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金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?
『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他
【現代アメリカ企業戦略論(補論)】日本とアメリカの企業戦略比較

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2017年01月31日

金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』―いつもなら「純粋持続」⇒全体主義だ!となるところだが、ちょっと待てよ?


ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンスベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
金森修

NHK出版 2003-09-25

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 著者が「正直いって、そうとうに難しいよ」というベルクソンについて、彼の代表作である『時間と自由』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』のいずれも読まずに、本書だけを読んでレビューを書こうというあまりにも無謀な試み。ベルクソンは、近代科学が様々な物質や事象を機械的・空間的に把握してきたことに対し、それでは説明から逃れてしまうものに注目した哲学者である。同時に、その説明から逃れてしまうものが、あたかも機械的・空間的に説明し尽くされたかのように扱われることに対して警告を発している。

 本書では「ウェーバー=フェヒナーの法則」が挙げられている。「感覚量は、刺激量の対数に比例する」というものである。例えば、今10本のロウソクが光っているとする。それに1本のロウソクを足して、その微妙な光り具合の変化を感じさせる。そして、次にロウソクを100本に増やす。この場合、先ほどと同じように1本のロウソクを足して101本にしても、光り具合の変化は感じられない。同じような変化を感じさせるためには、10本増やして110本にしなければならない、ということである。ウェーバー=フェヒナーの法則は、我々の感覚を数学的にシンプルに表現している。ところが、ベルクソンはこれに異を唱える。ロウソクが10本から11本になる時の質的な変化と、100本から110本になる時の質的な変化との間には、数値に還元できない何かがあると言う。

 このように、機械的・空間的に把握できないものの代表例として、ベルクソンは「時間」を挙げている。ベルクソンは、我々は時間を忘れているとまで言う。そんなことを言っても、私は今朝8時から銀座で行われるクライアントとのミーティングに合わせて、いつもより早い5時半に起床し、1時間かけてミーティングの資料に目を通しながら朝の準備をし、余裕を持って電車に乗って、銀座まで残り5駅だからあと10分ぐらいで到着するだろう、といった具合に時間を駆使している。だが、この24時間という時間、そして1日、1か月、1年というそれぞれの単位は、地球の自転や公転などの周期的な運動を基準にして決められたものである。人間が作為的に設定した単位という意味で、機械的・空間的である。ベルクソンはそのことを批判している。

 ベルクソンは、空間的時間とは異なる時間があると主張する。これを「純粋持続」と呼ぶ。
 それは空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である。
 機械的・空間的な思考に慣れきっている私には、この純粋接続を理解することは難しい。強いて別の表現をするならば、宇宙という全体性のことではないかと思う。ベルクソンは、我々は誰もが自分の中に純粋接続を持っており、何かしらの方法によってその純粋接続に触れることができると言う。言い換えれば、我々の中にある宇宙にアクセスできる。このように書くと、安直な私などは、私という個と宇宙という全体を一体化してとらえるのは「U理論」や「マインドフルネス」と共通する考え方であり、ひいては全体主義につながるのではないかと警戒してしまう(詳しくは「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」を参照)。

 だが、ベルクソンは「自分だけのものとしての純粋接続」という表現を使っている。全体性でありながら、そこから個別具体的な何かが流れ出しているというのが純粋接続である。そう考えると、全体性が個性と同一化し、全ての人が一様に扱われ、人々が皆同じという点であたかも連帯しているかのように錯覚させる全体主義とは一線を画しているように思える。

 ベルクソンは、純粋持続と知覚、身体、記憶、自由との関係について論じている。その議論の特徴は、二項対立の中庸を取るという点にあると感じる。例えば、ベルクソンは「事物」と「表象」の間に「イマージュ」という概念を導入する。事物とは我々の外部にあって、機械化・空間化されたものである。一方の表象とは、我々の意識の内部に結ばれる像である。ベルクソンは両者の間にイマージュという言葉を挿入することで、実在論も観念論もともに問題があると指摘した。

 同様に、我々の外部にある「知覚」(知覚が我々の外部にあるというベルクソンの主張は我々にとって驚きである。しかしベルクソンは、知覚とは身体性とは関係のないところ、当の知覚対象がある場所に存在すると述べている)と、我々の内部にある「記憶」の間に「記憶心像」という概念を導入した。さらに、我々の外部にある「自然」と内部にある「意思」との間に「習慣」という概念を挿入する。自然という事物だけでは習慣は成立しない。我々は、外部にある自然を自分の意思によって我がものとし、それを反復的に扱うことで、習慣とすることができる。ベルクソンのように、二項対立の間を取るという発想は、本ブログで何度か述べた日本の「二項混合」的発想と何か共通点があるのではないかと思う。この辺りはさらに掘り下げてみたいテーマである。

 先ほど、記憶は我々の中にあると書いたが、実はベルクソンは、真の記憶は我々の中にないと主張している。記憶の背後には「純粋記憶」と呼ばれるものが存在している。そして、この純粋記憶は、我々の脳の中にはない。本書の著者は「まだ青臭い学生」だった頃にこの主張を読んで、「生意気盛りの若者らしく、『そんな馬鹿な』と思って、本を投げ捨ててしまった」という。
 要するに、君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、君の知覚をほとんど無に近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心像が物質化しつつあるものに他ならない。
 我々が何か外部の事象を見る時、我々の背後に控えている膨大な純粋記憶がその事象に関する情報を与え、記憶心像を形成する。しかも、驚くべきことに、我々がその事象を初めて見る場合であっても、純粋記憶は記憶心像を結び、知覚を圧倒するのだという。

 この純粋記憶の性質について、著者はある仮説を提示している。
 どうやら、先の純粋記憶の存在の仕方は、必ずしも個人個人の人格内部に限定されているものではない、とベルクソンは考えていたらしい。つまり僕の純粋記憶は、僕の過去約50年の知覚の総体であり、君の純粋記憶は、君の全人生の知覚の総体だ、というように、それぞれの純粋記憶が人格ごとに弁別されているのでは、必ずしもなさそうなのだ。

 いわば、複数の人間たちがかつて知覚したことが、どこかになかば集合的にどんどん記憶としてストックされていく、とういような、そんな感じの途方もない存在論が、ベルクソンの頭のどこかにはあったような気がする。(中略)もしそうであるなら、それぞれの記憶が個人の脳に限定されている必要がなくなるのは、論理的にも当然のことだ。
 これまで生きた人間の記憶が、この宇宙のどこかに純粋記憶という形でデータベース化されており、我々が何か事物を見ると、そのデータベースから必要な情報が関連づけられ、知覚が形成されるということなのだろう。ただし、著者の考えには2つ問題があると思う。1つは、最初に生まれた人間にとっての純粋記憶は空っぽで、知覚を形成することができないということ。もう1つは、我々が純粋記憶に頼る限り、我々は過去の奴隷にすぎないのではないかという点である。

 1つ目の問題に対しては、純粋記憶とは今までに生きた人間の記憶の蓄積ではなく、宇宙という全体性を指していると解釈することで解決できるような気がする。2つ目の問題に対しては、純粋接続の考え方と共通するが、純粋記憶とは「空間とは違い、単位ももたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものでもある。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な多様性である」という性質のものなのではないかと考える。

 全体主義のように全体性を一方的に個人に押しつけるのではなく、純粋記憶は全体性でありながら、そこからそれぞれの個人に向けて個別具体的な何かを絶えず生成するという点に意味がある。純粋持続や純粋記憶を探求すれば、我々は多様性を保つことができる。そして、それこそが人間にとっての自由である。ベルクソンが言いたかったのは、こういうことなのだろう。

2017年01月29日

『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他


一橋ビジネスレビュー 2016年WIN.64巻3号一橋ビジネスレビュー 2016年WIN.64巻3号
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2016-12-09

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 (1)
 事業立地が重要なのは、その初期選択が収益ポテンシャル、すなわち利益率の上限値を規定するからである。だとすると、われわれは事業立地の優劣を事前に論じるすべを手に入れなければならないし、優劣が固定的なのか否かも知る必要がある。
(三品和広「事業立地の戦略論―最新形」)
 この論文で言う「事業立地」とは、企業が工場や店舗を構える物理的な立地のことではない。そうではなく、企業が戦うべき業界・市場・フィールドのことを指している。事業立地が収益性を規定するという考え方は、マイケル・ポーターと共通する。ポーターは、市場構造(Structure)が企業行動(Conduct)を規定し、企業行動が成果(Performance)を決定するというSCPモデルに基づき、様々な業界を分析した。その結果、業界によって収益性に大きな差があることを発見した。その差を生み出している要因をまとめたものが、有名な「ファイブ・フォーシズ・モデル」である。

 収益性が高い魅力的な業界にいるならば問題ない。問題は、自社が収益性の低い業界にいると解った時である。この場合、まずは、5つの力(①競合他社との競争関係、②供給者の力、③買い手の力、④新規参入の脅威、⑤代替品の脅威)を弱める施策を打つことで、収益性を改善することができる。だが、ポーターはそれよりももっと簡単な処方箋を用意した。すなわち、コスト・リーダーシップ戦略、差別化戦略、集中(ニッチ)戦略という3つの基本戦略のうち、どれか1つを選択すればよいというわけである。このシンプルさが世界的に受けた。

 ポーターは、様々な業界について、横軸に売上規模、縦軸に利益率をとって各企業をプロットした結果、「売上高も利益率も大きい企業群」と「売上高は小さいが利益率が大きい企業群」という魅力的な企業群に挟まれるような形で、「売上高はそこそこあるのに収益性が低い企業群」が見られることを突き止めた。さらに分析を進めると、「売上高も利益率も大きい企業群」はコスト・リーダーシップ戦略か差別化戦略を、「売上高は小さいが利益率が大きい企業群」は集中戦略を採用していることが解った。一方で、基本戦略のうち複数を追求しようとする欲張りな企業は「売上高はそこそこあるのに収益性が低い」という状態に陥ると指摘した。
 残念なことにポーターは、せっかくフレームワークを作りながら捨て置いて、その先のポジション取りに突き進んでしまった。事業立地を所与としたまま、そこで何ができるのかを考えに行ったのである。そのため、5つの力が強すぎて利益の出ない事業立地に取り残されてしまった企業がどうすればよいのかについては、何も書いていないに等しい。(同上)
 三品氏は上記のように指摘するが、私はポーターは一応前述のような方策を用意してくれていると思う。そもそも、最初から収益性が高い魅力的な業界にいるのであれば、どんなポジショニングを取っても関係がないわけであって、多くの企業は収益性がそれほど高くない業界にいるからこそ、ファイブ・フォーシズ・モデルや3つの基本戦略が意味を持つ。

 三品氏からすれば、わざわざ収益性の低い業界で戦う戦略を論じるよりも、もっと高収益で魅力的な業界にシフトした方がよいということなのだろうが、本論文では具体的にどうすれば事業立地を変えられるのかまでは触れられていないと感じた。確かに、高収益企業の大半は、現在の主力企業が祖業と異なることが定量的に示されているものの、これらの企業がどのようにして祖業からの脱却を図ったのかという点になると、トップ・マネジメントの長期間に渡る強力なリーダーシップによる、といったありがちな主張にとどまってしまう。

 戦略論には、大きく分けると外部環境アプローチと内部環境アプローチがあり、三品氏やポーターは外部環境アプローチに所属する。三品氏は論文の中で、内部環境アプローチに対して、次のような手厳しい批判を浴びせている。
 リソース学派は、事後の説明として魅力的であるが、事前の処方となると無力である。どうしてA社がB社より優れたリソースを有すると判断できるのかと問われて、A社がB社に対して優位に立つからと答えるしかないとしたら、これはトートロジーに終わってしまう。それなのに、リソースの優劣を測定してみせた研究は皆無に近いのである。(同上)
 ただし、面白いことに、本号の別の論文には次のような記述がある。
 もちろん、「基本戦略」や「ファイブフォース分析」そのものが悪いわけではありません。しかし、こうしたフレームワークやコンセプトこそが戦略の中核だと思ってしまった瞬間、企業のなかでは「コンテンツ」つまり「数字」「分析」「効率」が幅を利かせ、目に見えるもの、数値化できるものこそがすべてであると勘違いされます。(中略)

 戦略の実行こそプロセスが大切です。立派な戦略を(本社が、あるいはコンサルタントが)作ったから、あとは現場が実行するだけ、ということはまずなく、それがどのようにしたら現場に浸透・共有されるのか、あるいは、すでにこれまでやってきた戦略と乖離がある場合は(環境が変われば当然なのですが)、どのようにしてその乖離を埋め、組織を動かしていくか。こうした問題は、「正しいアウトプット」とはまた別次元の話です。そもそも「正しいかどうか」も、実行してみない限りわからないことが多いのです。
(清水勝彦「良い失敗とコミュニケーション―今、私たちが本当に考えなくてはならない戦略へのアプローチ」)
 著者の言葉を借りれば、戦略論にはコンテンツ重視派とプロセス重視派がある。コンテンツ重視派は外部環境アプローチに、プロセス重視派は内部環境アプローチに対応していると言ってよい。外部環境やコンテンツが戦略や収益性を規定するというのは、あまりにも決定論的すぎて、大半の企業にとって救いがない。総合的に見れば収益性が芳しくないけれども、企業の努力次第で、つまり内部環境を適切に充実させることで競合他社よりも高い収益を達成できるという戦略論の方に、個人的には賭けてみたい。やや話が逸れるが、倒産した企業の原因を分析した研究によると、外部環境が4割、内部環境が6割だという。もちろん外部環境は重要だが、企業を存続させるためにはそれ以上に内部環境を重視しなければならないことを示唆している。

 (2)
 欧州勢は半導体、テレビ、通信機器などの事業を売却、もしくはスピンアウトし、一方で医療機器、重電機器、照明関連の会社を買収して、業界再編によって欧州市場を集約した。この結果、収益性は大きく改善し、一度売り上げ規模は小さくなったが成長を遂げている。
(佐藤文昭「抜本的構造転換の企業戦略―大手電機メーカーの栄枯盛衰から学ぶ」)
 三菱電機も日立製作所も国内では成功組と言われる。ともに社会インフラ、産業機器、自動車関連などをコア事業にしている。これら事業は品質、信頼性、安全、安心に加え、長期安定供給することが求められる。(同上)
 (1)で事業立地の変更について触れたが、現在、日本の産業界の中で事業立地の変更の必要性に最も迫られているのは家電業界であると言えるだろう。(1)では、基本的に収益性が低い業界でも、内部環境を充実させることで高収益事業になりうる可能性を示した。そのことと矛盾するようだが、例外的に家電業界は日本企業にとってもはや適切な事業立地とは言えない。

 私が本ブログで頻繁に用いている下図によると、家電業界は<象限①>の「必需品だが、製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが小さい」に該当する。こう書くと、「家電製品も欠陥があれば消費者の生命を脅かす」と反論する人もいるだろう。しかし、私に言わせれば、家電製品が消費者の生命を脅かすのは、メーカーが過剰な機能を製品に詰め込んで製品を複雑にしたためである。消費者が本当に必要とする機能に集中すれば、リスクは低減する。この象限は、新興国がコスト優位性を武器に強みを発揮するか、先進国内の雇用の受け皿として機能する(飲食・小売店が典型である)。日本企業がいつまでも拘泥すべき象限ではない(この点で、私も多少は決定論的な外部環境アプローチの影響を受けていることを認める)。

製品・サービスの4分類(修正)

製品・サービスの4分類(修正)

 (※上図については「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」を参照)

 家電業界が事業立地を変更するにあたって参考にすべきは、かつて日本が世界で圧倒的に優位性を保っていたが、その後急速に新興国に取って代わられた繊維業界であると思う。その意味で、本号に東洋紡のケーススタディ(藤原雅俊、青島矢一「東洋紡―抜本的企業改革の推進」)が掲載されているのは、何か編集者側の意図を感じる。

 東洋紡は1990年代後半から事業改革に着手し、全社の売上高に占める繊維事業の割合を徐々に減少させながら、非繊維事業の割合を増加させてきた。結果的に、1990年代に5,000億円を超えていた売上高は、2015年には約3,500億円へと縮小したものの、営業利益率は大幅に改善している。ここでポイントとなるのは、東洋紡が繊維事業の縮小、具体的には工場の閉鎖・売却を10年単位の長いスパンで実施していることである。欧米企業であれば、不採算工場をスパッと切ることもできただろう。しかし、日本の場合、1つの工場を閉鎖するだけでも、工場が立地する自治体との調整や労働組合との交渉、工場に勤務する社員の次の仕事の探索など、手間のかかるプロセスを1つ1つ踏まなければならない。

 シャープや東芝がかつてのように巨大な企業規模を保つことはもはや難しいだろう。ただし、東洋紡のように粘り強く構造転換を行えば、優良な高収益率企業に生まれ変わるかもしれない。それにはおそらく10年以上の時間がかかると思われる。(1)で述べた、プロセス重視の戦略を息切れすることなく続けられるかどうかが成否を握るに違いない。家電メーカーの再生は、長い目でウォッチし続ける必要がありそうである。

 (3)以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」で、アメリカのU理論やマインドフルネスと、日本の知識創造理論の違いについて触れた。両者は、「個人の意識が全体の意識へと昇華されていく」という表面的な部分では共通する。
 このプロセスは、現象学の「相互主観性(intersubjectivity)」の概念で裏づけられる。相互主観性とは、複数の主観がそれぞれの独自性を維持したまま、共同で築き上げる「われわれ(we)」の「共同主観」すなわち「共観」である。つまり、相互に他者の主観と全人格的に向き合い、受け入れ合い、共感し合う時に成立する、自己を超える「われわれ」の主観である。
(野中郁次郎「知的機動力を練磨する―暗黙知、相互主観性、自律分散リーダーシップ」)
 しかし、U理論やマインドフルネスにおいては、「宇宙」という絶対性(物理学者デイビッド・ボームの言葉を借りれば「内蔵秩序」)と個人が同化し、1がすなわち全体と等しくなって全体主義へと傾倒していく恐れがある。これに対して、知識創造理論は「共通善」を追求するとあるものの、そこで得られた解は他の全ての人々に通用するものではない。
 それは個別具体の文脈で「ちょうど(just right)」の解を見つける能力であり、個別と普遍、細部と大局を往還しつつ、熟慮に基づく合理性とその場の即興性を両立させる能力である。「行為のただ中の熟慮(contemplation in action)」を行い、「文脈に即した判断」と「適時・絶妙なバランス」を同時に実現し、矛盾や対立を総合する弁証法の知である。(同上)
 知識創造理論においては、組織の成員が個人と集団、部分と全体、現在と未来、感覚と論理、暗黙知と形式知、身体と心、行動と思考の間を高速で何度も行き来しながら「ちょうど」の解を導出すると私は考える。その解は個別文脈においてのみ意味を持つものである。さらに言えば、個別文脈は絶えず変化するから、両軸の間の高速振り子運動を常に続けることによって、最善の解を更新していかなければならない。よって、全体主義に陥ることは絶対にない。

2017年01月27日

【現代アメリカ企業戦略論(補論)】日本とアメリカの企業戦略比較


アメリカ

 《これまでの記事》
 【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義
 【現代アメリカ企業戦略論(2)】アメリカによる啓蒙主義の修正とイノベーション
 【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴
 【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?

 本シリーズの最後として、日米企業の戦略の違いについて簡単にまとめておきたいと思う。

 ①フォーカスする製品・サービス
 アメリカ企業は、「必需品でなく、かつ製品・サービスの欠陥が顧客・企業に与えるリスクが小さい」というタイプに強い。具体的には、高機能家電(スマホ、タブレットなど)、ブランド品、エンタメ、テレビメディア、IT(BtoCのWebサービス)、映画、音楽、書籍、雑誌、観光、金融(証券・保険)などが該当する。一方、日本企業は、「必需品であり、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きい」というタイプに強い。具体的には、自動車、輸送機器、産業機械、住宅、建設、医療、介護、製薬、化粧品、IT(BtoBの基幹業務システム)、物流・輸送、金融(預金・貸出)などが該当する。もちろん、アメリカ企業も厳しい品質管理を導入しているところが多い。しかし、日本企業が実践する「不良ゼロ」のための品質管理には遠く及ばない。

 ②目標の立て方
 アメリカ企業のリーダーは、イノベーションを全世界に普及させることを唯一絶対の神と約束する。したがって、戦略的目標は自ずと野心的かつ具体的なものとなる。一方、日本企業が立てる目標は曖昧であり、またそれほど野心的ではない。いつまでに実現するのかという期限を欠くことも多い。①で述べたように、日本企業は高度な品質管理が要求される必需品に強い。これらの製品・サービスは需要規模が予測しやすいため、敢えて具体的な目標を設定しなくてもよいのかもしれない。また、必需品であるということは、裏を返せば人口規模によって需要が規定されるわけだから、野心的な目標を立てづらいとも言える(必需品でない場合、余剰所得を全てその製品・サービスにつぎ込むような極端な顧客が現れて、市場規模が上振れすることがある)。

 ③製品・サービスの種類
 アメリカ企業は、イノベーション=単一の製品・サービスに全ての経営資源を集中する。それが唯一絶対の神との契約であるからだ。各国のニーズの違いは考慮しない。他方、日本は多神教文化の国である。それぞれの顧客や企業に異なる神が宿ると考えられる。だが、その神はアメリカの神と違って、不完全である。日本企業が自社に宿る神の姿を知る、つまりコア・コンピタンスを見極めようとする時、自社の内部に閉じこもって信仰を重ねても、その姿を知ることは難しい。そこで、外部に積極的に出ていく必要がある。具体的には、自社とは異なる神を宿しているであろう顧客と触れ合う。良質な学習は異質との出会いから始まる。多様な顧客を相手にするうちに、日本企業の製品・サービスは多角化していく。しかも、この学習には終わりがない。

 ④顧客理解
 アメリカ企業は、非必需品という市場動向が予測しづらい領域で勝負しているにもかかわらず、データを活用して顧客を理解しようとする。どのようなイノベーションがヒットするのかモデル化する。また、イノベーションを全世界に普及させる段階で、まだ自社のイノベーションを受け入れていない顧客層をセグメント化し、なぜイノベーションを受け入れていないのか、彼らがイノベーションを受け入れるにはどのようなマーケティング施策が有効かを分析する。これに対して日本企業は、必需品という市場動向が予測しやすい領域で勝負しているにもかかわらず、あまりデータを活用しない。むしろ、顧客と直に接することで、顕在的・潜在的なニーズを把握しようとする。データという冷たい情報よりも、顧客の生の声という温かい情報を重視する。

 ⑤政府の規制との関係
 アメリカ企業は、「必需品でなく、かつ製品・サービスの欠陥が顧客・企業に与えるリスクが小さい」という領域において、デファクト・スタンダードの確立を目指す。政府の規制とは無関係に、自社で世界標準を作ってしまう。時にその世界標準は、政府による規制を無力化する。これに対して日本企業は、「必需品であり、かつ製品・サービスの欠陥が顧客の生命・事業に与えるリスクが大きい」という領域で勝負をする。この領域では、政府が顧客の生命・事業を守るために様々な規制を課し、デジュア・スタンダードを形成している。日本企業が競争で勝つためには、政府と上手に交渉し、政府の規制が自社の製品・サービスにとって有利になるように働きかけなければならない。日本企業にとっては、顧客との関係に加えて政府との関係も非常に重要である。

 ⑥競合他社との関係
 以前の記事で、アメリカは二項対立的な発想をすると書いた。よって、アメリカ企業にとって、競合他社は徹底的に攻撃すべき対象である。ただし、相手企業を完全に打倒することまではしない。自社の戦略、ブランド、アイデンティティは、競合他社との相対性によって形成されている。攻撃対象となる競合他社が消えてしまえば、自社のアイデンティティなどを認識することが困難となり、何かと不都合である。アメリカ企業は、競合他社を完全にノックアウトする寸前で攻撃の手を止める。これに対して日本企業は、競合他社との協業をいとわない。その象徴的な存在が、日本に特有の業界団体である。業界団体においては、戦略などに関する情報が競合他社との間で積極的に共有される(アメリカにも業界団体は存在するが、その主目的はロビー活動である)。

 ⑦業界構造
 アメリカの業界はできるだけシンプルな構造を目指す。メーカーは部品を可能な限りモジュール化し、調達先を自由に入れ替えることができる単純なモデルにする。また、流通構造を簡素化し、メーカーから最終消費者まで効率的に製品・サービスを提供する。アメリカでは、シンプルなビジネスモデルを構築した企業が急成長を遂げる。一方、日本の業界構造は多段階構造となることが多い。自動車業界、IT業界、建設業界では多重下請け構造になっている。さらに、メーカーは下請企業との擦り合わせを重視する。また、流通構造もアメリカに比べて複雑である。メーカーと小売業者の間に複数の卸売業者が介在する。日本の業界は、成長性よりも安定性を重視する(安定のために多重階層構造を採用するのは、日本社会全体に見られる傾向である)。

 ⑧組織内の構造
 アメリカは、業界構造をシンプルにすると同時に、一企業内の組織構造もシンプルにする。以前の記事で書いた通り、アメリカ企業では分権化が進んでいる。しかし、同時に組織のフラット化も進んでおり、ミドルマネジメントは削減される傾向にある。これに対して日本の場合は、業界構造と同様に、組織内の構造も多重化している。アメリカから組織のフラット化というコンセプトが持ち込まれた後も、ミドルマネジメントの割合は減少するどころか増加している。そして、多重化された指揮命令系統を通じて公式のコミュニケーションを重視する企業の方が、組織のパフォーマンスが高いという研究結果もある。日本企業は、アメリカのようにトップの情報がほぼダイレクトにボトムに届くよりも、トップの情報が徐々に咀嚼されながらボトムに浸透していくことを好む。

 ⑨事業マネジメント
 ②で、アメリカ企業は野心的な目標を立てると書いた。アメリカ企業は、その野心的な目標を達成するために、何がカギを握るのか、重要な要因を特定することに力を注ぐ。CSF(Critical Success Factor:重要成功要因)やKPI(Key Performance Indicator:重要業績指標)は、こうした考え方を反映している。アメリカ企業は、CSFやKPIと最終的なゴールの因果関係を重視した事業マネジメントを行う。他方、日本企業は最終的な目標が曖昧であるがゆえに、CSFやKPIが設定できない。代わりに、「顧客や社会にとって望ましい行動」をたくさん積み重ねれば、自ずと望ましい結果が得られると考える。よって、日本の目標管理は、1つ1つの目標は達成が容易だが、評価されるためには膨大な数の目標を達成しなければならないという形で運用される。

 ⑩動機づけ
 アメリカのリーダーは、自分が信じるイノベーションを全世界に普及させることを目指す。言い換えると、自己実現を目指している。自己実現は、マズローの欲求5段階説で最上位に位置する内発的な動機づけ要因である。アメリカでは、神と正しい契約を結んだイノベーターだけが自己実現に成功するが、それでは大多数のアメリカ人にとって救いがない。そこで、分権化によってイノベーター以外の人たちにもある程度大きな権限を与え、自己実現の場を提供する。いずれにしても、アメリカ人を動機づけるのは、内発的な要因である。一方、他者との関係を重視する日本人を動機づけるのは、外発的な要因である。周囲の人から承認・評価されることが日本人にとっては最も嬉しい。さらに言えば、その評価が地位・役職という形を伴っているとなお望ましい。日本企業は、社員をポストによって動機づけるために多層化しているとも言える。




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