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『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他
『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)
DHBR2018年8月号『従業員満足は戦略である』―社員満足度を上げるには本社が現場の邪魔をしないこと

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年07月31日

『世界』2018年8月号『セクハラ・性暴力を許さない社会へ』―セクハラは脳の病気かもしれない、他


世界 2018年 08 月号 [雑誌]世界 2018年 08 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-07-06

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 官僚によるセクハラ問題や世界的なMeToo運動の広がりを受けての特集である。
 性的な問題という意味では、例えば不倫に対して日本社会は非常に厳しい。芸能人の不倫に対しても、マスコミ報道も大きくバッシングする。道徳に対しては針が振れるのですが、人権については針は振れない。人権問題として捉えず道徳の範囲で捉えるから、バッシングされる。しかし、不倫はともかくもお互い合意してのことですが、セクハラは相手が合意もしていないのに性的な関係を強要しているわけです。最悪の人権侵害であるにもかかわらず、「男とはそういうものだから」となだめられたり、女性の方にもスキがあった、落ち度があった、という話にすらなる。この決定的な人権感覚の欠如はいったいどこから来ているのか。それを理解することから始めなければ、セクハラ問題に関して日本は先に進めない。
(金子雅臣「セクハラという『男性問題』」)
 上記の文章をはじめ、本号の特集ではセクハラを「女性問題」ではなく「男性問題」としてとらえ、加害者である男性を徹底的に糾弾する文章が続く(実際には、女性から男性に対するセクハラや同性間のセクハラもあるが、セクハラの9割は男性から女性に対して行われているという本号の記述に従って、以降は男性から女性に対するセクハラに焦点を絞って話を進める)。

 本号の特集は「セクハラ・性暴力を許さない社会へ」となっており、セクハラと性暴力が一緒に論じられている。性暴力に関しては法務省が発表している『犯罪白書』に統計があり、Wezzy「性犯罪加害者は異常者ではなく『普通の働く人』であることが多い」によると、「昭和60年~平成26年(1985-2014)の30年間ずっと、強姦、強制わいせつの検挙人員は、20代と30代の者が全体の5~6割を占めてい」るという。強姦、強制わいせつは、女性をもはや恋愛対象としてではなく、支配の対象として見なしている犯罪である。言い換えれば、被害者を人間ではなく快楽のための道具として扱っている。一方、セクハラについては、セクハラ自体が未だ明確に定義されていないこともあって被害者・加害者に関する詳細なデータが存在しない。

 厚生労働省によると、セクハラには「対価型」と「環境型」の2種類がある。対価型とは、女性労働者の意に反する性的な言動を行い、当該労働者の対応によって、当人が解雇、降格、減給など、不利益を受けることである。環境型とは、女性労働者の意に反する性的な言動により、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、その労働者が就業する上で見過ごせない程度の支障が生じることを指す。セクハラの加害者の年齢に関する統計を私は発見できなかったのだが、性暴力とは異なり、40~50代の男性が最も多いのではないかと推測する。そして、一般には、こうした加害男性は、組織内で一定の地位に就いており、権力を駆使してセクハラを働くと言われる(対価型セクハラにつながりやすい)。

 しかし、これもまた推測の域を出ないものの、実はセクハラというのは、福田元財務事務次官のように権力のある者が見返りを求めるケースというのは案外少なくて、一定のポストに就いていない一般の中高年男性が、あるいは一定のポストに就いている中高年男性であっても、女性に対して性的な言動を取ることで、女性に対する支配欲を手っ取り早く満たそうとしているケースが多いのではないかと思う。「キスをさせて」、「抱かせて」、「胸を触らせて」などと言う男性には、本当にそれを実現させる意思はない(実際にキスをしたり胸を触ったりしたら性犯罪である)。「君の服装はセクシーだね」、「旦那さんとは上手くいっているのか?」、「どんな体位が好きなのか?」と尋ねる男性も、女性を抱きたいとか旦那から女性を略奪したいと考えているわけではない。こうした発言によって女性が困惑する姿を見ることが男性の快楽なのである。

 仮に、男性が相手女性に好意を抱いており、真剣に交際を検討しているのならば、女性を困惑させるようなことを意図するはずがない。男性が敢えて女性を困惑させるのは、女性が困惑したという事実が、男性側の影響力が及んだことを示す証左であるからだ。ここに、性犯罪とセクハラの共通点を見出すことができる。いずれも、女性を恋愛対象としてではなく、支配の対象として、快楽のための道具としてとらえているということである。つまり、女性に対する認知が歪んでいる。ということは、性犯罪やセクハラは、脳の病気である可能性がある。

 実際、性犯罪に関しては、「前頭側頭型認知症」という病気に注目が集まっている。『世界』2018年4月号には次のように書かれている。
 この病気は、よく知られているアルツハイマー型認知症の特徴である記憶障害が初期には起こらず、社会的逸脱行為が主たる症状として表れるものです。たとえば40~50代の万引きなどの背景にも、この病気があり得ます。(中略)あるいは男性の場合、比較的社会的地位のある人が、盗撮をしたり性器を露出したり、地位に見合わない事件を起こしてニュースになることが度々ありますが、これも同様です。このように衝動のコントロールができなくなることが、性犯罪の原因になることが多々あるのです。
(福井裕輝「”性犯罪は繰り返す”を変えるため」)
世界 2018年 04 月号 [雑誌]世界 2018年 04 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-03-08

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 福井氏によると、性犯罪者は海外では「パラフィリア(性嗜好障害)」という病気として認識されているという。だから、認知行動療法や薬物療法を受けることができる。一方、日本ではそもそも性犯罪が病気であるという認識が薄く、仮に病気と診断されても保険適用外となっており、厚生労働省の体質に問題があると福井氏は批判している。日本においては、まずは性犯罪の方が病気であるという認識が確立されることが先決であろうが、セクハラについても、その発生メカニズムを解明し、病気であるか否かを判断する研究が待たれるところである。

 ここからが私の主張の核心になる。仮にセクハラが性犯罪と同じく前頭側頭型認知症などの脳の病気であるならば、加害者の救済策を検討しなければならない。左派は普段、加害者にも人権があると主張する。日本では加害者の人権が尊重されすぎており、逆に被害者の人権がないがしろにされていると批判されるぐらいだ(例えば、国際派日本人養成講座「Common Sense: 加害者天国、被害者地獄」〔2008年6月15日〕を参照)。左派が自らの主張を貫き通すならば、また冒頭の引用分にあるように、セクハラを人権問題と位置づけるならば、加害者の人権も保護する必要があると言わなければおかしい。一般の事件に関しては、客観的な立場から被害者と加害者の人権のバランスを取ろうとするのに、自らがセクハラの当事者となった途端に、被害者としての一面しか強調しないのは、単なる狂気である(誤解していただきたくないが、私は決してセクハラを正当化しようとしているわけではない)。

 セクハラ・性犯罪の問題からは離れるものの、本号にはもう1か所、左派の矛盾を見て取ることができた。カンボジアでは現在、フン・セン首相による権威主義化が進んでいる。カンボジアには政府与党の人民党と、野党の救国党がある。この救国党の党首であるケム・ソカー氏が2017年8月3日、「国家転覆罪」で逮捕された。同氏が数年前にオーストラリアで受けたインタビューの中で、「アメリカとともに現政権を転覆する」と発言したことが容疑とされている。そして、
 「党首が重罪で逮捕された政党は解散させられる」という(※政党法・選挙法の)条項を適用し、11月16日、最高裁は救国党解党の決定を下し、野党幹部政治家118人の政治活動を5年間にわたって禁じた。その結果、300万人もの有権者からの信託を受けた救国党の議席はすべて消え、その55席は他の政党に振り分けられた。
(熊岡路矢「カンボジアで何が起きているか」)
 カンボジアでは7月29日に総選挙が行われたが、救国党解党によって人民党に対抗する勢力が事実上消えたため、人民党が議会の議席をほとんど総取りするという異常現象が起きた。欧米諸国は公正な選挙ではないとして、カンボジアを非難している。

 フン・セン氏による権威主義化はこれだけにとどまらない。
 現在、カンボジア政府・与党は、保健や教育などの地域開発、福祉型の活動は監視しながらも許容する一方、人権、環境、土地問題、選挙監視など、政府と緊張関係になる分野のNGOには徹底的に圧力を加えている。(同上)
 カンボジアは、太平洋戦争が終結した後、真っ先に対日賠償請求権を放棄してくれた国である。それ以降長年にわたり、日本はカンボジアに対して様々な支援を行ってきた。あの悪名高いポル・ポトが政権を握っていた共産主義時代にも、関係を断つことはなかった。しかし、最近のカンボジアの情勢を受けて、熊岡氏は次のように述べている。
 日本政府・外務省の開発協力大綱は、重点政策の中に、普遍的価値の共有、平和で安全な社会の共有という項目を設け、「自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的価値の共有や平和で安定し、安全な社会の実現のための支援を行う」と謳っている。ここ数年のカンボジアの現状は、この規範から明らかに逸脱している。カンボジアへの支援は停止、あるいは検証・再考すべきである。(同上)
 日本がカンボジアから手を引けば、中国の影響力が強くなることが懸念される。中国は日本や欧米諸国と違って、内政にはほとんど干渉しない。熊岡氏は、カンボジアが中国寄りになったとしても、カンボジアへの支援の停止を検討するべきだと主張する。

 だが、これは左派の主張としてはおかしい。というのも、カンボジアよりもはるかに権威主義的(もはや全体主義的と言ってよい)であり、普遍的価値観を蹂躙する中国に対する日本の支援は批判の対象となっていないからである。同じく権威主義的(全体主義的)な北朝鮮に関しても、統一に向けて日本が積極的に支援を行うべきだとしている(北朝鮮に対する支援には、実は私も賛成している。以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」を参照)。それなのに、現在のカンボジアへの支援はダメだと言う。明らかに左派の中にはダブルスタンダードが存在する。中国や北朝鮮の支援はOKでカンボジアの支援はNGというのは、まるで社会主義国であれば支援が認められると言っているに等しい。左派は、日本ではもはや夢となった社会主義の亡霊を、未だに中国や北朝鮮の中に追いかけていると言われても仕方がないであろう。

 大国にはパワーがあるから、少々の小国との関係を断ち切ったとしても大してダメージは受けない。だから、アメリカは簡単にイランとの核合意を反故にできる。ところが、小国である日本が、この国は好きだからつき合う、あの国は嫌いだからつき合わないと選り好みをしていては、相手国の間に不信の種を植えつけることになる。やがてその種は激しい憎悪へと育ち、日本に対して必ず負のエネルギーとして向かってくる。小国日本にはその負のエネルギーに耐えられるパワーがない(今までの北朝鮮を見よ)。だから、嫌いな国であってもつき合わなければならない。最初から不信を決め込むのではなく、信頼できる部分を探す。そして、その分野において、日本は支援を行う。その支援を通じて培われたパワーを行使して、嫌いな国の嫌いな部分を少しずつ改善するように働きかける。これが、小国日本に求められる外交であると考える。

2018年07月27日

『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)


正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)正論2018年8月号 (在韓米軍撤退の現実味)

日本工業新聞社 2018-06-30

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 経営については、一応経営コンサルタント(中小企業診断士)としての経験もブログの経験も10年以上あり、それなりの内容が書けるようになったと思う。しかし、政治に関しては、法学部出身にもかかわらずまじめに勉強したことがなく、ブログで取り上げるようになったのも、現行ブログを立ち上げたここ数年のことだから、未だに珍妙なことを書いてしまうかもしれないが、今回もそれを覚悟の上で記事をまとめてみたいと思う。

 今、ある小国aがあるとしよう。小国aは大国Bからの脅威にさらされている。小国aは、自国だけでは大国からの脅威に対抗できないと判断した場合、自国の味方となってくれる大国を探す。それを大国Aとしよう。小国aは大国Aと同盟関係を結ぶ。大国Aは小国aを庇護しながら、大国Bと対立する。大国Bとしては、小国aに手を出したいところだが、小国aを攻撃すると、小国aと同盟関係にある大国Aが出てきて非常に厄介なことになる。こうして、大国Aと小国aの同盟関係は、大国Bに対する抑止力となる。この同盟は、小国のための同盟であると言える。

 だが、大国Bとしては、この事態を黙って見過ごしているわけにはいかない。特に、大国Bの内政が混乱している場合には、国民の目を外部に向け、国威を掲揚する必要がある。かといって、大国Aを引きずり出すような真似はしたくない。そこで、大国Bは、近隣の小国bと同盟を結び、大国A側の小国aと大国B側の小国bの対立という構図を作り出す。言い換えれば、大国Aと大国Bの代理戦争を小国aと小国bにやらせる。中東におけるサウジアラビア・エジプトVSイラン・シリアや、朝鮮半島における北朝鮮VS韓国はアメリカとロシア(+中国)の代理戦争の典型例である。ここに至って、同盟は、小国のための同盟から、大国のための同盟へと変質する。

 大国Aと大国Bにとっては、小国aと小国bの対立が盛り上がってくれた方が、血を流さずに軍事費を引き上げることができ、自国の軍需産業の成長につながる(朝鮮半島の場合)。もちろん、小国aと小国bが血を流してくれても、やはり軍事支出が増えるので、大国Aと大国Bにとってはありがたい(中東の場合)。いずれにしても、大国Aと大国Bが直接対決せずに、両国の対立を小国aと小国bの対立という空間に閉じ込めておくことが重要である。

 大国Aと大国Bは限界まで直接対決しないように、二項対立的な発想で双方の緊張を高めつつも、対立を抑制する仕組みを持っている。大国Aには、主流派としての反B派と、非主流派としての親B派という二項対立がある。同様に、大国Bには、主流派としての反A派と、非主流派としての親A派という二項対立がある(アメリカは反ロ派が主流だが、一部には親ロ派がいる。同様に、ロシアも反米派が主流だが、一部には親米派がいる)。大国Aの反B派と大国Bの反A派は、公式・非公式のあらゆるチャネルを通じて相手国と対立する。一方で、大国Aの親B派と大国Bの親A派は、裏で同じように公式・非公式のチャネルを活用して相手国と通じている。すると、大国A内の反B派と親B派は、大国Bへの対応をめぐって国内対立し、大国A全体として大国Bに向かっていくエネルギーが減退する。同じことは、大国Bに関しても言える。

 だが、大国には豊富な政治資源があるからこのような芸当ができるのである。政治資源が限定されており、大国の内情をよく知らない小国aと小国bは、それぞれ大国Aと大国Bから十分な支援を受けていると思い込み、全面的に対立する。実を言うと、中東に関しては、山本七平が指摘したように、セム系の民族であるアラブ人は、古代から二元論に強いとされる。20世紀に入ってからは、サイイド・クトゥブの善悪二元論のような、極端な二元論もあった。ただし、中東の小国はこうした二元論を、大国のように国内の二項対立として処理することができない。だから、自分の国は正しい、相手の国は間違っている、という二分論になってしまう。これが、中東の混乱を招いている一因であると考える。必ずしも、近現代の欧米諸国の中東政策だけが間違っていたわけではなく、中東の伝統的な思考様式にも原因を求める必要がありそうである。

 では、小国aと小国bが全面的な対立を回避するためにはどうすればよいだろうか?ここからは非常に稚拙な案なのだが、小国は「精神分裂症」にならなければならないと思う。つまり、相互信頼と相互不信を織り交ぜて、お互いにくっついたり離れたりを繰り返す複雑な外交を展開するのである。この精神分裂症的外交を、私は日本と朝鮮半島の長い歴史の中に見出すことができると考える(以下、小倉和夫『日本人の朝鮮観―なぜ「近くて遠い隣人」なのか』〔日本経済新聞出版社、2016年〕を参考にした)。

日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか日本人の朝鮮観 ―なぜ近くて遠い隣人なのか
小倉 和夫

日本経済新聞出版社 2016-03-26

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 またしても私の好きなマトリクス図を取り出して恐縮なのだが、「融和―対立」、「公式―非公式」という2軸でマトリクスを作ると、外交には4つのパターンがあることが解る。まず、「融和&公式」の象限であるが、古代から日本は朝鮮半島を儒教の国として尊重してきた。また、江戸時代に入ってからは、朝鮮半島を「文」の進んだ国と見なしてその文化を吸収してきた。一方で、朝鮮半島の背後には常に中国の影があり、中国の脅威が近づくと朝鮮半島に対して高圧的な態度を取るという伝統がある。これが「対立&公式」の象限である。古代の白村江の戦いがそうであったし、戦国時代における豊臣秀吉の朝鮮出兵もそうであった。近代に入ってからは、欧米の帝国主義から中国や朝鮮半島を解放するという名目で朝鮮半島に踏み入った。

 公式のチャネルに関しては以上の通りだが、非公式のチャネルを通じても融和と対立を繰り返してきた。「融和&非公式」という象限に関しては、古くは倭寇(よく知られているように、倭寇という名前がついているものの、その構成員には日本人だけでなく、多くの朝鮮人も含まれていた)が日本と朝鮮半島の交易上のつながりを示すものであった。明治時代以降は、近代化が進む日本と近代化の面で遅れている朝鮮半島を比較し、遅れている朝鮮半島の方にかつての日本が持っていたロマンを見出すという文芸家が少なからず存在した。また、ロマンを感じるだけでなく、植民支配に対するアジアの連帯を説く思想家も現れた。

 「融和&非公式」という象限があれば、その反対の「対立&非公式」という象限もある。江戸時代には、朝鮮半島からの通信使である崔天宗が殺害されるという事件が起きている。しかも、この事件は、通称「唐人殺し」という名の「漢人韓文手管始」という演目で歌舞伎の題材となった(ここでの「唐人」とは外国人の意味である)。明治より後は、前述のように朝鮮半島に対してロマンを感じる人々も多かったものの、日本人と朝鮮人が文化的・民族的に近すぎるがゆえの嫌悪感も生まれた。民度が低い、非実利的性格、いい加減、激情的、享楽的、反抗的、残酷であり横暴などといった批判が朝鮮半島の人々に向けられた。

 とりわけ明治以降の朝鮮人に対する日本人の感情は複雑である。いち早く近代化に成功した日本は、朝鮮半島が儒教に優れた国というこれまでの評価を覆して、近代化に遅れた国だというレッテルを貼り、その遅れに対して苛立ちを感じていた。ところが、実際に朝鮮半島を訪れた日本人は、朝鮮人の純朴さ、精悍さに心を打たれ、日本が近代化の過程で失ったロマンを見出した。しかし、憧れというのは近すぎるとその魅力を失うようで、ロマンに近づきすぎた日本人はやがて朝鮮人と距離を取るようになった。とはいえ、欧米の帝国主義の脅威は迫っているわけであり、西洋に対抗するためにアジアの連帯を強調するようになった。にもかかわらず、一向に立ち上がろうとしない朝鮮人に再び苛立ちを感じた。このサイクルをぐるぐると回っていた。

 興味深いのは、大国であれば、反朝鮮半島の人々と親朝鮮半島の人々が二項対立によってくっきりと分かれるのに対し、日本人の場合は国内に二項対立が存在しないため、同じ人物がある時は反朝鮮半島に回り、ある時は親朝鮮半島に回るということである。例えば、高浜虚子は、一方で朝鮮半島の近代化の遅れを批判しておきながら、他方で、朝鮮人のロマンを持ち上げるというような芸当をやってのけている。これは、大国の二項対立には見られない、いわば「二項混合」とでも呼ぶべき状態である。小国の外交とは、こういうものであるべきだと思う。

 お互いが精神分裂症だから、外交姿勢が一貫せず、相手の考えがよく解らないこともあるだろう。だが、例えば近くて遠い存在である家族を取り上げてみると、どんなに上手く行っている家族であっても、親密と疎遠を繰り返しながら関係を維持しているものである。喧嘩しても、仲直りして信頼関係を深めているものである。これと同じ関係を、近隣の小国と構築すればよい。

 こうして、小国aと小国bが複雑ながらもそれなりに良好な関係を築くようになると、小国aと小国bに代理戦争を行わせようと目論んでいた大国Aと大国Bには旨みがなくなる。大国Aと大国Bが対立するよりも手を組んだ方が利益が大きくなると判断すれば、両国は突然接近することもあり得る。大国A内の親B派と大国B内の親A派の力が強くなり、両者が意気投合する。大国が小国のはしごを外すタイミングは、小国には予期できない。小国には、大国内の二項対立の構造が理解不能である。かつて、ソ連と対立していたドイツが日独防共協定を結んでいたのに、1939年に突如独ソ不可侵条約を締結して日本を驚かせたことがあった。当時の平沼騏一郎首相は、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残して辞任した。

 現在、アメリカと中国が激しい貿易戦争を繰り広げているが、アメリカも中国も表現の自由を制限し、三権分立を脅かし(中国にはそもそも三権分立がない)、政府が一方的な主張を展開するといった具合に、同じファシズムに向かっている。もちろん、第2次世界大戦時のドイツとソ連のように、ファシズム国家同士が対立する例もあるが、同じ政治的志向を持つ国同士のこと、いつ連携してもおかしくはない。米中貿易戦争の本質は、中国からアメリカに輸出される大量の日本製品に高い関税を課して日本の産業を潰すことであるとも言われている。アメリカと中国は激しく対立しているように見せかけながら、実は、アメリカが日本のはしごを外して中国に接近し、何らかのしたたかな計算の元に、両国が儲かるように仕組んでいる可能性もある。そのような事態に備えるという意味でも、日本は近隣の小国と関係を深めておく必要がある。

 ところで、米朝首脳会談によって「体制の保証」を勝ち取った北朝鮮は、アメリカらから邪魔されるリスクを気にせずに、南北統一に向かうと思われる。韓国の親北派・文在寅大統領もこれを後押しするだろう。今までアメリカと中国の対立は朝鮮半島内に閉じ込められていたが、今後は日本と朝鮮半島の対立に拡大される恐れがある。

 結局のところ、朝鮮半島は中国に従うしかないのである。朝鮮半島は、百済・新羅の歴史を持ち出して、朝鮮半島に独自の民族がいたと主張する。だが、中国は高句麗が中国民族の出先機関であるとしており、新羅が朝鮮半島を統一したと言っても、その後の高麗は所詮新羅の政権交代ぐらいにしか見ていない。ただ、だからと言って、日本と朝鮮半島という小国同士が全面的に対立していては、背後にいる大国の思うつぼである。日本としては気が進まなくても、朝鮮半島の新統一国家とは精神分裂症的な外交を展開しなければならない。この点については、以前の記事「『正論』2018年7月号『平和のイカサマ』―「利より義」で日本と朝鮮統一国家の関係を改善できるか壮大な実験を行うことになるだろう」でも書いた。

 日本と朝鮮半島の新統一国家が国交を樹立すれば、国民を拉致するような危険な国の大使館が東京のど真ん中にできると恐れる声もある。しかし、国民を拉致するどころか、国土の略奪を虎視眈々と狙っている中国の大使館があるぐらいだから、この批判は十分でない。

 小国がなすべきことは、まずは近隣の小国と精神分裂症的な外交を通じて一定の信頼関係を構築することである。そして、対立する両大国に関しても、第一に、政治、経済、社会、軍事制度をめぐり両国の対立を生み出す要因となっている双方の両極端な養分を摂取・混合して、自国の文化、伝統の上に独自で多義的な制度を構築する。第二に、その多義的な制度の価値を、双方の大国に訴求する外交を展開する。特に、その大国に欠けている価値、別の言い方をすれば、対立する相手国側が包摂している価値を訴求する。

 もちろん、大国は教条的なイデオロギーにしがみついているから、小国ごときが何かを提案したとしても簡単に態度を変えるとはおよそ考えにくい。まして、大国同士の溝が埋まることは期待できそうにもない。しかし、小国が大国に”訴求し続ける”という事実こそが重要である。大国にとっては、その小国は対立する相手国の情報を運んできてくれる使者となるからだ。こうして、どちらの大国にとっても、日本が自国の味方であるかのように見える状況を作る。これを私は「ちゃんぽん戦略」と呼んでいる(以前の記事「『トランプと日本/さようなら、三浦朱門先生(『正論』2017年4月号)』―米中とつかず離れずで「孤高の島国」を貫けるか?」を参照)。

 日米、日中の関係について、解りやすい経済と社会から考えてみる。経済に関しては、アメリカの株主至上主義と、中国の国営企業中心経済をちゃんぽんにする。アメリカに対しては、企業が株主至上主義に代えて顧客第一主義を掲げると同時に、中国が必ずしも成功しているとは言えないが、行政が業界のため、あるいは格差の縮小・是正のために適度に介入する修正された自由市場経済のあり方を示す。一方、中国に対しては、多くの日本人がアメリカから吸収し、長い年月をかけて現場で培ってきたマネジメントの重要性=民の力を訴求する。

 社会に関しては、アメリカの自由・平等の理念と、中国の統制主義をちゃんぽんにする。どんなに平等を貫いても現実には権威主義的な階層社会(≠階級社会)を免れることはできず、内部における役割の大小が生じる。しかも、日本の場合は本ブログで何度も書いたように”多重”階層社会であるから、役割の大小の差は大きい(ただし、これが直ちに経済格差につながるわけではない)。アメリカに対しては、価値の異なる役割の配分の正統性を、中国に対しては、権威の影響下にあっても、役割をテコに自由を発揮する余地があり、権力からの自由でも権力への自由でもない、権力の中での自由とでも呼ぶべき自由が存在することを証明する。

 政治に関しては、アメリカの2大政党制民主主義と、中国の一党独裁をちゃんぽんにしたいところであるが、どちらも政治の多元主義化という現実に上手く適応できていない。一方、日本政治の特徴は、表面上は自民党の一党支配でありながら、党内に右から左まで様々な派閥があり、かつ派閥の中では当選回数を問わず自由闊達な議論が認められる点にある(最近はこの特徴が薄らいでいるのが危惧される)。そこで、アメリカに対しては、政治の多元主義化に組織的に適応する方法を示す。他方、中国に対しては、下の階層からの諫言を歓迎する真の意味での権威主義を提示する。これは元々は古代中国にあったものであり、諫言を抹殺するのは権威主義ではなく強権主義にすぎないと訴える。まずはここから始めてはどうか?

 軍事についても、以前の記事で上手に書けなかったのだが、1つの方法としては、対立する双方の国へ武器を販売するという手がある。かつて日本陸軍は、昭和通商という企業を通じて中国などに武器を輸出していた。日本に対する武器の依存度が高まれば、中国との間で疑似的に軍事同盟が成り立つだろうというのが陸軍の考えであった。しかし、結局日本は中国と戦争になってしまったので、今はこの考えを採用することはできない。それに、国民全体が武器の輸出に対してナイーブになっている現代では、現実的な選択肢ではないだろう。

 もう1つの方法は、逆に、対立する両国の国から武器を購入するというものである。ベトナムはアメリカとロシアの双方から武器を購入している。お互いの軍事機密が相手国に漏れるのではないかと思うのだが、ベトナムはこれを上手くやっている。ベトナムに学ぶ点はありそうだ。だが、いずれの方法もかなりのリスクを伴う。ちゃんぽん戦略という観点で単純に考えれば、日本がアメリカ、中国の双方と軍事演習を行うことができれば一番よい。しかし、お互いの軍事機密が相手国に対して露骨に漏洩するため、実現可能性は低いだろう。よって、現実的には、今行われているように、アメリカとは軍事演習を実施する一方で、中国とは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築するという点に落ち着くに違いない(あるいは、将来的には中国と軍事演習を行い、アメリカとは軍事危機に備えた連絡メカニズムを構築する、という逆の道があるのかもしれない)。ゆくゆくは、軍事演習なしで、双方の大国と連絡メカニズムだけを構築できるのが望ましい。

 ちゃんぽん戦略を徹底すると、日本を通じてアメリカの情報が中国に、中国の情報がアメリカに渡るから、日本はアメリカにとっても中国にとっても重要な国となり、双方の大国はそう簡単には日本に手出しができなくなる。さらに、日本が近隣の小国と神経分裂症的な外交でもって一定の信頼関係を築き、その小国もまた日本と同様にちゃんぽん戦略を採用するならば、なお一層、両大国は日本を含む小国に代理戦争を演じさることが難しくなる。

 近年、日本のマンガやポップカルチャーが世界中で人気を博し、日本文化に好意的な国は「こういう文化を持っている国は攻撃してはならない」と考えるようになっている。これを「文化による安全保障」と呼ぶそうだ。しかし、私は、文化による安全保障とはもっと深い意図を帯びたものであり、前述のように、政治、経済など多元的なレベルでちゃんぽん戦略を実行し、対立する両大国に対して独自の価値を訴求することで成立するものである。

 同盟関係は、複数の国で共通の仮想敵国を設定できた時代には有効であった。しかし、現代はある国とある国が時と場合に応じて接近と離反を繰り返す時代である。前述の通り、小国に代理戦争をさせようとしていた両大国が突然手を結んで、小国からはしごを外すことも考え得る。手を結んだ両大国は、別の大国と新たな対立を始める。これは、常に二項対立的な発想でしか物事をとらえることができない大国の性であると言える。

4大国の特徴(これから)

 以前の記事「『致知』2017年11月号『一剣を持して起つ』―米朝対話が成立するとはアメリカが韓国を捨てることを意味する(ことを左派は解っていない)、他」で、私は上図を用いた。私が考える現在の大国とは、アメリカ、ロシア、中国、ドイツの4か国である。アメリカはドイツと同じグループ、中国はロシアと同じグループである。だが、実際には、ドイツは日本から物理的に遠く、またロシアは冷戦で国力が疲弊していたから、あまり意識する必要がなかった。事実上、アメリカ対中国という構図でとらえておけば十分であった。だから、これまで述べてきたちゃんぽん戦略も、アメリカと中国の両国に対して発揮することを想定していた。

 しかし、ここに来ていくつかの変化が見られる。アメリカとロシアは相変わらず強い敵対関係にある。一方で、アメリカとドイツの間には隙間風が吹き始めている。さらに、繰り返しになるが、アメリカは中国とあれだけ激しい貿易戦争をやっておきながら、突然手を結ぶ可能性がある。ドイツの動向が読みづらく、今はロシアと中国の双方に接近して、どちらの国から得られる経済的価値が大きいか天秤にかけているようである。だが、最終的には、かつての東ドイツ―ソ連という政治上の密接なつながりを理由に、ロシアが選択される可能性が高いと予測する。すると、二項対立の構図は、「アメリカ&中国」VS「ロシア&ドイツ」に変質する。その時日本は、両陣営をそれぞれ貫く新たなイデオロギーを見抜き、ちゃんぽん戦略を再考しなければならない。この新時代では、日米同盟はおそらくほとんど意味を持たなくなっていることだろう。

 最後に、大国の恐ろしさについて書いておきたい。前述の通り、大国Aは小国aを、大国Bは小国bを支援するというのが基本的関係である。だが、大国は二項対立的な発想を拡大して、大国Aが小国aと小国bの双方を支援することがある。大国A内の親B派が大国B内の親A派と結びついて、大国Bが支援する小国bを大国Aも支援するというパターンである。

 レーガン政権下の「イラン・コントラ事件」を取り上げてみよう。まず、アメリカはイラクを扇動してイランを攻撃させた。この時、サウジアラビアはイランのホメイニ師を支援した。サウジアラビアとイランは元々仲が悪いのだが、ここまでは小国同士の神経分裂症的な外交として何とか理解できる。不可解なのは、アメリカがあろうことかホメイニ師に武器を販売して、その代金をニカラグアの親米反政府組織に渡していたことである。ホメイニ師は典型的な反米であり、太平洋戦争でアメリカが日本に原爆を落としたことを強く批判していた。そのホメイニ師をアメリカは支援して、ニカラグアの親米政権樹立を目指していたのである。このように、大国は自国の利益のために手段を選ばないことがある。いくら同盟を結んでいても、最終的に優先されるのは同盟国の利益ではなく、アメリカの利益である。この点を忘れてはならない。

2018年07月20日

DHBR2018年8月号『従業員満足は戦略である』―社員満足度を上げるには本社が現場の邪魔をしないこと


DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年08月号 [雑誌]DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年08月号 [雑誌]
ダイヤモンド社 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部

ダイヤモンド社 2018-07-10

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 社員満足度(ES)の向上が企業の業績アップにつながるというプアな内容だったらどうしようかと思ったが、杞憂に終わった。何年も前の私なら、ESの向上がCSの向上につながり、高業績をもたらすという言説を無批判に受け入れていたものの、現在では考え方を改めている。

 企業は顧客からお金をいただいている。しかし、お金を払う側の顧客がお金をもらう側の企業のモチベーションを上げようとは考えない。同様に、社員は企業からお金(給料)をいただいている。お金を払う側の企業がお金をもらう側の社員のモチベーションを上げる必要は原則としてない。社員のモチベーションは、社員自身の問題である。LINEのとある執行役員が言っていたが、「会社にモチベーションを上げてもらおうと考える社員は、プロとして失格」である。それでもなお、企業が社員のモチベーションに気を配っている理由を挙げるとすれば、顧客は企業が気に入らなければ他の企業に簡単にスイッチできるのに対し、企業は社員が気に入らなくても簡単に解雇できないからである。企業は、今いる社員に頑張ってもらうしかない。だから、企業は社員に気を遣い、何とかモチベーションを上げようとするわけだ。

 ここでは意図的に、モチベーションと社員満足度を使い分けている。モチベーションは「将来、仕事をやってやろうと思う気持ち」であるのに対し、社員満足度は「現状、どれだけ気持ちが充足されているか」を表す指標である。企業が将来的に業績向上を目指すのであれば、重要なのはモチベーションである。なぜなら、いくら社員満足度が高くても、必ずしもモチベーションアップにつながるとは限らず、現状に満足してしまい進歩が止まる恐れがあるからだ。

 本号の特集は、例えば都心に本社があって、地方に多くの直営店、営業所、販社、サービス拠点が分散しているような組織構造の企業を想定している。こういうタイプの企業の場合、現場の営業・サービス担当者に気持ちよく仕事をしてもらうために最も重要なことは、「本社が余計な邪魔をしない」ことである。昔、先輩のコンサルタントに教えてもらった話なのだが、ある顧客企業は「本社から販売店に対して、製品情報や販売マニュアル、キャンペーン情報、システム登録手続きに関する情報などが五月雨式に送られてくるので現場が混乱している」という問題を抱えていた。先輩は当初、本社と販売店の間を結ぶ情報システムを強化すればよいと考えた。

 だが、この顧客企業の事業を分析するにしたがって、もっと構造的な課題が見えてきた。この顧客企業は、主に3つのカテゴリーの製品を扱っていた。カテゴリーAは業界内でも非常にユニークなもので、競争力があり、顧客企業の収益源となっていた。カテゴリーBは並みの製品、カテゴリーCは激しい競争についていけなくなっていた製品であった。販売店は、A~Cの製品を全て取り扱っており、本社から全製品に関する情報を受け取っていた。

 ここで先輩は、製品カテゴリー別に販売店網を再構築することを提案した。つまり、カテゴリーAのみを扱う販売店を販売チャネルの中心に位置づける一方で、カテゴリーBを扱う販売店を一定数に抑え、カテゴリーCを扱う販売店は将来的な撤退も視野に入れて縮小するというものである。さらに、本社の役割にもメスを入れた。本社が発信する各種情報のうち、販売店でも作成可能なものは販売店に権限移譲することにした。

 もちろん、本社と販売チャネルの大規模な改革であり、本社のマネジャーや各販売店の店長の権限、さらには現場社員の役割を大きく見直す必要があったため、改革は一筋縄ではいかなかったようだ(特に、権限を剥奪される本社のマネジャーは相当抵抗したらしい)。だが、改革が無事に完了すると、本社と販売店の関係は極めてシンプルなものになった。カテゴリーAのみを扱う販売店は、本社からカテゴリーAに関する情報しか受け取らない。しかも、一部の情報作成の権限は販売店に委譲されているので、以前に比べて本社からの情報量は圧倒的に減少した。同じことは、カテゴリーBのみを扱う販売店、カテゴリーCのみを扱う販売店にも言えた。

 本社が現場社員の邪魔をせず、彼らに生き生きと働いてもらうためのポイントは3つある。

 (1)本社が作った無用な社内ルールを撤廃する。
 企業は規模が大きくなるにつれて、官僚組織的になる。官僚組織の特徴は、マックス・ウェーバーが指摘したように文書化とルールである。そのルールが顧客価値の創造につながるものであればよいのだが、中には単に社員を管理するためのもの、あるいは経営幹部のシンボルやステータスを守ることが目的になっているものもある。

 ある企業では、工場の倉庫の管理者がつけている手袋がボロボロになっていた。それを見た新米のCEOは、「なぜ手袋を変えないのか?」と聞いた。すると、「当社の規定では、手袋が完全に使えなくなるまで買い替えることができないことになっています。しかも、買い替えの申請を出してから、新しい手袋が届くまでに2週間かかります」と言われた。CEOは、このルールがあまりにもくだらないと思い、工場の倉庫に新品の手袋のストックを置いておくことができるように社内ルールを変更したそうだ(おそらく、工場に手袋のストックを置いておくようなルールを作らなかった本社は、社員が手袋を盗むことを恐れたのだろう)。

 IBMを復活させたルイス・ガースナーは、IBMに入社した当初、秘書から分厚い社内規定集を手渡されてびっくりしたそうだ。服務規定はもちろんのこと、経営幹部に提供するガムの置き方までこと細かく規定されていた。ガースナーはある時、服務規定に反するスーツを着ていた。秘書に「経営幹部らしくない服装なのでルール違反です」と指摘されたので、ガースナーが「ルールを変えるにはどうすればよいか?」と尋ねたところ、「社長が変えると言えば変えられます」との返答だった。それを聞いて、早速ガースナーは社内規定の大幅な削減に着手した。

 (2)現場の業務プロセスの基本を整備するのを支援する。
 本社のスタッフ部門の役割は、単に経営資源を管理するのではなく、顧客価値の創造と経営資源の最適配分のバランスを取りつつ、さらに自社が重視する価値観を反映させることで現場の業務プロセス整備を支援し、適切なタイミングで適切な経営資源を投入することである。

 例えば、人事部門は、事業部から言われるがままに新人を採用したり、人事評価の結果を取りまとめたり、研修を運営したり、給与を計算したりすることだけが仕事ではない。まずは、現場が実現しようとしている顧客価値を最もストレートに実現する業務プロセスを描く。次に、現場に配属されている社員の特徴を踏まえて、業務プロセスを調整する。さらに、自社のミッションに含まれる価値観(経営・業務における意思決定のよりどころとなる重要な判断基準)を随所に埋め込んで、最適な業務プロセスを現場と一緒に検討する。こうしてでき上がった業務プロセスが要求する人材要件と、現在の社員の能力・価値観との間にギャップがある場合には、社員をトレーニングしたり、他部門からの異動や外部からの採用によって人員を補ったりする。

 モノを扱う購買部門、カネを扱う経理部門、情報を扱う情報システム部門についても同様である。現場が実現を目指す顧客価値と、自社が調達する原材料・機械装置などの特性、自社の資金の状況、自社が取り扱う情報の量や質のバランスを取り、さらに自社の価値観を反映させた形で、最適な業務プロセスを現場とともに構築する。そして、必要に応じてモノ、カネ、情報をすぐさま現場に対して提供することができるようにする。

 ここで注意すべきなのは、本社が業務プロセスの構築に関与するからと言って、あまりにも細かい業務プロセスを定義してはならないということである。あくまでも基本的な業務プロセスを定めるにとどめる。プロセスまでいかず、方針レベルでも構わないと思う。詳細すぎる業務プロセスを渡された現場は、本社から過剰に介入されていると抵抗するに違いない。

 それから、本社はよかれと思って新製品・サービスやITツールを次々と現場に導入したり、各種販促活動を実施するように現場に命じたりするが、これも要注意である。先ほど紹介した事例のように、本社から五月雨式に情報が降ってくることになり、現場にとっては迷惑この上ない。さらに言うと、本社が引き起こす重大な問題は、例えば新製品・サービスを導入した際、その製品・サービスの販売・アフターサービスや売上・粗利管理、請求・債権回収プロセスについてはマニュアルを作成するものの、既存の製品・サービスのマニュアルとの整合性にあまり気を配っていないことである。本社は製品・サービスを順番に開発するが、現場はどの製品・サービスも同時に販売しなければならない。現場が複数の製品・サービスを担当した場合、複合的な業務プロセスはどのようなものになるのかを本社は現場と一緒になって考える必要がある。

 本号の論文「やみくもな製品開発が経営資源を浪費する “イノベーション中毒”を回避する3つの原則」(マルティン・モーカー、ジャンヌ・W・ロス)がこの問題を扱っている。イノベーションに取りつかれた本社が、現場のことを顧みずに、次々と新製品・サービスを投入して、現場を疲弊させてしまうという問題である。この問題を解決する方法として、同論文では、①バラエティよりも統合を重視する、②イノベーションの担当者と複雑性に対処する担当者を分けない、③イノベーションを導くビジョンに向かって全力を尽くす、という3つが挙げられている。

 言い換えれば、①互いに無関係な新製品・サービスをバラバラと投入するのではなく、既存製品・サービスと関係性の高い新製品・サービスを投入する。できれば、クロスセルが可能なものを開発する、②本社側の新製品・サービス開発担当者は、開発プロジェクトの初期段階で現場社員を巻き込み、新製品・サービスを展開する上での問題を早期に解決する、③ビジョンの焦点を絞り、ビジョンから外れた新製品・サービスを開発しないようにする、ということである。

 (3)現場が顧客に個別対応できるよう、権限委譲を進める。
 (2)と矛盾するようだが、(2)で標準的で基本的な業務プロセスを定めた後、現場社員にはそこからはみ出す個別の顧客対応を認めることも重要である。社員は、指示された仕事をそのまま行う時よりも、自分でやり方を考えて仕事をした時の方がモチベーションが上がる。日本人の場合、どちらかというと一から物事を考えるのは苦手であるから、まずは本社と一緒になって作成した業務プロセスをベースとして、そこに自分なりに手を加えていく方がやりやすいだろう。

 ここで問題になるのは、本社として現場に対しどこまで権限移譲を認めるかということである。最も簡単なのは、顧客に対する無償サービスの権限を与えることである。無償であるから、企業の財布が痛むこともない。その次は、顧客に対して有償サービスを提供することである。この場合は、現場が自由に使える一定の予算を与えなければならない。

 個別顧客のニーズに深く入り込むと、製品・サービスのカスタマイズを求められる。すると、カスタマイズに伴う原材料や加工用の機械装置を独自で調達することになる。生産ラインも変更になるだろう。ここまで来れば、予算の権限をもっと増やさなければならない。さらに、個別対応に長けた特殊能力を持つ人材を確保するための人事権も必要になる。個別の顧客に対し、個別の製品・サービスを提供し、個別の生産ラインで生産し、個別の社員を活用するということは、それらの情報を管理する独自ITの開発も欠かせないことを意味する。そして、究極的な権限移譲は、現場をターゲット顧客に密着させて、新製品・サービスの開発を任せることである。

 どこまで権限移譲させるかは、企業の戦略による。巣鴨信用金庫の行員は、高齢者の顧客に対して、無料の送迎サービスなどを提供する権限が与えられている。リッツカールトンの社員は、顧客のために2,000ドルまで自由に使える権限を持っている。完全な権限移譲ではないが、餃子の王将は、全店舗共通メニューの他に、各店舗がオリジナルのメニューを用意している。逆に、良品計画は店舗にほとんど権限移譲を行っていない。有名なMUJIGRAMは本社主導で作られたものであるし、店舗には商品開発の権限はおろか、仕入れの権限も与えられていない。良品計画の場合、海外においても、商品開発は日本本社で行うという徹底ぶりである。

 権限移譲の度合いは、提供したい顧客価値、競合他社との差別化要因、企業の価値観、社員の能力や特性、組織内のコミュニケーションの構造、企業風土など様々な戦略的要因によって決まるだろう。社員が本社から締めつけられていると感じず、逆に任されすぎて負担になっていると感じない程度の、ちょうどよいコンフォートゾーンを見つけなければならない。この意味では、確かに本号の特集タイトルにあるように、「従業員満足は戦略である」。

 最近、フレデリック・ラルー『ティール組織―マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版、2018年)を読んだのだが、ティール(進化型)組織は、現場がほとんど完全に権限を握っており、それぞれの社員が経営者として働くことを期待されている(ティール組織では、最初に本社が権限を持っており、それを現場に委譲するというのではなく、初めから現場に権限があるという考えに立っているため、権限移譲という言葉を使わない)。

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現
フレデリック・ラルー 嘉村賢州

英治出版 2018-01-24

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 例えば、アメリカのモーニング・スターというトマト加工食品製造会社では、製造に携わるそれぞれのチームがどのように結成され、チーム間でどのように作業分担をし、どういうふうにして製造ラインを調整し、製造目標をどの程度に設定し、それぞれのチームの予算をいくらにするのか、といったことを完全にチーム間の話し合いに委ねている。原材料の調達はチームに任されているし、もし製造ラインの調整に伴って新しい機械装置の購入が必要になった場合は、他のチームと相談して購入を決定する。現場で起こる様々な問題の解決は、マネジャーによってではなく、チーム間の紛争処理プロセスに従って行われる。

 それぞれのチームが誰を採用し、どのようにトレーニングを行い、どのような評価・フィードバックを与え、最終的に報酬をいくらにするのかを決めるのもチームの権限である。また、社員は採用されたからと言ってすぐに仕事が与えられるわけではない。「自分はチームに対してこういう貢献ができる」ということを文書をまとめ、社内で営業をかけて、自分で仕事を取ってこなければならない。さすがに、どういうトマト加工食品を作るかまではチームで決めることができないようだが、同社では1人1人の社員がまるで経営者であるかのように振る舞っている。

 現場の権限が非常に強いので、逆に本社の規模は極めて小さい。CEOの権限も少ない。本社は「戦略を立てない」。CEOや本社は、明確な「存在目的」を掲げて企業全体をリードすることに腐心する。この点については、同書には明確に書かれていないのだが、複雑系の理論の影響を受けているものと推測される。同書に関する記事は後日改めて書く予定である。




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