この月の記事
【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』―私の考えだと、神に究極の根源を求める考えは全体主義につながってしまう
【日本アセアンセンター】カンボジアの最新の政治・経済事情セミナー(セミナーメモ書き)

お問い合わせ
お問い合わせ
アンケート
プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
所属組織など
◆個人事務所「シャイン経営研究所」◆ シャイン経営研究所ロゴ


(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長、および国際部員を務めています)

NPOビジネスサポート特定非営利活動法人NPOビジネスサポート
(監事を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

Experian海外企業信用調査 海外企業信用調査(Experian)
(一緒にお仕事をさせていただいている「コンサルビューション株式会社」は、世界最大の信用調査会社Experianの正規代理店です)

中小企業診断士の安い通信講座なら「資格スクエア」資格スクエア
(以下の資格の講師をしています。
 ―ITパスポート
 ―情報セキュリティマネジメント
 ―経営学検定(初級・中級)
 ―中小企業診断士(企業経営理論、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策)
 谷藤友彦と株式会社サイトビジット代表取締役・鬼頭政人氏の対談動画(1)(2)(3)
アクセスカウンター(PV)
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:


Top > 2017年05月 アーカイブ
2017年05月22日

【議論】人材マネジメントをめぐる10の論点

このエントリーをはてなブックマークに追加
人材育成

 今まで本ブログで個別に触れてきたことだが、改めて私の「人材マネジメント」観を整理しておきたいと思う。一般的な考え方と違っているところもかなりあるだろう。

 Q1.採用時には志望動機(モチベーション)の高い人を選ぶべきか?
 採用時に、「なぜこの業界を選んだのか?」、「なぜ我が社を選んだのか?」、「我が社に入社して何をしたいのか?」などを応募者に尋ねる企業は多い。しかし、採用面接時のモチベーションと入社後のパフォーマンスはほとんど関係がないと考えている。モチベーションというものは非常に移ろいやすいものである。担当する仕事、周囲を取り巻く人間関係や職場環境、あるいはプライベートな要因によってすぐに上下する。そういう不安定な要素を採用の決め手にしない方がよい。採用時には、後述のように別の観点から応募者を評価するべきである。

 Q2.新卒採用では、自社の価値観と合致する人を採用するべきか?
 採用とは、企業が自社の戦略に従って実行すべき業務を遂行できる能力を持った人を選択することである。だが、新卒採用の場合は、応募者に十分な能力がないことは解りきっている。そこで、自社の価値観と応募者の価値観が合致するかという視点で評価をすることがある。価値観とは、応募者や企業が大切にしている価値、ルールであり、重要な業務を遂行するにあたって意思決定のよりどころとなる指針である。業務を下支えするコンテクストと言ってもよい。

 だが、22歳の大卒でさえ、価値観を要求するのは酷というものである。22歳では、人生の価値観を形成するには経験が浅すぎる。私の話をして恐縮だが、私には「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」というものがある。10の価値観のうち、ほとんどは社会人になってから形成されたものである。新卒採用では、価値観よりさらに手前のプリミティブな要素を評価する必要がある。具体的には、性格を評価する。一般に、性格は協調性、誠実性、情緒安定性、開放性、外向性という5つの要因から構成されると言われる(これらを合わせて「性格のビッグファイブ」と呼ぶ)。新卒採用ではこれら5つの要因のレベルを評価するにとどめ、価値観や能力は入社後にじっくりと醸成していくべきであろう。

 Q3.中途採用では能力が高い人を採用するべきか?
 中途採用では、企業側は即戦力を求めている。よって、企業側が要求する能力を応募者が持っているかどうかを見ることが多い。しかし、一部の汎用的な能力(例:プログラミングの能力など)を除いて、大半の能力は特定の企業でしか通用しない企業特殊能力である。よって、たとえ前の会社で高い能力を発揮した人であっても、自社に転職した後は自社のやり方に慣れてもらうために一定のトレーニングが必要である。この点を見落としてはならない。

 中途採用においてこそ、応募者の価値観と自社の価値観が合致するかを見るべきである。能力はトレーニングで変化させることができるが、一度染みついた価値観を変えることは難しい。応募者の価値観が自社の価値観と異なっているのに入社を許すと、その人は業務を遂行するにあたって周囲の社員との間に軋轢を生み、深刻な問題を引き起こすだろう。もっと言えば、応募者の価値観と自社の価値観がきれいに合致することは稀である。というのも、企業が違えば価値観も異なるわけであって、今まで別の企業で働いてきた応募者は、自社とは違う価値観を持っていると考えるのが自然だからである。だから、中途採用において本当に見るべきポイントは、「価値観の対立が生じた場合に、応募者がどのように対処してきたか?」である。

 Q4.短期的に成果を上げるため、中途採用に注力するべきか?
 年々、企業は短期的に業績を上げるようプレッシャーを受けるようになっている。短期的に成果を上げるには、育成に時間がかかる新卒採用よりも、ちょっとのトレーニングで済む中途採用に注力したくなる。アメリカのスタートアップ企業の中には、中途採用しか行わないと公言している企業もある。外部の企業が人材を育成してくれるのに、なぜ自社がわざわざお金と時間をかけて育成をしなければならないのか、というのが彼らの言い分である。日本でも、中小企業は中途採用が中心のところが多い。ただし、中小企業の場合は、意図的に中途採用中心になっているのではなく、知名度の低さゆえに新卒が集まらないというのがその理由となっている。

 だが、全ての企業が中途採用のみを行ったらどうなるか、その結果は明白である。企業は社員に対してまともなトレーニングをしなくなる。代わりに、訓練などしなくても、天賦の才能で高い成果を出すことができる一部の逸材を多数の企業で取り合うことになる。労働市場には、訓練を受けていない低スキルの労働者が大量に排出される。能力がない新卒に関しては、採用される機会を完全に失う。これでは社会は機能不全に陥る。中途採用をするということは、本来自社が負担すべき教育訓練の費用の相当部分を外部化したことと同じである。中途採用に偏るのは、外部の企業が負担した費用にタダ乗りするずるい方法である。よって、企業は、たとえ手間暇がかかると解っていても、社会のために新卒採用をして教育訓練に投資しなければならない。

 Q5.社員は自己実現を目指すべきか?
 マズローの欲求5段階説に従うと、社員は仕事を通じて最上位の欲求である自己実現の欲求を満たすのが望ましいと言われる。だが、企業は顧客に奉仕する利他的な存在であるのに、その企業から給料をもらって企業に奉仕すべき社員が自己実現などという利己的な欲求を追求するのはおかしい。社員は企業に奉仕し、さらに企業の先にある顧客に奉仕するべきである。その結果として上司や顧客から得られる「承認」によって、自分の欲求を満たせばよい。事実、マズローの欲求5段階説において、最上位の自己実現欲求を持っているのはアメリカ人でもごく少数しかおらず、大半はその下の承認欲求を持っているとされる(そもそも、マズローの欲求5段階説は1つの仮説にすぎず、実証的に証明されたものではない点にも注意が必要である)。

 Q6.社員は3年で一人前のプロフェッショナルになるべきか?
 私が以前勤めていたベンチャー企業では、キャリア開発研修を販売していた。顧客企業の人事部からは、「入社3年目程度の若手社員を一人前のプロフェッショナルにしたい。そのための意識づけの研修を行ってほしい」という要望を受けることが多かった。教育研修業界の中でも(業界規模5,000億円程度の小さい業界だが)、「若手社員の自律化」が流行となっており、いかにして若手社員を早期にプロフェッショナル化するかがよく議論されていたのを覚えている。

 だが、3年で仕事を一通り覚えることはあっても、プロフェッショナルになるのは無理があると思う。プロフェッショナルの定義は色々あるだろうが、個人的には、「発生頻度が最も多い標準的な事象に適切に対応できると同時に、発生頻度が低い難題もクリアすることができ、逆に発生頻度が低い易しい課題についても効率的な対処ができる人」だと考えている。つまり、ありとあらゆるケースを最適な方法で処理できる人のことである。3年程度では、発生頻度が最も多い標準的な事象に対応することはできても、それ以外のイレギュラーな事象に柔軟に適応するのは難しい。それができるようになるには、やはり最低でも10年はかかる。

 もしも3年でプロフェッショナルになれるような仕事があるとしたら、それはおそらく非常に簡単な仕事であり、早晩海外にアウトソーシングされるだろう。日本国内にいる限りは、10年、いやそれ以上の時間がかかってようやくプロフェッショナルと呼ばれるようになるような、高付加価値の仕事をするべきである。ちなみに、剣道にはこんな言葉があるそうだ。「10年修行すると自分の強みが解る。20年修行すると相手の強みが解る。30年修行すると自分の弱みが解る」。これこそプロフェッショナルの神髄ではないだろうか?

 Q7.社員のモチベーションを上げるべきか?
 「我が社の社員のモチベーションが低くて困っている」と嘆く経営者は多い。経営陣は何とかして社員のモチベーションを上げようとする。しかし、よくよく考えるとこの構図はおかしい。というのも、お金を払うのは企業側、お金をもらうのは社員側であり、モチベーションを上げるとは、お金を払う側がお金をもらう側のモチベーションを上げることになるからだ。これがいかに不自然な構図であるかは、企業と顧客の関係を考えてみればよい。お金を払うのは顧客側、お金をもらうのは企業側である。しかし、顧客は企業のモチベーションを上げようなどとは露だに考えない。

 それでも企業側が社員のモチベーションを上げなければならないとすれば、顧客は企業が気に食わなければ別の企業を選択すればいいのに対し、企業は社員が気に食わなくても簡単に代わりを探すことができないという事情によるだろう。だから、特別の配慮をしなければならない。と言っても、企業側が社員のモチベーションを上げるためになすべきことは、社員の前に「本当に困っている顧客」を提示して、彼らの利他的動機を目覚めさせるだけでよい(以前の記事「『艱難汝を玉にす(『致知』2017年3月号)』―日本人を動機づけるのは実は「外発的×利他的」な動機ではないか?」を参照)。モチベーションを管理する責任は社員自身にある。企業側が前述の配慮をしてもなおモチベーションが上がらないならば、問題は企業ではなく社員本人にある。

 Q8.社員の満足度を上げるべきか?
 サービス業のインターナルマーケティングにおいては、社員の満足度を上げると顧客接点におけるサービスの質が上がり、顧客満足度が上がると言われる。この「社員満足度向上⇒顧客満足度向上」という因果関係、正確に言うと「社員満足度向上⇒社員のモチベーション向上⇒顧客満足度向上」という因果関係が他の業界にも適用されて、多くの企業が社員満足度を重視するようになっている。だが、社員が満足してしまうと、現状に甘んじてしまい、もっとよくしようというモチベーションが湧かない可能性がある点をこの因果関係は無視している。

 むしろ、社員が多少不満足を感じている時の方が、モチベーションが上がりやすく、結果的にいい仕事ができるのではないかと思う。具体的に言えば、Q7とも関連するが、「本当に困っている顧客」を提示され、その顧客から難題を押しつけられ、課題の解決を試みようとしても社内に十分なリソースや制度がなく、周囲から満足な支援を受けられないという逆境が、かえってモチベーションを燃え上がらせる。社員満足度調査を行って、全ての項目について社員の満足度を上げるように施策を打つのも考えものである。職場の物理的環境、具体的には職場の清潔さや安全性などについては、社員の不満足を取り除いた方がよいだろう。しかし、仕事の中身そのものについては、社員に多少の不満、不便を味わわせるぐらいがちょうどよい。

 あまりに難しすぎるゲームはユーザーの心を折ってしまうけれども、難易度が適度に調整されたゲームは、ユーザーをイライラさせながらも、「何とかクリアしてやろう」とユーザーのモチベーションを持続させることができる。これと同じことである。

 Q9.成果給、業績給の割合を増やすべきか?
 成果主義の広がりによって、業績給を導入する企業が増えている。これは、給与の性質を成果に対する対価ととらえる発想である。だが、成果を正確に測定することは非常に難しい。私も本ブログや旧ブログで何度か試みたが、厳密に測定しようとすればするほど、複雑怪奇な計算式になってしまう。特に、チーム全体の成果を個人にどう配分すればよいのか、イノベーションに挑戦して失敗した人にどう報いればよいのかは難題中の難題である。どんなに緻密に組み立てられた数式であっても、必ず「その式は公平ではない」と言う人が出てくる。

 そこで、次のように発想を転換してはどうだろうか?給与を成果に対する対価ではなく、社員の生活費の保障として位置づけるのである。生活費は入社時が一番低く、結婚、出産を経るにつれて徐々に上がる。子育てを卒業しても、今度は親の介護や自分自身の疾病の治療のためにお金が必要になる。つまり、生活費は年齢に比例して一貫して増加し続ける。よって、給与は必然的に年功的になる。出光興産の創業者である出光佐三も、給与は生活給であるべしとの信念を貫いた。こういう話をすると、頑張っても報われない人が出てモチベーションに影響が出るという批判を受ける。だが、企業が生活費の保障をしているのに、それ以上に金のために働くというような人、出光佐三の言葉を借りれば「黄金の奴隷」となっている人は、企業にとって毒である。それでも金がほしいと言うのであれば、株やFXでもやっていればよい。

 Q10.人事考課はなくすべきか?
 近年、アメリカ企業の中に定期的な人事考課を廃止するところが増えており、日本企業でもそれに倣う動きが見られると言う。だが、人事考課を廃止するのは、社員に対する評価をなくすことではない。半年ないし1年に1回しか上司からフィードバックが受けられない現状を改めて、部下に対しこまめにフィードバックを行うのが、人事考課廃止の狙いである。

 私は、人事考課は廃止すべきではないと考える。理想的な企業とは、自社を取り巻く事業環境の変化に柔軟に対応して、戦略やビジネスモデルを頻繁に変更し、それに伴って業務プロセスや組織を再構築し、人、モノ、カネ、情報といった経営資源を再配置する企業であろう。しかし、環境の変化にあまりに身を委ねてしまうと、自社のビジネスを慎重に設計する営みが阻害されてしまう。端的に言うと、浅い考えになってしまう。だから、環境が激変する時代にあっても、定期的に立ち止まって、じっくりと先を見据えることが必要なのである。戦略や中期経営計画を毎年見直すといった取り組みには、依然として大きな意味がある。戦略などを見直すと、人材をいかに配置するべきかが問題となる。ここで人事考課の結果を活用して、社員の適材適所を実現していく。戦略に周期性がある限り、それと連動する形での人事考課は不可欠である。

カテゴリ: 経営 コメント( 0 )
2017年05月19日

井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』―私の考えだと、神に究極の根源を求める考えは全体主義につながってしまう

このエントリーをはてなブックマークに追加
イスラーム哲学の原像 (岩波新書)イスラーム哲学の原像 (岩波新書)
井筒 俊彦

岩波書店 1980-05-20

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 イスラームの神秘主義と哲学の接点を探った1冊。元々、神秘主義は哲学としての新プラトン主義と接触していた。また、イスラームで哲学といえばアリストテレス哲学のことであるが、イスラームにおけるアリストテレス哲学は神秘主義としての新プラトン主義と接触していた。両者を統合したのがイブン・アラビーであり、彼の考えは「イルファーン(神秘主義的哲学)」と呼ばれる。

 まず、神秘主義についてだが、イスラームでは魂を5段階の逆さピラミッドでとらえる。一番上、すなわち意識の表面は、心の感性的、感覚的機能の場である。この層は自我に対してやたらと勝手な命令を下す暴力的な部分である。その次の層は、非難がましい魂である。非難がましいと言っても単に口うるさいわけではなく、物事の善悪、美醜を判断し、自らや他人の悪を批判、非難、糾弾する倫理的、理性的な働きをする。ここまでは、魂が激しく動揺している層である。

 第3層になると、感性、理性の動揺がすっかり収まり、心が浄化されて、この世のものならぬ静けさのうちに安らいだ状態となる。さらに第4層に進むと、魂は完全に聖なる領域、神的世界に入る。最後の第5層は、日常的意識にとっては全く閉ざされた不可思議な世界、闇のまた闇、玄のまた玄の世界である。神秘主義の立場からすれば、直前の第4層の光よりもっと純粋で強烈な光なのだが、この光が日常的認識の目には限りなく深い、恐ろしい暗黒として映る。

 意識の最深部においては、神と人間が同じレベルに立つ。しかも、神に人間が従うという上下関係ではなく、神と人間は対等の立場に立って対話を行う。この時の人間は「神顕的われ」と呼ばれる。さらに意識が深いレベルに到達すると、人間の自我意識は完全に払拭され、神と人間の境界線は消滅する。代わりに、「我こそは神」、「我こそは絶対者」であると宣言する。「神顕的われ」は「神的われ」へと変化する。「われ」という名前はついているが、実際には我も世界もなく、主体、客体を含めて全存在界が無化される。その無が逆にそのまま全存在界の有の源として、すなわち、全存在界出発のゼロ・ポイントとして新たに自覚される。こうして、絶対的無を経た後で、有の究極的充実として新たに「われ」が成立する。

 人間と神の境界が消滅し、人間が絶対無であると同時に絶対有となると聞くと、私はどうしても全体主義を想起して戦慄せざるを得ない。詳しくは以前の記事「【シリーズ】現代アメリカ企業戦略論」でも書いたが、全体主義の前提は、人間の理性と神の唯一絶対性を同一視することにある。全ての人間は唯一絶対の神に等しく創造されたわけだから、生まれながらにして皆同一であり、既に完成している。皆同一であるため、財産の私有という概念は生じず、全ての財産は共有となる。また、全員の意見や考えが等しく正しいという点で、究極の民主主義が成立すると同時に、独裁とも両立する。ナチスは私有財産を禁止し、ヒトラーという独裁者を生み出した。

 人間は生まれながらにして完成しているから、人間が後から手を加えることは不浄である。よって、教育が否定される。ただし、現実問題として、生まれてからそれほど年数が経っていない人間にできることは、農業のようなプリミティブな生産活動に限定される。そこで、独裁的な共産主義者は、知識層を放逐し、人々を参集的な農業活動に投入する。ここに、原始共産制、農業共産制が成立する。ソ連のコルホーズ、中国の大躍進政策が目指したのはまさにこれである。

 唯一絶対の神は生まれた瞬間に絶対有となるので、その寿命は永遠であると同時に、時間の流れを否定する。神が生まれた現在という一瞬の点が、全ての時間を支配する。一方で、人間がいくら神と同じ絶対性を有すると言っても、現実の人間には寿命がある。つまり、時間の流れを肯定してしまう。よって、人間は早く死ぬことが奨励される。そして、無に帰した人間は、再び有を生み出す源泉となる。人間は、有という1点の周りに無という円周を持っており、無から有を生み出し、わずかな期間だけ生きた後に無となり、円周をぐるりと回って再び有を生み出す。一瞬だけ有となる人間は、現在という1点において永遠に革命を目指す。こうして、人間も神と同じく、絶対無であると同時に絶対有となる。ニーチェの言葉を借りれば「永遠回帰」である。

 続いて、イブン・アラビーの哲学に話を移そう。イブン・アラビーの哲学は存在に関する哲学である。彼はここでも、ピラミッドを持ち出す。ただし、神秘主義の時に描いた逆さまのピラミッドとは異なり、今度は普通の形をした3階層のピラミッドである。最下層は、我々が現実世界の様々なものを認識する層である。その上の層では神が現れる。そして、次の点が非常に特徴的なのだが、一番上の層には、神以前の世界があると言う。我々の認識は、最下層から第2層、第1層と上って行き、再び第2層、第3層に下りて行くというのが、イブン・アラビーの主張である。

 我々は、表層意識においては「花が存在する」、「石が存在する」などといった表現をする。これが深層意識になると、「存在が存在する」という命題に変化する。存在が存在するのであって、他の何かが存在するのではない。別の言い方をすると、他の何物も、本当の意味では存在しない。こうして、存在界の一切が無に帰して、その無の暗闇の底から形而上的普遍者としての存在リアリティの光が輝きだす。そして今度は、その形而上的存在の照り映える光の中で、一旦無に帰したものが、改めてそれぞれのものとして存在的によみがえってくる。具体的には、「存在が花する」、「存在が石する」という形で認識される。これが、我々の認識は、最下層から第2層、第1層と上って行き、再び第2層、第3層に下りて行くという言葉の意味である。
 
 先ほどのピラミッドにあてはめてみると、第1層においては存在界の一切が無に帰している。どんな言葉でも表現できない「秘密」の領域である。第2層に下りてくると神が出現する。つまり、無がこれから有に向かって展開し始めようとする。ただし、まだ未発、無分節であるから、それ自体は依然として無である。これを「絶対一者」と呼ぶ。ここから最下層に下りると、絶対一者の無の中から多様な存在が出現する。この時、「絶対一者」は「統合的一者」となる。これから万物となって四方八方に拡散していく直前の一、逆に見れば、ありとあらゆるものを渾然と一つにまとめた一という意味である。イブン・アラビーは、この統合的一者がアッラーであると指摘する。

 アッラーは絶対的に一でありながら、その中に多様性を包摂している。そして、その多様性が、現実世界の様々な事物に転写される。こういう意味だろう。ただ、繰り返しになるが、唯一絶対の神に根源を求める考え方は、私の中でどうしても全体主義につながってしまう。それに、多様性と言いつつ、実際には神の唯一絶対性を宿した、つまり神と全く同一の事物が多数存在していることに他ならない。そして、それらはバラバラに存在しているようで、同時に一である。

 丸山眞男は『日本の思想』の中で、欧米の思想を「ササラ型」、日本の思想を「タコツボ型」と表現した。ササラとは、竹や細い木などを束ねて作製される道具のことである。欧米の思想は、専門分野が事細かく分かれている。専門分野が異なれば、隣接する分野であってもその内容を理解することは難しい。ところが、それぞれの専門分野の元をたどると、ある共通点に行き着く。欧米の多くの研究の出発点は、キリスト教とギリシア哲学である。そこから多種多様な研究が発展した様子が、ちょうどササラの形に似ていることから、丸山はササラ型という名前をつけた。

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
丸山 真男

岩波書店 1961-11-20

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 ササラの末端において、局所的に何かしらの変化が起きると、それがササラの元へと吸い上げられ、そこから他のササラの末端に波及していく。こうして、欧米では専門分野がバラバラでありながら、ある分野で新しい発見があると、それが欧米の研究全体に影響を及ぼし、総合的に研究が進歩する仕組みができ上がっているというのが丸山の指摘である。全体主義は究極のササラ型であろう。竹を束ねている部分と、ササラの末端が全く同じであるのが全体主義である。

 一方、日本の研究は「タコツボ型」であると丸山は言う。日本は欧米や中国から様々な研究を輸入して独自に加工した結果、それぞれの分野がめいめい勝手に研究を発展させ、タコツボ化している。ある分野で何か新しい発見があっても、ササラ型のようにそれを他の分野に波及させる仕組みを持たない。よって、ある分野での発見の影響は、その分野の内部にとどまってしまう。こうして、さらにタコツボ化が進むという悪循環に陥る。日本人の研究者は、他の研究分野の中身を理解する努力が足りないとも丸山は述べている。

 ただ、私は丸山の主張は極端であると感じる。確かに、ササラ型には上記のような利点がある。だが、逆に言えば、ササラ型の最大の弱点は、ササラの末端の一部が攻撃されると、その影響が全体にも及ぶことである。特に、竹を束ねている部分を攻められたら一巻の終わりである。全体主義においては、竹を束ねる部分もササラの末端も等しいから、どこを攻撃されてもその影響がすぐさま全体に波及する。全体主義は意外と外部からの圧力に弱い。

 一方、タコツボ型は見方を変えればメリットが見えてくる。タコツボ型と言う場合、たくさんのタコツボの中に1匹ずつタコが入っている様子をイメージするが、ここでは1つのタコツボの中にたくさんの縄が入っている様子を思い浮かべていただきたい。1つのタコツボがそのまま日本の社会を表しているとする。本ブログで何度も書いている、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」という多重階層社会である。タコツボの首の部分が天皇に該当する。首から上に向かって口が開いている部分は神を表す。和辻哲郎が指摘したように、日本では神の世界も多重化しており、究極の原点が見えない。タコツボの首から下の部分が、世俗的な世界にあたる。ある特定の縄が攻撃されても、ダメージを受けるのはその縄だけであり、他の縄には影響しない。つまり、多様性を確保することができる。これが日本社会の長所である。

ササラ型とタコツボ型
 (図にするとこんな感じ。雑な図で申し訳ない)

 もちろん、前述の比喩でも、天皇が攻撃されたら日本の多様性が死滅するのではないかという疑問は生じる。また、右派は天皇が日本社会の多様性を担保していると主張するが、天皇はお一人しかいらっしゃらないにもかかわらず、なぜ多様性が保たれるのかという問題もある。こうした点に対する答えを探究することが、今後の私の課題である。

2017年05月17日

【日本アセアンセンター】カンボジアの最新の政治・経済事情セミナー(セミナーメモ書き)

このエントリーをはてなブックマークに追加
カンボジア・バイヨン遺跡

 (※)写真はカンボジアのバイヨン遺跡。アンコール遺跡を形成するヒンドゥー・仏教混交の寺院跡。クメール語の発音ではバヨンの方が近い。バは「美しい」、ヨンは「塔」の意味を持つ。

 日本アセアンセンターのセミナーに参加してきたので、その内容のメモ書き。2年前に同じタイトルのセミナーに参加して、その時の内容は「「カンボジア投資セミナー」に行ってきた(日本アセアンセンター)」にまとめたが、今回の記事はその内容のアップデートという位置づけ。

 ・まずはカンボジアの基礎知識について。
 【よくある質問①】カンボジアは地雷や内戦があったりして、危険な国ではないのか?
 ⇒【回答】外国人が立ち入る場所に関しては、既に地雷が撤去されている。また、カンボジア国内の地雷の被害者数は二桁まで減少している(地雷で亡くなる人より落雷で亡くなる人の方が多い)。現在、地雷を除去した新たな土地を貧困層に配分する事業を実施中である。ただ、ポル・ポト派が最後に立てこもった山岳部には、まだ何百万個の地雷が残っている。しかし、地雷を除去しても土地としての使い道がなく、お金をかけてまでやる意義があるのか疑問視されている。

 内戦に関しては、1992年にカンボジア和平が成立した。最後の武力衝突は1998年であり、その後は1998年、2003年、2008年、2013年と民主的な総選挙が行われている。国内の治安も、アジアの中では「普通」レベルである。外国人が巻き込まれる凶悪犯罪はかなり減少している。ただし、ひったくりと交通事故には要注意である。カンボジアの人口は日本の約10分の1、国内を走る自動車の数は日本の約100分の1だが、交通事故の犠牲者数は2,000人を超えている。

 【よくある質問②】カンボジアは秘境とジャングルの国ではないのか?
 ⇒【回答】世界遺産アンコールワットは観光の目玉であり、カンボジアを訪れる外国人は年間500万人にも上る。カンボジアでは観光が一大産業であり、GDPの約15%を占めている。アンコールワットの周囲にはゴルフ場や高級ホテルも多数存在する。それから、おそらく戦争映画の影響でカンボジア=ジャングルというイメージがついていると思われるが、実際のカンボジアは真っ平の国である。山岳部は限られており、プノンペンからタイやベトナムの国境線まで車で走っても、峠は1つもない。水田が地平線まで広がっており、農業国としても発展が見込まれる。カンボジアの米の生産量は年間約900万トンであり、既に日本を上回っている。

 【よくある質問③】カンボジアは貧乏な国ではないか?
 ⇒【回答】2016年の1人あたりGDPは1,228ドルであり、アジアの「普通の国」になりつつある。アジア通貨危機直後の1998年から2007年の10年間の平均経済成長率は9.4%であり、ASEANの中で最高である。また、最近5年間(2012~2016年)でも、年間平均成長率は7.2%と高水準を保っている。確かに、農村部に人口の8割が存在しており、貧困層が多いのは事実である。ただ、貧困率はこの10年で5割から2割に減少しており、農村部でも購買力が向上しつつある。味の素の使用量の伸び率と1人あたりGDPの伸び率には相関関係があることが知られており、カンボジアにおける味の素の使用量の伸び率はASEANの平均よりも上だという。

 ・カンボジアのマクロ経済の状況であるが、一言で言えば絶好調である。IMF、世界銀行、アジア開発銀行(ADB)ともに、カンボジアの経済を高く評価している。カンボジア経済のエンジンである縫製品輸出、観光は好調が続いている。不動産・建設セクターもバブルが懸念されるものの(2017年に大量にビルが完成するという「2017年問題」を抱えている)、高成長を続けている。2016年の経済成長率は7.0%であり、、IMFは2017年の経済成長率を6.9%と予測している。ADBはカンボジアを「アジアの新たな虎」と呼んでいる。

 物価上昇についても問題はない。物価上昇率は2015年が1.2%、2016年が3.0%であり、2017年は2.7%と予測されている。日銀がどんなに異次元緩和を行っても物価が一向に上昇しない日本から見るとうらやましい限りである。カンボジアの経常収支は赤字であるが、輸出競争力の向上と輸出先の多様化により、縮小傾向にある。この輸出競争力の向上には、日系の労働集約型部品製造業がカンボジアに多数進出したことも大きく貢献している。

 外貨準備高も新興国としては非常に豊富である。2016年末時点で、輸入の4.5か月分にあたる63億ドルの残高がある。通常、外貨準備高は輸入の3か月分あれば十分とされる。IMFは、2017年末には74億ドル(輸入の4.8か月分)にまで増加すると予想している。カンボジアのGDPは約200億ドルであるから、実にGDPの3分の1に相当する。ちなみに、日本の外貨準備高は2015年末時点で約150兆円であり、GDP約530兆円の約28%に相当する。また、2015年の輸入は約78兆円であったから、外貨準備高は輸入の約23か月分ある(150÷(78÷12))。

 実質実効為替レートも2008年以降は安定的に推移している。とはいえ、カンボジアでは現地通貨のリエルはほとんど流通しておらず、キャッシュの8割はドルである。流通しているリエルは10~20億ドルと言われており、いざとなれば先ほど触れた外貨準備高で全額買い取ることも可能である。財政赤字も対GDP比2.6%と非常に低い。公共工事は外国からの援助がついたもののみを優先的に実行するという堅実な財政運営の結果である。IMFと世界銀行は、カンボジアの対外債務の状況を「低リスク」に分類し、当面問題ないと見ている。また、2016年7月には、世界銀行の分類で「低所得国」を卒業し、「低中所得国」に格上げされた。

 ・経済が絶好調なカンボジアであるが、リスクがあるとすれば政治が挙げられる。カンボジアでは人民党のフン・セン首相が1992年から25年にわたって長期政権を敷いている。ところが、2013年の総選挙では野党が躍進し、与党対野党=68対55という結果になった。強気になった野党は国会をボイコットした。また、同年末には縫製労働者の大規模デモが発生し、最低賃金が80ドルから100ドルに引き上げられた。年明けの2014年1月3日には、政府がデモ隊に向かって発砲し、5名が死亡するという事件が起きた。この事件を受けて、デモは全面的に禁止された。その後、与野党は約半年間の話し合いを経て、7月22日に選挙改革などを含む与野党合意に達した。2015年3月には、与野党合意に基づいて選挙法が改正された。

 しかし、与野党の「対話の文化」は短命に終わる。親中派のフン・セン首相と、アメリカが支援している野党のサム・レンシー氏の間で対立が再燃したのである。サム・レンシー氏は国外退去を余儀なくされたが、その国外退去中に、国内では野党議員への暴行事件が起き、野党副党首にスキャンダルが発覚し、さらに著名な政治評論家が殺害されるなど、きな臭い状況が続いている。また、フン・セン首相が南シナ海問題で中国寄りの姿勢を見せ、国内で強硬姿勢を見せていることに対して、欧米からは圧力がかけられている。2017年6月には地方選挙、2018年8月には総選挙があるが、その行方は未知数である。与党が勝利しても、2013年のようなデモが発生する恐れがある。また、野党が勝利すれば、政権交代をめぐって混乱が予想される。

 ・「タイプラスワン戦略」の候補国として、カンボジアはミャンマーに比べると優位である。その理由としては、カンボジアからタイへのアクセスが大幅に改善されたことが大きい。これにより、タイからカンボジアの工業団地に移ってきた日系企業も多い。一方、ミャンマーのインフラは未だに不十分であり、整備にはあと5~10年ほどかかる見込みである。カンボジアはタイとの国境沿いにあるポイペトに工業団地を建設しており、今後ますますタイとの結びつきが強くなるだろう。カンボジアの工業団地の開発を進めている「プノンペン経済特区社(Phonom Penh SEZ Co., Ltd.)」がこのたび上場し、調達した資金でポイペトに工業団地を建設する予定である。

 ・プノンペンからホーチミンまでは約230km、バンコクまでは約600kmであり、バンコク~プノンペン~ホーチミンは太平洋ベルトと同じぐらいの距離である。カンボジア自体は人口も少ない小国であるが、タイ、ベトナムを含めて3か国で国際分業ができれば、競争力の向上が期待できる。長らく課題とされてきたインフラについても、道路や港の開発は一段落ついた。現在、プノンペンとタイを結ぶ国道5号線を片側2車線にする工事を円借款で実施している。また、通信に関しては、最初から光ケーブルとワイヤレスのネットワークを集中的に構築したため、世界で見ても最安のインフラが整っている(プノンペンから日本に国際電話をかけても、1分10円程度)。

 問題は電力である。人口が少ないがゆえに、電力需要が400~500MWぐらいしかない。そのため、必然的に小規模の発電所とならざるを得ず、その分コスト高になる。カンボジアの電力需要の小ささは、福島第一原発の発電量が8,000MWであることと比べてみるとよく解る。


  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like