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『世界』2018年4月号『東北の未来のために―復興8年目の現実から』―復興庁は常設の組織とすべき、他
『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)
『致知』2018年4月号『本気 本腰 本物』―「悪い顧客につかまって900万円の損失を出した」ことを「赦す」という話

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京23区、神奈川県川崎市・横浜市を中心に活動する中小企業診断士・コンサルタント。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

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(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年03月21日

『世界』2018年4月号『東北の未来のために―復興8年目の現実から』―復興庁は常設の組織とすべき、他


世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 (1)
 ロシアを数十分以内に攻撃できる米国の配備核戦力は、広島型原爆(16キロトン)の約30倍もの爆発力を持つSLBM搭載の核弾頭「W88」など高爆発力の戦略核しかない。だから、地域紛争に関与するロシアが数キロトン単位の戦術核を先行使用する、あるいは「戦術核を使う」と威嚇のシグナルを発して事態をあおっても、破壊力があまりに甚大かつ壮絶な戦略核しか持たない米大統領はなすすべもなく、そのうちロシアのペースで紛争が収束に向かう―。
(太田昌克「新核戦略が開くパンドラの箱―トランプNPRと『偽装の被爆国』」)
 また、米国が小型核で報復できる選択肢を持てば、むしろ逆に、ロシアの先行核使用を誘発するリスクを高める恐れはないか。「米国の核報復が数キロトンのレベルならば、ロシアの国家存亡の危機には至らない。だったら、われわれの方が小型核を先に使って、戦局を有利に運ぼう。もし米国が本気で小型核で反撃してくるのなら、こちらが数百キロ単位の戦略核で対米本土攻撃するとの威嚇のシグナルを出せばいい。そうなれば、米国もひるむだろう」。ロシア側にしてみれば、こんなロジックとて成り立たないわけではない。(同上)
 アメリカが2月2日に発表した「核態勢の見直し(Nuclear Posture Review:NPR)」を批判した論文である。トランプ大統領はNPRの中で、戦術核の拡大に言及している。

 核兵器には大きく分けると「戦略核」と「戦術核」の2種類がある。戦略核とは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)などに核弾頭を載せた射程の長い核兵器のことで、敵国の壊滅を目的とする、またはその威力の所有・維持によって軍事的・外交的カードとするものである。戦略核に関しては、アメリカとロシアの間で2011年に「新START」が締結されており、7年以内に戦略核弾頭の配備数を1,550以下に減らすことで合意が成立している。一方、戦術核とは通常兵器による戦力を補う核兵器であり、個々の戦場を想定し、射程が500キロ以下の核ミサイルや核爆弾を指す。戦術核は新STARTにおける削減対象とはなっておらず、現在アメリカが500発ほど保有しているのに対し、ロシアは約2,000発保有していると言われる。

 ロシアは戦略核ではアメリカに対抗できない(そもそも、戦略核は威力が大きすぎて使えない)ことを知っているため、プーチン大統領は「核兵器をディエスカレーションしなければならない」と述べている。その結果が戦術核の増加である。ロシアはクリミア半島を併合した際に「核兵器を使う用意があった」と認めたが、ここで言う核兵器とはまさに戦術核のことである。ロシアは、戦略核よりも威力を抑えた戦術核で巧みに相手国を恫喝し、自国の利益を手にしている。

 そういう国に対抗するには、アメリカは「自分も同じカードを持っている」ということを相手に気づかせ、自発的に行動を抑制させる必要がある。これによって均衡状態がもたらされる。よって、今回のNPRでアメリカが戦術核の拡大に踏み切ったのはごく自然な反応であると言える。冒頭の2つの引用文を読むと、アメリカが戦略核しか持っていなくても、アメリカが戦術核を持ったとしても、ロシアが思う通りに戦局を展開できるという内容になっており、矛盾を感じる。

 (2)
 なかでも中心となるのが、「復興の司令塔」である「復興庁」の検討である。復興庁は、2012年発足後10年の、2021年3月でその生命を終える。端的に言えばそれでよいのか、組織の縮小などや業務内容の変更などはあっても、将来に向けて存続させるべきではないか、というのが本論の問題意識である。
(五十嵐敬喜「復興政策を総点検する―復興庁の存続を」)
 私も賛成である。阪神・淡路大震災も、復興から20年経った時点で「復興は終わっていない」という声が聞かれた(例えば、NIKKEI STYLE「阪神大震災20年「減災社会へ市民・NPOの役割は」  関係者・識者3氏座談会」〔2015年1月17日〕、NHKクローズアップ現代「取り残される”働き盛り” ~阪神・淡路大震災20年~」〔2015年1月15日放送〕など)。阪神・淡路大震災よりも被害が甚大だった東日本大震災の復興が10年で区切りを迎えるとは考えにくい。

 また、2016年の熊本地震のことが忘れられている。東日本大震災の被害額は約16兆9,000億円であるのに対し、熊本地震の被害額は約4.6兆円(ともに内閣府試算)であるが、熊本地震の被害に遭った自治体に対して行ったアンケートによると、「復興まであと2年以上かかる」と回答した自治体が8割あるという。このようなケースではだいたい、行政と住民の意識が乖離しているものであって、大多数の住民は、復興にはもっと時間がかかると考えているに違いない。今年4月頭の時点で、自宅を失った被災者のために熊本県内の自治体が整備する災害公営住宅(復興住宅)の着工率は17.8%であることからも、住民の苦しみが推測される。

 日本は災害大国である。近年は異常気象の影響かどうか解らないが、ゲリラ豪雨、ゲリラ雪も増えている。復興庁は、日本中で起きるあらゆる災害対策の中心を担う組織として存続させた方がよいと思う。まず、各自治体がバラバラに蓄積している災害対策のノウハウを集約する。災害時の避難の仕方、避難所の運営の仕方、支援物資の調達方法、仮設住宅などの供給方法、新しいまちづくりの方法、元の住宅への帰還方法、あるいは災害を未然に防ぐ方法、災害による被害を最小化する方法、防災訓練の方法などに関する情報をデータベースで一元化し、国民や自治体に対して情報発信をする。現在は内閣府政策統括官(防災担当)がこれを担っているようだが、災害対策を国の重要課題の1つと位置づけ、復興庁の役割へと格上げする。

 災害発生時には、復興庁が自治体の強力な支援隊となる。基本的に、災害からの復興は自治体が主体であるが、多くの自治体は資金、物資、人材、ノウハウが不足している。これらを積極的に補完する役割を復興庁が果たす。また、「こういう支援策がほしい」という自治体の要望を取りまとめて、関係省庁と迅速に調整する。ただしこの点については、本論文の中で、復興庁は「各省庁が行う個別の復興事業を『調整』する」だけという指摘があった。復興庁は前述のデータベースを参照しながら、本当に必要な支援策とは何かを考え、時には省庁横断的な施策や、全く新しい独自の施策を構想・実行する。そのための大きな権限を与えるべきであろう。

 「復興庁」という言葉も変えた方がいいのかもしれない。以下はある中小企業診断士から教えてもらった内容である。日本人は農耕民族であり、作物の不作の原因を自然に求める。その延長線上で、災害が起きても、自然が悪い、我々人間にはどうすることもできないと考える。よって、被害を受けても自然を乗り越えようという発想がなく、とりあえず元通りにしようとする。だから「復興」庁という名前になる。他方、欧米人のような狩猟民族であれば、獲物が獲れないのは人間のせいだとされる。だから、失敗の原因は人間にあり、同じ失敗をしないように新しいシステム、制度、仕組みを構築する。よって、仮に欧米人が復興庁のような組織を作るならば、「創造」庁といった名前になるだろうというわけだ。もっとも、最近の日本人は元に戻すだけでは足りないと気づいているようで、「創造的復興」という言葉を耳にする機会が増えた。

 (3)
 ドイツの断種法にその源流があり、戦前の国民優生法の延長線上で、戦後、同法(※優生保護法)が作られることになる。同法第1条は、「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と規定し、優生上の見地による人口政策を目的の1つとして明確に掲げていた。
(新里宏二「不妊手術強制 万感の怒りこめた提訴」)
 「優生保護法」とは、端的に言えば、障害者が生まれてこないように人工妊娠中絶をしたり、不妊手術をしたりすることを可能にする法律である。本論文によれば、人工妊娠中絶は58,972件、不妊手術は24,991件、合計83,963件の手術が行われたという。

 優生保護法は、ナチス・ドイツの断種法(強制絶種法)にルーツがあるから、極右的な法律である。さらにそのルーツをたどっていけば、啓蒙主義に行き着くと私は考える。以前の記事「『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他」でも書いたが、啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全な人間が創造されたとされる。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。強制絶種法もその一環である。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。このように見ていくと、一般的に言われる極右と極左は同根異種であることが解る。

 右派とは本来リベラル、自由主義者である。ただし、誰もが平等に自由を有しているわけではない。右派が想定するのは階層社会である。人間は能力や出自などによって、階層社会の中のどこかに居場所を与えらえ、周囲(特に自分より上の階層)から期待される役割を遂行する。人によって地位が異なるわけだから、当然のことながら不平等である。ただし、それぞれの人間は、各々の居場所において、創意工夫を凝らし、期待を超える成果を上げることが推奨される。いや、成果を上げなければならない。だから、人間は自由であると同時に責任を有する。もちろん、階層社会の上部にいる人間の方が、下部にいる人間よりも大きな自由(と責任)を有している。大きな自由を有する者は、上の階層に仕えるだけでなく、下の階層に降りて、小さな自由しか持たない者を助ける必要がある。これもまた、自由に付随する責任である。

 このように見ていくと、優生保護法は極右の汚点である。障害者を排除し、正常な人間のみで構成されるモノトーンな社会を志向したからである。そこには真の自由は存在しない。あるのは全体の意思、全体主義のみである。と書いていたら、優生保護法を制定したのは極右勢力ではなく、左派の人間であることを知った。その人間とは、社会党議員の太田典礼である。太田は九州大学医学部の学生時代、マーガレット・サンガー夫人の産児制限やマルクス主義に傾倒した。戦後の1946年、共産党から衆院議員選に出馬したが落選。伊藤律体制への反発から共産党を離党後、翌年社会党から衆院選に出馬し、当選した。国会では、加藤シズエらとともに優生保護法の制定に奔走したという(三井美奈『安楽死のできる国』〔新潮社、2003年〕より)。

安楽死のできる国 (新潮新書)安楽死のできる国 (新潮新書)
三井 美奈

新潮社 2003-07-01

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 このように見ていくと、繰り返しになるが、やはり極右と極左は同根異種である。


2018年03月14日

『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)


月刊正論 2018年 04月号 [雑誌]月刊正論 2018年 04月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-03-01

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 1月21日早朝、保守系評論家の西部邁先生が多摩川に身を投じ、自殺した。実は、西部氏は以前から自殺(西部氏は「自殺」ではなく「自裁」という言葉を使う)についてプランを練っており、その一部を『正論』の中でも披露していた。今月号には追悼企画として、「ファシスタたらんとした者(第14回)『自分の死』としての『連れ合いの死』 そして『死相の世界』のなかでの『エッセイイストの末期』」(初出は2017年1月号)が再掲されていた。
 この男、「自分が家族や友人や社会に何の貢献もできないのに、彼らや彼女らから世話を受けることばかり多き」という状態に入るのでは、死ぬ甲斐も生きた甲斐もなくなると考えてきた。(中略)で、彼はシンプル・デス(簡便死)を選びとる、と55歳で公言した。要するに、じきに死ぬと察しられたら、実行力の残っているうちに、あっさり自裁するということである。あるいは、ひとたび意識的に生きようと決意した者は、おのれの死にあっても、意識を保持したいと思うに違いないのであるから、自裁が最も死に方となるのである。
 その死に方として、西部氏は「ピストル自殺」を検討し、実際に準備も進めていたようであったが、最終的に選択したのは入水自殺であった。

 本ブログでも公言しているように、私は前職のベンチャー企業に勤めていた2008年から双極性障害という精神障害を患っている。躁状態(一言で言えばハイテンションな状態)とうつ状態が交互にやってくる病気である。ただし、私の場合は明確な躁状態エピソードがなく、極度のイライラとうつ状態が混合しているため、双極性障害Ⅱ型だと診断されている。

 うつ状態の時には、「死にたい」という気持ち(希死念慮)が湧いてくることも少なくない。朝起きたら「今日は遺書を書こうか」と考えることもあるし、駅のプラットフォームで電車を待っていると、このまま線路の下に吸い込まれてしまうのではないかと思うこともある。突発的に道路に大の字になって寝そべって、自動車に轢いてもらいたいと願うこともある。それでも自殺に今のところ踏み切っていないのは、あんなゴミみたいなベンチャー企業のせいで自分が犠牲になるのが耐えがたいという意地と、やはりどこかに自殺=悪という意識があるからであるように思える。

 西部氏は、「死に方は生き方の総決算だ」と主張していた。今回の記事では、西部氏の主張に反して、それでもやはり自殺してはならない理由を私なりに書いてみたいと思う。ただ、「なぜ人は生きるのか?」という問いに普遍的な回答を与えることができないように、「なぜ人は自殺してはいけないのか?」という問いにも唯一絶対の解はないと思う。

 キリスト教には「汝殺すなかれ」という言葉があり、自殺は殺人よりも重い罪とされている。中世以来、自殺者には教会での葬儀が許されないばかりか、遺体は棒を突き刺して街中を引きずり回され、頭を割られ、財産は没収された。ヨーロッパでは、自殺者に対する凶悪殺人犯並みの「見せしめ刑」が19世紀まで生きていた(三井美奈『安楽死のできる国』〔新潮新書、2003年〕より)。ただし、これはキリスト教圏においてのみ成立する話である。だから、これから私が書く内容は、日本でのみ通用することだと思ってお読みいただきたい。この手の話は、論理的であるかどうかよりも、結局は信じるかどうかが大事である。そのため、以下の内容は論理的でない部分や、主張が弱い部分もあるだろうが、その点はご容赦いただきたい。

安楽死のできる国 (新潮新書)安楽死のできる国 (新潮新書)
三井 美奈

新潮社 2003-07-01

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 本ブログでも何度か書いたように、日本は多重階層社会である。それをラフスケッチすれば、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構図になる。ただし、神の世界もまた多重化されており(以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」を参照)、真の頂点を知ることは誰にもできない。神の世界とは、別の言い方をすれば精神世界である。日本人は、神々の精神世界から天皇を通じて魂を受け、肉体という器を借りてこの世に誕生する。

 この精神世界は、物理学者のデイビッド・ボームが言う「内蔵秩序」とは異なる。ボームの言う内蔵秩序とは、我々が普段生きている世界=顕在秩序の背後・根底にある絶対的な秩序である。対立や混乱があふれる顕在秩序において、人々が注意深く意識のレベルを上げれば内蔵秩序にアクセスすることができ、紛争を解決できるとボームは考えた。ボームの考えはピーター・センゲらの「U理論」に受け継がれている。ただ私は、これは全体主義に至る道ではないかと警鐘を鳴らしてきた。多神教の日本における精神世界は、多様性を内包している点に特徴がある。よって、そこから生まれる人間も多種多様である。だが、多神教の神は唯一絶対的な一神教の神と異なり不完全であるから、それぞれの人間に与える能力や寿命はバラバラである。

 だから、日本の場合は機会の平等が成立しない。人間は生まれながらに不平等である。日本人は、神から与えられた能力を活かして、神から与えらえた役割を全うすることが大切である。社会の中の持ち場において、その人なりに創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。要するに、日本社会とは、不平等だが自由な社会である。とは言え、本人が努力して多重階層社会の中をある程度移動することは認められているし、神もそのことはあらかじめ織り込んでいる。また、神は人間に試練を与える。人間がその試練を乗り越え、魂を鍛錬することを神は期待している。ただし、ここでも神は不完全であるから、試練にほとんど遭遇しない人もいれば、試練ばかりに遭遇する人もいる。この点でも、日本人は不平等である。

 以上を総合すると、理想の生とは、神から与えられた能力を活かし、努力によって役割を拡大し、試練を乗り越えながら神が与えた寿命を全うすることである。そして、理想の生を活きた人の魂は、神が設定した寿命の時期になると、神が回収しにやって来る。回収した魂は精神世界に統合され、その魂の質によって精神世界を発展させる。発展した精神世界からは、また神の手によって、天皇を通じて新たな人間が誕生する。こうして、日本人は漸次的に進歩していく。ただ、繰り返しになるが、神は不完全であるがゆえに、精神世界に蓄積された前世の記憶や経験を新しい人間に引き継がせることができない(ごく稀に前世の記憶を持った人間が生まれることがあるらしい。瀬川雅生『なぜ自殺してはいけないか?』〔コスモヒルズ、1999年〕を参照)。

なぜ自殺してはいけないか?なぜ自殺してはいけないか?
瀬川 雅生

コスモヒルズ 1999-10

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 ここでポイントとなるのは、神はそれぞれの人間に設定した寿命(医療技術の発展によって寿命が延びていることも神は織り込み済みである)が尽きた時にしか魂を回収しにやって来ないということである。よって、自殺する人は、神が設定した寿命よりも早く死ぬことになるから、神が魂を回収することができない。本当は、神がそれぞれの人間を四六時中見張っていて、死んだ時に魂を回収しに来てくれればよいのだが、何度も言うように、不完全な神にはそれができないのである。したがって、自殺した人の魂は回収されず、神々の精神世界に統合されず、その質を発展させることができない。これは大げさに言えば、日本人という民族に対する裏切りである。これが、私が自殺=悪と考える最大の理由である。

 時々、「自分はこの世でやるべき役割は全て全うした。だから死んでもよい」と考えて自殺する人がいる。だが、寿命が残っている限り、なすべき役割も残っているのであり、自殺は許されない。また、西部氏のように、「自分は(病気などで)周りに迷惑ばかりかけているから自殺する」という人は、その人が生きていることによって活かされる他者がいることに気づいていない。

 先ほど、理想の生とは神から与えられた役割を全うすることだと書いた。ここで言う役割とは、何も他者貢献に限られない。例えば末期がんで家族や病院の世話になっている人は、家族や病院に役割を与えるという形で役割を果たしている。先ほどのラフスケッチ「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」に従えば、末期がん患者は市場/社会や家族のレイヤーにいて、NPOや他の家族に役割を与えている。情緒的に言えば、末期がん患者であっても、その人に寿命の限り生きていてほしいと思う人がいるということである(ただし、安楽死や延命措置となると話は別である。この点については後述する)。

 では、日本が「病気で迷惑ばかりかける人」だけの社会になったらどうであろうか?「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構造はもはや成り立たない。しかし、私はそれでも日本人は自殺してはいけないと考える。というのも、この場合、「神⇒天皇⇒世話を必要とする日本人たち」という構図になり、天皇が直接日本人を救い賜うからである。言い換えれば、天皇制がある限り、世話を必要とする日本人たちは、天皇に役割を与える(やや横柄な表現だが)ことによって役割を果たすことができる。

 「これ以上病気の苦しみを味わいたくないから安楽死させてほしい」という場合はどうだろうか?世界には安楽死が合法化されている国・地域があるものの、現在の日本では安楽死をさせた医師は自殺幇助罪に問われる。安楽死は、神があらかじめ設定した寿命よりも早く死ぬという点では自殺と同じであるから、やはり神が魂を回収することができない。なぜ人生の最後に苦しみを味わわなければならないのかという疑問が湧いてくるが、これも神が与えた試練なのである。神は、大病で寿命が近い人間が、それまでに獲得してきた能力、経験、マインドセットなどをフル動員して、病の苦しみとどう向き合うのかを試している。そうして鍛えられた魂が、精神世界に柔軟さと硬さの両方をもたらす。西部氏は「死に方は生き方の総決算だ」と述べたが、これこそが本当の意味での生き方の総決算ではないだろうか?

 近年は緩和医療の発達により、末期がんの痛みの8~9割は緩和できるようになっているそうである。日本人は、こうした医療の力を借りながら、人生最後の試練に取り組み、寿命を迎えるのが望ましいであろう。だが、緩和医療の発達と同時に、延命治療も発達している。人口栄養(胃ろう)、人工透析、人工呼吸が3大延命治療と呼ばれるそうだが、延命治療の場合、自殺や安楽死とは逆に、神が設定した寿命よりも長く生きることになり、この場合もまた神が魂を回収できない。前述の通り、神は医療の進歩による寿命の延びをある程度考慮しているが、人間の手による不必要で無茶な延命までは想定していない。

 医者は死=敗北ととらえる傾向があり、何かと延命治療に頼る。しかし、延命治療は患者にとっても家族にとっても、かえって経済的・心理的負担が増えることが多い。本人などは、これも神が与えた試練だと思うかもしれない。だが、神にとっては、せっかく設定した寿命を狂わせる行為だと映る。だから、むやみに延命治療をするのではなく、寿命に従って尊厳死を迎えるのが理想である(長尾和宏『長尾和宏の死の授業』〔ブックマン社、2015年〕を参考にした)。

長尾和宏の死の授業長尾和宏の死の授業
長尾 和宏

ブックマン社 2015-02-17

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 基本的に、神はそれぞれの人間に設定した寿命が尽きた時にしか、魂を回収しに来ない。ただし、1つだけ例外がある。それは、人間が不慮の事故や殺人事件などに巻き込まれて死亡した場合である。不完全な神が創造した人間であるから、人間もまた不完全である。その不完全な人間が暴走すると、思いがけず他者を殺してしまうことがある。この場合、その人の死は寿命と一致しない。どういうメカニズムになっているのか私にはよく解っていないのだが、こういうケースに限っては神が不慮の死を察知することができ、魂の回収に向かうことになっている。

 ここで、ある人が誘拐され、犯人に殺されかかっているというケースを考えてみる。被害者は、「犯人に殺されるぐらいならば自殺する」と言っているとする。自殺を選択するべきか、犯人に殺害されるべきか?(不謹慎な話だと思ってほしくないのだが、)私はここでも自殺を選択してはいけないと思う。これまで述べてきたように、自殺をすれば神が魂を回収しに来てくれない。しかも、犯人は殺人罪に問われず、略取誘拐罪に問われるだけである。一方、犯人に殺害された場合は、神が不慮の死を察知して被害者の魂を回収しに来てくれる。さらに、犯人は略取誘拐罪だけでなく殺人罪にも問うことができ、より重い社会的制裁を加えることができる。


2018年03月07日

『致知』2018年4月号『本気 本腰 本物』―「悪い顧客につかまって900万円の損失を出した」ことを「赦す」という話


致知2018年4月号本気 本腰 本物 致知2018年4月号

致知出版社 2018-03


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 その4つとは「一に勤行(ごんぎょう)、二に掃除、三に追従(ついちょう)、四に阿呆」です。(中略)最後の阿呆が難しい。お師匠さんも「人間は相手から嫌なことを言われるかもしれない。嫌な仕事を与えられるかもしれない。けれども、すべてのことに捉われてはいけない。すべて忘れ切り、捨て切り、許し切り、阿呆になり切る。これがなかなかなれんのや」と言われました。
(塩沼亮潤「人生生涯、一行者の心で生きる」)
 比叡山延暦寺で千日回峰行を成し遂げた塩沼氏に比べれば、私の悟りなど塵にも満たないだろうが、今日の記事では私の「阿呆」の体験談を書いてみたいと思う。誰しも、嫌な経験というのはなかなか忘れることができない。私も以前の記事「『致知』2018年3月号『天 我が材を生ずる 必ず用あり』―素直に「感謝」ができない私は人間的にまだまだ未熟」で過去に受けたひどい仕打ちを許そうと試みたものの、完全に許し切ることはできていない。

 ただ、「許す」ことはできなくても「赦す」ことはできるのではないかと思う。「赦す」とは、「手放す」ということである。手放すためには、一度その出来事を自分事としてとらえ直さなければならない。相手から不快な思いをさせられたとしても、自分の側にも原因があったのではないかと反省する。そうしてその出来事をまずは自分で完全に掌握した後に手放す。手放すとは、その出来事を世間一般の人の所有物にするということである。言い換えれば、自分と同じような辛い経験を味わう人が1人でも減るように、反省から得られた教訓を広く人々と共有することである。

 私は、2016年4月から2018年2月まで、ある資格学校(以下、X社とする)で講師を務めていた。この資格学校はe-Learning方式で講義を提供しており、私の仕事とは、e-Learningで配信する動画の収録と、講義で使用する資料(パワーポイント)の作成であった。X社との間で締結した業務委託契約書には次のようにある。
 第1条2項 X社は、谷藤氏に対し、X社が谷藤氏に実施を依頼した講義、講座、レジュメ、その他の資料(以下まとめて「本件講義等」という。)を提供(以下「本件委託業務」という。)することを委託し、谷藤氏はこれを受託する。
 この業務に対する報酬は、次のように定められていた。
 第2条1項 X社は、谷藤氏に対し、本件委託業務の対価として、谷藤氏が行った本件講義等による売上のうち15%(消費税別。以下「本件対価」という。)を支払うものとする。同一の資格又は科目について谷藤氏以外の講師が本件講義等を提供した場合、本件対価のパーセンテージについては、原則としては講義の時間数割にて計算するものとする。

 3項 X社は、本件対価について、本事業のウェブサイトにおいて本件講義等が一般に公開された後、毎年7月末日及び1月末日限り、該当日の前月までの半年分の本件対価の算出根拠及び金額を記載した書面(電子メールによる通知を含む。以下「本件精算通知」という。)を谷藤氏に提出するものとする。

 4項 X社は、谷藤氏に対し、本件対価の全部ないし一部の支払いとして、講義の収録を開始した月以降、毎月末限り、1時間当たり7,000円(消費税別)を谷藤氏の指定する銀行口座に振り込んで支払うものとする。また、本件精算通知に記載された本件対価から当該講義対価の支払を控除した差額分(当該差額分がマイナスである場合には0とする)について、X社は、谷藤氏に対し、本件精算通知を提出した月の翌月末限り、谷藤氏の指定する銀行口座に振り込んで支払う。
 整理すると、まず講義収録時間に対して、第2条4項に従い、1時間あたり7,000円の報酬が発生する。私は前述の約2年間で、①ITパスポート、②情報セキュリティマネジメント、経営学検定(③初級、中級〔④マネジメント、⑤人的資源管理/経営法務、⑥マーケティング/IT経営、⑦経営財務〕)、ビジネス実務法務検定(⑧3級、⑨2級)、中小企業診断士(⑩企業経営理論、⑪経営情報システム、⑫経営法務、⑬中小企業経営・中小企業政策)の13科目を担当し、約130時間分の講義を収録したので、約91万円の報酬をいただいた。問題は第2条1項の扱いである。これはいわゆるレベニューシェアの規定であり、半年ごとに売上高の一定割合を私の報酬とし、既に支払済みの講義収録に対する報酬は除外して、残りを私に支払うことを定めている。

 勘のよい方はお気づきになったかもしれないが、私が受託した業務は講義の収録と講義用資料の作成の2つである。講義収録の報酬については契約書に明記されているのに対し、講義用資料作成の報酬については位置づけが曖昧になっている。私は、第2条1項のレベニューシェアに含まれるのだろうと解釈し、先行投資だと思って講義用資料を作成してきた。ところが、2016年7月に、第2条3項に従ってレベニューシェアの金額を確認したところ、0円との回答が返ってきた。この時は、講義開始からまだ半年だから売れていなくても仕方ないかと思ったのだが、2017年1月に金額を確認しても、2017年7月に金額を確認しても、2018年1月に金額を確認しても0円との回答であった。この時点で、私が作成した講義用資料は約2,600枚に上っていた。

 約2,600枚もパワーポイントの資料を作って1円にもならないのでは、さすがに私も我慢の限界である。しかも、契約書では私が作成した資料の著作権はX社に属することになっている。約2,600枚もの講義用資料をタダで作らせておいて、著作権だけはちゃっかりもらおうというのはあまりにも虫がよすぎる。私は、契約書の第17条「本契約に定めのない事項及び疑義が生じた事項についてはX社と谷藤氏が協議のうえ誠意を持って解決する」という規定に従って、講義用資料作成の報酬についてX社と交渉することにした。

 私は、ランサーズでパワーポイント資料の作成案件の報酬がいくらぐらいに設定されているかを調べてみた。すると、幅はあるものの、2,000円~20,000円程度であることが解った。私はこのレンジの中央値を取って、1枚3,500円とし、3,500円×約2,600枚=約910万円を支払ってほしいとX社にお願いした。同時に、今まで「レベニューシェア-講義収録の報酬=半年ごとの報酬」となっていたところを、「レベニューシェア-(講義収録の報酬+講義用資料作成の報酬)=半年ごとの報酬」と修正してほしいとも依頼した。

 だが、X社は私の要求を頑なに拒否した。「そのような報酬を他の講師に支払ったことがない」というのが理由であった。業務委託契約は就業規則ではないのだから、他の講師との契約内容に縛られる言われはないのだが、X社があまりにも一点張りの主張を繰り返すので、アプローチを変えることにした。第2条4項には「X社は、谷藤氏に対し、本件対価の全部ないし一部の支払いとして、講義の収録を開始した月以降、毎月末限り、1時間当たり7,000円(消費税別)を谷藤氏の指定する銀行口座に振り込んで支払うものとする」とある。実は、ここには「講義時間1時間当たり7,000円」とは書かれていない点に着目した。

 この「本件対価」とは何かを遡って見ると、第2条1項に「X社は、谷藤氏に対し、本件委託業務の対価として、谷藤氏が行った本件講義等による売上のうち15%(消費税別。以下「本件対価」という。)」とある。さらに「本件委託業務」とは何かを遡って見ると、第1条2項に「X社は、谷藤氏に対し、X社が谷藤氏に実施を依頼した講義、講座、レジュメ、その他の資料(以下まとめて「本件講義等」という。)を提供(以下「本件委託業務」という。)」とある。つまり、第2条4項は「X社は、谷藤氏に対し、X社が谷藤氏に実施を依頼した講義、講座、レジュメ、その他の資料の対価の全部ないし一部の支払いとして、・・・1時間当たり7,000円・・・を支払う」と読み替えることができる。よって、講義用資料についても、作成時間1時間あたり7,000円を請求することにした。

 2016年4月から2018年2月の間、私は基本的に、土日まる2日をかけて6回分程度の講義用資料を作成し、火曜日に収録するというスケジュールで動いていた。当初は、2016年4月から2018年2月のうち、私が病気で休んでいた2か月間を除いた20か月について、稼働率40%で講義用資料を作成したわけだから、8人月分の報酬を請求しようとした。ただ、これではあまりにも計算が雑なので、講義用資料の最終更新日を全てチェックして、資料作成に何日費やしたかをカウントしてみた。例えばA、B、C、D、E、Fという6個のファイルがあったとすると、A、B、Cの最終更新日が土曜日、D、E、Fの最終更新日が日曜日であれば、2日間とカウントした。

 ただし、私の場合、収録の途中で資料の誤りなどに気づいて資料を上書き修正することがある。仮に、D、E、Fの最終更新日が日曜日ではなく、収録を行った火曜日になっていれば、この3つのファイルを日曜日に作成したことを証明できないので、カウントからは泣く泣く除外した。こうすると実際の作成日数よりも少なくなってしまうのだが、致し方がない。カウントの結果、講義用資料の作成には104日費やしていたことが判明した。よって、請求金額は104日×8時間/日×7,000円/時間=5,824,000円となる。最初の約910万円に比べれば、大幅な譲歩である。しかも、契約書に書いてある内容に従った請求である。これならさすがにX社も呑むだろうと思った。だが、期待した私が愚かであった。X社はあくまでも、講義用資料作成の報酬は第2条4項ではなく、第2条1項に従って支払うとの姿勢を最後まで崩さなかった。

 訴訟を起こすという手段も考えられたものの、私は前述の通り先行投資と思って講義用資料を作成した結果、貯金をほぼ全て切り崩してしまったため、訴訟のためのお金を用意することができなかった。また、ブログを昔から読んでくださっている方はご存知のように、私は双極性障害を患っているので、訴訟のようにストレスのかかる行為はどうしてもはばかられた(事実、3月には1か月間入院している)。私はやむなく、自分の主張を取り下げることにした。その後、X社から、2017年7月から12月のレベニューシェアを再計算したところ、約10万円という結果になったという知らせが来た。相変わらずほとんど講座が売れていない。それに、最初0円と言っていたのに、再計算したら10万円になったとは、X社の計算もいい加減である。約2,600枚の講義用資料の作成報酬が10万円。つまり、1枚あたり38円である。これではカラーコピー代と変わらない。

 ここからは、今回の件を「赦す」ために、私がこの出来事から学んだ教訓を7つ列記する。
 ①ベンチャーキャピタル(VC)から資金調達を受けたり、ビジネスコンテストで優勝したりしているからと言って、優秀な企業であるとは限らない。
 X社はVCからそれなりの額の資金調達を受けていた。だが、VCはポートフォリオを組んでベンチャー企業に投資しており、99社が失敗しても1社が大化けすればOKと考えている存在である。よって、VCから出資を受けていても、その企業が優秀だと評価されているわけではない点に注意しなければならない。また、VCから投資を受けたことが、スタートアップ企業にとってかえって足枷になることもある。私はX社の社長とも何度か話をしたことがあるが、いつも「株主総会対策をしなければならない」、「VCへの説明資料を作らなければならない」とこぼしていた。売上高がたかだか数億円のX社にとって、VC対策は荷が重く、本業が阻害されているようであった。

 似たようなことはビジネスコンテストにも言える。ビジネスコンテストの審査員は、審査対象者のビジネスに何の責任も負っていないため、事業の実現可能性よりも、話題性が高いものを選ぶ傾向がある。だから、ビジネスコンテストは、経営者のプレゼンが上手なら優勝できてしまう。しかし、元々フィージビリティが厳密に審査されているわけではないから、事業計画の詰めが甘かったり、事業を実行する社員の能力が足りていなかったりすれば、事業は簡単に失敗する。

 ②委託された業務と報酬がきちんと対応しているか確認する。
 これは既に述べた通りである。私が受託した業務は、講義用資料の作成とe-Learningの講義の収録という2つであったが、それぞれに対応する報酬が契約書の中できちんと明確に定義されていなかった。X社の担当者は、他の資格を担当している講師との契約内容も同じようなものだと言っていた。だが、X社の提供している講座の中心は司法試験であり、弁護士の講師も含まれている。私は、彼らからは私のような要望は出ないのかとX社の担当者に聞いてみたのだが、そういう話は聞いたことがないとのことだった。こんな曖昧な契約内容でよしとしている弁護士は、ひょっとしたらバカ(直球)なのかもしれない。

 ③成果報酬は、こちら側が成果をコントロールできる場合に限定する。
 レベニューシェアは成果報酬の一種であるが、こういう形態を取る場合には、こちら側が成果創出の主導権を強く握ることができる場合に限定するべきである。本件において、私にできるのは品質の高い講義を納品するところまでであり、その講座が実際に売れるかどうかはX社のマーケティングや販促活動次第であった。しかし、私が調べた限り、X社は私の講座が公開されてもプレスリリースを打った形跡がないし、GoogleのAdWordsにも出稿していなかった。ビジネス実務法務検定は、元々別の行政書士の先生が担当していたのだが、受講者からのクレームがひどくて私が撮り直すことになった講座である(大して売れていないのにクレームがすごかったというのだから、よほどひどい内容だったのだろう)。私は、通常4か月以上かかるところを2か月で無理して収録したのに、X社は未だにWebサイトに前任者の顔写真を載せている。

 ④低価格を売りにしている企業には注意する。
 X社は、予備校に比べて運営コストを引き下げることで低価格を実現していると謳っていた。だが、今回の一件で、私は低価格戦略を掲げる企業にはよほど注意をしなければならないと感じた。低価格戦略であっても社員の生産性が高ければ問題ないのだが、私が経験したように、単に外注先を安く買い叩いてコストを下げているようであれば、そんな企業とはつき合うべきではない。その企業がどういう理屈、ストーリー、バリューチェーン、ビジネスモデルで低価格を実現しているのかをよく観察しなければならない。以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」で、「自分を安売りしない」と書いたのに、結果的に自分を相当安くX社に売ってしまったことを後悔している。

 ⑤問題を長期間放置しない。
 私が2年近く問題を放置したことで、損害が大きくなってしまったことも敗因の1つであると考える。せめて、1年経った時点で交渉していれば、まだ請求金額も大きくなかったから、X社も交渉のテーブルに着いてくれたかもしれない。その際、担当者レベルではなく、社長を引っ張り出すべきであっただろう。2年近く経って900万円以上の金額をいきなり提示したものだから、X社は態度を硬化させた恐れがある。ただ、社員が10数名しかいないX社が、いきなり900万円以上の金額を請求された場合、それを拒絶しようとするならば、最初から社長が出てきて火消しに走りそうなものである。今回の交渉では、終始X社の担当者しか出てこなかった。思うに、X社の担当者は私のような要望は受けたことがないと言っていたが、実は他の講師から似たような要求を何度かされており、社長が末端の担当者レベルで揉み消すことに慣れていたのかもしれない。

 ⑥生産性の高い人ほど損をする契約にしない。
 仮に、講義資料作成時間1時間あたり7,000円という契約が認められ、5,824,000円の支払いを受けたとしても、これは私にとって不利である。私は一般の人よりもパワーポイント資料の作成スピードが速いと思っている。私と同じ30代半ばの社員を採用して、13科目を勉強させ、2,600枚の講義用資料を作成させたとしたら、間違いなく1年以上かかるに違いない。その間の採用費、教育費、人件費、福利厚生費、管理者の人件費、管理部門の間接費などを合計すれば、1,000万円は軽く超えるだろう。その仕事を、生産性の高い私がやると約600万円になってしまう。だから、報酬は時給単位ではなく、成果物単位にするべきである。

 余談だが、私は2013年7月から2017年2月まで、ある中小企業向け補助金の事務局に勤めていた。補助金の採択を受けた中小企業の伝票類をチェックして、補助金を支払うのが仕事である。出勤日数は週3日以上というのが条件であった。私は他の仕事もあったので週3日の出勤だったが、高齢の事務局員の多くは週5日びっしりと出勤していた。だが、それぞれの事務局員が担当する中小企業の数は皆同じである。つまり、多くの高齢の事務局員が週5日かかってやっていた仕事を、私は週3日でこなしていたわけだ。それなのに、事務局の評価は、私よりも週5日出勤する高齢の事務局員の方が高かった。お役所は生産性よりも稼働率を評価するらしい。

 ⑦顧客の担当者の情熱に騙されない。
 X社の担当者から最初にこの仕事の話をいただいた時、「当社は現在司法試験が収益の柱だが、これからは新規事業を強化していきたい。その中心に中小企業診断士を位置づけている。谷藤先生には、診断士の講座を引っ張ってもらいたい」と随分熱っぽく言われたのを覚えている。しかし、担当者が新規事業に熱を入れているからと言って、会社全体としてその新規事業に本気になっているとは限らない。私は担当者の熱意だけではなく、X社の全社戦略をもっとよく見極めるべきであった。X社の新規事業に対する態度を感じ取れるサインは確かに存在した。

 それは、私を担当するX社の社員が3回交代し、3人とも退職していたことである。2年弱の間に新規事業の担当が3人も交代するのは異常事態である。しかも、3人とも、私に対して何の挨拶もなしに突然退職していた。X社にとって、新規事業とはその程度の位置づけだったのだろう。X社としては、収益の柱はあくまでも司法試験であり、診断士などはWebサイトを訪れる潜在顧客に対して、メニューの豊富さを印象づけることができれば十分だったのではと思われる。



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