで、引用文にあるように、大阪から東京には本社が移転していったのに、逆の流れはなぜ難しいのか?という指摘があるだろう。かつて、大阪から東京に本社が移転した頃の企業は、結婚前の若手社員を多数抱えていたと推測される。若いうちは転勤に対する心理的ハードルがそれほど高くない。ところが、現在は社員の平均年齢も上がり、大半の人は子どもがいる家庭を抱えている。よって、社員が東京圏から離れることは難しくなってしまった(日本の年齢の中央値は、高度経済成長期(1956~1973年)の24~33歳に対し、2015年では46.51歳である)。

 ビジネスパーソンを大阪に移住させるのが難しいとなると、次はリタイアした高齢者ということになるだろう。確かに、現役世代に比べれば、移住を敬遠する理由は少ないかもしれない。だが、高齢者の人口が増えれば、自治体が負担する社会保障費が増える。大阪は財政難のために都構想を掲げているのに、これ以上財政難にするような方策は現実的ではないだろう。

 おそらく、1つだけ大きく人口構造を変えられる方策があるとすれば、それは大学の質を上げることではないかと考える(もちろん、大学改革も容易ではないことは重々承知している)。学生は出身地と異なる地域の大学に通学することにあまり抵抗を感じない。仮に大阪の大学生が増えれば、そのうちの多くは依然として東京圏に就職するだろうが、大阪に残って就職する学生も増えるはずだ。彼らがそのまま大阪に住み続け、家庭を持てば、大阪の人口は増加する。

 確かに、少子化の影響で、自由に移動できる子どもの数そのものが減っている。だから、この方策も即効薬ではない。しかし、何十年かけて徐々に大阪からの流出が続いた現象を反転させるには、やはり何十年という単位の息の長い取り組みが必要になると思われる。

 もう1つつけ加えると、大阪の人口を増やす方策は、大阪単独では実行できない。前述の通り、東京から大阪に多くの人を一気に移動させるのは現実的ではない。では、どうやって大阪に人を引っ張ってくるか?ここで、次のようなことが考えられる。まず、東京圏の西側に隣接するA地域が住みやすい街づくりを行う。すると、東京圏に住んでいた人のうち、A地域から東京圏に通勤してもよいと考える人が出てくる。これにより、A地域の人口が増える。さらに、A地域で新たに増えた人口をターゲットとした企業がA地域に現れ、雇用が増加する。

 ここで、A地域の西側に隣接するB地域が住みやすい街づくりを行ったとする。A地域で増加した被雇用者のうち、B地域からA地域に通勤してもよいと考える人が出てくる。これにより、B地域の人口が増える。さらに、B地域で新たに増えた人口をターゲットとした企業がB地域に現れ、雇用が増加する。これをB地域の西側のC地域、C地域の西側のD地域・・・と繰り返して大阪まで到達すれば、東京圏の人口が徐々に西に移動する。つまり、大阪単独で施策を練るのではなく、大阪と東京の間に位置する地域とも共同で施策を実行しなければならないと思うのである。

 (3)『正論』2016年1月号の「リベラリズムがイスラムに敗北する日」(岩田温)という記事で、ミシェル・ウエルベックの『服従』という小説が紹介されていた。『服従』は、ヨーロッパにおけイスラームの台頭をテーマとした近未来小説である。以下、孫引きで申し訳ないが、一部を引用する。
 自由な個人主義という思想は、祖国や同業組合、カーストといった中間的構造の解体に留まっている限りは多くの同意を得られるが、家庭、すなわち人口構造、という究極の構造を変容しようとした場合には、失敗する。そこで、論理的にイスラームの時代がくるというわけだ。
服従服従
ミシェル ウエルベック 佐藤優

河出書房新社 2015-09-11

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 『世界』2016年1月号の記事の中には、パリの同時多発テロは、なぜパリが狙われたのか釈然としない、という指摘があった。
 パリの同時多発テロは、9.11とは違っていた。フランスという国家に対する強い憎悪によってターゲットを選んでいないからである。(中略)連続テロが起きたパリ市の東部には国家権力を象徴するような施設はないし、富を象徴するような店もない。
(内藤正典「ムスリムの分断を狙ったパリ同時多発テロ」)
 個人的には、フランスが狙われたのには一定の理由があると考える。フランスは、革命によって、現代の西欧が普遍的価値と位置づける自由、平等が生まれた地であると理解されている。だが、フランスの自由、平等は啓蒙主義の産物であり、啓蒙主義からフランスの自由、平等を経由すると、実はドイツのファシズムに到達する。このことを指摘したのは、ピーター・ドラッカーであった。以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」でも、むき出しの自由がどのようにファシズムに至るのか描写を試みた。

 唯一絶対で無限である神と直線的につながることを志向する人間の理性は、神と人間との間に介在するあらゆる制度、組織、機構を排除する。国家、資本家階級はもちろんのこと、共同体や家族といった伝統的なシステムですら、個人の自由を束縛するものとして排除される。彼らは革命のために連帯を唱えるものの、実のところ連帯を望んでいない。なぜなら、連帯は必ず個人の自由をある程度制約するからだ。さらに、彼らはお互いの間に差異が存在することも認めない。差異があるとお互いを価値評価することにつながり、必ず不平等感を伴うためである。

 こうして、彼らはお互いに全く区別のない同質の存在であろうとする。しかも、連帯を嫌い孤立を好む。彼らが結びつくのは唯一絶対の神のみである。彼らが神とつながる時、神の化身として創造された人間もまた、無限で絶対的な存在となる。これは、唯一絶対の神アッラーに対する信仰のみを極度に絶対化するイスラーム過激主義者と変わらない。彼らは信仰に基づいて連帯しているようでありながら、実際には自爆テロなどによって個人を前面に出す点でも共通する。

 『服従』によれば、フランスでは伝統的な家庭が自由主義の名の下に崩壊しつつあるという。ということは、イスラーム過激主義を引きつける土壌がフランスに形成されていることを意味する。
 ジハーディスト志願への誘いは、自己アイデンティティに深刻な亀裂を生じさせている若者の心をとらえます。亀裂を埋めてくれるし、自我の回復を可能せしめ、場合によっては新たな自己の形成、ということは迷いなどと無縁の信仰という補綴り物、完全なる理想を提供してくれるからです。
(フェティ・ベンスラマ「絶望している者にとって過激イスラム主義が一種の興奮剤である」)
 フランスの若者にとって、イスラーム過激主義はフランス社会の伝統によって覆い隠された近代フランスの理想を再び知らせる契機である。だから、イスラーム過激主義がフランスにつけ入る隙が生まれるのである。同記事では、自爆テロについて以下のように分析されている。彼らは死ぬことで無限性を手に入れる=神と結ばれる=絶対的になろうとしている。
 殉教者というのは消えることで生き延びたいと思っている人間です。志願者にとって、それは自殺ではなく自己犠牲であり、その行為は絶対理想を通じての不死への移行なのです。彼が死ぬのは外見だけであって、無限を享受して生きつづけます。(同上)


2016年01月27日

『南シナ海・人民元―中国の野望、日本と世界の岐路/沈黙は敗北だ 「中国というアンモラル」に世界が覆われる前に/パリ同時多発テロの衝撃(『正論』2016年1月号)』


正論2016年1月号正論2016年1月号

日本工業新聞社 2015-12-01

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 まず、日本も同じことをしてほしい。日本は、CIAもそうですが、全米民主主義基金のようなものも持つべきでしょう(National Endowment for Democracy. レーガン政権時代の1983年に「他国の民主化を支援する」ため設立された基金。アメリカ議会が出資。注)。ない、ということは驚くべきことではありませんか。アメリカの基金の場合、年間予算は1億ドル、中国や香港でのオペレーションも含まれます。日本になぜないのか理解できません。
(マイケル・ビルズベリー、島田洋一「《対談》邦訳もベストセラー、『100年マラソン』著者の忠告 日本には知らせなかった 世界覇権を狙う中国にアメリカが甘い本当の理由」)
 アメリカにはそんな基金があるのかと新たな発見であった。アメリカは自由、平等、基本的人権、市場原理、資本主義といった普遍的価値を他国でも実現させようとしている。そのためには、社会・経済システムに介入し、政権を転覆させることもいとわない。アメリカはインテリジェンスに多大な投資をしている。ただ、アメリカの狙いは、各国の民族性、歴史、風土、文化、社会などの特徴に応じて、その国にフィットした政治・経済体制をカスタマイズすることではないように思える。各国の現状を詳細に把握した上で、アメリカという確固たる理想にジャンプさせるために、どのような方策が有効なのか、方策の方をカスタマイズするのが目的である。

 アメリカがインテリジェンスに多大な投資をするのは、ビジネスにおいても同じである。最近は、ビッグデータ、IoT(Internet of Things)などが話題だ。ただし、ここでもアメリカ企業の目的は、顧客のニーズに応じて製品・サービスを細かくカスタマイズすることではないと感じる。例えば、GEは航空機のエンジンにセンサーを内蔵して、稼働状況をモニタリングし、運用・保守サービスを最適化したり、リプレースの時期を的確に見極めたりしている。いわゆるIoTの仕組みである。GEの目標は、顧客企業を囲い込んで、エンジンの売上高を増加させることに他ならない。

 確かに、AmazonやYoutubeなどのように、顧客情報を活用して製品・サービスをカスタマイズしている例があるのも事実である。しかし、見方を変えれば、両社は高度なアルゴリズムによって、本を購入するならAmazon、動画を見るならYoutubeと顧客に思わせる、すなわち、他のネットサービスを排して、AmazonやYoutubeというプラットフォームから顧客が逃れられないようにしようという意図を感じる(ここまでの内容は、以前の記事「『意思決定の罠(DHBR2016年1月号)』―M-1のネタ見せ順と順位に関係はあるのか再検証してみた、他」を参照)。

 だが、日本が同じようなことをすると大失敗するように思える。アメリカですら、上記のような価値観の押しつけは失敗に終わっているという指摘がある。
 しかし、まさにイラク戦争の失敗はアメリカが「共有する価値観」と思っていたものが、中東の地でも実現可能だと信じてしまったことから生じたのではないのか。しかも、こうした「価値観外交」の結果としてイラクに無秩序をもたらし、ひいては「イスラム国」を生み出してしまったのではないのか。
(東谷暁「パリ同時多発テロ批判に思う」)
 日本はそもそも、アメリカのように理性の働きによって普遍的な理想をデザインすることが苦手である。自分が経験したこと、見聞きしたことをベースに、”望ましいと思われること”を構想する。逆に、見たこともないことを情報によって認識することが非常に弱い。だから、日本ではインテリジェンスが発達しない。日本人の構想は、その人を取り巻く環境、周囲の人々との関係の性質、本人の性格や考え方などによって制約されている。だから、普遍性がないのである。

 以前の記事「麻生太郎『自由と繁栄の弧』―壮大なビジョンで共産主義を封じ込めようとしていた首相」で、麻生太郎氏が日本から東ヨーロッパにかけて、自由、民主主義などの共通の価値観で結ばれた国々からなる「自由と繁栄の弧」を形成しようとしていることを書いた。また、第2次安倍政権は「価値観外交」を掲げて、価値観を同じくする国とのリレーション強化に努めた。当時は素晴らしい外交だと思っていたが、どうもそんなに簡単な話ではなさそうだと思い直した。

 日本が自らの構想を他者に押しつければ、絶対に軋轢が生まれる。仮に、以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」で書いたことが日本人の本質であるとすれば、日本は外交するたびに相手国を攻撃するか、相手国に土下座するかのどちらかである。すなわち、日本の構想を受け入れない相手国を力づくでねじ伏せて反撃を食らうか、構想を押しつけることをあきらめて相手国の現状に追従するかのどちらかである。いずれの道をとっても、日本は手痛いダメージを負う。

 日本人は、インテリジェンスに弱い反面、対象をじっくりと洞察することに長けている。近年、マーケティングの分野で「エスノグラフィー(文化人類学)・マーケティング」が注目されている。これは、文化人類学者のように、何の先入観も持たずに相手を観察し、相手の潜在ニーズを発見するものである。これは日本企業なら昔からやっていたことだ。アメリカがエスノグラフィー・マーケティングに注目するのは、彼らがインテリジェンス重視であったことへの反省の表れである。

 日本は外交の場でも、エスノグラフィックな対象の把握に努めなければならない。日本自身の限られた経験から導かれた構想を崇高な理想として絶対視してはならない。代わりに、各国の民族性、歴史、風土、文化、社会などの特徴に応じて、その国にフィットした政治・経済体制の構築を支援する必要がある。しかも、アメリカが目指すような一足飛びの変化ではなく、漸次的な前進を目指すべきだ。アメリカは自らの理想を絶対に動かさないが、日本は観察された事実が増えるに従って、目標とする政治・経済体制を徐々に変質させても構わない。仮に、日本が日本民主主義基金なるものを設立するとすれば、こういう活動を目的とすべきであろう。

 話は変わるが、経営コンサルタントの仕事は、顧客企業のあるべき姿(To-Be)を描き、現状(As-Is)とのギャップを抽出して、ギャップを埋める施策を立案し、将来の業績を予測することであるとされる。かつての私は結構な理想主義者だったので、いったんあるべき姿を描いたら、それを絶対に動かさないところがあった。私の描く理想が100であれば、顧客企業の現状がcccだとしても、cccから半ば強引に100に持っていく方策を考えようとしていた。

 だが、100とcccは異質すぎて、簡単にはギャップを埋められない。それに、第三者的には100が望ましいように見えても、顧客企業はその100を居心地がよいと感じないかもしれない。顧客企業を取り巻く環境、ビジネスモデルの特徴、組織能力、組織構造、風土、人材の性質などを考慮すると、遠くて異質な100を目指すよりも、実は近くて類似のbbbに持っていく方が顧客企業にとっては望ましいことが多い、ということに最近気づいた。

 私も何だかんだで中小企業診断士の世界にもう8年近くいるのだが、8年もいると時折悪評が伝わってくる。大企業や総合商社のOBで、公的機関の専門家として登録されている診断士の中には、自分の経験を中小企業に押しつけてトラブルになる人がいるという。繰り返しになるが、大企業や総合商社での経験は企業特殊的経験であり、全く普遍性がない。そのことに気づかずに、自分が経験したやり方が一番だと勘違いしている人がいるようなのである。

 私も、そういう勘違いをした診断士に出会うことがある。ある家電メーカー出身の診断士数名と立て続けに仕事をする機会があったが、彼らはことあるごとに「私がいた会社ではこんなことは考えれない」、「私がいた会社ではこういうやり方をしていたのだから、そうするべきだ」などということを顧客企業の前で平気で口にする。もちろん、これも私の限られた経験なので、その家電メーカーの社員が皆同じように考えていると一般化することはできない。ただ、仮に類似の傾向が見られるならば、シャープ、東芝の次にダメになる家電メーカーはここではないかと心配になる。

2016年01月25日

「創業促進フォーラム」に出席して思ったこと


商談

 開業率アップを目指す中小企業庁は、2014年度から「創業支援事業」を行っている。まず市区町村が、創業支援を行う事業者(民間企業、NPO法人、商工会議所など)と連携して「創業支援事業計画」を策定する。これは、当該市区町村における創業の目標(業種、件数など)を設定し、目標達成に向けた施策を立案するものである。具体的な支援策としては、創業希望者を対象としたセミナー、市区町村役所における窓口相談、創業資金の融資あっせんなどが挙げられる。創業セミナーは地元のNPO法人や商工会議所と、融資あっせんは金融機関と連携して行われる。

 創業支援計画に基づいて創業支援を行う事業者に対しては、「創業支援事業者補助金」という制度がある。創業セミナーを実施した時の会場代や講師謝金、窓口相談を担当する社員・職員の人件費などが補助対象となる。昨年末、この創業支援事業者補助金を受けている全国の事業者を対象として、「創業促進フォーラム」が開催された(中小企業基盤整備機構が主催)。私も昨年は創業支援事業に関わらせていただいた関係で、フォーラムに参加してきた。フォーラムでは、全国の市区町村の事例紹介や、他の創業支援事業者との交流会などがあった。

 以下、「創業促進フォーラム」に出席して思ったことのまとめ。

 (1)以前、創業支援事業者補助金の審査員を務めたことがある中小企業診断士から話を聞く機会があった(私のように創業支援事業を診断士が支援していることは多いが、まさか補助金の審査員を診断士がやっているとは思いもよらなかった。診断士は本当に狭い世界だ)。この診断士の方は、全国の色んな計画書を読んだものの、中身に大差がなくて審査しにくいと嘆いていた。どの市区町村も、判を押したように創業セミナーや窓口相談をやることになっていたという。私も創業促進フォーラムで他の市区町村の事例紹介を聞いたが、同じような印象を持った。

 理想論を言えば、地域によって取り巻く環境は異なるわけだから、創業の目標も、目標達成のための支援策も異なるはずである。計画を策定する際、まずは外部環境を分析する。地域内の企業を大きく分類すると、①地元住民を主たるターゲットとするタイプ、②近隣の市区町村や都道府県をターゲットに含むタイプ、③海外も射程に入れているタイプの3つに分けられる。したがって、地元、近隣地域、海外の市場が今後どのように変化するかを人口動態や世帯・家族構成の変化(BtoCの場合)、企業数・業種の変化(BtoBの場合)などから推測し、ニーズをあぶり出す。

 次に、内部環境に目を向ける。現在の市区町村下にどのような企業が集積されているのか?それらの企業の組織能力(強み・弱み)は何か?を分析する。その上で、外部環境分析から導かれた将来ニーズのうち、地域に蓄積された能力を活かして需要をとらえることが可能な分野は何か?を特定する。それと同時に、現在は地域内に十分な能力が蓄積されていないものの、将来ニーズの増加を見すごすことができず、地域として取り組む意義が大きい分野も明確にする。

 外部環境と内部環境の分析を行うと、両者のギャップが見えてくる。ここまでやって初めて、そのギャップを埋めるために、どんな業種の創業を何件ぐらい創出する必要があるか?という目標が立てられるようになる。その目標を実現する手段は、創業セミナーや窓口相談に限られないかもしれない(例えば、ものづくりに注力する地域は、域内の大学との産学連携を支援することになるかもしれない)。しかしながら、どうやら多くの創業支援事業計画はそのような分析を行っていないため、どれも似たり寄ったりになっているのだろう(私も他人のことは言えないのだが)。

 各市区町村の創業支援計画には、様々な関係機関との連携を示す実施体制図がある。NPO法人、コンサルティング会社、大学、商工会・商工会議所、地方銀行・信用金庫・信用組合などを含んでおり、あたかも手厚い支援ができるかのような印象を与える。だが本来は、創業希望者の創業前後における潜在的なニーズは何か?そのニーズに応えるためにどのような支援サービスを提供するか?それらのサービスのうち、市区町村が実施するものは何で、外部機関の力を借りるものは何か?ということを検討しなければ、体制図は描けないはずだ。とりあえず何でもいいから外部と組めば何とかなるだろうという発想は、個人的にはどうも感心しない。

 (2)創業支援事業者補助金は、補助率3分の2以内、補助上限1,000万円である。つまり、1,500万円の経費を使うと、1,000万円の補助金が受けられる。それなりに大きな金額だ。ところが、創業支援計画を見ると、年間の目標創業件数が経費の金額と釣り合わないのではないか?と疑問に感じることがある。創業1件あたりの経費が100万円を超えると思われるケースさえある。ここで、投資に見合う十分な効果が得られるかどうかが問題となるだろう。

 補助金という投資は、将来の税金で回収することになる。まず、創業によってその企業からの法人税や事業所税が増える。これに加えて、新しい企業が社員を雇用し、その社員が当該市区町村に居住してくれれば、彼らの住民税や固定資産税、(軽)自動車税も増える。だが、これだけでは効果の計算としては十分ではない。創業者が退職することによって、前職の企業の利益がいくばくか減少し、法人税や事業所税に影響するからだ。また、新しい社員が元々住んでいた地域では税収が減少することになる。これらのマイナスを考慮しなければならない。

 こうしたマイナスを差し引いてもなお創業の効果が得られるのは、創業者がより大きな税引き前当期純利益を創出している場合である。具体的には、新しい企業の社員1人あたり税引き前当期純利益(※便宜的に、ここでの「社員」には、役員である創業者も含める)が、転職前の企業のそれを上回る時である。また、新たに採用した社員の給与は、前職よりも増加していなければならない(そうでなければ、支払う住民税なども増えない)。

 もちろん、創業直後は利益も少ないし、社員には薄給で我慢してもらうこともあるだろう。とはいえ、長い目で見たら、前職よりも業績的に優れた企業となることが投資回収の条件である。以前の記事「採点審査に困る創業補助金の事業計画書(その1~5)(その6~10)」で、創業希望者の事業計画は、ややもすると中長期にわたって社員の給与を低水準に据え置いていることがあると書いた。税金を使って貧乏人を増やすのは全く意味がないことである。それならば、既存の企業の新規事業分野進出を支援した方が、実りは大きいかもしれない。果たして、市区町村がこうした投資対効果のことをどこまで考えているのか、個人的にはやや疑問が残った。

 (3)(2)と関連するが、市区町村が創業を増やすのは税収増のためである。税収を増やす方法は、大きく分けて人口を増やすか、産業を活性化するかという2つだ。人口を増やす方法はさらに、他地域からの流入を増やす、当該地域内で産まれる子どもを増やす、の2つに分かれる。他地域からの流入を増やすには、例えば大学・研究機関を誘致する、地域包括医療体制を構築して高齢者の移住を促す、などが考えられる。当該地域内で産まれる子どもを増やすには、幼稚園・保育園の拡充や、小中高における魅力的な教育プログラムの提供などが挙げられる。

 産業を活性化する方法には、企業・工場を誘致する、商業・サービス業集積を形成することなどがある。難しいのは、これらの施策はお互いに影響し合っているという点である。例えば、企業・工場を誘致すれば、社員とその家族が他地域から流入してくる。他地域からの流入が増えれば、商圏の市場規模が大きくなるので商業・サービス業の集積が進む、といった具合だ。つまり、(税収)=f(大学・研究機関の誘致, 地域包括医療体制の構築, 幼稚園・保育園の拡充, 小中高における魅力的な教育プログラムの提供, 企業・工場の誘致, 商業・サービス業集積の形成, ・・・)という関数であり、その関数の中身を特定しなければならない。

 この作業には市区町村の役所を挙げた取り組みが必要となる。ところが、たいていの役所は縦割り化が進んでいる。幼稚園・保育園や小中高のことは教育・保育部門、地域包括医療のことは医療・福祉部門、企業活動のことは産業経済部門が担当している。これらの部門が相互の影響を考慮せずバラバラに動くと、施策の効果が目減りしてしまうに違いない(以前の記事「辻井啓作『なぜ繁栄している商店街は1%しかないのか』―商店が先か、住民が先か?他」で、商業集積の形成よりも住民の移住促進の方が先決だと書いたが、今になって読み返すとロジックの詰めが甘いと感じた。どうやら、どちらが先かという簡単な話ではなさそうだと反省した)。




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