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『理念なき東京オリンピック(『世界』2016年2月号)』―同性婚はなぜ法的に認められないか、他
『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他
飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(2/2)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

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(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
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2016年02月24日

『理念なき東京オリンピック(『世界』2016年2月号)』―同性婚はなぜ法的に認められないか、他

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世界 2016年 02 月号 [雑誌]世界 2016年 02 月号 [雑誌]
岩波書店

岩波書店 2016-01-08

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 (1)
 「同性カップルは子どもが産めない」ということがいろいろな場面で言挙げされる。しかし、仮に産めないとしてどうだというのだろう。(中略)私たちの誰も、「生殖能力」が結婚の条件だなどとは考えていない。もちろん民法もそんなことは要求しない。
(中川重徳「ヘイトスピーチにさらされる性的マイノリティ」)
 「産めないとしてどうだというのだろう」と開き直られても困る。憲法が男女の婚姻のみを法的に認め、民法が夫婦同姓(9割以上は夫の姓に統一)を通じて、明治以来の家制度を事実上温存しているのは、国家が家に対して国民の再生産機能を期待しているからである。別の言い方をすれば、夫婦は子どもを産んで、家の中で家族の一体感を醸成し、子どもがよき国民へと育つように家の中で一定の教育せよ、ということだ。だから、それが可能な夫婦・家族は法的に保護される反面、それができない夫婦・家族は保護のレベルが下がるのは当然である。

 まして、国民の減少につながる同性婚を法的に認めることは、国家が自らの存続を放棄するようなものであり、考えられない。性的マイノリティは人口の5%程度であり、その割合は急激に増えるものではないから、同性婚を認めてもよいではないか?という声はあるだろう。しかし、これは数の問題ではない。国家の機能にかかわる根源的な問題である(一言つけ加えておくが、私は決してLGBTIを社会のあらゆる場面において区別したいのではない。あくまでも婚姻・家族という問題に関しては、上記のような理由から区別が必要だと言いたいだけである)。

 (2)
 要は、新国立競技場は建設費、さらに周辺の整備事業や維持費も発生してそこにゼネコン、新たな業者も絡むなど「利権」が生まれる。建物の規模や予算は大きければ大きいほどいい。「利権」は当然膨らんで行く。
(村嶋雄人「ふたつの「利権」の正体 東京五輪の長い影」)
 コストが膨らんだのは新国立競技場だけではない。当初、東京五輪全体のコストは約3,000億円と見積もられていた。IOCへのプレゼンでもこの数字を用い、省エネ型の五輪を訴求することで誘致に成功した。ところが、後からもう一度試算すると、当初の6倍に相当する1.8兆円が必要になりそうだと判明した。その後、金額はさらに膨らみ、今では3兆円ほどと見積もられている。国・東京都のずさんさは批判を免れえないだろうが、IOCも日本のプレゼン内容をもっとシビアに検証すべきだった。2008年の北京五輪は3.4兆円、2012年のロンドン五輪は3.2兆円かかっていたとことに照らし合わせると、日本が提示した3,000億円という数字はどう考えてもおかしい。

 日本人は将来にゴールを設定し、そこから逆算して現在必要なことを整理するバックキャスティング的な発想が苦手である。通常は、まずどういう五輪を実施するのか、競技種目数、参加選手数、選手に付随するスタッフ数、競技の観戦者数などの想定値を決めるところからスタートする。そして、その値をカバーするために、どの場所にどのくらいの競技場、宿泊施設を用意するのか、施設間の移動に用いられる交通機関にどの程度のキャパシティを要求するのか、競技実施時や人の移動時にはどのくらいの規模の警備が必要なのかなどを考える。だが、日本人は現在からの積み上げ方式で予算を組むため、あれもこれもと追加するうちに予算が膨れ上がる。

 東京五輪の話からは外れるが、日本人のもう1つの悪い癖として、「歴史がない」ことが挙げられる(以前の記事「山本七平『「常識」の研究』―2000年継続する王朝があるのに、「歴史」という概念がない日本」を参照)。今年に入ってから、廃棄食品の横流し問題やツアーバスの交通事故が発生したが、いずれも既視感があった。歴史がある国は、何か問題が起きればその原因を調査し、再発防止策を報告書にまとめて横展開する。歴史から学ぶとはこういうことである。

 欧米はこういうことをしっかりやっている印象がある。アメリカは金融危機が起きるたびに様々な検証を行い、同じような危機を防ぐためのメカニズムを金融システム全体に挿入する。中国では、王朝が交代するたびに前代の歴史書が作成される。もちろん、現在の王朝を正当化し、前代を否定するために、前代を徹底的に悪者に仕立て上げるという問題はある。だが、前代のような悪い政治を行ってはいけないと自らを戒める点ではどの歴史書も共通している。一方の日本人は、何か深刻な事件・事故が起きても、どういうわけか「自分だけは同じようなことから逃れられる」と楽観的に構えている。だから、事件・事故を他山の石とせずに対岸の火事としてしまう。

 (3)
 東北大学災害科学国際研究所と河北新報社が宮城県内で行った被災者アンケートの結果は厳しい評価だった。復興状況と被災者の意識の推移を検証する試みとして震災2年目から継続されている調査で、テーマの一つは「この1年間で不公平に感じたこと」。
(寺島英弥「現実の遠い彼方にある幻夢 東北の被災地からみた”復興五輪”」)
 引用文の調査結果の概要が河北新報「<震災4年>実態と合わぬ援助に疑問」(2015年3月10日)に掲載されていた。不思議なことに、「自立を妨げる過剰な支援」が82.5%、「非被災地からの企業の流入」が82.4%を占める。この結果はどのように解釈すればよいのだろうか?アンケート結果報告書から自由記述を拾ってみたかたったのだが、肝心の報告書が見当たらず断念した(どなたか見つけたら教えていただけるとありがたいです)。

不公平に感じたことと納得度

 (4)
 画面で人影を見ていると、即刻どこからか、「武器を確認。地上軍からの援護要請あり。爆撃を許可する」と聞こえてくる。そこでミサイルが発射される。安全監督官が秒読みに入り、ゼロまで数えて、叫ぶ、「はっしゃあああ!」画面の男から血が噴き出す。ミサイルが両足のひざから下を吹き飛ばしたのだ。大腿動脈からどくどくちが流れ出る。地面を転げまわっている。彼の死に様が想像できた。
(フアン・ゴンザレス、エイミー・グッドマン「ドローン戦争は民間人を殺し、テロを煽る」)
 アメリカはドローンを使って民間人を殺害していると、4人の元米兵が告発した。ドローンは標的を個別に攻撃できるため、空爆のように民間人を巻き添えにすることがないと言われる。しかし、実際には司令部の一存で民間人を殺害しているようだ。記事によると、ドローンによる攻撃の担い手として、ゲーマーが積極的に採用されているという。彼らはマルチタスクに長けていること、また命令の意味をあれこれ考えないという点が高く評価されているらしい。

 人間は、攻撃対象からの物理的・心理的距離が遠くなると、攻撃対象への同情がなくなり、攻撃が過剰になる傾向がある。例として適切ではないかもしれないが、古代の人間が自らの手で狩猟を行って肉を食べていた時期は、動物の命に感謝して肉を大切にしていたと思う。それが、現代になると飼育、屠殺、加工のプロセスが工場のように効率化された上に、消費者がそのプロセスの内情を意識する必要がなくなった。すると、消費者は平気で食べ残しを廃棄してしまう。ということは、家畜が必要以上に屠殺されていることを意味する。

 古代の戦争では、兵士が1対1の攻撃で相手を殺していた。おそらく、人を殺めることで生き残った兵士は、もう2度と戦争をしたくないと思ったに違いない。中にはPTSDを発症した者もいるだろう。しかし、戦争が大規模化し、兵器が高度化すると、相手をまとめて攻撃できるようになった。攻撃する側には、相手の1人1人の顔は見えない。だから、相手は人間として認識されない。もはや単なるモノにすぎない。そして、モノに対する攻撃はゲームである(もちろん、戦闘の非人間化により、戦ううちに自らの心が失われるようだとして精神病を発症した者もいるが)。

 1対1の戦闘が集団対集団となり、その戦いが最大化したのが20世紀の2度の世界大戦であった。21世紀にドローンが登場すると、再び1対1の戦闘へと回帰した。私などは考え方が安直なので、これによって我々は生身の人間と再び対面し、それが戦争を嫌厭する動きを生み出すかもしれないと少し期待していた。ところが、どうやら事はそれほど簡単ではなさそうだ。

 (5)
 ISがマスコミに大々的に登場以来、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタールなど湾岸諸国が軍資金をはじめ様々な支援をしているとの報道や専門家の指摘が欧州、特にドイツで行われた。支援しているのはこれらの国の民間の有志やグループであり、政府ではないという。だが、これらの国の政府がそれを厳しく取り締まれないはずはない。(中略)米欧政府は、これらの国からのISへの支援を長期間、見逃していたのだ。

 もっと問題なのは、「平和の旗手」のはずのスウェーデンを含め米欧諸国が世界の兵器輸入で横綱級のサウジアラビアをはじめ、これらの湾岸諸国に大量に兵器を輸出してきたことだ。(中略)米欧の場合、これらの湾岸諸国がシリアなどの紛争地帯へ兵器を再輸出する恐れが100パーセントあることを承知での輸出だった。
(谷口長世「見えない世界戦争に巻き込まれた欧州」)
 以前の記事「『安保法制、次は核と憲法だ!/「南京」と堕ちたユネスコ・国連/家族の復権(『正論』2015年12月号)』」などで、二項対立的な発想で敵国と激しく対立する欧米の大国は、実は裏で敵国にも賭けていると書いた。欧米諸国は、サウジアラビアなどスンニ派の湾岸諸国に武器を輸出すれば、ISの助長を引き起こし、さらにシリアへの武器流出を招くことを容易に想像できたはずである。それでも武器輸出を止めないのは、自国の武器によって敵が力をつけ、対立が深刻化すれば、自国がさらに武装して力を蓄える口実になるからであろう(加えて、国内の武器需要が増えて軍事産業がもう一儲けできるという経済的な要因もある)。

 こういう発想は、日本人にはおそらく永遠に理解できない。日本人は、アメリカで銃による殺人事件が起きるたびに、日本のように銃を規制すれば事件は激減すると考える。ところが、アメリカ人は、銃による殺人事件が起きるのは、銃による自衛が足りないからだとして、より一層銃を流通させる。それがたとえ潜在的な犯罪者の手に銃が渡る機会を増やすとしても、である。核兵器も同じだ。日本は、アメリカが率先して自国の核を放棄すれば、世界から核をなくすことができると言う。だが、アメリカは、他国に核保有の可能性がわずかでもある限り、自分から核を放棄することはない。アメリカのそのような姿勢が、北朝鮮などの核武装を誘発するとしても、である。

 (6)
 今回も中枢の連邦移民難民庁が再び麻痺し、2015年末までに難民申請の未審査が何と35万件にも達しており、このままでは多くの難民がさらに長期に審査結果を待たねばならない。長官が辞任し、あわてた連邦内務相が同庁職員を2800人から倍増させると発表した。しかし専門職の増員は研修などで最低でも半年はかかるため、早期の改善は先のことだ。
(梶村太一郎「メルケル首相の決断と難民問題で「明と暗」に引き裂かれるドイツ」)
 EUではシリアからの難民の受け入れが問題になっているが、日本は難民をほとんど受けれていないことで、国際的に非難を浴びている。法務省の発表によると、2015年の申請者数は2014年の5,000人に比べて52%増の7,586人となり、5年連続で過去最多を更新した。一方、難民認定されたのは27人で、前年より16人増えたものの、申請数の1%に満たない。こうした状況は以前から変わっていないという。難民認定に携わる「難民調査官」は、全国に約130人しかいない。ドイツが連邦移民難民庁の職員を2,800人から倍増させようとしているのとは対照的である。

 (7)
 渡辺:必ずこれらの損害を明らかにして、原発事故にはこれだけコストがかかる、原子力災害は絶対起こしてはいけないものだったということを明らかにするのが僕らの仕事だと思っています。しつこいまでに訴訟などを起こしていくつもりです(笑)。
(日野行介、吉田千亜、渡辺淑彦、除本理史「福島「避難終了政策」は何をもたらすか」)
 最後に揚げ足を取るようなことを1点。引用文末の「(笑)」とは一体どういうことなのだろうか?福島原発事故をめぐる国の責任を徹底的に追及するという覚悟を込めた不敵な笑みなのだろうか?それとも単に、訴訟が起きれば起きるほど弁護士である渡辺氏の仕事が増えるから嬉しいという意味なのだろうか?仮に後者だとすれば、はなはだ不謹慎である。

2016年02月22日

『「坂の上の雲」ふたたび~日露戦争に勝利した魂を継ぐ(『正論』2016年2月号)』―自衛権を認める限り軍拡は止められないというパラドクス、他

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正論2016年2月号正論2016年2月号

日本工業新聞社 2015-12-25

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 (1)
 我が国は、日露戦争の勝利を起点として前進を続け、国際社会において、アジア・アフリカ諸民族の希望を具現化させていく。すなわち、我が国は、日露戦争から14年後の第1次世界大戦のベルサイユ講和条約において、人種差別撤廃を掲げたのだ。(中略)そのうえで、大東亜共同宣言を発して諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を掲げて戦いの大義を世界に明示し、さらにチャンドラ・ボースと共にインド独立のために闘った。
(西村眞悟「「坂の上の雲」ふたたび 日露戦争に勝利した魂の承継」)
 いつも『正論』には甘くて『世界』にばかり厳しいと言われそうなので、たまには『正論』に対しても苦言を呈したい。太平洋戦争は白人至上主義を打破し、アジア、アフリカの人々を差別から解放する目的があったと言われる。そう聞くと、日本は人種差別の撤廃に向けて非常に積極的な国のように感じる。しかし、実際のところ、現在の日本の人種差別撤廃に対する取り組みは、世界的に見ても非常に遅れている(以下、『世界』2015年10月号より引用)。日本が太平洋戦争で人種差別撤廃を掲げたのは、乱暴な言い方かもしれないが「たまたま」だったのかもしれない。
 この法案(※人種差別撤廃施策推進法案)は、国の人種差別撤廃に関する基本原則・方針を定める基本法である。障がい者差別に対する障がい者基本法、女性差別に対する男女共同参画基本法に相当する。日本は1995年に人種差別撤廃条約に加盟し、同条約が国内法の一部となったにもかかわらず、その後20年もの間、「人種差別を禁止し終了させる義務」(同条約2条1項d)を怠り、基本法すら制定してこなかったのである。
(師岡康子「審議入りした「人種差別撤廃施策推進法案」の意義」)
世界 2015年 10 月号 [雑誌]世界 2015年 10 月号 [雑誌]

岩波書店 2015-09-08

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 私は様々な差別に対してどうこう言えるほどの知見があるわけではないのだが、ただ1つだけ思うのは、何でもかんでも平等にすればよいという極端な考え方は受け入れがたいということだ。行きすぎた平等は違いを無視することであり、それはかえって逆差別につながる。我々は多様な存在である以上、差異が生じるのは当然である。問題なのは、差異が根拠のない迷信や思い込みによって、能力の過小評価につながることだ。我々は、差異を尊重し、各人の能力に応じた地位と役割を社会の中で確保するよう努める必要がある。それが公正な社会である。

 (2)
 戦時国際法は、「自己保存の原則」に立っているからである。個人に生存権があるように、また国家に自己保存権があるように、軍隊にも自己保存の原則が認められる。捕虜を殺さない、という規範は、権力を持っている側が、捕虜集団に対して圧倒的に優位に立っている場合に限られるのである。
(藤岡信勝「「南京大虐殺」論争の最新焦点」)
 個人の生存権、国家の自己保存権を援用して、軍隊に自己保存の原則が働くとしているが、国際法的にはそんな話は聞いたことがない(その証拠に、個人は生存「権」、国家は自己保存「権」となっているのに対し、軍隊は自己保存の「原則」となっている)。引用文を素直に読むと、軍隊が捕虜集団より不利な場合は、自己保存の原則が働いて捕虜を殺害してもよいということになる。だが、捕虜集団より不利か否かはどうすれば判断できるのか?権利(原則)行使の可否をそのような曖昧な基準に頼らなければならないとすれば、もはや法として機能していない。

 そもそも、軍隊が捕虜集団より不利とはどういうことだろうか?その軍隊は敵よりも優位であったからこそ、相手を捕虜にできたのではないか?だから、軍隊が捕虜集団より不利ということは、最初からあり得ない話ではないのか?この引用文には色々と突っ込みたくなる。

 (3)
 古田:僕は、神がこちら側にあるという理性信仰だと思いますね。自分たちの認識の外「向う側」に神があるのではなく、自分たちの理性が神になり得る。その理性が、自分たちを救うのだというね。それはヘーゲルの中に既にあった。ヘーゲルの思想では、歴史が発展していくと最後は精霊の時代になるんですよ。そして、そこの最後にいる神が絶対精神ですよ。(中略)そういう、こちら側のメシアニズムっていうのがあった。
(富岡幸一郎、古田博司「ISテロ、中国、ドイツ、反知性主義批判・・・近代は終わった。そして我らは」)
 以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」などで、神の存在と人間の理性をともに絶対視する西欧的な思想を取り上げた。その発端の1つは近代の啓蒙主義であり、それが行き過ぎた結果がドイツのファシズムであると書いた。だが、啓蒙主義とは人間の理性の力を強く信じ、神の存在を後退させたのではないか?この点が先の記事の内容と相容れないのではないか?という疑問が私の中に残っていた。その疑問を解消してくれたのがこの記事である。神の絶対性/無限性と人間の理性万能主義が両立しうる「こちら側のメシアニズム」というものがあることを教えてくれた。

 (4)最近の『正論』には「不戦条約と満州事変の考察」(福井義高)という連載が掲載されており、第1次世界大戦後のパリ不戦条約によって自衛以外の戦争が違法化されたにもかかわらず、アメリカとイギリスが戦争の範囲をなし崩し的に拡大していったと書かれている。ここで、国家に自衛権がある限り、世界の軍拡は止められないというパラドクスについて取り上げてみたい。

 周知の通り、自衛権は国家に固有の自然権として国際法的に認められている。一方で、現在の国際法では戦争も禁じられている。各国は、自国を防衛するための必要最小限の実力(本来は「武力」だが、日本では自衛権を担う自衛隊のことを「実力」と呼んで区別するため、本記事でもそれに従う)を保有する。相手国への攻撃につながるような、過度な軍備は自粛する。仮に、全ての国が必要最小限の実力のみを保有するのであれば、武力衝突は生じない。よって、この場合は最終的に必要最小限の実力すら不要となる。世界からは一切の武力が消滅する。したがって、そもそも自衛権というものを想定する必要がない。

 だが、実際に自国が必要最小限の実力を解除できるのは、相手国が絶対に自国を攻撃してこないという自信がある場合のみである。そのためには、相手国との間で保有する武器に関するオープンな情報共有を行い、揺るぎない信頼関係を構築することが条件である。とはいえ、世界中の国とそのようなやり取りをするのは不可能に近い。「あの国は我が国を攻撃してくるかもしれない」という不安や恐れが少しでもある限り、必要最小限度の実力は増大せざるを得ない。そして、相手国もそのシグナルを受け取って実力を増大させるから、世界は軍拡競争へと突入する。

 こうして世界中の国が軍拡を進め、これ以上軍拡をすれば本当に戦争になるかもしれないという危機感が国家間で共有されると、初めて軍縮に向けた協議が開始される。米ソ冷戦で両国が経験したのがまさにこのプロセスであった。戦争に対するアレルギーが強い日本人は、そんなまどろっこしいことをしなくても、最初から武力を完全に禁止すればよいのでないかと考えてしまう。だが、自衛権を認める限り、このようなストーリーはどうしても避けられないのだ。仮に、国家は自衛権を放棄すればよいと日本が提案しても、おそらくどの国にも通らないであろう。

 今年に入ってから、北朝鮮が水爆の実験に成功したという話が出た。アメリカなどは北朝鮮の威嚇行為を止めさせようとしているが、北朝鮮の軍隊が韓国の軍隊と比べて非対称である限り、また北朝鮮の核がアメリカの核と比べて非対称である限り、北朝鮮は軍拡を進める。日本はそのことを覚悟する必要がある。体のいい制裁や懐柔でどうにかなる相手ではない。

 《2016年10月13日追記》
 佐藤優『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)より引用。西欧のプロレタリアートが社会主義革命に賛同するというロジックはよく解らないが、そこに至るまでの軍拡⇒軍縮の流れは理解できる。
 私はフルシチョフの息子(セルゲイ・フルシチョフ)と親しくしていました。彼と話をしていて、父親(フルシチョフ)はミサイルを数千基持つことで社会主義陣営は帝国主義国が仕掛けてくる戦争に対して勝利することが可能なので、そのような状況で自殺行為である戦争に帝国主義陣営が踏み切る蓋然性は低くなり、平和共存政策による軍事費の削減でソ連・東欧諸国の国民の生活水準も確実に上がるし、それを見た西欧のプロレタリアートは社会主義革命に引き寄せられると計算していたというのが本心だったとわかりました。
国家と神とマルクス  「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)
佐藤 優

角川グループパブリッシング 2008-11-22

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2016年02月18日

飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(2/2)

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クリプキ ことばは意味をもてるか シリーズ・哲学のエッセンスクリプキ ことばは意味をもてるか シリーズ・哲学のエッセンス
飯田 隆

NHK出版 2004-07-23

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 (前回の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1/2)」の続き)

 我々が日常生活の多くの場面で依拠しているのは帰納的推論である。これに従うと、「昨日まで正しかったことは、今日も正しいはずだ」と判断できる。例えば、鮮やかな緑色をしたエメラルドの色を今まで「グリーン」と表現してきたのだとすると、今日新たに緑色のエメラルドを見れば、その色は「グリーン」だと断言するに違いない。ところが、昨日まで正しかったからと言って、今日も正しいと言える根拠は一体どこにあるだろうか?

 本書では、次の定義からなる「グルー」という言葉が登場する。
 何かがグルー(grue)であるとは、その何かがこれまでに観察されたことがありグリーン(green)であるか、あるいは、その何かがまだ観察されたことがなくブルー(blue)であることである。
 これは、エメラルドの色がそれを取り出した瞬間に、物理的に変化するということではない。観察されたことのある緑色のエメラルドの色を「グリーン」と呼び、まだ観察されたことがない緑色のエメラルドの色を「ブルー」と呼ぶということである。私の友人は、ポケットから今まで見たことがないような緑色のエメラルドを取り出した。友人は「これは何色か?」と尋ねるので、私は迷わず「グリーン」と答える。すると友人は、「違う、これはブルーだ」と反論する。友人は上記のような「グルー」という言葉を持っているため、それに従えばエメラルドは「ブルー」になるのである。

 色のような曖昧な概念だからこういう混乱が起こるのだろう。誰がやっても必ず同じ結果になる数学なら問題は生じないはずだ。今度は友人が「68+57はいくつになるか?」と尋ねてきた。私はすかさず「125」と回答する。ところが友人は、「違う、正解は5だ」と、またしても私の意見を否定するのである。友人は、「+」で表されるのは次のような「クワス算」だと言う。
 x+y(※本書の中では、○の中に+を記入)
  =①x+y(xとyがどちらも57より小さいとき)、②5(それ以外のとき)
 もちろん、私の「グリーン」や「足し算」が間違いで、友人の「グルー」や「クワス算」が合っているというわけではない。友人の言葉は、例えば「グレッド(何かがグルー(gred)であるとは、その何かがこれまでに観察されたことがありグリーン(green)であるか、あるいは、その何かがまだ観察されたことがなくレッド(red)であることである」であっても、「足し引く算(x+y=①x+y(xとyがどちらも57より小さいとき)、②x-y(それ以外のとき))であっても、何でもよい。

 私は、「『グリーン』は緑色を意味する」、「『+』はプラスを意味する」と考えている。私はこれまで、「グリーン」=緑色としてたくさん会話をしてきたし、「+」=プラスとしてたくさんの問題を解いてきた。命題を真たらしめる事実は十分に収集したと自信を持っている。ところが、友人はそれではダメだと言うわけだ。「A(言葉)ならばB(意味)」という命題以外の命題が無限に成立しうる以上、「AならばB」という命題のみを真たらしめる事実はどこにも存在しない。ということは、言葉が意味を持つということ自体が、意味を持たないことになる。
 だれであれ、また、どんな言葉であれ、だれかがある言葉で何かを意味していたとか、意味しているという主張を正しいものとするような事実は存在しないという結論が得られる。だれかがそれによって何かを意味するのでなければ、言葉が意味をもつということはありえないのだから、言葉が意味をもつという事実もまたありえない。事実の全体をくまなく探索したとしても、「+」がプラスを意味するとか、「グリーン」がグリーンを意味するといった事実を、そこに見つけることはできないのである。
 これは、考えようによっては非常に恐ろしい話であると思う。我々は言葉によって何かを意味することができない。ということは、言葉を通じて外界に積極的にアクセスすることができない。言葉を通じて環境を認識することも、他者を理解することもない。確かに我々はお互いに何かしらの言葉を発するだろうが、それはもはや意味を運ぶ媒体ではなく、おそらく動物と区別のつかない鳴き声のようなものにすぎないのかもしれない。

 デカルト以来の哲学では、以下のような「私的言語」を前提としているという。上記の動物の鳴き声に近い言葉は、私的言語のようなものだろう。
 一方には、言葉の意味は、それが指す対象であるという考え方があり、もう一方には、経験は根本的に私的なものであって、自分がどのような経験をもっているかは他人には知りえないことだという想定がある。両者あいまって、経験について語る言語は、他人には理解することが論理的に不可能な私的言語ということが帰結する。たとえば、「痛み」という言葉の意味は、それが指す対象、すなわち、痛みの感覚であり、この感覚は私にしか知りえず他人には知りえないものであるから、「痛み」は、私だけが理解することができる言葉だということになる。
 言葉が意味を持たず、外界との接触が難しくなれば、我々は自分の殻に閉じこもるしかない。だが、自分の殻に閉じこもっても、外界からの刺激は否応なしに我々の中に飛び込んでくる。言葉が意味を持てば、その刺激を言葉によって取捨選択できる。言葉の意味は、世界の一部分をどのように切り取るのかを表すものだからだ。しかし、言葉にその機能がない以上、我々の中に流入する刺激は無制限になる。しかも、その流入の仕方は、どの人にとっても同じである。つまり、我々は等しく無限性を抱え込む。しかし、一人一人は自分の殻に閉じこもり孤立している。これが、前回の記事で示した図のうち、右上の象限に該当するように思えるのである。

 ただ、クリプキの議論はここでは終わらない。意味についての言明は事実的言明ではない、つまり、言葉は事実を意味するものではないとすれば、言葉は一切意味を持たないという破滅的な結論を回避することができる。ここで、ヒュームの「投影主義」を導入する。
 ヒュームによれば、ある出来事が別の出来事の原因であるとわれわれが言うとき、出来事自体は世界の構成要素であるが、それらの間にわれわれが帰する関係―因果関係―は、本来世界に属するものではない。それは、その本性に従うところ必然的にとはいえ、われわれ人間が世界に「読み込んだ」ものでしかない。このように、世界の事物にわれわれが帰する性質のあるものは、実際はわれわれの態度の「投影」であるとする立場のことを「投影主義(projectivism)」と呼ぶ。
 私が「AならばBである」と信じていることを相手に解ってもらい、相手も「AならばBである」と信じているように思うこと、この繰り返しによって、双方の間で「AならばBである」という信念が成立する(前述のように、「AならばBである」ことを示す事実は存在しないので、「AならばBである」は決して真ではない)。言葉は人間同士の度重なるやり取りを通じて、たとえそれが絶対的に正しいとは限らなくとも、意味を獲得していく。これは、我々の通常の言葉の使用方法からして、十分に納得できる。デカルトの私的言語のように、個人の中で完結した言語というのはあり得ない。
 「痛み」という言葉で私が何かを意味できるためには、私は他の人々から是認されるような仕方で「痛み」という言葉を用いることができなければならない。痛み」のような私的な感覚を表す言葉であってさえも、それに意味を付与するのは、私ではなく、共同体における一致なのである。ここに私的言語のようなものが存在しうる余地がないことは明らかである。
 言葉の意味は事実に関する言明ではないという主張を受け入れると、我々は他者との関係を失う。一方で、我々は外界からの刺激を無限に受け入れ、等しく無限性を内包した同質の存在になる。これは、下手をするとファシズムにつながるような危険な考え方だ。ここに、他者や共同体の存在を挿入すれば、言葉を通じて意味を能動的に獲得する活動を想定することができる。その意味は必ずしも真ではなく、あくまでも主観的にすぎない。だが、主観的であるからこそ、他者との間に違いが生まれるし、それを尊重するという倫理的な道が開けるように思える。


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