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市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?
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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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2016年07月28日

市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく


社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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 ルソーは、『人間不平等起源論』(以下、『不平等論』)で社会の不自由・不平等を暴き、『社会契約論』で自由・平等な社会を提起した。ルソーはまず、自然的または身体的不平等、すなわち、自然によって定められるものであって、年齢、健康や体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている不平等が存在すると指摘する。また、身分制という制度が不自然、人為的に生み出された不平等の装置であると告発する(「市民」を表す"civil"という単語の語源は身分制を前提としていることは、以前の記事「『非立憲政治を終わらせるために―2016選挙の争点(『世界』2016年7月号)』―日本がロシアと同盟を結ぶという可能性、他」で少し触れた)。

 その不平等を克服し、敢えて平等を創り出そうというのがルソーの「社会契約」である。『不平等論』では、人民は政治を付託した者に自ら追従するという服従契約の要素があったが、『社会契約論』ではこの点が修正された。服従契約においては、支配者と服従者が契約前に既に決まっていることが前提となっている。これに対して『社会契約論』では、契約の以前にも契約の外にも契約の相手はいないという論法で、人民を服従契約の枠組みから解放した。これを私なりに解釈すれば、一方を権利者、もう一方を義務者と区別せず、あらゆる人民が統治者であると同時に被統治者でもあるという両面性を有する契約にした、ということになる。

 「社会契約」においては、原則として所有権が否定される。『不平等論』では明確に所有権が否定されたが、『社会契約論』では、所有権を認めつつ、それを是正する方向へと修正された。ただし、ここで言う所有権とは、我々が一般的にイメージする所有権とは異なる。ルソーの所有権は、マルクスの所有権と共通する。マルクスは、各人が孤立した状態で手にする「私有」(我々が「所有権」という場合にはこちらを指す)と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」を区別した上で、全社を否定し後者を肯定している。つまり、全ての人といくらかを持つことが、ルソーやマルクスにおける所有権の意味である。

 ルソーは、不平等な状態を、社会契約によって平等にしようとした。一方、ルソーと同じく啓蒙思想家として名前が挙がるイギリスのロックは、考えが全く正反対である。ロックの場合、平等は自由とともに自然状態に帰属し、この自然状態から出発して各人が平等に与えられた(はずの)「身体」を自由に用いる。すなわち、自由に「労働」することによって所有権が正当化される。社会的なもの=社会的な美徳・道徳性は、この所有権から導出される不平等の枠内にとどまるように強いられる、という構図である。社会的なものは、決して不平等を批判したり、告発したりしない。

 ルソーは自由をどのように考えているか?前述の通り、ルソーは「個人的所有」を肯定した。しかし、いくら全ての人といくらかを持つと言っても、自分の財産を他人と比較し、他人よりもより多く持ちたいと欲するのが人間の性である。ルソーはこうした心の働きを「自尊心」と呼んだ。ルソーは、自尊心を批判し、その代わりに「自己愛」を持つべきだと説いた。自己愛とは他者への同化である。つまり、「私の財産は私のものであると同時に、あらゆる他者の所有物である。また、あらゆる他者の財産はそれぞれの者の所有であると同時に、私の所有物である」と考えることである。自尊心を原因とする不平等の意識から自己愛に至ることが、ルソーの言う自由である。

 端的にまとめると、ルソーは自然的・人為的な不平等を社会契約によって矯正し、あらゆる人民を統治者であると同時に非統治者にしようとした。また、財産については個人所有でありながら同時に共同所有であると見なすことで、不平等意識からの自由を説いた。つまり、ルソーの社会契約の下では、1人がすなわち全体と等しく、全体がすなわち1人と等しいと言える。これは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」で書いたように、全体主義につながる考え方ではないだろうか?

 本書では、ルソーの次のような言葉が紹介されている。
 「統治者が市民に向かって「お前の死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで安全に生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから」(今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』岩波文庫、54頁)。あるいは、「主権者」は「市民宗教」を「信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。・・・のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむことになろう。彼らを〔正しい宗教に〕つれもどすか迫害するかが絶対に必要である」(同前、191~192頁)。
 この激しい言葉の連続を読めば、ドラッカーが『産業人の未来』(初版は1942年)の中で書いた次の文章もよく理解できるように思える。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 ここからは私の考えを述べたい。アメリカはどうなのかと言うと、ロックのようなイギリスの伝統を引き継いでいるから、人間は生まれながらにして自由で平等であると考える。人間は唯一絶対の神に似せて創造された万能な存在であるから、どんな職業でも成功して金持ちになれる可能性を秘めている。経営者でも技術者でもアーティストでも職人でも農家でも医者でも教師でも聖職者でも、何でも好きな職業を自由に選択してよい。そして、選択した職業を全うすることを神と契約する。相手が神であるから、契約内容は絶対である(以前の記事「『しなやかな交渉術(DHBR2016年5月号)』―「固定型」のアメリカ、「成長型」の日本、他」を参照)。

 とはいえ、全てのアメリカ人が神との契約を履行できるとは限らない。契約内容に瑕疵があったためかもしれないし、本人が契約履行の努力を怠ったからかもしれない。そのため、出発点は自由・平等でも、やがて不平等が生じる。だから、自由でありながら不平等になるのがアメリカ社会である。いや、その不平等が原因となって様々な機会への自由なアクセスが制限され、不自由に陥ることがあることを踏まえれば、不自由・不平等な社会と言うのが正しいのかもしれない。ただし、不自由・不平等の原因は本人に帰せられる。神はせっかく自由で平等な存在として世に送り出したのに、本人がその機会を十分に活かさなかったというわけである。

 (※)これはアメリカの理念的な話をしているだけであって、政府や社会が実際には不自由・不平等を是正するために施策を展開していることを私が忘れているわけではない。

 日本の場合、出発点は不自由・不平等である。以前の記事「『一生一事一貫(『致知』2016年2月号)』―日本人は垂直、水平、時間の3軸で他者とつながる、他」で書いたように、日本人は階層社会に組み込まれて周囲の制約を受ける。ただ、日本人の不思議なところは、そういう制約があった方がかえって自由に振る舞えるようであるということだ。日本人は階層社会の一部分にずっと固定されているわけではなく、水平・垂直方向に比較的自由に移動するという特徴がある(水平方向に関しては、組織内の「ジョブローテーション」、組織間の「業界団体」など。垂直方向に関しては、山本七平の「下剋上」、金井壽宏教授の「ミドルアップダウン」など)。

 アメリカ人が唯一絶対の神に似せて創造された完全体であるのに対し、日本人は不完全な存在であるから、人によって能力には差がある。つまり、職業の向き・不向きがあることを意味する。しかも、アメリカ社会が水平的でどの職業でも成功すれば儲かるのに対し、日本は階層社会であり、基本的に階層が下になればなるほど儲けが小さくなる。よって、自分が向いている職業が必ずしも儲かるとは限らない。この点で、日本人は不平等である。

 さらに言えば、自分が一体何に向いているのか/向いていないのかは、本人にも解らない。だから、日本人は様々な分野に挑戦し、あれでもない、これでもないと彷徨いながら、自分の能力と適所を発見する必要がある。自分が向いている職業がたとえ儲からない職業だったとしても、それを受け入れるしかない。階層社会の中で与えられたポジションにおいて、前述のように不自由の中で多少の自由を発揮する。これが日本人の生き方である。アメリカ人は自由・平等から出発して不自由・不平等に至るのに対し、日本人は不自由・不平等から出発して、結局不自由・不平等のままである。これが日本とアメリカの大きな違いである。

 もちろん、私も不自由・不平等を放置しておけばよいなどとは思っていない。私が目指しているのは、各人の能力の違いによって、適材適所が実現される社会である。だから、能力の発揮が阻害される構造的な要因(家庭の事情で志望校への進学を諦めた、女性や中高年社員が子育てや介護のために離職しなければならない、など)は取り除くべきであると考える。


2016年07月27日

市野川容孝『社会』―民主主義に議会制は必須なのか否か?


社会 (思考のフロンティア)社会 (思考のフロンティア)
市野川 容孝

岩波書店 2006-10-26

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 本書は社会の構造や特徴を分析した社会学の書籍ではない。「『社会的』であるとはどういうことか?」を問うた1冊である。「『社会的』である」とは、一言で言えば「自由」かつ「平等」であることである。そのためには租税国家の仕組みを活用すべきであり、その仕組みは民主主義に立脚していなければならない、というのが著者の主張である。

 著者によると、西洋で「社会」と言えば、社会主義、すなわちマルクス=レーニン主義を意味したという。社会的な国家とは、すなわち福祉国家のことであり、分配によって平等を実現することが正義とされた。社会は規範的な概念である。その社会主義は、一般的には1989年のベルリンの壁の崩壊によって終焉を迎えたかのように認識されているが、現場であった東ドイツにおいては、自由を獲得する「革命」として位置づけられていた。こうして、西洋では社会的なものが自由主義によって前向きに書き換えられるという能動的な体験をしている。

 これに対して、日本では「社会的」という言葉の意味が政治的に厳しく問われることがなかった。その表れとして、著者は、日本で政党名に「社会」という語が入る政党が激減していることを指摘している。政治を通じて「社会的なもの」を実現しようとする勢力は少なくなっている。

 本書の中で著者は、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの面白い議論を紹介している。冒頭で、「社会的である」とは「自由」かつ「平等」であることだと述べた。しかしベンヤミンは、「社会的なもの」とは何か?社会の正しい目的とは何か?という議論を一旦脇に置いて、その目的を実現する正しい手段は何か?を問うこととした。これは非常にユニークな論法である。

 ブログ別館の記事で紹介した「エリン・メイヤー『異文化理解力―相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養』」では、アメリカ人やイギリス人が応用優先、帰納的思考であるのに対し、ドイツ人やフランス人は原理優先、演繹的思考であると書かれていた。別の言い方をすれば、アメリカやイギリスはすぐに役に立つ結論を欲する。他方、ドイツやフランスは、どのような論理の道筋で考えたのかというプロセスを重んじる。アメリカやイギリスにとっては達成すべき目的こそが全てであり、目的が明確でなければ手段を考えようがない。ところが、ドイツ人のベンヤミンはその思考プロセスを変形して、上記のような新たな思考の枠組みを設定している。

 ベンヤミンは、「社会的なもの」を達成する手段は民主主義であると論じた。これを「社会民主主義」と呼ぶ。1848年、フランスでは二月革命が起こり、王制の廃止と憲法の制定により共和制へと移行した。その影響はドイツにも及び、帝国領内の諸民族が民族自治権や民族の諸権利の要求、憲法の制定、民主主義の実現を求めて立ち上がった。これが三月革命である。これ以降も、フランス二月革命に端を発する運動はヨーロッパ各地に波及し、1815年以来、君主制に立脚する列強を中心に自由主義運動を抑圧してきたウィーン体制は崩壊した。

 「社会民主主義」と言うと、社会主義と民主主義が結びついているように見える。だが、19世紀末~20世紀初頭にかけて、民主主義は強く警戒されていた。社会主義よりも民主主義の方が危険であると見なされたぐらいだ。マルクスは、1848年のフランス二月革命が議会制民主主義を目指したのは茶番だと批判した。マルクスは、革命の手段として議会制民主主義を用いることを嫌い、それに頼らない社会主義の実現を目指した(この路線は、その後エンゲルスによって修正された)。日本では、初の社会主義政党である社会民主党が1901年に結成され、即日活動停止処分を受けたが、その理由は社会主義ではなく民主主義の方が問題視されたためであった。

 ここで、民主主義に議会制は必須なのか?という問題が生じる。本書の中でカール・シュミットの言葉が引用されているが、シュミットは「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる」と述べている。ただし、シュミットは続けて、「独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」とも述べている。民主主義と独裁がなぜ独立しうるのかは、以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」などで考察を試みた。シュミットはナチスに入党し、全体主義を支持したことで知られる。

 ベンヤミンは議会制民主主義に関して、次のような問いを立てる。「社会の目的を達成する手段として、いかなる暴力が正当化されるのか?」(ここでも、「社会の目的とは何か?」という問いは一旦後回しにされている)ベンヤミンによれば、暴力には、①法=権利を維持する暴力、②法=権力を措定する暴力、③法=権利を否定する暴力の3種類があるという。そして、①と②の暴力を「神話的暴力」、③の暴力を「神的暴力」と呼ぶ。

 1918年11月9日、社民党主流派のP・シャイデマンが「ドイツ共和国」の成立を宣言し、同日に左派のリープクネヒトも「ドイツ社会主義共和国」の成立を宣言した。社民党主流派は革命を議会制民主主義の枠内に抑える方針をとり、これに反対したルクセンブルクらは社民党を離脱、12月30日にドイツ共産党を立ち上げた。社民党のG・ノスケは、共産党勢力の封じ込めを狙った。翌年1月15日、ルクセンブルクはリープクネヒトとともに殺害された。この事件にノスケが関与したかは不明である。この血なまぐさい状況の中で、1月19日に国民議会選挙が実施され、エーベルトが大統領に、シャイデマンが首相になり、8月11日にはヴァイマール憲法が採択された。

 この状況をベンヤミンは次のように分析する。①と②の暴力とは、議会(+警察)のことである。ノスケの暴力は(真偽は別として)、国民議会に先立って、議会という枠組みの外で”例外的に”行使された暴力である。だが、例外であるということは、裏返せば本来の議会を承認していることを意味する。したがって、ノスケの暴力は、議会制の枠内にあり、議会制を支える暴力であると言える。そして、ノスケのような暴力を制度化したのがヴァイマール憲法第48条(国家緊急権)であった。その上で、ベンヤミンはこれらの暴力を「神話的」と呼び、否定する。

 「神話的暴力」と対峙させる形でベンヤミンが提示しているのが「神的暴力」である。神的暴力は、法=権力を”否定する”暴力である。しかし、ここで言う否定とは、正義の否定ではない。否定を通じて、新たな法=権力の余地を切り開くことを意味する。議会制民主主義においては、議会制の中にありながら、議会制を内部から揺さぶるもの、これがベンヤミンの言う「神的暴力」である。殺害されたルクセンブルクが唱えていた「唯―議会主義」の否定も、同じ文脈上にある。

 ヴァイマール憲法第48条の「国家緊急権」とは、国家が緊急事態に陥った場合には、大統領が公共の安全と秩序を回復するために、必要な措置をとることができるというものであった。議会制民主主義を評価するシュミットは、国家緊急権も支持した。ところが、この第48条があったがために、ヒトラーの台頭を許し、ドイツは全体主義へと傾倒してしまった。ベンヤミンが暴力論を書いたのは1920年前後のことであるが、まるで「神話的暴力」の暴走を見通していたかのようである。ナチスの歴史的過ちへの反省もあってか、ドイツでは議会制に対する警戒感が強い。

 冒頭で、「社会的なもの」は民主主義によって達成されると書いた。その民主主義とは、単なる議会制民主主義ではなく、「議会制を超える議会制」によって支えられる民主主義である。西ドイツでは「APO(Ausserparlamentasiche Opposition)」と呼ばれる議会外反対勢力(日本で言えば「新左翼」)が存在し、議会の外から様々な力を民主主義に供給しているという。ただ、ここで注意が必要なのは、APOは必ずしも議会制そのものを否定しているわけではないということだ。議会制がなければAPOは存在できない。したがって、民主主義にとって議会制は不可欠なのであり、APOは議会制民主主義を補強する勢力ととらえるのが適切であろう。


2016年07月25日

『腹中書あり(『致知』2016年7月号)』―私の腹中の書3冊(+1冊)


致知2016年7月号腹中書あり 致知2016年7月号

致知出版社 2016-07


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 河野:私ね、時々隊員に講演をするんですけど、その時に言うのはやっぱり「本を読め」ってことなんですよ。なぜ読めと言うか。その理由は2つありまして、1つは常識が身につく、もう1つは渡部先生もおっしゃっていたように、人間に厚みができるということです。

 我われの仕事のみならず、誰にでも人生において何か大きな決断をせんといかん場合ってありますよね。その時に、本を読んでいる人間とそうでない人間では、絶対に差が出ると思っているんです。切羽詰まった時にいかに正しい決断ができるか。それは知識ではなく、教養が影響する。質の高い本でなければ、教養が積み上がっていかないんです。
(河野克俊、渡部昇一「腹中書ありて人生の万変に処してきた」)
 以前の記事「中小企業診断士を取った理由、診断士として独立した理由(1)【独立5周年企画】」で、学生時代の最初の頃は、教科書以外の本をほとんど読んでいなかったと書いた。さらに言えば、大学に入る以前も読書は全くしておらず、有名どころの小説などは一切読んだことがなかった(小学生の時は、夏休みに読書感想文を書くのが苦痛だった)。そんな私が、友人の言葉をきっかけに、真面目に読書をするようになった。2005年以降は、読んだ本のタイトルを記録している。それによれば、少なくとも2005年以降だけで1,100冊ほど読んだ計算になる。

 ただ、私の読書法はあまりに粗雑であり、歴史的価値の高い古典や小説などはほとんど未着手のままである。さらりと読めそうな簡単な本、仕事で必要に迫られて読んだ本、本の冊数を稼ぐために読んだ薄い本などが1,100冊の中には数多く含まれている。そのため、私の読書の質は極めて悪い。『致知』2016年7月号を読むと、どの人も古典、歴史書、哲学、小説などを深く読み込んでおり、「腹中の書」なるものを持っている。私が自宅の本棚を見渡して、自分の「腹中の書」は何だろうかと思案した時、すぐには答えが出せなかった。何度も本棚とにらめっこをして、これがおそらく私の「腹中の書」だろうと結論づけたのが、次の3冊である。

ドラッカー名著集1 経営者の条件ドラッカー名著集1 経営者の条件
P.F.ドラッカー

ダイヤモンド社 2006-11-10

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 【1冊目】
 私がピーター・ドラッカーの名前を初めて知ったのは、大学4年生の時に『ネクスト・ソサエティ―歴史が見たことのない未来がはじまる』という本を読んだ時であった。その内容に感銘を受けた私は、ドラッカーの著書を片っ端から読破してみようと思い立ち、数年かけて30冊ほど買い込んだ(ただし、これでもドラッカーの著書の全てを網羅しているわけではない)。ドラッカーを読み始めて最初に大きな衝撃を受けたのが、この『経営者の条件』である。

 ドラッカーがマネジメントを体系化する以前は、マネジメントと言えば企業、とりわけ大企業のトップマネジメント(経営陣)という「人」のことを意味していた。ところが、ドラッカーはマネジメントを「社会的機関」と位置づけた。社会的機関としてのマネジメントとは、社会の目的を達成するために、組織を構成し、人々に地位と役割を与え、彼らに最高の成果を出させる仕組みのことである。それまでは、人々にとってマネジメントとは雲の上の存在であった。しかし、社会的機関としてのマネジメントは、彼らを次々とシステムに組み込んでいく。しかもドラッカーは、人々に対して、社会的機関からの要請に単に応答するだけでなく、「自らマネジメントする」ことを要求した。

 「自らマネジメント」するとは、まずは目標とする成果を定め、仕事のやり方を決定し、必要な資本を投入する。結果が判明したら、それが目標に達したのか否か評価し、未達の場合は改善策を施す、ということである。19世紀の経済学では、資本とは土地と労働力を指した。しかし、土地は資本家が握っており、人々が制御できるものではない。また、労働力についても、問題になるのは質ではなく量であった。だから、人々にできることと言えば、長く働くことだけであった。

 ところが、20世紀に入って大きな変化が訪れた。それはつまり、知識が新しい資本として重要な位置を占めるようになったことである。人々は労働者であると同時に資本家になった。資本家であるならばなおさら、成果にコミットしなければならない。こうして、ドラッカーは人々に対して高い自己規律を要求する。人々はもはや単なる労働者ではない。彼らがいかなる職務を行い、いかなる職位に就いているかは問わない。自社の経営に重要な影響を与える意思決定を行い、自社の経営にとって重要な成果を提供するならば、誰もがエグゼクティブ(経営者)として責務を果たさなければならない。これが『経営者の条件』のエッセンスである。

 日本にはQCサークルのように、現場社員が経営に貢献する改善活動を自発的に行う文化がある。また、当時の私は、中間管理職や現場社員が自分に与えられた職分で満足するのではなく、ワンランク上の視点、つまり経営的な視点に立って仕事をすべきだと考えていた。だから、『経営者の条件』はまさに日本と私のために書かれた本であるかのように思えた。

 ドラッカーの著書の売れ行きは、アメリカよりも日本の方がよいと本人が認めていた。最近のアメリカのビジネススクールでは、「ドラッカーなんてもう古い」などという声も聞かれるようだが、日本に限って言えば、ドラッカーの経営思想はまだまだ十分に示唆的である。

 ①アメリカのイノベーションは、「自ら変化を起こす」ことを目指す。そして、カリスマリーダーにその役割を期待する。フォロワーは、強力なリーダーの権力の下で、指揮命令通りに働く。一方、ドラッカーのイノベーションは「既に起きた変化を利用する」。あまり適切な表現ではないかもしれないが、ドラッカーのイノベーションは受動的である。しかし、日本企業にはその方がフィットしている。ドラッカーは、日本企業がイノベーションに後から参入し、組織力を活かして猛スピードでキャッチアップして、ついには当初のイノベーターを打ち負かすことを「起業家的柔道」と呼んだ。

 ②1990年代にキャプランとノートンが提唱したBSC(バランス・スコア・カード)は、ドラッカーが提唱したMBO(目標管理制度)と何が違うのかと考えることがある。BSCは4つの視点でバランスよく経営指標を管理するものだが、その根底には、ビジネスを成功に導くには少数の重要な要因に注目すればよいという考え方がある。その要因をCSFと呼び、CSFの度合いを測定する指標をKPIと言う。因果関係は簡潔に把握すべきというアメリカ人の思考特性がよく表れている。

 一方、MBOはトップの目標を下位の部門、さらにその下位の部門へとブレイクダウンしていく。目標の体系はどうしても複雑になる。しかも、アメリカ(ドラッカー)から日本に輸入されたMBOには、日本流のアレンジが加えられている。それぞれの社員には、部門の目標に直結する業績目標の他に、同僚や他部門への協力を促す目標や、自己啓発に関する目標も含まれている。こうなると、目標全体の関係を正確につかむことは不可能である。日本の場合、望ましい行動を数多く積み重ねれば、(どういう過程をたどるかは判然としないが、)自ずと望ましい結果が導かれると信じている。MBOは、日本流の目標管理制度の下敷きとして機能するには十分だった。

 ③①とも関連するが、アメリカはリーダーとフォロワーの直線的な関係を重視する。必然的に組織はフラット化する。ところが、ドラッカーはフラット化には反対している。代わりに、分権化せよと主張する。これは、ドラッカーがGMの戦略や組織構造、企業風土を研究した1940年代から全く変わっていない。フラット化すると、エグゼクティブがいきなり責任の重い仕事を背負わされることになり、潰れてしまう。そうではなく、組織に階層を残し、それぞれの階層に権限を分散化することで、エグゼクティブが昇進とともに徐々に大きな仕事を行う能力を学習できるようにすべきだというわけである。こういう話には、日本企業は「全くその通りだ」と膝を叩くに違いない。

 ④ドラッカーは組織設計の原則として、「人に仕事を割り当てるのではなく、仕事に人を割り当てるべき」であると述べている。だが、仕事がなくなったら社員の首を切ればよいとは一言も書いていない。仕事がなくなって社員が余ったら、彼らのために仕事を作り出すのがトップマネジメントの責務だとしている。かつてIBMが苦境に陥った時、IBMがリストラをせずに、経営陣が努力して新規顧客を獲得し、社員のために仕事を作り出したことをドラッカーは称賛している。

 日本企業の特徴は、社員を大切にする点にある。「今いる社員の強みを活かすと何ができるか?」、「社員を成長させるにはどんな事業に挑戦すべきか?」と、組織内部の視点から発想する。これは、「市場はどのような製品・サービスを求めているか?」、「その製品・サービスを製造・提供するためにはどのくらいの人材が必要なのか?」といった具合に、外部環境の視点から発想する一般的な戦略立案プロセスとは大きく異なる。だが、残念なことに、最近の日本企業は、前者のような問いを発する機会が減っているように思える。

ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 【2冊目】
 啓蒙思想とフランス革命、および今日の理性主義のリベラルにいたるその弟子たちは、自由にとって許すべからざる敵の役割を果たした。基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。

 過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
 2冊目もドラッカー。『産業人の未来』で最も衝撃的だったのがこの部分である。私が高校生の時の世界史の授業では、フランス革命が自由、平等、基本的人権といった、現代において普遍的価値と見なされているものを実現させる契機になったと習った。そして、その思想的基盤を提供したのがルソーらの啓蒙主義であると教わった。これに対して、スターリン、ヒトラーの全体主義(ファシズム)は、自由を破壊する凶悪な存在として対比された。ところが、ドラッカーによれば、ルソーとスターリン、ヒトラーは一直線につながっているというのである。

 20代半ばで初めて本書を読んだ時は、その衝撃が大きすぎて、なぜそのように言えるのかまで踏み込んで考えられなかった。だが、今年に入って約10年ぶりに本書を読み返してみると、ドラッカーの意図が何となく理解できるようになった気がする(以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―機能する社会は1人1人の人間に「位置」と「役割」を与える」、「【ドラッカー書評(再)】『産業人の未来』―人間は不完全だから自由を手にすることができる」を参照)。

 一般的には、アメリカ独立運動はフランス革命に刺激されて実現したと説明される。しかし、ドラッカーはこの説をきっぱりと否定する。アメリカ独立運動が目指したのは、フランス流の自由の否定であった。代わりに、イギリス流の自由の実現を目指した。フランスの自由は、理性万能主義に基づく無制限の自由である。これに対し、イギリスの自由は、伝統的(非理性的)な階級社会を前提とし、歴史が蓄積した社会構造の中において発揮される自由である。また、イギリス本国と連邦諸国との間の上下関係の中において機能する自由である。

 個人的には、トップダウン型のリーダーシップが好まれるアメリカで、どうして連邦制が採用されたのかが不思議であった。しかしながら、アメリカがフランスではなくイギリスに倣ったと考えれば、アメリカが単純な共和制を選択しなかった理由も多少は腑に落ちる(もちろん、この辺りはもっと厳密にロジックを積み上げていく必要があると感じている)。

存亡の条件存亡の条件
山本 七平

ダイヤモンド社 2011-03-11

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 【3冊目】
 私が山本七平を読み始めたのは30歳を過ぎてからだ。山本七平、小林秀雄、丸山眞男あたりは、10年早く読み始めるべきだったと後悔している。山本七平の『存亡の条件』は、私が本ブログでしばしば用いている「二項対立」、「二項混合」という言葉の基礎になった1冊である(以前の記事「『「慰安婦」戦、いまだ止まず/台湾は独立へ向かうのか/家族の「逆襲」(『正論』2016年3月号)』―朝鮮半島の4つのシナリオ、他」などを参照)。

 大国(現代の大国は、アメリカ、ドイツ、中国、ロシアの4か国)は二項対立的に振る舞い、敵と味方をはっきりと区別する。かつては資本主義VS社会主義という対立であったが、冷戦が終結した現在は、自由主義(アメリカ、ドイツ)VS専制主義(中国、ロシア)という構図でとらえることができる。大国は自らの味方を増やすために、周辺の小国を自国陣営に引き込もうとする。小国は、対立する双方の陣営のうち、一方に味方することを選択することができる。

 ところが、仮に自国が味方していた大国が二項対立で敗れると、その小国は崩壊してしまう。なけなしの資金をフルレバレッジで投資したのに、完敗して大損したような状態である。一方の大国は、二項対立で外国と対立すると同時に、実は自国の内部も二項対立させている。そのため、国家が全壊することはない。せいぜい半壊にとどまる。そして、大国には元々資本とパワーがあるから、再び自国内に二項対立を抱えることができるほどに国力を回復させることが可能である(ソ連が崩壊してもロシアはなくならなかった。むしろ、近年ロシアの脅威は増している)。

 日本のような小国、とりわけ「和」の精神を重んじるような国から見れば、そんなに激しく対立せずに、もっと協調路線を歩めばよいのにと考えてしまう。しかし、二項対立は大国にとって本質であり、大国から二項対立を取り除いてしまえば、大国は自らを維持できないのである。だから、大国は常に対立していなければならない。世界から戦争がなくなることは全く期待できない。ましてや、一部の左派が未だに信じている世界同時的市民革命など起きるはずもない。

 小国が生き残る道は、対立する大国の双方から「自国の味方にならないか?」と接触された時に、のらりくらりとその誘いをかわし、大国のいいところだけを都合よく摂取して、自国を複雑化させることである。これを「二項混合」、「ちゃんぽん戦略」と呼んだ(以前の記事「千野境子『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』―日本はASEANの「ちゃんぽん戦略」に学ぶことができる」を参照)。その小国は複雑すぎて、大国が容易には手を出せなくなる。

 『旧約聖書』によると、ノアの3人の息子であるセム、ハム、ヤフェトが現在の人間のルーツになっているという。セムは黄色人種(ユダヤ人、アラブ人、日本人、中国人、朝鮮人などアジア有色人種)、ハムは黒色人種(エジプト人、エチオピア人、パレスチナ人などのアフリカ系の黒人)、ヤフェトは白色人種(アーリア人、アングロサクソン人、ペルシア人、インド人など)の祖である。一般に、二項対立は西欧人によく見られる傾向である。また、中国人にも二項対立の伝統がある可能性は、以前の記事「リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』―西洋人と東洋人は確かに違うが、中国人と日本人も大きく違うと思う」で触れた。

 ところが、山本七平は本書の中で、二項対立はセム系に特有であると述べている。セム系にはアラブ人が含まれる。しかし、現在の中東は、どの国も二項対立の一方に過度に肩入れし、その結果激しい戦闘を引き起こして、国家を疲弊させている。中東諸国はどうして西欧の大国のように二項対立を上手く処理することができないのか?この点は今後の私の研究課題である。

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 【おまけ】
 実務系の本で最も役に立ったと感じるのがこの本である。私は前職のベンチャー企業で、企業向けに集合研修サービスを提供していた。現在も、中小企業診断士として、研修やセミナーの講師をすることがある。当然のことながら、教育研修にはお金がかかる。経営陣は、研修にお金をかけて一体どのくらいの効果があったのかを知りたがる。しかし、非常にお粗末なことに、教育研修の投資対効果を真面目に計算している人事部は皆無に等しい。たいていは、研修後の受講者アンケートで満足度が高ければ、効果があったと言い張るケースがほとんどである。

 本書は、研修の成果をビジネスの成果に結びつける方法を解説している。一般的に、研修を企画する時には、「○○力の向上」といった能力の強化を目的として掲げる。これに対して、本書ではまず、あるべき業務の姿をデザインする。必要に応じて、研修に先立って業務プロセスの改善も行う。そして、新しい業務の成果を測定する指標を設定する。研修では、新しい業務を円滑に遂行するための練習をロールプレイ、ケーススタディ、グループワークなどで行う。受講者が現場に戻った後は、上司が新しい業務の遂行を後押しする。研修から一定期間が経過した後は、最初に設定した指標がどう変化したかを測定する。この指標の変化が研修の成果となる。

 こういう手順を踏めば、「我が社のマネジャーにはコーチング力が足りない」、「よし、○○社のコーチング研修を導入しよう」という短絡的な発想で紋切り型の研修を導入することはなくなる。



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