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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

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2017年05月26日

「製品・サービスの4分類」に関するさらなる修正案(大分完成に近づいたと思う)

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カテゴリー

 《参考記事》
 森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』―私のアメリカ企業戦略論は反知性主義で大体説明がついた、他
 【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論
 『イノベーション研究 これからの20年(『一橋ビジネスレビュー』2017年SPR.64巻4号)』―「製品・サービスの4分類」に関する修正案

製品・サービスの4分類(①大まかな分類)

製品・サービスの4分類(②各象限の具体例)

製品・サービスの4分類(③具体的な企業)

 相変わらずこのマトリクス図のことを考えているわけだが、以前の記事「『イノベーション研究 これからの20年(『一橋ビジネスレビュー』2017年SPR.64巻4号)』―「製品・サービスの4分類」に関する修正案」で施した修正はやはり解りにくかったと反省した。マトリクスの縦軸は、「人口・企業数によって需要が予測しやすいか?」よりも、「必需品か否か?」の方がやはりシンプルである。よって、元に戻すこととした(表現は少し変えてある)。

 ここで、必需品とは何かが問題になるわけだが、個人の場合は「衣食住と健康・移動に関する製品・サービス」ととらえることができる。ここに+αで、生活の質を高めるための教育とニュースメディア、日常生活のリスクをカバーする金融(保険)を加えてもよいだろう。食品、日用品、白物家電などは、製品に多少の欠陥があっても顧客の生命が脅かされることは稀である(もちろん、ゼロとは言わない)。他方、自動車や住宅、医薬品などについては、欠陥があると顧客が死亡する危険性がある。また、社会的インフラが停止すれば、我々の生活は破綻してしまう。

 法人にとっての必需品は、「経営資源(ヒト、モノ、カネ、情報)の調達・活用に関する製品・サービス」である。産業機械はモノを活用する製品である。物流は企業がモノを調達するためのサービスである。IT(BtoBの基幹業務システム)は企業が情報を収集・活用するためのサービスである。先ほど挙げた以前の記事では【象限④】に金融(預金・貸出)を入れていたが、金融機関の預金・貸出機能は必要不可欠な経済的インフラであり、これが停止すると企業はたちまち潰れるため、【象限②】に移動させた。法人にとっての必需品は、いずれもその供給が停止すると事業に甚大な影響が出ることから、【象限②】に該当するものが多い。

 あってもなくてもよい=非必需品は【象限③】と【象限④】である。【象限③】にあった「金融(証券)」は次のように修正した。証券のうち、企業が資金調達のために発行する株式や債券は、企業の事業継続にとって必須であり、かつ株式や債券が思い通りに発行できなければ企業の存続が危ぶまれるため、「金融(資金調達的証券)」として【象限②】に入れた。一方で、【象限③】には「金融(投機的証券)」を入れた。これはその名の通り投機的な目的、より平たく言えばお金儲けのために行う投資のことである。こうした投資は資産に余裕がある人がやるものであり、仮に投資に失敗しても投資家が死ぬことはない(損失額の大きさにショックを受けて自殺する人はいるかもしれないが)。なお、【象限④】に軍事を入れている点は変わらない。

 3つ目の図は、2017年3月末時点での「世界時価総額ランキング」の上位20社をそれぞれの象限にあてはめたものである。同じ金融機関でも、ウェルズ・ファーゴ、中国工商銀行、バンク・オブ・アメリカは【象限②】に入れているのに対し、JPモルガン・チェースは【象限③】に入れている。JPモルガン・チェースは商業銀行部門を抱えているものの、同時に世界最大の投資銀行部門を有しており、事業の中心がどちらかと言うと後者にあるためである。サムスン電子は、【象限①】に該当する家電部門も抱えているが、収益の大半をスマートフォンが稼ぎ出しているので、【象限③】に位置づけた。なお、【象限④】に該当する企業はない。

製品・サービスの4分類(④マーケティング戦略の違い)

 上図は、各象限のマーケティング戦略の違いを簡単に表したものである。まず、アメリカが強い【象限③】から説明するが、【象限③】は以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたように一神教的な世界である。【象限③】は必需品ではないから、需要を一から創造しなければならない。よって、伝統的な市場調査は役に立たない。そこで、カリスマ的なリーダーは、自分を世界で最初の顧客に見立て、「自分ならこれがほしい」と強く思う製品・サービスを形にする。そして、自分の信じるイノベーションを世界中に普及(布教)させることを神と契約する。イノベーターは、あらゆる顧客セグメントに対して、単一の製品・サービスを提供する。ただし、神との契約が本当に正しいかどうかは、リーダーには解らず、神のみぞ知る。

 リーダーは、自分こそが神と正しい契約を結んだイノベーターであると自負して、競合相手を激しく攻撃する。また、自分の考えたイノベーションは世界中の人々にも受け入れられるはずだと信じて、ベンチャーキャピタルや株式市場から調達した潤沢な資金を使い、世界中で半ば強引なマーケティングを行う(個人的に、”ごり押し”マーケティングと呼んでいる)。その激しい競争を勝ち抜いたわずか数社が、全世界の市場を制覇する。勝利を収めた企業が、なぜ成功することができたのかと問われれば、リーダーなどの当事者は「自分が並々ならぬ努力したからだ」と答えるだろうが、実際のところは「神に選ばれたから」というのが答えである。つまり、運がよかったということだ。だから、他社が【象限③】の企業を単純に真似をしても、成功することはできない。

 【象限③】の企業は、全世界の人々を顧客にすることを狙って”ごり押し”マーケティングを実施した結果、一部の熱狂的なファンを獲得すると同時に、強烈なアンチも生み出す。世界中の人々にイノベーションを普及させるという当初の目的からは外れてしまうが、【象限③】の企業にとってはこれでよい。一部の熱狂的なファンが貴重な収益源となる。また、アンチから攻撃されればされるほど、熱狂的なファンは企業を攻撃から守るために団結する。つまり、ブランドに対するロイヤルティが高まる。ブランド・ロイヤルティの高い一部の熱狂的なファンは、そのブランドに対する消費を惜しまない。その消費額には際限がないため、【象限③】では市場規模を正確に予測できない。日本の例になるが、AKB48がCDに握手券をつけて販売すれば、熱狂的なファンの中には同じCDを何十枚も購入する人が出てくるため、CDが何枚売れるかは全く読めない。

 【象限③】の企業の課題は、成功するかどうかが神の采配次第であり、非常にリスクが高いということである。だから、【象限③】の企業は、できるだけ自社で正社員を抱えずに、プロジェクトごとに必要な人材を外部から調達し、プロジェクトが終了すれば解散するようなやり方を好む。プロジェクトのメンバーは、企業と雇用契約ではなく、業務委託契約を結ぶ。こうしておけば、企業に不都合なことが生じた際に、すぐに契約を解消することができる。芸能事務所とタレントの関係がまさにこれである。この場合、タレントの地位が非常に不安定なものになるため、最近は日本で俳優の労働組合を作ろうという動きがあるようだ(アメリカには、芸能人やハリウッドの俳優が加入できる"SAG-AFTRA"という労働組合が存在する)。

 【象限③】におけるリスクを回避するもう1つの方法は、自社がイノベーションのプラットフォームになるということである。【象限③】では、成功を夢見て多数のイノベーターが自分のイノベーションを世界中に売り込もうとしている。すると、彼らの中には、自分がお金を払ってでもいいから、自分のイノベーションを世界に広めたいと考える人が現れ始める。プラットフォーム企業は彼らのニーズに目をつけ、イノベーターと世界中の顧客を結ぶプラットフォームを構築する。

 古典的には、出版社のビジネスモデルがこれに該当する。出版社は自社のリスクを低減するために、著者からお金を取る。一般的に考えれば、著者は出版社から見て仕入先にあたるから、出版社から著者に対してお金を支払うはずだ。だが、特に無名の著者の場合は、お金の流れが逆転する(もちろん、本が売れれば出版社は著者に印税を支払う)。AppleやGoogleはスマートフォンを販売しているが、スマートフォンの本質は通話機能ではなく、アプリのプラットフォームにある。AppleやGoogleはユーザからお金を取ると同時に、アプリの開発者からもお金を取る。プラットフォーム企業は、どの製品・サービスが売れるかどうかを気にする必要がない。とにかく世界中からたくさんのイノベーションを集めて自社のプラットフォームに乗せ、あとは世の中の流行り廃りに任せておけばよい。Amazonのマーケットプレイスもこれに似ている。

 【象限①】、【象限②】は多神教的な世界である。多神教的な世界とは、企業や顧客に様々な神が宿る世界である。また、唯一絶対の一神教の神とは異なり、多神教の神は不完全である。企業に宿る神は、自社が何者であるのか、自社の強み、コア・コンピタンスは一体何なのかを教えてくれる。ところが、神が不完全であるがゆえに、その答えもまた不完全である。企業は自社のアイデンティティを深く知るために、学習(修行)を重ねなければならない。最も効果的な方法は、自社とは異なる神を宿しているであろう顧客や企業と積極的に接することである。よく言われるように、良質な学習は、異質との出会いから生まれるからだ。

 【象限①】は、必需品であり、かつ品質に対する要求水準が高くないため、コモディティ化しやすい。コモディティ化が進むと、新興国企業が低コストを武器に参入してくる。新興国の財閥企業は、特定の顧客セグメントをターゲットとして、【象限①】に該当する様々な製品・サービスを提供する。一方で、新興国においても先進国においてもそうであるが、【象限①】は自国の雇用の受け皿となる業種が多いことから、大規模企業や外資企業の参入が規制される場合がある。そのため、世界的な企業が生まれにくい。逆に、中堅・中小企業が乱立している。3つ目の図で、【象限①】に該当する企業が【象限②】や【象限③】に比べると少ないのはそのためである。

 財閥企業は資金力を活かして多角化し、異質な製品・サービスに触れることで学習を進められる。だが、【象限①】の大部分は、特定の顧客セグメントに対し、特定の製品・サービスを提供する中堅・中小企業である。彼らが学習を行う方法としては、同じ顧客セグメントをターゲットとし、自社とは異なる製品・サービスを提供する他社との水平連携が挙げられる。ショッピングセンターや商店街はその典型例である。ショッピングセンターや商店街においては、自社単独の力ではなく、他店舗と協力して全体としていかに魅力を高めていくかを考えることが重要となる。

 【象限①】における企業の課題は、製品・サービス自体の難易度がそれほど高くないことから、自社内に多くの階層を設けることができないという点である。つまり、昇進によって社員を動機づけることが難しい。飲食店であれば、スタッフ、店長、エリアマネジャーぐらいの階層しかない。この課題をクリアするためには、まずは異分野へ進出して、水平異動の道を作るということが考えられる。それが難しい場合は、例えば商店街内で店舗を超えた人材交流を行うという手もあり得る(どれほど実現可能か自信がないが)。要するに、縦への異動で新しいことに挑戦させるのが難しければ、横への異動で新しいことに挑戦させ、動機づけを図ろうというわけである。

 【象限②】では日本企業が強い。あるカテゴリの製品・サービスを、あらゆる顧客セグメントに提供する。トヨタが「いつかはクラウン」というキャッチコピーで、世代ごとに様々な車種を揃えたのが解りやすい例である。まずこの点で、【象限②】の企業は異質との学習を達成している。

 次に、【象限②】の製品・サービスは品質要求が厳しく、自社だけで完成させることが難しいため、多くの下請・協力企業を活用することになる。自動車、建設、IT(BtoBの場合)では多重下請構造が見られる。最終メーカーと下請企業との擦り合わせもまた、異質との学習である。こういう有機的な下請構造を構築できる企業は限られるので、【象限②】では各国において複数企業による寡占が生じやすい。また、【象限③】では”ごり押し”マーケティングで競合他社を激しく攻撃するが、【象限②】においては時に競合他社との協業が起きる。自動車業界では、A社がB社にエンジンを供給するなどの関係が数多く存在する。これもまた、異質との学習と言えるであろう。

 【象限②】の課題は、異業種との接点が少ないことである。前述の通り、【象限②】の企業は既に多くの面で異質との学習を達成していることから、異業種から学ぶインセンティブが低いのかもしれない。今までは自社が得意とする製品・サービスに特化していればよかった。だが、これからは異業種とのコラボレーションが重要課題となる。トヨタはグーグルと提携して自動運転車の開発をしているし、金融機関はIT企業と提携してFintechの研究を進めている。IT業界は他の業界との協業が比較的やりやすい業界なのかもしれないが、今後は例えば自動車×建設、医療×金融といった、一見どういう点で結びつくのか解らないような業種の組み合わせでのコラボレーションを追求することが重要な課題になると考えられる。

 これで、「製品・サービスの4分類」は大分完成に近づいたと思うが、それでもまだ私の頭を悩ませる例外がいくつも存在する。まずはMicrosoft(MS)である。パソコンは、発売当初はあってもなくてもよい【象限③】の製品であったが、今や日常生活に欠かせない【象限①】の製品となった(WindowsやOfficeは頻繁にフリーズするが、ユーザの生命を脅かすわけではないため【象限①】だと言える)。通常、【象限①】では前述の通り中堅・中小企業が乱立する。だが、MSは未だに圧倒的なシェアを占めている。本来であれば、【象限③】から【象限①】に移動するにつれて、様々なOSが登場し、OS間の互換性を担保するソフトウェアも開発されてしかるべきである。しかし、MSは(EUから何度も独禁法違反で訴えられているのに、)その道を巧みに封じている。

 コカ・コーラとマクドナルドは【象限①】なのか【象限③】なのかも難しい問題である。個人的には、いずれもあってもなくてもよいものだとは思う。【象限③】に位置づけた方が、両社の特徴を説明しやすい。コカ・コーラはライバルのペプシコと市場を二分しており、お互いに相手のことを広告で激しく攻撃する。マクドナルドはショッピングセンターや商店街の中にも入っているが、「アメリカのハンバーガー文化」を世界に普及させることを目的としており、他社との連携には消極的であるように見える(その点、日本マクドナルドはよくドコモと提携したと思う)。

 だが、炭酸飲料の中でコーラだけを【象限③】として扱うのは無理があるから、やはりコカ・コーラは【象限①】に該当するのだろう。日本コカ・コーラは、コカ・コーラ以外にも、消費者にとってより必需性が高い様々なジャンルの飲料水を発売して、水平方向に拡大している。マクドナルドも、マクドナルドだけを飲食店の例外とする合理的理由が見当たらないので、【象限①】に入れるべきなのだろう。とすると、近年業績が安定しないマクドナルドが今後も持続的に成長するには、【象限①】の特徴である水平連携をいかにして実現するかが課題となるように思える。

 プラットフォーム型ビジネスは【象限③】の特徴であるが、最近は【象限①】や【象限②】でもプラットフォーム型ビジネスが見られる。一例としてはクレジットカードが挙げられる。VisaやMasterCardなどは、そのブランドを全世界に浸透させることを狙い、最初は一部のお金持ちだけが使っているものであった。また、決済システムにもさほど高度な要件は求められなかった。システムに障害が起きても誰も注目しなかった。つまり、典型的な【象限③】のサービスであった。

 だが、現在のクレジットカード会社は、高額決済をする従来の加盟店に加えて、少額決済の加盟店をどんどん増やしている。また、今や誰もがクレジットカードを所有しており、個人会員向けには、会員の収入に応じて様々なステータスが用意されている。クレジットカードは、オフラインの世界のみならずオンラインの世界においても、必要不可欠かつ高度な決済プラットフォームを提供する。システム障害は世界中の取引に影響を及ぼすため、絶対に避けなければならない。この点で、クレジットカードは、【象限③】から【象限②】に移動したサービスであると言える。

 Amazonは書籍のECからスタートしたため、私は【象限③】に位置づけたのだが、近年は食品や日用品、雑貨など製品カテゴリーを拡充して【象限①】に進出している。【象限③】で培ったプラットフォーム型ビジネスのノウハウを、【象限①】でも存分に活用している。また、Amazonはソフトウェア開発者向けにAWS(Amazon Web Service)というPaaS/IaaSのプラットフォームを開発しており、誰でもクラウド型のWebサービスを開発することができる。AWSは個人が趣味でアプリを開発するだけでのものではない。企業が基幹業務用システムとして使えるほどの十分な信頼性とセキュリティを実現している。つまり、【象限②】への進出を果たしていると言える。

カテゴリ: 経営 コメント( 0 )
2017年05月24日

頼住光子『道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか』―道元の禅は絶対的な真理を追求しないから安心した

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道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)道元―自己・時間・世界はどのように成立するのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
頼住 光子

日本放送出版協会 2005-11

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 以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、鈴木大拙が欧米に紹介した禅は、全体主義と通じるところがあり、ひいては近年アメリカを中心にブームとなっているU理論やマインドフルネスにつながっている部分が大きいのではないかと書いた。

 私が考える全体主義を改めて簡単にまとめると以下のようになる。まず、人間の理性は唯一絶対の神と等しいという点から出発する。神が絶対無から絶対有を生み出すように、人間もまた絶対無から絶対有を生み出すことができる。神は自らが生み出した絶対有である宇宙に等しい。人間は神に等しいから、人間もまた宇宙に等しい。我々1人1人の中には、宇宙の全てが内蔵されている。よって、我々は信仰を通じて、絶対有である宇宙に触れることができる。つまり、神に触れられる。ここでポイントとなるのは、他者の力を借りなくてもよいという点である。全体主義者はしばしば連帯を説くが、実際には「トゥゲザー・アンド・アローン」(オルテガ)である。

 人間の理性は絶対的な神に等しいわけだから、人間は生まれながらにして完成している。よって、生まれた後に人間が下手に教育などを施して人間を改造しようとすることは否定される。人間にとっては、生まれたというその瞬間が全てである。つまり、現在が時間の全てを支配している。現在という1点でありながら全てである時間において、人間は革命を起こす。だが、現実的な問題として、永遠不滅の神と異なり、人間は死ぬ。死ぬことで絶対有から絶対無に帰す。しかしここで、絶対無は再び絶対有を生み出す源泉となる。つまり、絶対無⇒絶対有⇒絶対無という円環を形成する。これにより、人間は永遠に革命を続けることができる。これは、ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である(以前の記事「神崎繁『ニーチェ―どうして同情してはいけないのか』―ニーチェがナチスと結びつけられた理由が少し解った気がする、他」を参照)。

 道元の考え方も、上記の全体主義と共通する部分がある。まず、人間が宇宙を内包しているという点については、本書で次のように書かれている。
 「尽界(尽知)」(全世界)とは、まず、1つの世界として無文節かつ「無差別」な全体をさす「空そのもの」の世界である。(中略)その意味で、「一草一象」は、全体世界をみずからにおいて折り込み発現させているということができる。
 道元が現在という一瞬を重視する姿勢は、次の文章に表れている。
 道元は、現在のこの一瞬(而今)は、自己によって主体的に把捉されることで成り立つとする。この把捉点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超越したという意味において、非連続的なものである。そして、「今この一瞬」(而今)とは「空」を体得し、世界を現成させるその「一瞬」である。この瞬間は、「空」という無時間に立脚した時である。宗教哲学的な用語を使うならば、「永遠の今」ということもできよう。
 道元は、人間の死について、次のように考えている。
 死において個々人は意味も役割も失い、自己のアイデンティティーを喪失する。このことを直接的に受け止めるならば、現実①(※個々の事物が差別的に存在している世界)は存立を脅かされる。それ故に、現実①すなわち俗世は、たとえば、血統の無窮性や、国体の無窮性など、さまざまな神話によって、個人は死によって無に帰するのではなく、むしろ、個としての存在性を失うことによって永遠なるものに吸収され、それにより個々の死を越えて永遠性を帯びると主張する。
 人間が現在という1点において永遠に革命を起こす、つまり1人が1人でありながら全体を達成するという点については、本書の次の記述が対応する。
 真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレヴェルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす「空そのもの」への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての「有時」こそが、日常生活における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する一瞬(而今)なのである。
 禅と言うと、師匠と弟子の間で繰り広げられる「禅問答」が有名である。我々は通常、禅問答という言葉を使って、「何を言っているのか、はたからは解らない問答」という意味を表す。そして、実際の禅問答は常人からすると、本当に理解不能なのである。鈴木大拙の『禅』にはたくさんの禅問答が収められているが、一部を紹介すると次のようなものがある。

禅 (ちくま文庫)禅 (ちくま文庫)
鈴木 大拙 工藤 澄子

筑摩書房 1987-09

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 僧「どうしたら、生と死のきずなから逃れることができましょうか」
 師匠「おまえはどこにいるのか」
 ある人「仏陀の根本の教えは何でしょうか」
 師匠「この扇子はよく風を呼んで涼しいわい」
 言葉の通常の意味だけでは理解することができない禅問答を読んで、私はクリプキの「グルー」の議論を想起した(以前の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」を参照)。一見すると不可解な禅問答も、「グルー」の論法を使うと、意味が通じるようになるのかもしれない。いや、この「グルー」の議論を拡張すると、言葉が世界の意味を規定するという役割が放棄され、世界のあらゆる事象が人間の中にどっと流れ込むことになる。つまり、人間は無限の存在になる。そこに私は全体主義の端緒を見出して、恐れおののいてしまう。

 だが、道元の禅は、鈴木大拙が欧米に紹介した禅とは異なる点もあるというのが、本書を読んでの大きな発見であった。冒頭で、全体主義は人間の理性と唯一絶対の神を同一視すると書いたが、道元は絶対的な真理の存在を否定している。真理は1人1人が主体的に追求するものであると主張している。道元は、唯一絶対の神のような、本質的に固定的なものを立てない。
 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性―空」ということで表される。(中略)まず、「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。「自性」とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。このような「自性」は、西洋哲学の専門用語では「実体」という。(中略)古代ギリシャ以来の西洋哲学の流れでは、「実体」は論理構造の核に位置する中心的概念であったのに対して、仏教の(とりわけ大乗仏教の)考え方によれば、このような「自性」(=実体)は基本的には否定される。
 全体主義では、1人1人の人間が皆絶対的な神に等しいから、他人の力を借りなくても絶対的な宇宙にアクセスできると書いたが、道元の禅は他者との相互依存性を強調する。他者との関係によって、他者を配列させることによって、自己の意味を表出させることを重視する。
 「縁起」とは、「因縁生起」を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。とくに大乗仏教では、「縁起」は「空」と同一視される。「空」とは「自性」を持たないという消極的意味と、「縁起」による事物事象の関係的成立という積極的意味の両面を兼ね備えているということができる。
 先ほど、禅問答で繰り広げられる言葉は、究極的には意味を放棄し、世界の事物事象を全て人間の中に流入させて人間を無限の存在たらしめるものだと書いた。これに対して、道元は言葉に積極的な役割を与えているという大きな違いがある。
 修行者は、「解脱」において「空」を体験するのであるが、その体験は体験のみで完結するわけではない。その体験は必ず意味化され言語化される必要がある。(中略)

 では、「脱落」体験を言語化、意味化することはなぜ必要なのだろうか。それは、世界を顕現させるためである。もし、言語化、意味化することがなかったならば、「空そのもの」「無そのもの」と出会った自己は、すべての意味を剝奪されたまま、混沌たる世界に拡散し、その中に溶解してしまうであろう。そこには無意味なカオスがただあるだけである。このような言語化、意味化によって、再び世界が立ち現されてくる。これを「現成」というのだ。
 冒頭で、全体主義的な発想が、現在流行りのU理論やマインドフルネスに受け継がれているのではないかと書いた(以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(4)】全体主義に回帰するアメリカ?」を参照)。U理論のベースとなる考え方を提供した物理学者のデイビッド・ボームは、世界でありとあらゆる深刻な問題が生じている原因を「言葉」に求めた。言葉は人間の都合によって世界を自由に分解する。その分解の方法や、言葉の意味の解釈をめぐって対立が発生する。そうした小さな齟齬の積み重ねが、グローバル規模の課題へとつながっているというわけだ。

 ボームはこうした課題を解決する方法として「ダイアローグ(対話)」を提唱し、その考え方はU理論にも受け継がれている。ダイアローグも言葉を使うものの、参加者は自由に発言することが許される。他の参加者はその発言を批判してはいけない。また、発言の意図を厳密に解釈しようとしてはいけない。とにかく、参加者が思いのたけを洗いざらい発言することに意味がある。すると、ある瞬間に参加者同士が連帯し、宇宙全体に触れることができるようになるのだという。ボームの言葉を借りれば、我々が普段目にしている顕然秩序の背後にあって、宇宙全体をつかさどる内蔵秩序と同化できるというわけだ。だが、このダイアローグは、先ほど述べた、言葉が意味を失って世界の全てを人間に流入させる禅問答と同じなのではないかという気がする。

 これに対して、道元は言葉を重視する。もちろん、言葉によって世界を切り取ることは、世界を固定化することでもある。しかし、世界の本質は流動的であるという道元の考えからすれば、言葉によって世界を固定することは許されない。よって、「空そのもの」を体験した者は、手を変え品を変え、様々な言葉で世界を語り続けなければならない。だから、禅問答は矛盾に満ち、時に自己否定を含むものになる。禅問答がはたから見て意味不明なのは、言葉の意味を失わせて世界の全てを人間に押し込めるためではなく、本質的に固定的ではないもの、「無自性」であるものを絶えず捕まえようとする不断の努力の結果である。

 全体主義においては、現在という一瞬が時間の全てを支配すると書いた。一方で、道元の場合は、単純な過去⇒現在⇒未来という時間の流れを否定し、現在を重視するという点では共通するものの、常に現在という一瞬が生じ続けるという点で異なる。
 仏道における、発心・修行・菩薩・涅槃の過程とは、本来的なる空―縁起を自覚し、その本来性を現実化すべく、一瞬、一瞬、「空」に立脚して世界を現成していく過程である。そして、そのような一瞬において、立ち現われてくる存在の絶対性について、道元は、「究尽(きわめつくす)」という言葉で表している。
 引用文にある「絶対性」とは、全体主義が想定する絶対性とは異なる。禅においては、本質的なものは本来的に不定であるから、一瞬、一瞬のうちに体得する絶対性は、その時において絶対性だと思えるものにすぎない。ある瞬間に獲得した絶対性は、次の瞬間には早くも否定され、別の絶対性へと至る。この一瞬、一瞬の営みを繰り返すのが禅である。ありていに言えば、絶対的な正解がない世界で常に最善を尽くすことであり、これこそ日本人的な生き方である。

2017年05月22日

【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点

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人材育成

 今まで本ブログで個別に触れてきたことだが、改めて私の「人材マネジメント」観を整理しておきたいと思う。一般的な考え方と違っているところもかなりあるだろう。

 Q1.採用時には志望動機(モチベーション)の高い人を選ぶべきか?
 採用時に、「なぜこの業界を選んだのか?」、「なぜ我が社を選んだのか?」、「我が社に入社して何をしたいのか?」などを応募者に尋ねる企業は多い。しかし、採用面接時のモチベーションと入社後のパフォーマンスはほとんど関係がないと考えている。モチベーションというものは非常に移ろいやすいものである。担当する仕事、周囲を取り巻く人間関係や職場環境、あるいはプライベートな要因によってすぐに上下する。そういう不安定な要素を採用の決め手にしない方がよい。採用時には、後述のように別の観点から応募者を評価するべきである。

 Q2.新卒採用では、自社の価値観と合致する人を採用するべきか?
 採用とは、企業が自社の戦略に従って実行すべき業務を遂行できる能力を持った人を選択することである。だが、新卒採用の場合は、応募者に十分な能力がないことは解りきっている。そこで、自社の価値観と応募者の価値観が合致するかという視点で評価をすることがある。価値観とは、応募者や企業が大切にしている価値、ルールであり、重要な業務を遂行するにあたって意思決定のよりどころとなる指針である。業務を下支えするコンテクストと言ってもよい。

 だが、22歳の大卒でさえ、価値観を要求するのは酷というものである。22歳では、人生の価値観を形成するには経験が浅すぎる。私の話をして恐縮だが、私には「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」というものがある。10の価値観のうち、ほとんどは社会人になってから形成されたものである。新卒採用では、価値観よりさらに手前のプリミティブな要素を評価する必要がある。具体的には、性格を評価する。一般に、性格は協調性、誠実性、情緒安定性、開放性、外向性という5つの要因から構成されると言われる(これらを合わせて「性格のビッグファイブ」と呼ぶ)。新卒採用ではこれら5つの要因のレベルを評価するにとどめ、価値観や能力は入社後にじっくりと醸成していくべきであろう。

 Q3.中途採用では能力が高い人を採用するべきか?
 中途採用では、企業側は即戦力を求めている。よって、企業側が要求する能力を応募者が持っているかどうかを見ることが多い。しかし、一部の汎用的な能力(例:プログラミングの能力など)を除いて、大半の能力は特定の企業でしか通用しない企業特殊能力である。よって、たとえ前の会社で高い能力を発揮した人であっても、自社に転職した後は自社のやり方に慣れてもらうために一定のトレーニングが必要である。この点を見落としてはならない。

 中途採用においてこそ、応募者の価値観と自社の価値観が合致するかを見るべきである。能力はトレーニングで変化させることができるが、一度染みついた価値観を変えることは難しい。応募者の価値観が自社の価値観と異なっているのに入社を許すと、その人は業務を遂行するにあたって周囲の社員との間に軋轢を生み、深刻な問題を引き起こすだろう。もっと言えば、応募者の価値観と自社の価値観がきれいに合致することは稀である。というのも、企業が違えば価値観も異なるわけであって、今まで別の企業で働いてきた応募者は、自社とは違う価値観を持っていると考えるのが自然だからである。だから、中途採用において本当に見るべきポイントは、「価値観の対立が生じた場合に、応募者がどのように対処してきたか?」である。

 Q4.短期的に成果を上げるため、中途採用に注力するべきか?
 年々、企業は短期的に業績を上げるようプレッシャーを受けるようになっている。短期的に成果を上げるには、育成に時間がかかる新卒採用よりも、ちょっとのトレーニングで済む中途採用に注力したくなる。アメリカのスタートアップ企業の中には、中途採用しか行わないと公言している企業もある。外部の企業が人材を育成してくれるのに、なぜ自社がわざわざお金と時間をかけて育成をしなければならないのか、というのが彼らの言い分である。日本でも、中小企業は中途採用が中心のところが多い。ただし、中小企業の場合は、意図的に中途採用中心になっているのではなく、知名度の低さゆえに新卒が集まらないというのがその理由となっている。

 だが、全ての企業が中途採用のみを行ったらどうなるか、その結果は明白である。企業は社員に対してまともなトレーニングをしなくなる。代わりに、訓練などしなくても、天賦の才能で高い成果を出すことができる一部の逸材を多数の企業で取り合うことになる。労働市場には、訓練を受けていない低スキルの労働者が大量に排出される。能力がない新卒に関しては、採用される機会を完全に失う。これでは社会は機能不全に陥る。中途採用をするということは、本来自社が負担すべき教育訓練の費用の相当部分を外部化したことと同じである。中途採用に偏るのは、外部の企業が負担した費用にタダ乗りするずるい方法である。よって、企業は、たとえ手間暇がかかると解っていても、社会のために新卒採用をして教育訓練に投資しなければならない。

 Q5.社員は自己実現を目指すべきか?
 マズローの欲求5段階説に従うと、社員は仕事を通じて最上位の欲求である自己実現の欲求を満たすのが望ましいと言われる。だが、企業は顧客に奉仕する利他的な存在であるのに、その企業から給料をもらって企業に奉仕する社員が自己実現などという利己的な欲求を前面に出すのはおかしい。社員は何よりもまず利他的であるべきである。つまり、企業に奉仕し、さらに企業の先にある顧客に奉仕する。その結果として上司や顧客から得られる「承認」によって、利己的な欲求を満たすという順番が望ましい。承認欲求は欲求5段階説において4番目の欲求である。実は、最上位の自己実現欲求を持っているのはアメリカ人でもごく少数しかおらず、大半はその下の承認欲求を持っているとされる(そもそも、マズローの欲求5段階説は1つの仮説にすぎず、実証的に証明されたものではない点にも注意が必要である)。

 Q6.社員は3年で一人前のプロフェッショナルになるべきか?
 私が以前勤めていたベンチャー企業では、キャリア開発研修を販売していた。顧客企業の人事部からは、「入社3年目程度の若手社員を一人前のプロフェッショナルにしたい。そのための意識づけの研修を行ってほしい」という要望を受けることが多かった。教育研修業界の中でも(業界規模5,000億円程度の小さい業界だが)、「若手社員の自律化」が流行となっており、いかにして若手社員を早期にプロフェッショナル化するかがよく議論されていたのを覚えている。

 だが、3年で仕事を一通り覚えることはあっても、プロフェッショナルになるのは無理があると思う。プロフェッショナルの定義は色々あるだろうが、個人的には、「発生頻度が最も多い標準的な事象に適切に対応できると同時に、発生頻度が低い難題もクリアすることができ、逆に発生頻度が低い易しい課題についても効率的な対処ができる人」だと考えている。つまり、ありとあらゆるケースを最適な方法で処理できる人のことである。3年程度では、発生頻度が最も多い標準的な事象に対応することはできても、それ以外のイレギュラーな事象に柔軟に適応するのは難しい。それができるようになるには、やはり最低でも10年はかかる。

 もしも3年でプロフェッショナルになれるような仕事があるとしたら、それはおそらく非常に簡単な仕事であり、早晩海外にアウトソーシングされるだろう。日本国内にいる限りは、10年、いやそれ以上の時間がかかってようやくプロフェッショナルと呼ばれるようになるような、高付加価値の仕事をするべきである。ちなみに、剣道にはこんな言葉があるそうだ。「10年修行すると自分の強みが解る。20年修行すると相手の強みが解る。30年修行すると自分の弱みが解る」。これこそプロフェッショナルの神髄ではないだろうか?

 Q7.社員のモチベーションを上げるべきか?
 「我が社の社員のモチベーションが低くて困っている」と嘆く経営者は多い。経営陣は何とかして社員のモチベーションを上げようとする。しかし、よくよく考えるとこの構図はおかしい。というのも、お金を払うのは企業側、お金をもらうのは社員側であり、モチベーションを上げるとは、お金を払う側がお金をもらう側のモチベーションを上げることになるからだ。これがいかに不自然な構図であるかは、企業と顧客の関係を考えてみればよい。お金を払うのは顧客側、お金をもらうのは企業側である。しかし、顧客は企業のモチベーションを上げようなどとは露だに考えない。

 それでも企業側が社員のモチベーションを上げなければならないとすれば、顧客は企業が気に食わなければ別の企業を選択すればいいのに対し、企業は社員が気に食わなくても簡単に代わりを探すことができないという事情によるだろう。だから、特別の配慮をしなければならない。と言っても、企業側が社員のモチベーションを上げるためになすべきことは、社員の前に「本当に困っている顧客」を提示して、彼らの利他的動機を目覚めさせるだけでよい(以前の記事「『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?」を参照)。モチベーションを管理する責任は社員自身にある。企業側が前述の配慮をしてもなおモチベーションが上がらないならば、問題は企業ではなく社員本人にある。

 Q8.社員の満足度を上げるべきか?
 サービス業のインターナルマーケティングにおいては、社員の満足度を上げると顧客接点におけるサービスの質が上がり、顧客満足度が上がると言われる。この「社員満足度向上⇒顧客満足度向上」という因果関係、正確に言うと「社員満足度向上⇒社員のモチベーション向上⇒顧客満足度向上」という因果関係が他の業界にも適用されて、多くの企業が社員満足度を重視するようになっている。だが、社員が満足してしまうと、現状に甘んじてしまい、もっとよくしようというモチベーションが湧かない可能性がある点をこの因果関係は無視している。

 むしろ、社員が多少不満足を感じている時の方が、モチベーションが上がりやすく、結果的にいい仕事ができるのではないかと思う。具体的に言えば、Q7とも関連するが、「本当に困っている顧客」を提示され、その顧客から難題を押しつけられ、課題の解決を試みようとしても社内に十分なリソースや制度がなく、周囲から満足な支援を受けられないという逆境が、かえってモチベーションを燃え上がらせる。社員満足度調査を行って、全ての項目について社員の満足度を上げるように施策を打つのも考えものである。職場の物理的環境、具体的には職場の清潔さや安全性などについては、社員の不満足を取り除いた方がよいだろう。しかし、仕事の中身そのものについては、社員に多少の不満、不便を味わわせるぐらいがちょうどよい。

 あまりに難しすぎるゲームはユーザーの心を折ってしまうけれども、難易度が適度に調整されたゲームは、ユーザーをイライラさせながらも、「何とかクリアしてやろう」とユーザーのモチベーションを持続させることができる。これと同じことである。

 Q9.成果給、業績給の割合を増やすべきか?
 成果主義の広がりによって、業績給を導入する企業が増えている。これは、給与の性質を成果に対する対価ととらえる発想である。だが、成果を正確に測定することは非常に難しい。私も本ブログや旧ブログで何度か試みたが、厳密に測定しようとすればするほど、複雑怪奇な計算式になってしまう。特に、チーム全体の成果を個人にどう配分すればよいのか、イノベーションに挑戦して失敗した人にどう報いればよいのかは難題中の難題である。どんなに緻密に組み立てられた数式であっても、必ず「その式は公平ではない」と言う人が出てくる。

 そこで、次のように発想を転換してはどうだろうか?給与を成果に対する対価ではなく、社員の生活費の保障として位置づけるのである。生活費は入社時が一番低く、結婚、出産を経るにつれて徐々に上がる。子育てを卒業しても、今度は親の介護や自分自身の疾病の治療のためにお金が必要になる。つまり、生活費は年齢に比例して一貫して増加し続ける。よって、給与は必然的に年功的になる。出光興産の創業者である出光佐三も、給与は生活給であるべしとの信念を貫いた。こういう話をすると、頑張っても報われない人が出てモチベーションに影響が出るという批判を受ける。だが、企業が生活費の保障をしているのに、それ以上に金のために働くというような人、出光佐三の言葉を借りれば「黄金の奴隷」となっている人は、企業にとって毒である。それでも金がほしいと言うのであれば、株やFXでもやっていればよい。

 Q10.人事考課はなくすべきか?
 近年、アメリカ企業の中に定期的な人事考課を廃止するところが増えており、日本企業でもそれに倣う動きが見られると言う。だが、人事考課を廃止するのは、社員に対する評価をなくすことではない。半年ないし1年に1回しか上司からフィードバックが受けられない現状を改めて、部下に対しこまめにフィードバックを行うのが、人事考課廃止の狙いである。

 私は、人事考課は廃止すべきではないと考える。理想的な企業とは、自社を取り巻く事業環境の変化に柔軟に対応して、戦略やビジネスモデルを頻繁に変更し、それに伴って業務プロセスや組織を再構築し、人、モノ、カネ、情報といった経営資源を再配置する企業であろう。しかし、環境の変化にあまりに身を委ねてしまうと、自社のビジネスを慎重に設計する営みが阻害されてしまう。端的に言うと、浅い考えになってしまう。だから、環境が激変する時代にあっても、定期的に立ち止まって、じっくりと先を見据えることが必要なのである。戦略や中期経営計画を毎年見直すといった取り組みには、依然として大きな意味がある。戦略などを見直すと、人材をいかに配置するべきかが問題となる。ここで人事考課の結果を活用して、社員の適材適所を実現していく。戦略に周期性がある限り、それと連動する形での人事考課は不可欠である。

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