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DHBR2018年4月号『その戦略は有効か』―前職のベンチャー企業の戦略が有効でなかった7つの理由
『世界』2018年4月号『東北の未来のために―復興8年目の現実から』―復興庁は常設の組織とすべき、他
『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)

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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都豊島区を拠点に、東京23区で活動する中小企業診断士(コンサルタント・トレーナー)。コンサルティングなどの仕事の実際の中身は守秘義務の関係で書くのが難しいため、書評が中心となっている点は何卒ご容赦あれ。

 専門領域は、(1)経営ビジョン・事業戦略の策定、(2)ビジョンや戦略とリンクした人材育成計画の立案・人事評価制度の構築、(3)人材育成計画に沿った教育研修プログラムの企画・開発。

 モットーは「日々改善、日々成長」、「実事求是」、「組織のためではなく知識のために働く」、「奇策は定石より先に立たず」、「一貫性(Consistency)」、「(無知の知ならぬ)無知の恥」

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

 ブログタイトルに、oasisの往年の名曲『Whatever』を入れてみた。

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マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


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(一社)東京都中小診断士協会一般社団法人東京都中小企業診断士協会
(城北支部執行委員、青年部長を務めています)

企業内診断士フォーラム(KSF)企業内診断士フォーラム
(独立診断士の立場から、企業内診断士の活動を応援しています)

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2018年03月28日

DHBR2018年4月号『その戦略は有効か』―前職のベンチャー企業の戦略が有効でなかった7つの理由


ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 4 月号 [雑誌] (その戦略は有効か 転換点を見極める)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2018年 4 月号 [雑誌] (その戦略は有効か 転換点を見極める)

ダイヤモンド社 2018-03-10

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 「戦略転換点」の見極め方については、インテルのCEOであるアンドリュー・グローブの著書『パラノイアだけが生き残る―時代の転換点をきみはどう見極め、乗り切るのか』(日経BP社、2017年)の方が詳しいので、そちらの内容を記載しておく。

パラノイアだけが生き残る 時代の転換点をきみはどう見極め、乗り切るのかパラノイアだけが生き残る 時代の転換点をきみはどう見極め、乗り切るのか
アンドリュー・S・グローブ 小澤 隆生

日経BP社 2017-09-14

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 ①「主要なライバル企業」、「自社の重要な補完企業」の入れ替わりがあるか、自問する。
 まず、次のような問いを発してみる。「主要なライバル企業の入れ替わりがありそうか?」。普通、自社のライバル企業の名はすぐ答えられるものだが、その答えが明快でなくなったり、以前はどうでもよかったような競争相手が出てきたりする場合には、注意を払わなければならない。重要視するライバルの序列が変わる時は、何か重大なことが進行している兆候であることが多い。また、「今まで大切な補完企業と見なしてきた相手が入れ替わろうとしていないか?」ととも問うべきである。かつて自社にとって一番大切な企業だったのに今は違うとしたら、産業内の力関係に変化が起きている兆候なのかもしれない。

 ②変化を素早く察知する人材”カサンドラ”の声を聞く。
 カサンドラは「トロイの陥落」を予言した女司祭のことである。社内には、彼女のように、迫り来る変化にいち早く気づき、警告を発する人々がいる。こうした人たちは中間管理職で、営業職であることが多い。彼らは近づきつつある変化について、経営陣より多くのことを察知している。社外で動き回り、現実世界の風を肌で感じているからだ。カサンドラは向こうからやって来て、心配事を伝えてくれる。その時は彼らの話に耳を貸し、理解するよう最善を尽くすべきだ。

 ③新技術の登場時には「初期バージョンの罠」に注意し、重要度を慎重に見極める。
 新しく出てきたものは、たいていは評判通りではない。とはいえ、注視を怠るべきではない。例えば、ウィンドウズの初期バージョンは長い間二流とされていたが、その後ウィンドウズは周知の通り業界全体を大きく変える力となった。こうしたことがあるから、初期バージョンの質だけを見て、その重要度を早計に判断してはいけない。

 ④あらゆる関係者を集めてディスカッションする。
 ある変化が戦略転換点なのかを見極めるために重要なことは、広く意見を集めてディベートすることである。その際、色々なレベルの幹部が議論に参加させる。また、顧客、協力会社といった社外の人々も巻き込むべきだ。あらゆる関係者の知恵を総動員することが大切である。

 ⑤常に「恐怖感」を持って事に当たる。
 経営幹部の最も重要な役割は、社員が夢中になって市場での勝利を目指せるような環境を作ることである。「恐れ」という感情は、そのような情熱を生み出し、維持する上で重要な役割を担っている。敗北を恐れることは、強い動機になる。では、どうすれば社員の心に敗北への恐怖感を培うことができるのか?それには、まず経営陣が恐れを感じることだ。いつか経営環境の何かが変わり、競争のルールも変わってしまうかもしれないと経営陣が恐れていれば、社員もやがて共感するようになる。そうすれば警戒心を持ち、常にシグナルに注意を払うはずである。

 せっかく戦略転換点に気づいても、新しく立てた戦略が有効でなければ成功することはできない。私の前職は、企業向けの教育研修と組織・人事コンサルティングを提供するベンチャー企業であったが、約10年前にはちょうど、「自律型人材」というキーワードが流行し、キャリア開発の重要性が高まりつつある頃であった。前職の企業はこの変化を先取りして、新入社員、若手社員、ミドル、シニアという全世代に対応したキャリア研修を提供するという戦略を選択した。当時、キャリア研修を実施していたのは一部の大企業のみであったから、この戦略は新しい市場を切り開くイノベーションであった(当時の推定市場規模については、以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第30回)】ターゲット市場がニッチすぎて見込み顧客を発見できない」を参照)。

 本来、経営資源に限りのあるベンチャー企業は、既に需要がある程度存在する市場において、競合他社との差別化によって市場への参入を図るというマーケティング戦略を取るのが安全策である。前職の企業の中にも、管理職向けのマネジメント研修や、営業職向けの営業研修など、競合他社は多いが多くの企業で実施されている研修を提供するべきだという声があった。ただ、そうは言っても、世の中にはイノベーションから成功したベンチャー企業も存在するから、私も前職の企業のイノベーションを完全には否定しない。しかし、百歩譲って前職の企業のイノベーションを認めるとしても、それでもやはりその戦略には7つの欠陥があったと思う。

 《参考記事》
 【ベンチャー失敗の教訓(全50回)】記事一覧

 ①キャリア研修の導入は、顧客企業にとって+αの負担となるのに、それを上回るメリットを提示することができなかった。
 前職の企業だけでなく、当時の研修会社が考えていたキャリア研修は、一般的な集合研修とは異なり、集合研修の後に、それぞれの受講者と個別にキャリアコンサルティング(キャリアカウンセリング)を実施することとなっていた。ただでさえ新しい研修を導入することは人事部にとって負担であるのに(人事部というのは保守的な部門で、一度決めた研修体系をなかなか変えようとしないものである)、受講者と研修会社との間でキャリアコンサルティングを設定するという手間が増える。それに、いくらキャリアコンサルティングが個人的なものとはいえ、企業としてお金を払ってやってもらっている以上、キャリアコンサルティングの結果がどうであったか研修会社から報告を受けなければならない。その結果、何かしらの問題が見つかれば、人事部全体で議論したり、場合によっては経営陣にまで報告したりする必要も出てくるだろう。

 以前の記事「DHBR2018年3月号『顧客の習慣のつくり方』―「商店街に通う」という習慣を作るためにはどうすればよいか?、他」でも書いたが、イノベーションを受け入れてもらうには、顧客の習慣を変えなければならない。その際、顧客の行動を簡便化するように働きかけることが肝要である。簡単な例だが、電子メールが普及したのは、電話よりコミュニケーションが楽になったからである。仮に、イノベーションが顧客にとって新しい行動を要求する場合には、顧客が負担するコストを上回るメリットを提供しなければならない。またしても簡単な例だが、facebookはユーザが日常の一コマをわざわざWeb上にアップするという一手間がかかる。それでもfacebookが世界中に広がったのは、友人と広くつながることで日常生活の楽しみが増えるからだ。

 前職の企業は、キャリア研修の導入による効果を明確に示すことができなかった。「社員のモチベーションが上がる」、「組織が活性化される」、「自社に対するロイヤルティが上がる」といった、定性的で抽象的な効果ばかりを見込み顧客に訴求していた。仮に、「○○名に対してキャリアコンサルティングを実施すると、平均的に○○名の潜在的な転職希望者が見つかり、彼らのリテンションによって○○万円の中途採用コストが節約できる」、「平均的に○○名が現在の職場と自分の能力にギャップを抱いていることが判明し、人事異動を通じた適材適所を実現することで、組織の生産性が○○%上昇する」などといった定量的な効果を示すことができれば、もっと人事部の関心を引きつけることができたのではないかと思う。

 ②自分で開発したキャリア研修のことを自社が愛していなかった。
 以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」でも書いたように、イノベーションとは、イノベーターが「自分がこれだけほしがっている製品・サービスなのだから、世界中の人も同じようにほしがるに違いない」と考えているものである。つまり、イノベーターは自分が創り出したイノベーションを心から愛していなければならない。だが、前職の企業では、社長が本当にキャリア研修を愛しているのか最後までよく解らなかった。

 仮に、社長がキャリア研修に強い思い入れを抱いているのであれば、まずは自社の社員を顧客に見立てて、社内でキャリア研修を実施してもよさそうなものであった。だが、私の在籍中にキャリア研修を受講する機会はなかった。当然、キャリアコンサルティングも実施されなかった。そもそも、半期に1度の人事考課ですらまともに行われていない企業であったから、キャリアコンサルティングが行われることを期待することはできなかった。前職の企業の社長は、大手コンサルティングファームでパートナーまで上り詰めた人である。だが、往々にしてコンサルタントという人種は、顧客企業に提案する施策を自分ではやらない(やれない)ものである(だから、コンサルタントが独立起業しても成功するとは限らない)。その悪癖が出てしまったと考えられる。

 ③競合他社の分析ができていなかった。
 これは自社のマーケティングを兼務していた私の反省点である。キャリア研修はイノベーションであったが、既にいくつかの競合他社が存在していた。私はもっと人脈を活用して、競合他社がどんな営業資料を用いて見込み顧客に提案をしているのかを調査するべきであった。そして、競合他社との差別化ポイントを明確にして、プロモーションに反映する必要があった。

 また、営業担当者とも連携して、競合他社の情報収集に努めるべきであった。営業担当者には、もし失注したら、「なぜ失注したのか?競合他社のどの点がよかったのか?」を聞くように強く念を押せばよかった。営業担当者は時々、「価格が折り合わなかった」と報告してきたが、こういう場合はたいてい、価格を下げたとしても受注できないものである。価格を持ち出すのは方便で、見込み顧客の本音は必ず別のところにある。「あの会社のキャリア研修はこの点が全然ダメだ」と心の奥底で思っている。その本音を引き出すよう、営業担当者をプッシュすればよかった。それが足りなかったので、ある営業担当者が、「我が社の研修テキストはA4ヨコだが、競合他社はA4タテである。だから、我が社のテキストもA4タテにするべきだ」と強弁して、社内の講師にテキストのレイアウトを変更させているのを見た時には呆れるしかなかった。

 ④成果をモニタリングする中間指標も、撤退基準も設定されていなかった。
 前職の企業では、大まかに「HPでコラムを読んでもらう⇒無料セミナーに参加してもらう⇒セミナー参加者にアプローチして商談化する⇒価格交渉する⇒受注する」というマーケティング/営業プロセスを想定していた。だが、HPのコラムの目標PV数も、無料セミナーの参加者数も、商談の件数も、受注の件数も(!)目標が設定されていなかった。目標を設定していないので、データも収集していない。よって、HPのコラムを読んだ人が無料セミナーに参加する割合、無料セミナーに参加した人に営業担当者がアプローチして商談化に至る割合、商談から価格交渉に至る割合、価格交渉から受注に至る割合も不明であった。だから、目標受注件数を設定した場合に、逆算して何件の価格交渉案件が必要か、何件の商談が必要か、何名の無料セミナー参加者が必要か、どのくらいのHPのコラムのPV数が必要なのかも明らかにすることができなかった。

 中間指標の不在も大きな問題だが、それ以上に私が問題視しているのは撤退基準がなかったことである。イノベーションはリスクが大きいため、思うように利益が出ず、損失が続くことがある。仮に損失が続いた場合、どれくらいの損失なら耐えられるのか、いくら以上/何年以上赤字を出したら撤退するのかという撤退基準をが必要である。そうでないと、いつまでもイノベーションにだらだらと投資し続けることになる。特に日本人は、「努力すれば必ず成功する」という価値観を強く信じている節があるので、イノベーションの失敗に見切りをつけるのが下手である。

 キャリア研修も長く赤字が続いていたが、撤退基準がなかったために、ずるずると開発や営業活動を続けてしまった。あだとなったのは、社長の資金である。社長は前に所属していた大手コンサルティングファームでパートナーになった時にストックオプションを獲得しており、その行使によって相当の資産を持っていたらしい。キャリア研修が大幅な赤字を出して期末に債務超過状態になるたびに、社長が自分の資金を注入して債務超過を解消するということを何年も続けていた。クレイトン・クリステンセンは著書『破壊的イノベーション』の中で、ホンダのスーパーカブがアメリカで成功したのは、資金が不足しており退路が絶たれていたからだと書いていたが、前職の企業はそれとは全く正反対のことをやってしまったわけだ。

 ⑤プロモーションへの投資が不足していた。
 これもマーケティング担当の私の反省点である。以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」でも書いたように、イノベーションは新しい需要を喚起するために、時に強引で押しつけがましいプロモーションを行わなければならない。しかも、大々的に、集中して行う必要がある。それが前職の企業ではできなかった。私がやったことと言えば、自力で自社HPのSEO対策をすることと、無料セミナーを企画して細々と続けることでしかなかった。私に与えられた予算はたった月7万円であり、それは全て自社HPの運用・保守に消えていた。

 「モチベーション・マネジメント」を人事部に広めた株式会社リンク・アンド・モチベーションの小笹芳央氏は、耳慣れないそのコンセプトを売り込むプロモーションが上手だったと思う。『モチベーション・マネジメント』という著書を出し、ビジネス誌や人事の専門誌に頻繁に登場してその重要性を説いて回った。他方、私の前職の企業では、社長はキャリア開発とは関係の薄い本の執筆に忙しく、また、リスクヘッジをするためなのか、キャリア研修以外にも、メンタリング研修、ダイバーシティ・マネジメント研修、リーダーシップ研修など、様々な研修に手を伸ばしていた。そのため、資源が分散してしまい、キャリア研修に資金を集中投下することができなかった。

 リンク・アンド・モチベーションがモチベーション・マネジメントを提唱した時は2000年代前半であったため、まだインターネット広告が発達しておらず、雑誌中心のプロモーションになっていたと思われる。だが、私が前職の企業にいた約10年前には、インターネット広告が随分と発達していた。私は、月20万円の予算があれば、リスティング広告などを駆使してもっとまともなプロモーションができたはずだと後悔している。少なくとも、ほとんど自前で更新ができる自社HPの運用・保守に月7万円も払うくらいならば、Web制作会社と交渉してその金額を下げ、リスティング広告用の資金を捻出するぐらいのことはやるべきだった。

 ⑥戦略を実行するための経営資源(特に人材)が不足していた。
 「日本企業には戦略がない」と言ったのはアメリカのマイケル・ポーターであるが、以前ある人が「日本企業は戦略があったとしても兵站がない」と言ったのを記憶している。兵站とは、戦争において後方に位置し、前線の部隊のために必要な物資を送り届ける機能のことである。経営に置き換えると、戦略の実行に必要な経営資源(人・モノ・カネ・情報・知識)を、適切な品質を維持しつつ、必要なタイミングで、必要な量だけ供給することと言える。日本の歴史を振り返ると、戦闘では必要な物資を現地調達するのが原則であったがゆえに、兵站という概念が発達しなかった。その弊害が露呈したのが、太平洋戦争におけるインパール作戦であった。兵站軽視の傾向は、現在の日本企業にも見られる。私の前職の企業もそうであった。

 私の前職の企業は、社員数1,000人以上の企業をターゲットとすると決めていた。これは、前述の通り、キャリア研修を実施しているのが一部の大企業に限られていたからだという事情がある。ただ、社員数が1,000人の場合、10年に1度キャリア研修を受講するとすれば、毎年の対象者は100人となる。人事部は同じ研修は同時に開催したいと考えるため、仮に1クラス15名とすると、7名の講師が必要である。社員数が増えれば、当然のことながら必要な講師数はもっと増える。ところが、私の前職の企業には自前の講師が4人しかいなかった。そのため、人事部からは「御社には研修のデリバリ能力がない」と判断されて失注するケースもあった。これは明らかにビジネスモデル、ビジネスプロセスの設計ミスである。

 ⑦社員の「できない」という批判を経営陣が「できる」に変えようとしなかった。
 イノベーションに成功した企業の経営者のインタビューを読んでいると、「社員は全員反対した。だから、成功すると確信した」といった発言を目にすることがある。無論、社員が全員反対した通りに失敗したイノベーションもあるだろうから、あくまでも結果論だと言ってしまえばそれまでである。だが、イノベーションを成功させるためには、誰よりもそのイノベーションの可能性を信じている経営者が、社内の壁を1つずつクリアしていく努力が必要であることは間違いない。

 私の前職の企業では、キャリア研修が全く売れなかったので、毎週の営業会議は沈滞したムードが漂っていた。社員からは、「○○だからできない」、「○○だから売れない」という声が社長に向けられた。だが、社長はそのように主張する社員を1人ずつ粘り強く説得するのではなく、「じゃあどうすればいいの?」と聞き返すありさまであった。「どうすればいいか解らない」から現場が音を上げているのであって、そこに「どうすればいいの?」と畳みかけるのは残酷である。②とも関連するが、社長がこのイノベーションの価値を本当に信じているのか疑いたくなった。

 DHBR2017年12月号『GE:変革を続ける経営』で、GEの前CEOであるジェフリー・イメルトのインタビューが掲載されていたが、彼は変革を推進するにあたって、「最後の1人までドアを開けて説得する」姿勢を崩さなかったそうだ。これを額面通りに受け取ってよいかは議論があるだろうが、社員数約30万人の企業の経営者がそこまでやっているのに、社員数がたかだか10数名のベンチャー企業の経営者がそれをできなかったのは恥ずかしいことだと思う。


2018年03月21日

『世界』2018年4月号『東北の未来のために―復興8年目の現実から』―復興庁は常設の組織とすべき、他


世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 (1)
 ロシアを数十分以内に攻撃できる米国の配備核戦力は、広島型原爆(16キロトン)の約30倍もの爆発力を持つSLBM搭載の核弾頭「W88」など高爆発力の戦略核しかない。だから、地域紛争に関与するロシアが数キロトン単位の戦術核を先行使用する、あるいは「戦術核を使う」と威嚇のシグナルを発して事態をあおっても、破壊力があまりに甚大かつ壮絶な戦略核しか持たない米大統領はなすすべもなく、そのうちロシアのペースで紛争が収束に向かう―。
(太田昌克「新核戦略が開くパンドラの箱―トランプNPRと『偽装の被爆国』」)
 また、米国が小型核で報復できる選択肢を持てば、むしろ逆に、ロシアの先行核使用を誘発するリスクを高める恐れはないか。「米国の核報復が数キロトンのレベルならば、ロシアの国家存亡の危機には至らない。だったら、われわれの方が小型核を先に使って、戦局を有利に運ぼう。もし米国が本気で小型核で反撃してくるのなら、こちらが数百キロ単位の戦略核で対米本土攻撃するとの威嚇のシグナルを出せばいい。そうなれば、米国もひるむだろう」。ロシア側にしてみれば、こんなロジックとて成り立たないわけではない。(同上)
 アメリカが2月2日に発表した「核態勢の見直し(Nuclear Posture Review:NPR)」を批判した論文である。トランプ大統領はNPRの中で、戦術核の拡大に言及している。

 核兵器には大きく分けると「戦略核」と「戦術核」の2種類がある。戦略核とは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)などに核弾頭を載せた射程の長い核兵器のことで、敵国の壊滅を目的とする、またはその威力の所有・維持によって軍事的・外交的カードとするものである。戦略核に関しては、アメリカとロシアの間で2011年に「新START」が締結されており、7年以内に戦略核弾頭の配備数を1,550以下に減らすことで合意が成立している。一方、戦術核とは通常兵器による戦力を補う核兵器であり、個々の戦場を想定し、射程が500キロ以下の核ミサイルや核爆弾を指す。戦術核は新STARTにおける削減対象とはなっておらず、現在アメリカが500発ほど保有しているのに対し、ロシアは約2,000発保有していると言われる。

 ロシアは戦略核ではアメリカに対抗できない(そもそも、戦略核は威力が大きすぎて使えない)ことを知っているため、プーチン大統領は「核兵器をディエスカレーションしなければならない」と述べている。その結果が戦術核の増加である。ロシアはクリミア半島を併合した際に「核兵器を使う用意があった」と認めたが、ここで言う核兵器とはまさに戦術核のことである。ロシアは、戦略核よりも威力を抑えた戦術核で巧みに相手国を恫喝し、自国の利益を手にしている。

 そういう国に対抗するには、アメリカは「自分も同じカードを持っている」ということを相手に気づかせ、自発的に行動を抑制させる必要がある。これによって均衡状態がもたらされる。よって、今回のNPRでアメリカが戦術核の拡大に踏み切ったのはごく自然な反応であると言える。冒頭の2つの引用文を読むと、アメリカが戦略核しか持っていなくても、アメリカが戦術核を持ったとしても、ロシアが思う通りに戦局を展開できるという内容になっており、矛盾を感じる。

 (2)
 なかでも中心となるのが、「復興の司令塔」である「復興庁」の検討である。復興庁は、2012年発足後10年の、2021年3月でその生命を終える。端的に言えばそれでよいのか、組織の縮小などや業務内容の変更などはあっても、将来に向けて存続させるべきではないか、というのが本論の問題意識である。
(五十嵐敬喜「復興政策を総点検する―復興庁の存続を」)
 私も賛成である。阪神・淡路大震災も、復興から20年経った時点で「復興は終わっていない」という声が聞かれた(例えば、NIKKEI STYLE「阪神大震災20年「減災社会へ市民・NPOの役割は」  関係者・識者3氏座談会」〔2015年1月17日〕、NHKクローズアップ現代「取り残される”働き盛り” ~阪神・淡路大震災20年~」〔2015年1月15日放送〕など)。阪神・淡路大震災よりも被害が甚大だった東日本大震災の復興が10年で区切りを迎えるとは考えにくい。

 また、2016年の熊本地震のことが忘れられている。東日本大震災の被害額は約16兆9,000億円であるのに対し、熊本地震の被害額は約4.6兆円(ともに内閣府試算)であるが、熊本地震の被害に遭った自治体に対して行ったアンケートによると、「復興まであと2年以上かかる」と回答した自治体が8割あるという。このようなケースではだいたい、行政と住民の意識が乖離しているものであって、大多数の住民は、復興にはもっと時間がかかると考えているに違いない。今年4月頭の時点で、自宅を失った被災者のために熊本県内の自治体が整備する災害公営住宅(復興住宅)の着工率は17.8%であることからも、住民の苦しみが推測される。

 日本は災害大国である。近年は異常気象の影響かどうか解らないが、ゲリラ豪雨、ゲリラ雪も増えている。復興庁は、日本中で起きるあらゆる災害対策の中心を担う組織として存続させた方がよいと思う。まず、各自治体がバラバラに蓄積している災害対策のノウハウを集約する。災害時の避難の仕方、避難所の運営の仕方、支援物資の調達方法、仮設住宅などの供給方法、新しいまちづくりの方法、元の住宅への帰還方法、あるいは災害を未然に防ぐ方法、災害による被害を最小化する方法、防災訓練の方法などに関する情報をデータベースで一元化し、国民や自治体に対して情報発信をする。現在は内閣府政策統括官(防災担当)がこれを担っているようだが、災害対策を国の重要課題の1つと位置づけ、復興庁の役割へと格上げする。

 災害発生時には、復興庁が自治体の強力な支援隊となる。基本的に、災害からの復興は自治体が主体であるが、多くの自治体は資金、物資、人材、ノウハウが不足している。これらを積極的に補完する役割を復興庁が果たす。また、「こういう支援策がほしい」という自治体の要望を取りまとめて、関係省庁と迅速に調整する。ただしこの点については、本論文の中で、復興庁は「各省庁が行う個別の復興事業を『調整』する」だけという指摘があった。復興庁は前述のデータベースを参照しながら、本当に必要な支援策とは何かを考え、時には省庁横断的な施策や、全く新しい独自の施策を構想・実行する。そのための大きな権限を与えるべきであろう。

 「復興庁」という言葉も変えた方がいいのかもしれない。以下はある中小企業診断士から教えてもらった内容である。日本人は農耕民族であり、作物の不作の原因を自然に求める。その延長線上で、災害が起きても、自然が悪い、我々人間にはどうすることもできないと考える。よって、被害を受けても自然を乗り越えようという発想がなく、とりあえず元通りにしようとする。だから「復興」庁という名前になる。他方、欧米人のような狩猟民族であれば、獲物が獲れないのは人間のせいだとされる。だから、失敗の原因は人間にあり、同じ失敗をしないように新しいシステム、制度、仕組みを構築する。よって、仮に欧米人が復興庁のような組織を作るならば、「創造」庁といった名前になるだろうというわけだ。もっとも、最近の日本人は元に戻すだけでは足りないと気づいているようで、「創造的復興」という言葉を耳にする機会が増えた。

 (3)
 ドイツの断種法にその源流があり、戦前の国民優生法の延長線上で、戦後、同法(※優生保護法)が作られることになる。同法第1条は、「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と規定し、優生上の見地による人口政策を目的の1つとして明確に掲げていた。
(新里宏二「不妊手術強制 万感の怒りこめた提訴」)
 「優生保護法」とは、端的に言えば、障害者が生まれてこないように人工妊娠中絶をしたり、不妊手術をしたりすることを可能にする法律である。本論文によれば、人工妊娠中絶は58,972件、不妊手術は24,991件、合計83,963件の手術が行われたという。

 優生保護法は、ナチス・ドイツの断種法(強制絶種法)にルーツがあるから、極右的な法律である。さらにそのルーツをたどっていけば、啓蒙主義に行き着くと私は考える。以前の記事「『正論』2018年3月号『親北・反日・約束破り・・・/暴露本「炎と怒り」で話題沸騰』―小国・日本の知恵「二項混合」に関する試論(議論の頭出し程度)、他」でも書いたが、啓蒙主義においては、唯一絶対の神に似せて、完全な人間が創造されたとされる。人間は1人の個人であると同時に、絶対的な全体(人類全体、世界全体)に等しい存在である。だから、政治においては民主主義と独裁が等しくなるし、経済においては財産が共有のものとされ共産主義が成立する。

 とはいえ、現実問題として、人間は多種多様な存在である。ここで取り得る対応には2つある。1つは人間の一切の差異を認めないという立場である。ナチスがアーリア人至上主義を掲げてユダヤ人などを虐殺したのがこれにあたる。強制絶種法もその一環である。もう1つの立場は、一切の差異を平等に認めるというものである。近年、教育の現場で過度に平等主義を演出したり、性的マイノリティーであるLGBTを社会の多数派と同等に扱うようにと主張するのがその例である。このように見ていくと、一般的に言われる極右と極左は同根異種であることが解る。

 右派とは本来リベラル、自由主義者である。ただし、誰もが平等に自由を有しているわけではない。右派が想定するのは階層社会である。人間は能力や出自などによって、階層社会の中のどこかに居場所を与えらえ、周囲(特に自分より上の階層)から期待される役割を遂行する。人によって地位が異なるわけだから、当然のことながら不平等である。ただし、下の階層に行けば行くほど不自由かと言うと、必ずしもそうとは限らない。特に日本の場合は、むしろ下の階層ほど大きな自由を有している。なぜならば、上の階層から次々と権限委譲が繰り返されるからだ。代わりに、上の階層は下の階層の成果に対する責任を負う。よって、下の階層では自由・権限>責任となり、反対に上の階層では自由・権限<責任という構図が成立する。

 このように見ていくと、優生保護法は極右の汚点である。障害者を排除し、正常な人間のみで構成されるモノトーンな社会を志向したからである。そこには真の自由は存在しない。あるのは全体の意思、全体主義のみである。と書いていたら、優生保護法を制定したのは極右勢力ではなく、左派の人間であることを知った。その人間とは、社会党議員の太田典礼である。太田は九州大学医学部の学生時代、マーガレット・サンガー夫人の産児制限やマルクス主義に傾倒した。戦後の1946年、共産党から衆院議員選に出馬したが落選。伊藤律体制への反発から共産党を離党後、翌年社会党から衆院選に出馬し、当選した。国会では、加藤シズエらとともに優生保護法の制定に奔走したという(三井美奈『安楽死のできる国』〔新潮社、2003年〕より)。

安楽死のできる国 (新潮新書)安楽死のできる国 (新潮新書)
三井 美奈

新潮社 2003-07-01

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 このように見ていくと、繰り返しになるが、やはり極右と極左は同根異種である。


2018年03月14日

『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)


月刊正論 2018年 04月号 [雑誌]月刊正論 2018年 04月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-03-01

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 1月21日早朝、保守系評論家の西部邁先生が多摩川に身を投じ、自殺した。実は、西部氏は以前から自殺(西部氏は「自殺」ではなく「自裁」という言葉を使う)についてプランを練っており、その一部を『正論』の中でも披露していた。今月号には追悼企画として、「ファシスタたらんとした者(第14回)『自分の死』としての『連れ合いの死』 そして『死相の世界』のなかでの『エッセイイストの末期』」(初出は2017年1月号)が再掲されていた。
 この男、「自分が家族や友人や社会に何の貢献もできないのに、彼らや彼女らから世話を受けることばかり多き」という状態に入るのでは、死ぬ甲斐も生きた甲斐もなくなると考えてきた。(中略)で、彼はシンプル・デス(簡便死)を選びとる、と55歳で公言した。要するに、じきに死ぬと察しられたら、実行力の残っているうちに、あっさり自裁するということである。あるいは、ひとたび意識的に生きようと決意した者は、おのれの死にあっても、意識を保持したいと思うに違いないのであるから、自裁が最も死に方となるのである。
 その死に方として、西部氏は「ピストル自殺」を検討し、実際に準備も進めていたようであったが、最終的に選択したのは入水自殺であった。

 本ブログでも公言しているように、私は前職のベンチャー企業に勤めていた2008年から双極性障害という精神障害を患っている。躁状態(一言で言えばハイテンションな状態)とうつ状態が交互にやってくる病気である。ただし、私の場合は明確な躁状態エピソードがなく、極度のイライラとうつ状態が混合しているため、双極性障害Ⅱ型だと診断されている。

 うつ状態の時には、「死にたい」という気持ち(希死念慮)が湧いてくることも少なくない。朝起きたら「今日は遺書を書こうか」と考えることもあるし、駅のプラットフォームで電車を待っていると、このまま線路の下に吸い込まれてしまうのではないかと思うこともある。突発的に道路に大の字になって寝そべって、自動車に轢いてもらいたいと願うこともある。それでも自殺に今のところ踏み切っていないのは、あんなゴミみたいなベンチャー企業のせいで自分が犠牲になるのが耐えがたいという意地と、やはりどこかに自殺=悪という意識があるからであるように思える。

 西部氏は、「死に方は生き方の総決算だ」と主張していた。今回の記事では、西部氏の主張に反して、それでもやはり自殺してはならない理由を私なりに書いてみたいと思う。ただ、「なぜ人は生きるのか?」という問いに普遍的な回答を与えることができないように、「なぜ人は自殺してはいけないのか?」という問いにも唯一絶対の解はないと思う。

 キリスト教には「汝殺すなかれ」という言葉があり、自殺は殺人よりも重い罪とされている。中世以来、自殺者には教会での葬儀が許されないばかりか、遺体は棒を突き刺して街中を引きずり回され、頭を割られ、財産は没収された。ヨーロッパでは、自殺者に対する凶悪殺人犯並みの「見せしめ刑」が19世紀まで生きていた(三井美奈『安楽死のできる国』〔新潮新書、2003年〕より)。ただし、これはキリスト教圏においてのみ成立する話である。だから、これから私が書く内容は、日本でのみ通用することだと思ってお読みいただきたい。この手の話は、論理的であるかどうかよりも、結局は信じるかどうかが大事である。そのため、以下の内容は論理的でない部分や、主張が弱い部分もあるだろうが、その点はご容赦いただきたい。

安楽死のできる国 (新潮新書)安楽死のできる国 (新潮新書)
三井 美奈

新潮社 2003-07-01

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 本ブログでも何度か書いたように、日本は多重階層社会である。それをラフスケッチすれば、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構図になる。ただし、神の世界もまた多重化されており(以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」を参照)、真の頂点を知ることは誰にもできない。神の世界とは、別の言い方をすれば精神世界である。日本人は、神々の精神世界から天皇を通じて魂を受け、肉体という器を借りてこの世に誕生する。

 この精神世界は、物理学者のデイビッド・ボームが言う「内蔵秩序」とは異なる。ボームの言う内蔵秩序とは、我々が普段生きている世界=顕在秩序の背後・根底にある絶対的な秩序である。対立や混乱があふれる顕在秩序において、人々が注意深く意識のレベルを上げれば内蔵秩序にアクセスすることができ、紛争を解決できるとボームは考えた。ボームの考えはピーター・センゲらの「U理論」に受け継がれている。ただ私は、これは全体主義に至る道ではないかと警鐘を鳴らしてきた。多神教の日本における精神世界は、多様性を内包している点に特徴がある。よって、そこから生まれる人間も多種多様である。だが、多神教の神は唯一絶対的な一神教の神と異なり不完全であるから、それぞれの人間に与える能力や寿命はバラバラである。

 だから、日本の場合は機会の平等が成立しない。人間は生まれながらに不平等である。日本人は、神から与えられた能力を活かして、神から与えらえた役割を全うすることが大切である。社会の中の持ち場において、その人なりに創意工夫を凝らすことこそが日本人の自由である。要するに、日本社会とは、不平等だが自由な社会である。とは言え、本人が努力して多重階層社会の中をある程度移動することは認められているし、神もそのことはあらかじめ織り込んでいる。また、神は人間に試練を与える。人間がその試練を乗り越え、魂を鍛錬することを神は期待している。ただし、ここでも神は不完全であるから、試練にほとんど遭遇しない人もいれば、試練ばかりに遭遇する人もいる。この点でも、日本人は不平等である。

 以上を総合すると、理想の生とは、神から与えられた能力を活かし、努力によって役割を拡大し、試練を乗り越えながら神が与えた寿命を全うすることである。そして、理想の生を活きた人の魂は、神が設定した寿命の時期になると、神が回収しにやって来る。回収した魂は精神世界に統合され、その魂の質によって精神世界を発展させる。発展した精神世界からは、また神の手によって、天皇を通じて新たな人間が誕生する。こうして、日本人は漸次的に進歩していく。ただ、繰り返しになるが、神は不完全であるがゆえに、精神世界に蓄積された前世の記憶や経験を新しい人間に引き継がせることができない(ごく稀に前世の記憶を持った人間が生まれることがあるらしい。瀬川雅生『なぜ自殺してはいけないか?』〔コスモヒルズ、1999年〕を参照)。

なぜ自殺してはいけないか?なぜ自殺してはいけないか?
瀬川 雅生

コスモヒルズ 1999-10

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 ここでポイントとなるのは、神はそれぞれの人間に設定した寿命(医療技術の発展によって寿命が延びていることも神は織り込み済みである)が尽きた時にしか魂を回収しにやって来ないということである。よって、自殺する人は、神が設定した寿命よりも早く死ぬことになるから、神が魂を回収することができない。本当は、神がそれぞれの人間を四六時中見張っていて、死んだ時に魂を回収しに来てくれればよいのだが、何度も言うように、不完全な神にはそれができないのである。したがって、自殺した人の魂は回収されず、神々の精神世界に統合されず、その質を発展させることができない。これは大げさに言えば、日本人という民族に対する裏切りである。これが、私が自殺=悪と考える最大の理由である。

 時々、「自分はこの世でやるべき役割は全て全うした。だから死んでもよい」と考えて自殺する人がいる。だが、寿命が残っている限り、なすべき役割も残っているのであり、自殺は許されない。また、西部氏のように、「自分は(病気などで)周りに迷惑ばかりかけているから自殺する」という人は、その人が生きていることによって活かされる他者がいることに気づいていない。

 先ほど、理想の生とは神から与えられた役割を全うすることだと書いた。ここで言う役割とは、何も他者貢献に限られない。例えば末期がんで家族や病院の世話になっている人は、家族や病院に役割を与えるという形で役割を果たしている。先ほどのラフスケッチ「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」に従えば、末期がん患者は市場/社会や家族のレイヤーにいて、NPOや他の家族に役割を与えている。情緒的に言えば、末期がん患者であっても、その人に寿命の限り生きていてほしいと思う人がいるということである(ただし、安楽死や延命措置となると話は別である。この点については後述する)。

 では、日本が「病気で迷惑ばかりかける人」だけの社会になったらどうであろうか?「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家族」という構造はもはや成り立たない。しかし、私はそれでも日本人は自殺してはいけないと考える。というのも、この場合、「神⇒天皇⇒世話を必要とする日本人たち」という構図になり、天皇が直接日本人を救い賜うからである。言い換えれば、天皇制がある限り、世話を必要とする日本人たちは、天皇に役割を与える(やや横柄な表現だが)ことによって役割を果たすことができる。

 「これ以上病気の苦しみを味わいたくないから安楽死させてほしい」という場合はどうだろうか?世界には安楽死が合法化されている国・地域があるものの、現在の日本では安楽死をさせた医師は自殺幇助罪に問われる。安楽死は、神があらかじめ設定した寿命よりも早く死ぬという点では自殺と同じであるから、やはり神が魂を回収することができない。なぜ人生の最後に苦しみを味わわなければならないのかという疑問が湧いてくるが、これも神が与えた試練なのである。神は、大病で寿命が近い人間が、それまでに獲得してきた能力、経験、マインドセットなどをフル動員して、病の苦しみとどう向き合うのかを試している。そうして鍛えられた魂が、精神世界に柔軟さと硬さの両方をもたらす。西部氏は「死に方は生き方の総決算だ」と述べたが、これこそが本当の意味での生き方の総決算ではないだろうか?

 近年は緩和医療の発達により、末期がんの痛みの8~9割は緩和できるようになっているそうである。日本人は、こうした医療の力を借りながら、人生最後の試練に取り組み、寿命を迎えるのが望ましいであろう。だが、緩和医療の発達と同時に、延命治療も発達している。人口栄養(胃ろう)、人工透析、人工呼吸が3大延命治療と呼ばれるそうだが、延命治療の場合、自殺や安楽死とは逆に、神が設定した寿命よりも長く生きることになり、この場合もまた神が魂を回収できない。前述の通り、神は医療の進歩による寿命の延びをある程度考慮しているが、人間の手による不必要で無茶な延命までは想定していない。

 医者は死=敗北ととらえる傾向があり、何かと延命治療に頼る。しかし、延命治療は患者にとっても家族にとっても、かえって経済的・心理的負担が増えることが多い。本人などは、これも神が与えた試練だと思うかもしれない。だが、神にとっては、せっかく設定した寿命を狂わせる行為だと映る。だから、むやみに延命治療をするのではなく、寿命に従って尊厳死を迎えるのが理想である(長尾和宏『長尾和宏の死の授業』〔ブックマン社、2015年〕を参考にした)。

長尾和宏の死の授業長尾和宏の死の授業
長尾 和宏

ブックマン社 2015-02-17

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 基本的に、神はそれぞれの人間に設定した寿命が尽きた時にしか、魂を回収しに来ない。ただし、1つだけ例外がある。それは、人間が不慮の事故や殺人事件などに巻き込まれて死亡した場合である。不完全な神が創造した人間であるから、人間もまた不完全である。その不完全な人間が暴走すると、思いがけず他者を殺してしまうことがある。この場合、その人の死は寿命と一致しない。どういうメカニズムになっているのか私にはよく解っていないのだが、こういうケースに限っては神が不慮の死を察知することができ、魂の回収に向かうことになっている。

 ここで、ある人が誘拐され、犯人に殺されかかっているというケースを考えてみる。被害者は、「犯人に殺されるぐらいならば自殺する」と言っているとする。自殺を選択するべきか、犯人に殺害されるべきか?(不謹慎な話だと思ってほしくないのだが、)私はここでも自殺を選択してはいけないと思う。これまで述べてきたように、自殺をすれば神が魂を回収しに来てくれない。しかも、犯人は殺人罪に問われず、略取誘拐罪に問われるだけである。一方、犯人に殺害された場合は、神が不慮の死を察知して被害者の魂を回収しに来てくれる。さらに、犯人は略取誘拐罪だけでなく殺人罪にも問うことができ、より重い社会的制裁を加えることができる。



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