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『世界』2018年7月号『朝鮮半島の歴史的転換点―日本外交の責任』―フランスという国を真似する際の注意点について
エドガー・H・シャイン『キャリア・ダイナミクス』―今だったら「キャリア研修」のカリキュラムをこう設計する
『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年06月30日

『世界』2018年7月号『朝鮮半島の歴史的転換点―日本外交の責任』―フランスという国を真似する際の注意点について


世界 2018年 07 月号 [雑誌]世界 2018年 07 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-06-08

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 以前の記事「『混迷するアメリカ―大統領選の深層(『世界』2016年12月号)』―天皇のご公務が増えたのは我々国民の統合が足りないから、他」で書いたように、日本は「和」と「伝統」を重視する国である。啓蒙主義を経験した西洋とは異なり、合理的な人間像を受け入れておらず、人間は生来的に不完全であるという前提に立っている。生来的に不完全な人間が意思決定を下す場合には、決して独断せず、合議による。そして、判断のよりどころを歴史に求める。ただし、日本人は生まれた後もずっと不完全であるわけではなく、学習によって生涯を通じて能力を伸ばし続けることができる可能性を信じている。それでも日本人は完全にはなることはできず、その際には外国の知恵を借りる。こうした日本人の精神を象徴している存在が天皇である。

 日本人は外国から学ぶことが大好きである。古くは中国から学び、江戸時代にはオランダを通じて西洋の文化を部分的に摂取した。外国からの学習が絶頂に達したのが明治時代であり、欧米諸国から様々な技術や制度を吸収した。そして、戦後の日本にとって中心的な先生となったのはアメリカである。明治時代以降、フランスからも日本は多くを学んでいる。ただ、個人的には、このフランスという国は、真似をするにあたって特段の注意が必要な国だと考えている。

 日本政府は、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、訪日外国人の大幅増を目標としている。その際に参考にしているのが、世界一の観光立国フランスである。フランスは毎年、人口(6,690万)以上の外国人観光客(8,260万人)を受け入れている。フランスの観光の特徴については、以前の記事「【中小機構】インバウンドを呼び込むために知っておきたい基礎知識~欧州編~(セミナーメモ書き)」で少し触れたが、確かに参考になることがある。

 日本人の旅行と言うとせいぜい数日程度であるのに対し、ヨーロッパ人は数週間の休暇を取って、旅行先でゆっくりと滞在するのが一般的なスタイルである。日本の神社仏閣は外国人の人気を集めつつあるが、ただ単に神社仏閣を見て回るだけでは数時間の滞在で終わってしまう。ヨーロッパ人が関心を寄せるのは、神社仏閣のゆかりや歴史、祀られている神や仏の正体、神社仏閣のしきたりや行事、建物の構造的特徴など多岐にわたる。しかも、彼らは事前にインターネットで訪問先に関する情報を入念に調査しており、旅先ではそれ以上の情報を求める。

 神社仏閣側は、ヨーロッパ人の期待に応える、あるいは期待を上回る情報を積極的に発信していかないと、観光客の滞在時間を延ばすことができず、彼らの満足度を下げてしまう。さらに言えば、ヨーロッパ人は数週間同じ地域に滞在することから、このような長時間楽しめるスポットを複数用意し、お互いに連携させておかなければ、彼らの旅は非常につまらないものになってしまう。この点、フランスは観光スポットの見せ方や各観光スポット間の連携が上手であり、これがヨーロッパを中心に世界中から観光客を引き寄せる要因となっている。

 観光については積極的にフランスから学ぶとよい。だが、他の分野はどうだろうか?例えば、フランスは1970年代から少子化に悩まされてきたが、各種政策によって出生率を増加に転ずることができた。だから、日本もフランスに倣って少子化対策をするべきだと言われる。しかし、田口理穂他『「お手本の国」のウソ』(新潮社、2011年)によると、実態は違うようである。

「お手本の国」のウソ (新潮新書)「お手本の国」のウソ (新潮新書)
田口 理穂ほか

新潮社 2011-12-15

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 フランスには、2人目の子どもから一律に支給される児童手当、出産費用ゼロ、産休の終わりから子どもが3歳になる誕生日まで取得できる育児休暇、その間の所得補償、保育料無料の公立幼稚園、延長保育や保育ママなど託児システムの充実、子どもが3人以上の家庭の交通機関や美術館利用時の割引パスなど、様々な政策がある。しかし、フランスに20年以上滞在しているという著者によると、フランスには「少子化対策」という言葉は存在しないそうだ。これらの政策は、「家族政策」という、第2次世界大戦以前からある古い言葉でまとめられているという。フランスは19世紀を通じて人口減少に悩まされた。よって、「国力とは国民の数である」という意識が伝統的に強い。第2次世界大戦後、国力の回復には国民の数を増やすことだと確信した時の政府が、ここぞとばかりに力を入れて制度を整えた。

 それにもかかわらず、出生率は長期的に低下した。出生率が底を迎えた1970年代には女性の職場進出が進み、80年代にはその傾向がゆるぎないものとなった。そこで政府は、子どもを産んでも仕事を辞めなくなった女性を支援するためと、失業している女性の雇用を作り出すという目的で、ベビーシッターを促進する制度など、様々な女性雇用促進策を追加した。

 これらの政策が出揃って初めて、フランスの出生率は反転した。仕事と家庭を両立させ、子どもを持つことが容易になった。共働きによる経済的安定もあるし、万が一離婚しても無収入にはならないという経済的基盤もできた。こうした要因が、子どもを産み育てようという決断に有利に働いている。少子化対策は、相当程度に複合的な要素によって成り立っていることを理解する必要がある。フランスの政策を表面的に少しずつ真似しただけでは、政策導入にもかかわらず出生率の低下を経験したことがあるフランスのように、逆効果になる恐れもある。

 思想面ではどうか?本号の「『私たちが止まれば、世界は止まる』」(宮下洋一)という記事では、スペインで起きた史上最大の女性ストライキ「8-M」が取り上げられている。セクハラなどの女性の権利侵害に抗議する目的で、女性が労働や家事、消費などの活動を24時間放棄するという前代未聞のストライキであった。本記事には次のようにある。
 バルセロナ大学女性問題研究所(DUODA)のラウラ・メルカデル所長は、スペイン女性史を振り返りながら、隣国のフランス女性との伝統的な差を説明した。「フランス女性は自立しているが自由がないと感じている。スペイン女性は自立していないが自由を感じている。こう言われてきた。自由は心の中で感じること。前者は、男性主義社会の中で、女性であることに不満を持つが、後者は女性であることに不満はない」(中略)「今の若い世代は、意識の変化が著しく、フランス女性に近い意識に傾倒している。特に、ここ2、3年がそうだ」とため息混じりの声を漏らした。
 近代フランスは「自由」そして「平等」という概念を生み出した。その生みの親となったのがルソーである。日本でも明治時代にルソーの思想に感化された人は多く、中江兆民や植木枝盛などがその代表である。だが、以前の記事「市野川容孝『社会』―ルソーの『社会契約論』はやっぱり全体主義につながっていく」でも書いたように、私はルソーの思想を危険視している。

 ルソーは、『人間不平等起源論』(以下、『不平等論』)で社会の不自由・不平等を暴き、『社会契約論』で自由・平等な社会を提起した。ルソーはまず、自然的または身体的不平等、すなわち、自然によって定められるものであって、年齢、健康や体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている不平等が存在すると指摘する。また、身分制という制度が不自然、人為的に生み出された不平等の装置であると告発する。

 その不平等を克服し、敢えて平等を創り出そうというのがルソーの「社会契約」である。『不平等論』では、人民は政治を付託した者に自ら追従するという服従契約の要素があったが、『社会契約論』ではこの点が修正された。服従契約においては、支配者と服従者が契約前に既に決まっていることが前提となっている。これに対して『社会契約論』では、契約の以前にも契約の外にも契約の相手はいないという論法で、人民を服従契約の枠組みから解放した。これを私なりに解釈すれば、一方を権利者、もう一方を義務者と区別せず、あらゆる人民が統治者であると同時に被統治者でもあるという両面性を有する契約にした、ということになる。

 「社会契約」においては、原則として所有権が否定される。『不平等論』では明確に所有権が否定されたが、『社会契約論』では、所有権を認めつつ、それを是正する方向へと修正された。ただし、ここで言う所有権とは、我々が一般的にイメージする所有権とは異なる。ルソーの所有権は、マルクスと共通する。マルクスは、各人が孤立した状態で手にする「私有」(我々が「所有権」という場合にはこちらを指す)と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」を区別した上で、全社を否定し後者を肯定する。つまり、全ての人といくらかを持つことが、ルソーやマルクスにおける所有権の意味である。

 ルソーは、不平等な状態を、社会契約によって平等にしようとした。一方、ルソーと同じ啓蒙思想家であるイギリスのロックは、考えが正反対である。ロックの場合、平等は自由とともに自然状態に帰属し、この自然状態から出発して各人が平等に与えられた(はずの)「身体」を自由に用いる。すなわち、自由に「労働」することによって所有権が正当化される。社会的なもの=社会的な美徳・道徳性は、この所有権から導出される不平等の枠内にとどまるように強いられる、という構図である。社会的なものは、決して不平等を批判したり、告発したりしない。

 ルソーは自由をどのように考えているか?前述の通り、ルソーは「個人的所有」を肯定した。しかし、いくら全ての人といくらかを持つと言っても、自分の財産を他人と比較し、他人よりもより多く持ちたいと欲するのが人間の性である。ルソーはこうした心の働きを「自尊心」と呼んだ。ルソーは、自尊心を批判し、その代わりに「自己愛」を持つべきだと説いた。自己愛とは他者への同化である。「私の財産は私のものであると同時に、あらゆる他者の所有物である。また、あらゆる他者の財産はそれぞれの者の所有であると同時に、私の所有物である」と考えることである。自尊心を原因とする不平等の意識から自己愛に至ることが、ルソーの言う自由である。

 端的にまとめると、ルソーは自然的・人為的な不平等を社会契約によって矯正し、あらゆる人民を統治者であると同時に非統治者にしようとした。また、財産については個人所有でありながら同時に共同所有であると見なすことで、不平等意識からの自由を説いた。つまり、ルソーの社会契約の下では、1人がすなわち全体と等しく、全体がすなわち1人と等しいと言える。これはまさに全体主義につながる考え方である。だから、経営学者のピーター・ドラッカーは初期の著書『産業人の未来』の中で、次のように述べているのである。
 基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)ドラッカー名著集10 産業人の未来 (ドラッカー名著集―ドラッカー・エターナル・コレクション)
P・F・ドラッカー 上田 惇生

ダイヤモンド社 2008-01-19

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 フランスの「平等」の延長線上に位置づけられると思うのだが、フランスでは2000年に「パリテ法」が制定され、政治分野における男女同数の候補者擁立が義務づけられた。これを真似する形で、日本では2018年5月16日に、「政治分野における男女共同参画推進法(候補者男女均等法)」が成立した(三浦まり「『政治分野における男女共同参画推進法』成立の意味」)。近年、企業においては女性社員の活用が推進されており、この動きが政治にも波及したと言える。企業は管理職における女性の割合について目標数値を設定するようになっているが、政治分野においては、候補者数を男女で均等にするという、より野心的な目標を掲げられている。

 だが、私はこのような形で強制的に男女平等を実現するのは、政治の本質に反すると考える。そもそも、企業において女性活躍推進、さらにその発展形であるダイバーシティ・マネジメントが着目されているのは、市場や顧客の多様性を企業内にも取り込むのが目的である。顧客に占める女性の割合が高ければ、社員に占める女性の割合が高い方が、女性のニーズをより製品・サービスに反映しやすいという理屈である。

 しかし、政治において、女性の視点を持ち込むには、必ずしも女性議員の数が多ければよいというわけではない。というのも、そもそも民主主義とは、少数派の意見を多数派の意見によって抹殺せず、むしろ活かすための仕組みであるからだ(実際問題として多数派が有利になっているのは、民主主義の運用の問題であって、民主主義の原理の問題ではない)。だから、民主主義が適切に機能していれば、たとえ女性議員が少なくても、女性の視点は政治に持ち込まれる。それなのに、強制的に候補者数を男女同数にするというのは、形式論に走りすぎている。

 さらに言えば、政治は男性と女性のみで構成されるわけではない。政治には様々な利害関係者が存在する。行政、自治体、消費者団体、営利企業、公益企業、業界団体、非営利組織、研究組織、協会、宗教団体、学校、家族など、多様なプレイヤーが政治に関与する。パリテ法や候補者男女均等法の理念を貫くならば、これらの利害関係者が社会に占める割合に応じて、候補者数を出さなければおかしいことになる。しかし、それは現実的ではない。それぞれの利害関係者から出てくる候補者数は少ないかもしれない。それでも、繰り返しになるが、民主主義が生きていれば、少数派の意見を政治に反映させることは可能なはずである。

2018年06月27日

エドガー・H・シャイン『キャリア・ダイナミクス』―今だったら「キャリア研修」のカリキュラムをこう設計する


キャリア・ダイナミクス―キャリアとは、生涯を通しての人間の生き方・表現である。キャリア・ダイナミクス―キャリアとは、生涯を通しての人間の生き方・表現である。
エドガー・H. シャイン 二村 敏子

白桃書房 1991-02-01

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 キャリア開発と組織文化に関する研究の第一人者であるエドガー・シャインの著書。以前の記事「横山哲夫編著『キャリア開発/キャリア・カウンセリング』―今までが組織重視だったからと言っていきなり個に振り子を振り過ぎ」で、日本のキャリア開発の現場では組織よりも個人の方が過剰に重視されていると書いたが、シャインも本書の中で同様の警告を発している。
 個人のキャリア計画が立てられようと立てられまいと、このような組織の計画は組織の有効性のために立てられなければならないと、初めから強調しておくことが重要である。キャリア計画の焦点が、最近、個人の計画を助けることにおかれすぎ、主要かつ本質的な組織活動としての人間資源の計画には、十分な注意が払われてきていない。
 実際のところ、あまりにも多くの人間資源計画が、長期目標の観点から効果的に機能したいとする組織の要求に関わるよりは、むしろシステムにいる現従業員たちの欲求に対する計画に関わりすぎるようになって、失敗している。
 私の前職は組織・人事関連のコンサルティングと企業向け教育研修サービスを提供するベンチャー企業であった。サービスのラインナップの中に「キャリア研修」があったのだが、シャインが提唱した「キャリア・アンカー」のアセスメントは著作権の問題で使えないという理由で、エニアグラムで代替的に自己理解を行い、研修参加者を取り巻く環境の理解については、手軽なフレームワークであるSWOT分析でお茶を濁して、結局はマインドマップで自分のやりたいことを自由に描いてみましょうという、非常に中身の薄いものであった。これではとても売れるはずがない。当時のマネジャーたちにはグーパンチをお見舞いしてやりたいものだ。

 今回の記事では、今だったら、私だったらキャリア研修のカリキュラムをこういうふうに設計するという案を披露したいと思う。ただし、読んでいただければお解りのように、キャリア開発は決してキャリア研修だけで完結するものではない。

 【研修前の準備】
 (1)組織文化を踏まえた戦略の立案と人員計画の策定
 企業が人的資源に関するニーズを明らかにするためには、まずは戦略を立てなければならない。しかも、以前の記事「DHBR2018年5月号『会社はどうすれば変われるのか』―戦略立案プロセスに組織文化の変革を組み込んで「漸次的改革」を達成する方法(試案)、他」で述べたように、戦略は組織文化と整合性が取れている必要がある。組織文化とは、価値観の集合体である。価値観とは、重要な意思決定を迫られた時の判断基準となるものである。自社の組織文化がどのようなものかを知るには、自社のこれまでの社史を紐解き、成功、あるいは失敗した事業・製品・サービス・施策・プロジェクト・取り組みなどを分析し、重要な意思決定のよりどころとなった価値観、あるいはよりどころとすべきだったと後から学習した価値観を記述する。

 組織風土と整合性の取れた戦略が立案できたら、その戦略の実現に向けた組織体制を設計する。そして、それぞれの部門の各ポジションに求められる人材要件を定義する。人事部は、社員の現在の保有能力を踏まえ、誰をどのポジションにつけるか計画を立てる。別の言い方をすれば、新しい組織のそれぞれのポジションに割り当てる候補者のプールを形成する。あるポジションの候補者が複数いるということは、社員の側から見れば、キャリア選択肢が複数になる人もいるということである。人事部がこの作業を行う上では、全社員の能力レベルを体系的に管理し、必要な時にすぐに参照できるデータベースを持っていることが前提となる。

 (2)今後のキャリア予定に関する上司と部下の面談
 人事部は(1)の人員計画を上司に伝え、その上司の下にいる部下がどのようなキャリアを歩む予定になっているのかを共有する。それを受けて、上司はそれぞれの部下と個別面談を行い、そのキャリア予定を部下に伝える。「我が社はこれからこのような戦略を実行する予定である。それに伴って、新しく○○という部門ができる。○○部門の○○ポジションには○○という能力が要求される。君が持っている○○という能力は一定のレベルにあり、○○という部門の○○というポジションでその能力を大きく伸ばすチャンスになるだろう」などといった形で部下と面談を行う。部下のキャリア予定が1本に絞り込まれておらず、人事部が複数の選択肢を検討している場合には、それらの選択肢の全てについて正直に部下に話す。

 【キャリア研修】
 (3)参加者を取り巻く環境の分析と自身に期待される役割の理解
 (2)の面談で今後のキャリア予定を伝えられた当事者は、ある程度自分に期待される役割を理解しているが、研修ではさらにその理解を深める。具体的には、自分が配属される予定の部門=外部環境の現況と今後の見通しから機会と脅威を分析すると同時に、内部環境である自分自身の強みと弱みを洗い出し、SWOT分析を行う。例えば、○○製品の営業部門に配属される見込みがある参加者は、○○製品の営業部門という外部環境、具体的には市場、競合他社、技術の動向などといった営業部門を取り巻く事業環境と、営業部門の人材、ノウハウ、IT、制度などといった営業部門の組織環境を分析すると同時に、営業担当者としての自分自身の強みと弱みを洗い出す。当事者に複数のキャリア選択肢がある場合、例えば営業部門か製造部門のどちらかに異動する予定である場合には、両部門についてSWOT分析を実施する。

 ただし、参加者にいきなりSWOT分析をさせるのは難しいため、部門別の外部環境に関する情報はあらかじめ人事部が準備する。参加者は人事部からのインプットに自分が知っている情報を追加し、SWOT分析を行って、自分に求められる役割をより具体的にイメージしていく。そして、グループワークで各々のSWOT分析の結果を共有し、外部環境や自身の強み・弱み、自分に期待される役割に関する認識について第三者からフィードバックを受ける。

 (4)自己の価値観の棚卸し
 (3)までは外部からの要求に対する理解であったのに対し、(4)は自己理解である。シャインは本書で、「自己(個人的な好み、趣味・余暇、社会的活動を想起するとよい)」、「仕事」、「家庭」という3つのキャリアを想定している。(1)で組織の価値観を明らかにしたように、(4)では当事者個人の価値観をあぶり出す。研修の現場では、前述のエニアグラムや「価値観カード」のようなツールが用いられることが多い。しかし、個人的には自己理解はキャリア開発の肝であり、簡易なツールに頼るべきではないと思う。面倒かもしれないが、今までの人生における重要な出来事を振り返って、「自己」、「仕事」、「家庭」それぞれに関する自分の価値観を考える。

 仕事に関する私の価値観は、以前の記事「私の仕事を支える10の価値観(これだけは譲れないというルール)(1)(2)(3)」で書いたことがある。価値観を整理するのが難しいと感じる場合には、リチャード・モリタ『これだっ!という「目標」を見つける本』(イーハトーヴフロンティア、2007年)の巻末についている273(!)の質問が役に立つだろう。価値観を棚卸した後は、参加者同士でその内容を共有する。ひょっとすると、自分は気づいていないが、第三者が感じ取っているその人の価値観というものがあるかもしれない。

 (5)自身に期待される役割と自己の価値観のコンフリクトの整理
 理想的なのは、組織文化と整合性の取れた戦略から導かれた役割が、当事者本人のニーズや価値観とも合致することである。人材要件という表面的なレベルではなく、価値観という深層的なレベルで合致しているから、当事者本人はすんなりと新しい役割へと移行することができるだろう。しかし、このようなケースは稀であることは想像に難くない。

 たいていは、自身に新しく期待される役割は、自分の価値観とコンフリクト(葛藤)を起こす。まず、「自己」、「仕事」、「家族」3つのキャリア全体を見渡して、価値観に優先順位をつける。次に、仮に自身に期待される新しい役割をそのまま受け入れた場合に、マイナスの影響を受ける価値観を特定する。そして、犠牲にしてもよい価値観と、犠牲にはしたくない重要な価値観を峻別する。解りやすい例で言えば、子どもが産まれたばかりで家族との時間を大切にしたいのに、地方への単身赴任を命じられる可能性があるケース(家族に関する価値観が新しい役割とコンフリクト)や、自分は様々な人と会うのが好きなのに、管理部門への異動を命じられる可能性があるケース(仕事に関する価値観が新しい役割とコンフリクト)などが挙げられる。

 (6)組織と個人のニーズの調和の模索
 シャインは本書の中で、企業と社員の間でコンフリクトが生じた場合には、双方のニーズを「調和」させることが重要であると繰り返し述べている。ただ、その「調和」というものが具体的に何を指しているのか、やや判然としない印象を受けた。
 蓄積しつつあるデータベースによれば、人びとは、自分の家族が新しい状況にうまく適応しないなら、あまり高いレベルでは職務を遂行しない。したがって、全体的な家族の態度を調べて、動かされたくない人びとを動かさないことが、明らかに、組織のためである。私は最近、次のように報告する多くの会社に出会った。すなわち、独身者は、配偶者や子どもたちと同じように地域社会に対して他に移せない愛着を抱くため、既婚者よりはるかに移動させにくい、と。組織はこうした問題をめぐって誠実に交渉し、たとえ人びとが移動を拒否しても彼らを不良とみなすのはやめるべきである。
 本書で「調和」の具体的な例として書かれているのはこれぐらいしか見当たらなかったのだが、これは果たして「調和」と言えるだろうか?企業と社員のうち、どちらか一方が自らの要求を100%取り下げ、他方の要求を完全に呑むことは調和とは言いがたい。これではWin-Loseの関係になってしまう。調和とは、双方がともに変化することで、第三の道を創造し、Win-WInの関係を構築することである。先ほど書いた、「子どもが産まれたばかりで家族との時間を大切にしたいのに、地方への単身赴任を命じられる可能性があるケース」では、例えば「出張ベースで仕事が回るように、業務手順やIT環境を変えてもらう」というのが調和の一例になるだろう。研修の最後には、各々が調和の道を模索し、その内容を共有して、相互にアドバイスを行う。

 【研修後のフォローアップ】
 (7)組織と個人のニーズの調和に関するキャリアカウンセリング
 受講者の中には、自分の価値観や、新しい役割と価値観とのコンフリクトがあまりにプライバシーにかかわることであるため、研修の中では明かしたくないという人もいるだろう。よって、(3)~(6)の研修は、あくまでも”練習”である。自分の価値観を棚卸し、新しく期待される役割とのコンフリクトを理解し、調和の道を模索する方法に慣れてもらうためのものである。(7)では、キャリアカウンセリングという、プライバシーが確保された空間の中で、より本音を開示できるようにする。カウンセラーは基本的に聞き役に徹するが、最後には調和の選択肢を示す必要がある。そのためには、組織の業務慣行、職務分掌、権力構造、企業風土、人事制度などに精通し、相談者の役割や相談者を取り巻く環境を柔軟に可変する想像力が求められる。

 (8)組織的課題の取りまとめと経営陣への報告
 カウンセラーは、様々な相談者の様々な調和のパターンに直面することになる。新しい戦略を実行するにあたって、社員側も変化するが企業側にも変化してほしいと思っていることがたくさんある。カウンセラーは、相談者の守秘義務に注意しつつ、調和のパターンから、企業が戦略を実行するにあたって組織的に取り組むべき課題を取りまとめ、経営陣に報告する。例えば、「生産性を上げる代わりに健康に配慮してほしい」という声が多ければ、法律で定められたストレスチェックに加えて独自のストレスチェックを実施する、「新しい戦略で野心的な業績目標を掲げるのはよいが、チームワークのよさを大事にしたい」という声が多ければ、過度に社内競争をあおらず、チームワークを評価する人事制度にする、といったことを経営陣に提案する。

 (9)戦略変更のニーズが強い場合の戦略見直し
 (8)は、企業が当初想定していた戦略を実行するにあたって、当初想定していた戦術を変更するパターンであるが、新しい役割を提示された社員が、自分の価値観に基づいて「もっとこういう製品・サービスを作りたい/売りたい」という強い思いを持っていることがある。それが単なる社員の願望ではなく、冷静な外部環境分析と自身の強みに基づいているのであれば、さらに同じ思いを持っている社員が多数存在するのであれば、経営陣は彼らの声に耳を傾ける価値がある。すなわち、ボトムアップでの戦略立案を認めるということである。この場合には戦略の練り直しになるから、再び(1)に戻って全てのプロセスをやり直さなければならない。

 以上が私の素案であるが、実際にはハードルが非常に高いと言わざるを得ない。第1に、人事部は必ずしも経営陣と十分な連携が取れておらず、従って戦略に十分精通しておらず、戦略とリンクした人員計画を持ってないということである。欠員が出たから中途採用する、現場が何人新人がほしいと言っているから今年は何人新卒を採用する、といったスタイルの人事部では、上記のキャリア開発は出発点でつまずいてしまう。第2に、マーケティング部や営業部が顧客データベースを充実させているのに比べると、人事部は全社員の能力に関するデータベースの構築が遅れている。よって、各社員のキャリアの予定を見通すことが難しい。

 第3に、仮に各社員のキャリア予定を見通すことができたとしても、それを上司を通じて本人に伝えることに多くの人事部は抵抗を示すであろう。ただでさえ人事情報は機密性が高いのに、可能性レベルの情報を伝えることはためらわれるに違いない。特に、本人のキャリア選択肢が複数検討されている場合には、それを本人に伝えることでかえって本人を当惑させてしまう恐れがある。しかし、この情報がないと、例えばある営業担当者がキャリア研修に参加して、本人はこの先も営業部門でキャリアを歩むものだと思ってワークショップに取り組んだのに、実は裏では人事部が彼を製造部門に異動させる予定を立てていたせいで、後になってせっかくワークショップで検討した内容が無に帰すという悲劇が起きることになる。

 第4に、キャリアカウンセラーが社員1人1人の働き方についてアドバイスできるほどに企業の諸事情に精通しており、かつ経営陣と緊密な関係が構築できていなければならない。カウンセラーが社内の人間であればまだよいが、社外の人間となると相当に難易度が上がる。最後に、キャリア開発とは結局のところ、全社員を巻き込んだ組織開発であり、経営陣の強いコミットメントが必要であるということである。キャリア研修がいまいち普及しないのは、そして、前職のベンチャー企業でキャリア研修が売れなかったのは、キャリア開発がこうした大掛かりな取り組みであることを理解せず、前述の(3)~(6)のみで安易に済ませようとしていたからだと思う。

 今までは企業が社員のキャリアパスを作り、社員はそれに従っていればよかった。ところが、企業の競争環境が不確実になったせいで企業がキャリアパスを示すことが困難になったため、社員が自律的にキャリアを開発しなければならない、と説明されることがある(私の前職のベンチャー企業もそう説明していた)。だが、上記で示したように実際には逆で、事業環境が不確実だからこそ企業は戦略を持たなければならないし、かつそれをはっきりと社員に提示する必要がある。欧米人は「私は1年後にはこうなり、3年後にはこうなり、5年後にはこうなる」と明確なキャリア目標を持っていると日本人は称賛する。しかし同時に、欧米人は企業に対して、「我が社は1年後にどうなっているのか?3年後にどうなっているのか?5年後にどうなっているのか?」と厳しく問うているのである。それに答えられない企業は、社員のリテンションに失敗する。

 もう1つ、日本企業に見られる勘違いは、キャリア開発では長期的なキャリアビジョンを持たなければならないと思われていることである(私の前職のベンチャー企業もそう思っていた)。だが、企業でさえ長期的なビジョンを持つことが難しくなっているのに、個人が10年後、20年後のビジョンを持つことはさらに難しい。むしろ、目まぐるしく変わる戦略に対して、自己の価値観から生じる欲求を認識し、企業と個人のニーズを調和させるという短期~中期的な視点が現実のキャリア開発の根幹をなすと考える。だから、ブログ別館の記事「佐藤厚『ホワイトカラーの世界―仕事とキャリアのスペクトラム』―PDCAサイクルからGDSA(Goal⇒Do⇒Support⇒Assess)サイクルへ」では、キャリア開発を次のように定義した。
 まず、一見バラバラに見える、仕事を中心とした過去の様々な経験について、上司、同僚、部下、その他企業や組織の関係者、さらには友人、家族など多様な人物を登場させつつ、自分なりに意味づけをすることによって筋の通った1つの物語を編纂し、自分は何者なのか(自分はどんな価値観を大切にしているのか、自分には何ができるのか、自分は何をしたいのか)という自己認識を持つこと。

 その上で、企業や組織を取り巻く環境の変化を把握し、周囲から中期的に期待されている役割を理解するとともに、個人的な問題や家族の問題との葛藤が生じた時、そこに自己認識の物語を照射し、納得のいく意思決定を下して、仕事を中心とする人生の中期的なビジョンを構想すること。
 キャリア開発で大切なのは、自己の価値観という幹をしっかりと持つことである。視点は未来に向けて長く設定するのではなく、過去に向けて長く設定するべきである。

2018年06月26日

『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう


正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)正論2018年7月号 (向夏特大号 平和のイカサマ)

日本工業新聞社 2018-06-01

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 以前の記事「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」、「『北朝鮮”炎上”/日本国憲法施行70年/憲法、このままなら、どうなる?(『正論』2017年6月号)』―日本はアメリカへの過度の依存を改める時期に来ている」の内容を改めてまとめると、国家間の相互不信を原則とする国際政治の舞台においては、どの国も他国から侵略されるのではないかと恐れを抱いて自衛権を拡張する。だが、A国が他国からの侵略を過度に警戒する場合、A国の自衛権は過剰になる。専守防衛にとどまらず、いざとなれば他国を攻撃する能力を装備する。A国の動きを見た他の国は、A国の脅威から自国を守るために軍備を拡張する。他国の動きを警戒するA国は、さらに軍拡へと進む。こうして、各国は軍拡競争へと突入する。そして、A国と他国とが、このままでは本当に軍事衝突をしてしまうかもしれないというほどに軍事的緊張が高まった時、A国と他国との間で軍縮に向けた交渉が始まる。

 6月12日に史上初の米朝首脳会談が開催されたが、北朝鮮がそれまでの強硬な姿勢からアメリカとの対話路線に転換したのは、アメリカを中心とする国際社会からの「最大限の圧力」が功を奏したからだと言われる。だが、これは北朝鮮をどうしてもやっつけたい右派に特有の論理であり、実のところは、北朝鮮が「火星15」の完成によりアメリカ大陸の東海岸まで射程圏に収めたことで、アメリカ国内に現実的な恐怖が生じたからだと説明した方がしっくりくる。

 その米朝首脳会談をめぐっては、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、段階的な非核化を求める北朝鮮との間には相当の開きがあった。北朝鮮は約60の核弾頭と、約150の核兵器関連施設を有していると言われる。アメリカは当初これを半年ほどで全廃棄させると言っていたものの、それは土台無理な注文であり、国際的な交渉に特有の”ふっかけ”である。最初に無理な注文を突きつけておいて、それが無理ならではどうするのかと相手に迫るのがアメリカ(というか世界の普通の国全般)のやり方である。そもそも、完全なる非核化となると、核弾頭や核兵器関連施設を廃棄すれば済むわけではなく、核実験のデータの消去や、核兵器開発のノウハウを持った人材の封じ込めなど、難題が山積している。これらを踏まえれば、完全なる非核化には10年単位の時間がかかるのが当然であり、北朝鮮が求める段階的な非核化に落ち着くのは自然なことであると思われた。

 だが、誤算だったのは、非核化に向けた具体的な方法や工程表に一切踏み込むことなく、トランプ大統領が金正恩委員長に「体制の保証」を与えてしまったことである。さらに、米朝は急速に仲良くなっており、朝鮮戦争の終結も近いと言う。本来であれば、北朝鮮がアメリカの要求する形で非核化を段階的に進め、それに伴って徐々に経済制裁を緩めていき、北朝鮮の非核化が完全に実現した段階で体制の保証を与え、朝鮮戦争を終結させるべきである。ところが、体制の保証を先に与えてしまった以上、北朝鮮は優先度の低い核兵器関連施設をパフォーマンス的に爆破して非核化を進めていることをアピールしながら、体制を脅かすもの、すなわち在韓米軍の撤退を求めるに違いない。そのために、朝鮮戦争の終結を急ぐだろう。

 この状態を隣国の韓国はどう見ているのか?以前の記事「『正論』2018年5月号『策略の朝鮮半島/森友”改竄”の激震/新たなる皇帝の誕生・・・』―南北統一で「金氏朝鮮」が成立する可能性、他」では、北朝鮮主導による朝鮮半島統一の可能性について書いた。現在の文在寅大統領はウルトラ左派であり、韓国では全体主義化が進んでいるという。
 西岡:北と戦ってきた国家情報院の歴代院長が逮捕され、国情院のスパイ摘発部門を警察に移すといい、かつ国情院の過去の「積弊」を調査する集団のトップには民間人の左翼知識人を据えています。そのトップが国情院に乗り込んで秘密データベースにアクセスしています。文大統領の参謀たちの約半数は1980年代に地下活動をしたり、激しい学生運動のリーダーだったりした人たちです。
(古森義久、西岡力「トランプVS金正恩最終決戦」)
 文政権の成立後、韓国で全体主義独裁の狂風が吹きまくっている。「積弊清算」という名の人民裁判や魔女狩り式の右派静粛は、従来の権力闘争とは根本的に違い、階級闘争の形で進行している。近代国民国家形成のために主要先進国はすでに経験した混乱だが、韓国は21世紀にとんでもない混乱を経験している。文在寅政権の目的は体制変革、つまり自由民主主義体制と自由市場経済体制の破壊。この「ロウソク・主思派政権」が金正恩体制と共助して推進する左翼民衆革命は、中国が主導する現状変更戦略と共鳴している。
(洪熒「文在寅 自由の破壊 いよいよ韓国の赤化が始まった」)
 だから、韓国は北朝鮮による朝鮮半島統一を喜んで受け入れる。当然のことながら、米韓同盟は破棄され、朝鮮半島統一国家は中国寄りになる。この段階では、北朝鮮の非核化は完全に完了していない可能性がある。この危険な国家と日本は向き合っていかなければならないのである。日本と朝鮮半島統一国家の関係を、軍事評論家の兵頭二十八氏は「日本がイラクになって、朝鮮半島がイスラエルになるという構造だ」と指摘したそうだ(西尾幹二「政府に今、クギを刺す トランプに代わって、日本が自由と人権を語れ」)。唯一違うのは、イラクが反米、日本が親米であり、イスラエルが親米、朝鮮半島統一国家が反米であるという点である。

 私は、アメリカがこのようなシナリオを予想していないとは到底思えない。むしろ、韓国のことは諦めたのではないかと感じる。だから、米韓合同演習をあっさりと休止してしまった。アメリカとしては、朝鮮半島のいざこざに労力を費やすよりも、中東や中国との問題にエネルギーを注ぎたいというのが本音なのだろう。そして、朝鮮半島のことは日本に任せてしまう。これが、トランプ大統領による「体制の保証」の裏に隠されたメッセージではないかと思う。

 だが、「ネイション(民族)の境界線が国家の境界線であるべきである」という政治学者アーネスト・ゲルナーの言説に従えば、南北朝鮮が統一されるのはむしろ歓迎されるべきこととも言える。本来であれば、太平洋戦争で日本が敗戦した段階で、日本もドイツと同様に連合国によって分断統治される可能性があった。ところが、日本の敗戦によって空白地帯となった朝鮮半島にアメリカとソ連が侵攻して南北が分断され、朝鮮戦争へと発展した。

 なぜ朝鮮半島に空白地帯が生じたかと言えば、他ならぬ日韓併合のせいである。日本では、安重根は朝鮮総督府統監の伊藤博文を暗殺した”犯罪者”だと扱われているが、韓国人にとっては、テロリスト以下の扱いをされることが我慢ならないのだという。安重根は『東洋平和論』を著して、日本が東アジアを西洋列強の帝国主義から救ってくれると本気で信じていた。だから、日清戦争の時も、日露戦争の時も、朝鮮半島を戦場として提供した。ところが、両戦争に勝利した日本は、結局西洋列強と同じ統治を行った。それに憤った安重根は、伊藤博文暗殺という、政治的意図を持った”テロ行為”に出たというわけである。
 南北分断は、日本にはまったく責任はない。ソ連に条約を干渉しての対日参戦を促すために米国や中国など連合国がソ連に38度線以北を占領させたことから起きた問題であって、たとえば、日本敗戦から数年のうちに独立させるということであれば、南北分断も、朝鮮戦争も、とげとげしい日韓関係もなかったはずである。
(八幡和郎「南北朝鮮との新たなる歴史戦に備えろ!」)
 本号にはこのように南北分断に関する日本の責任を否定する記事もある。しかし、個人的には、日韓併合がもっと別のスマートな形で行われていれば、あるいは別の選択肢がとられていれば、現在にまで続く南北分断の悲劇は回避できたかもしれないと思う。その意味で、日本人は南北分断による民族の痛みに敏感にならなければならないし、仮に北朝鮮主導で朝鮮半島が統一されても、その統一国家と真正面から真摯に向き合う必要があると考える。

 朝鮮半島に誕生する新たな統一国家は、独裁政治を行う危険な国家でる。しかも、前述のように核兵器を保有しているかもしれないし、仮に核兵器を保有していなくても、いつでも核兵器を開発する能力を残している可能性のある国家である。このような国を目の前にして、国家間の相互不信を原則とするならば、日本は軍拡し、場合によっては核兵器の保有も辞さない覚悟が必要になるだろう。だがここで、私は敢えて違うアプローチを提案してみたい。

 私は、国内では相互信頼を原則とし、見返りを求めない利他的な精神が重要であるとしがら、国際政治の舞台では相互不信を原則とし、国家が利己的に振る舞うべきだというダブルスタンダードに長年苦しんできた(このような二重基準は、私が定期購読している『致知』にも見られる)。冒頭でも書いたように、相互不信に基づくアプローチは双方の国にとって負担が重い。こんなことを書くと私が左派に転向したのではないかと思われそうだが、朝鮮半島統一国家に対しても、信頼を原則としたアプローチを試してはどうか?具体的には、日本が新しい統一国家の経済的・社会的インフラに投資し、教育基盤を構築し、社会的な各種制度の整備を支援するというものである。見返りを求めずに、ただ朝鮮半島統一国家の発展を信じてこれらを実行する。

 これは、戦後の日本が東南アジア諸国に対して行ってきたことと同じである。右派はよく、日本は太平洋戦争で東南アジアを植民地支配から解放したと主張し、その結果として現在の東南アジア諸国には親日国が多いと言うが、これは正確ではない。日本軍は伝統的に兵站を軽視する傾向があり、物資を現地調達していた。地元民は食糧を日本軍に奪われ、また働き手として基地建設などにかり出された。さらに、日本軍が軍票(日本が作った現地通貨)を乱発したことで超インフレが起こり、約束されていた独立も一向に実現しない。地元民は、これなら欧米の支配の方がよかったと思い、反日運動に転じた。それを憲兵が弾圧すると、急進派が抗日武装して蜂起し、それが全国規模にまで広がって連合国軍と連携した。フィリピン、インドネシア、ビルマなどで見られたのはおおよそこのようなストーリーである。戦後、補償の一環としてODAを中心とした開発援助などを行うことで、東南アジア諸国は徐々に親日になっていった。

 もちろん、今度の相手は半世紀以上も日本への憎悪を膨らませてきた国であるから、一筋縄ではいかないだろう。左派は「対話」が重要だと言うが、私は対話という言葉につきまとうソフトなイメージが受け入れられない。対話は「議論」のアンチテーゼとして持ち出されることが多い。議論が論理的、線形的、算術的、合理的に行われるものであるとすれば、その反対に位置する対話は感情的、飛躍的、策略的、権力的に行われるものである。拉致問題、慰安婦問題などをめぐっては、今後もけんか腰の対話が続く。重要なのは、その間も継続して経済的・社会的支援を止めないということである。経済的・社会的支援を政治の駆け引きの道具にはしない。日本人のソフト・パワーは「勤勉に働く姿」である。それを朝鮮半島統一国家の人々に見てもらうことで、労働に価値を置く社会主義者である彼らの心を動かすものがあるかもしれない。

 これは言うなれば、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。実は、これこそ小国同士の理想的な外交である。大国(私が本ブログで大国と言う場合、米独中ロの4か国を指す)は二項対立的な発想をし、敵味方をはっきりと分ける。ところが、国内も二項対立で対立している。例えば米ロ関係を見ると、両国は表面的には明確に対立している。しかし、アメリカ国内は反ロ派と親ロ派に、ロシア国内は反米派と親米派に分かれており、反ロ派と反米派が表で対立している裏で、親ロ派と親米派が手を握っている。例えるならば、ボクサーがリング上で殴り合っている裏で、両者のコーチがツーカーの仲になっているようなものである。こうすることによって、大国同士の決定的で破滅的な対決を防ぎ、両国の均衡を保っている。

 表面的に対立する大国は、国内のガス抜きをするために、同盟国である小国に代理戦争をさせる。中東が解りやすい例である。小国はリング上で殴り合うボクサーであるから、相手が倒れるまで徹底的に叩き潰す。一方で、自分が受けるダメージも相当なものになる。だから私は、小国は同盟国である大国にどっぷりと依存することに対して警告を発してきた。そうではなく、大国的な流儀を身につける必要がある。と言っても、大国のように資源が豊富にあるわけではないから、リング上ではボクサーに戦わせて、リングの下ではコーチが手を結ぶという真似はできない。小国はボクサーとコーチの役割を同時に担う必要がある。その結果生まれる外交スタイルが、右手で拳を振り上げながら左手で握手をする外交である。

 朝鮮半島統一国家への経済的・社会的支援であれば、日韓併合時代にも行ってきたではないかという批判もあるに違いない。確かに、警察制度は日本が作ったし、漢文をハングルで読めるようにしたのも日本人である。だが、当時の日本軍のやり方が、現地の人々のニーズに合っていたかどうかが問題である。山本七平は『一下級将校の見た帝国陸軍』の中で、日本軍は植民地のニーズを汲み取っておらず、そのために現地の反発を招いたと指摘している。

一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
山本 七平

文藝春秋 1987-08-01

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 だから、今度は朝鮮半島統一国家のニーズに合った形で支援を行う。言うなれば、明治40年代~昭和10年代をもう一度やり直すということである。新保祐司氏は、昭和10年代=明治70年代と位置づけた上で、次のように述べている。
 戦前の復活ではない。明治70年代の文明の復活なのです。このように、明治70年代の文明を否定していた戦後七十余年の日本文明は、本来の日本文明と言えるようなものではなかった。
(新保祐司「日本人は日本文明を保持する意思があるか」)
 そして、明治70年代の文明の特徴の1つとして、「美より義を優先する精神」を挙げている。この精神こそ、朝鮮半島統一国家に対して日本が発揮すべき精神である。松山藩の財政を立て直し、わずか8年で10万両(約300億円)の借財を10万両の蓄財に変えた山田方谷も、「義を明らかにして利を計らず」と述べている。朝鮮半島統一国家を支援すれば、積年の禍根は全て解消されてしかるべきだと期待してはならない。それは利己心の表れである。大半の支援は日本の徒労に終わるだけかもしれない。それを覚悟の上で支援し続ける。そして、仮に中国が朝鮮半島統一国家をけしかけて日本を攻撃せよと命じた場合、朝鮮半島統一国家がそれまでの日本の支援を思い返して攻撃をちょっとためらうようなことがあれば、それで十分である。

 私は、究極のウルトラCとして、アメリカが北朝鮮との国交を回復した後に、直ちに日本も北朝鮮と国交を回復するのもありだと考える。国交が回復すれば、北朝鮮に日本の大使館を置くことができる。すると、今まで入手が困難であった拉致被害者に関する情報が入手しやすくなる。政府は「拉致被害者全員の帰国」を目標としているが、実は「拉致被害者全員」とは誰のことを指すのか、誰も解っていないのだという(荒木和博「特定失踪者をウヤムヤにしてはならない」)。日本大使館の設置は、このような状況の改善の一歩につながる。また、日本政府としては、「拉致被害者全員の一括帰国」ばかりにこだわって交渉をするべきではない。交渉には幅を持たせるのが鉄則である。もちろん、表向きは「拉致被害者全員の一括帰国」を強弁するのは構わないが、その裏で複数の腹案を抱えていないのであれば、それは愚策である。




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