この月の記事
『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について
『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)
DHBR2018年9月号『発想するチーム』―トップマネジメントチームにしかできない7つの仕事(2)

プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年08月31日

『世界』2018年9月号『人びとの沖縄/非核アジアへの構想』―日米同盟、死刑制度、拉致問題について


世界 2018年 09 月号 [雑誌]世界 2018年 09 月号 [雑誌]

岩波書店 2018-08-08

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 (1)以前の記事「『正論』2018年8月号『ここでしか読めない米朝首脳会談の真実』―大国の二項対立、小国の二項混合、同盟の意義について(試論)」で、私の軟な政治観を披露してしまったが、今回も再び、まだ考えが十分に煮詰まっていないことを承知の上で記事を書きたいと思う。古代より、国際政治は同盟関係を中心に組み立てられてきた。同盟は、同盟関係を結ぶ同士が同じ仮想敵国を想定していることが前提である。だが、現在の国際政治は多元的であり、大国も小国もくっついたり離れたりを繰り返している。仮想敵国は固定的ではない。よって、古典的な同盟の意味は再考を迫られていると感じる。

 日米同盟も例外ではない。確かに、戦後の日本は日米同盟のおかげで平和と繁栄を享受することができた。しかし、その反面、失ったものも多い。私は本ブログでしばしば日本の多重階層社会を「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭(国民)」とラフスケッチし、下の階層が上の階層に対して「下剋上」できることが日本人の美徳であると書いてきた(以前の記事「山本七平『帝王学―「貞観政要」の読み方』―階層社会における「下剋上」と「下問」」などを参照)。ところが、戦後の日本では神の上にアメリカがどっぷりと座り込み、日本はアメリカに対して「下剋上」をすることができなかった。

 まず、日本国憲法を制定する段階で、日本の封じ込め策の1つとして、戦力を放棄させられた(その後、自衛権だけは認められたが)。平和憲法については、幣原喜重郎が草案を作成していたとか、明治時代から続く中江兆民、植木枝盛、三浦銕太郎、石橋湛山、高野岩三郎、鈴木安蔵の平和主義や小国主義の思想が発露したものであるとか言われるが、一般的にはマッカーサーが示した第2原則に従ったものと理解されている。その後、アメリカの自由主義的な教育が流入し、日本の道徳や倫理観が崩壊した。日本人は、周囲の人々とのかかわり、公共性の中で自己を形成するという価値観を持っていたのに、アメリカから入ってきたのは、まずは自分自身を確立するという個人主義であった。その結果、日本の伝統であった共同体や相互扶助の精神は失われ、自分さえよければよいという歪んだ自己崇拝が趨勢を占めるようになった。

 経済に関しても、アメリカの介入は露骨であった。もちろん、戦後の日本が製造業を中心に急成長を遂げたのは、アメリカが1ドル=360円という超円安で長年据え置いてくれたからという一面もある。だが、その円安を背景とした日本のアメリカに対する輸出増が問題になると、アメリカは日本企業に対し、アメリカでの現地生産・アメリカ人雇用を強制し始めた。その内容は「前川レポート」としてまとめられている。さらに、これに飽き足らないアメリカは、日米構造問題会議という名の日本の経済構造を矯正することを目的とした会議で、郊外の公共工事にアメリカ企業を参加させることを要求した。これによって郊外まで道路が伸びた結果、郊外に大型のショッピングセンターが乱立し、中心地の商店街は衰退した。21世紀の話で言えば、アメリカは郵政民営化を裏で操り、日本郵政の株式を大量に売買して、多額のキャピタルゲインを獲得した。

 アメリカは経営にも大きな影響力を及ぼしている。アメリカのSOX法が日本に流入しJ-SOX法が制定され、企業の内部統制が強化されたが、これによって、日本企業の経営は社員同士の信頼をベースとするものから、社員間の不信を前提とするものに変質してしまった。さらに近年では、コーポレートガバナンス改革の一環としてスチュワードシップ・コードが導入されている。これは、顧客をはじめ、社員、取引先など多様なステークホルダーの利害のバランスを重視する日本の伝統的な経営慣行を蹴散らし、株主至上主義へと塗り替えるものである。

 対中戦略という意味では、中国が太平洋に進出するルート上に存在する沖縄県に米軍基地を集中させるのが論理的にはベストだろう。しかし、日本という国は、「論理的に考えるとその通りだが、現実を踏まえるとこういう風に変えないといけないよね」といった具合に、論理と情理の両方を重んじる国である。だから、情理に基づいて沖縄県以外の選択肢も検討するべきであった。しかし、果たして日本はアメリカに対して「下剋上」をしただろうか?政府は、普天間基地の辺野古移設をめぐって、「辺野古は唯一の解である」と繰り返している。国防は国家機密であるから、国民がその検討過程をつぶさに知ることは不可能である。この辺野古という解が、論理と情理のバランスを通じ、アメリカとの主体的な協議の結果導き出されたものであれば解る。しかし、実際には、単にアメリカにそう言わされているだけのような気がしてならない。

 2015年に成立した安保法制も、表向きは集団的自衛権を認めたものとされているが、法律の文言を厳密に読めば個別的自衛権に毛の生えた程度であり、日本の防衛力がちょっと上がったぐらいにしか私はとらえていない。それよりも問題なのは、どさくさに紛れて、条文が拡大解釈され、アメリカが戦争をしている国に自衛隊が後方支援で出向くことができるようになった点である。アメリカが中東で戦争をしていても、アメリカに対する脅威がやがては日本の脅威となるならば、集団的自衛権を行使する対象となるという理屈である。そんなことを言えば、これだけグローバル化が進んだ世界では世界のどこかの脅威は何らかの形で日本の脅威になるのだから、自衛隊の出動範囲は無限に広がってしまう。アメリカが世界のどこで戦争をしようと勝手だが、それにいちいちつき合わされる自衛隊はたまったものではない。日本には日本なりの国際貢献の考え方と方法があるのであり、それをアメリカに蹂躙される筋合いはない。

 現在、アメリカと中国は東シナ海、南シナ海をめぐって対立を深めている。日本とアメリカが日米同盟に基づいて合同軍事演習を行うほど、中国は態度を硬化させている。日本がアメリカに近づくとかえって中国の怒りを買うというのは、かつての民主党政権末期にも見られた現象である。日米同盟があるから第一列島線が守られているという見方が成立すると同時に、日米同盟があるがゆえに中国が意地になって第一列島線を破ろうと躍起になっていると言えなくもない。以前、「岡部達味『国際政治の分析枠組』―軍縮をしたければ、一旦は軍拡しなければならない、他」という記事を書いた。米中の軍事力は未だ非対称であり、今後もしばらくは軍拡競争が続くだろう。だが、どこかのタイミングで対話のフェーズへと移行する必要がある。

 サミュエル・ハンチントンは、文明が衝突する時戦争が起きると書いた。しかし、現在の大国は大きすぎて簡単には戦争ができないと思う。あのアメリカとロシアでさえ、最後まで戦火を交えることはなかった。冒頭で紹介した記事でも書いたように、大国同士はお互いが対立して壊滅的な被害を受けないよう、近隣の小国を巻き込んで代理戦争をさせようとする。南シナ海に関しては、中国はASEAN諸国をアメリカ側と中国側に分断してアメリカ側の日本と対立させ、小国同士の小競り合いへと持ち込んで、その隙に南シナ海を奪おうとするだろう。現に、中国はメコン川に有害物質を流すと脅して、メコン川が流れるタイ、カンボジア、ラオスを中国側に引き込んでいる(東シナ海については、おそらく将来的に朝鮮半島に誕生する反日統一国家を使って日本と対立させ、その隙に第一列島線まで進出しようとするに違いない)。

 だから、冒頭に掲載した記事が示唆するように、日本は大国の思惑を回避し、神経分裂症的な外交でASEANと混じり合い、連携し、ちゃんぽん戦略を展開して、中国に対し小国なりの独自の価値を訴求しなければならない。このように書くと、「中国に南シナ海を取られた上に、さらに中国を利するのか」という批判が起こりそうである。しかし、今解っているのは、中国と対立するとかえって中国の敵愾心を煽るだけだということである。それならば、いっそ発想を180度転換してみるしかない。ちゃんぽん戦略で中国に資すれば、中国は思いがけない価値の獲得によって軍事的野心を多少なりとも緩めるかもしれないという可能性に私は賭けてみたい。

 それに、中国に資することと利することは、その意味するところが全く異なる。中国に利するとは、例えば中国との国境付近に経済特区を作って中国企業を誘致したが、社員は皆中国人で自国民が雇用されず、優遇措置だけをいいように使われた挙句、企業の利益もほとんど中国に持って行かれた、といった事例のことである。端的に言えば、経済的資源だけを中国にむしり取られることが中国を利することである。そうではなく、あくまでもちゃんぽん戦略に基づく小国独自の価値を提供しなければならない。だから、当然のことながら、中国と対立するアメリカに対しても、同時にちゃんぽん戦略を実行する必要がある。

 これはあまりにも日和見的でナイーブな外交に見えるかもしれない。伝統的な同盟は、味方となる大国から庇護を受けられる代わりに、敵国から猛烈な反発を食らうリスクがあった。とはいえ、これは非常に単純な構図であった。これに対して、これからの国際関係は、小国を大国同士の代理戦争の図式から救い出し、協調関係を活かして対立する双方の大国にアプローチし、両国から「あの国は攻撃してはダメだ」と思ってもらえるような、「文化の安全保障」を確立することが肝要である。ここにおいて、特定の国を仮想敵国として固定する古代以来の前提は崩壊する。この新しい外交の具体的な方策については、私も考えが十分でない。しかし、同盟がその意義を失いつつある現代においては、その代わりを探す努力をしなければならない。

 米中関係も、いつまでも対立が続くとは限らない。ある日突然、米中が手を結ぶ可能性もある。過去には、キッシンジャーの極秘訪問からニクソン大統領による国交樹立へと至る動きもあった。トランプ大統領がディールを重視して、中国の一帯一路構想に乗っかり、さらにシーレーンを米中で共同管理しようと言い出すかもしれない。その際、日本をはじめとする小国があらかじめ米中双方と関係を構築することができていれば、「日本はアメリカと仲がよいが、中国とは仲が悪いからシーレーンを使わせない」といった妨害を受ける恐れが低くなる。

 ここからは完全に私の妄想だが、米中の間では日本に関する密約が既にでき上がっている可能性も考えられる。それはつまり、アメリカは日米同盟によって日本を経済的には豊かにする一方、政治的には前述のような様々な足枷を加えることで二流国家にとどめておき、機が熟したら日本を中国に売り飛ばしてアメリカが儲けるという密約である。こうした思惑に翻弄されるのを防ぐためにも、日本は双方の大国に対して自律的な外交を展開する必要がある。

 (2)オウム真理教の元代表である麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚ら7人の死刑が7月6日に執行され、残り6人の死刑も7月26日に執行された。地下鉄サリン事件から23年が経って、13人の死刑囚全員に刑が執行された。死刑制度に反対するEUは早速、日本に対して懸念を表明した。これもまた浅い内容の記事だが、以前「『正論』2018年4月号『憲法と国防』―なぜ自殺してはいけないのか?(西部邁先生の「自裁」を受けて)」という記事を書いたことがある。キリスト教圏のEUが死刑制度に反対している理由は私にはよく解らない。だが、この記事からは、日本においては必然的に死刑制度は廃止すべきだという結論が得られる。

 日本は(森喜朗元首相がどんな批判を浴びようとも)神々の国である。神々の世界には集合意識という見えない存在がある。ここには、今まで生きてきた大勢の日本人の記憶が刻まれている。言い換えれば、日本人という民族の歴史の集合体である。集合意識というと、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」(我々が普段目にする「顕前秩序」の背後にあって、人々の意識を統一する無意識の秩序)が想起される(以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」を参照)。ただ、一神教文化圏に生きるボームの内蔵秩序が全体性(ホールネス)を帯びているのに対し、多神教文化である日本の集合意識は、多様な人間の生きざまが詰まっている。

 神々は人間に寿命を設定し、肉体という器を貸し出してこの世に送り出す。もちろん、肉体には精神も宿っている。ただし、肉体は初めから一定の機能を果たすのに対し、精神はほとんど白紙である。集合意識から精神を切り出して新しく生まれる人間に日本人の伝統を受け継がせればよいところだが、神々は敢えてそうはせず、人間が一生をかけて精神を鍛錬することを期待する。そして、神々が設定した寿命を迎えると、神々は貸していた肉体を回収し、鍛え上げられた精神を集合意識へと統合する。ここで、日本の神々は欧米の唯一絶対親とは異なり、完全な存在ではないから、寿命の設定にはバラツキがある。日本人は、自分に設定された寿命を知る術がない。それでも、神々が設定した寿命を全うすることが日本人の使命である。

 寿命を全うすることは神々との約束であるから、絶対に破ってはならない。ここに、自殺が否定される理由があるというのが先ほどの記事の内容であった。自殺をした人間は、まだ神々が設定した寿命を迎えていないから、神々がその精神を回収しに来てくれない。すると、その精神は集合意識に統合されない。ということは、日本民族の精神の発展に寄与しないことになる。せっかく神々によって与えられた生を、その人は無益にしてしまったのである。よく、自殺をすると周りの人が悲しむから、あるいは周りに多大な迷惑がかかるから止めておくべきだと言われるが、私は自殺が許されない一番の理由はここにあると考える。

 では、死刑についてはどうであろうか?本号では、憲法の条文から死刑が違憲であることを導いている記事があった。木村草太「死刑違憲論を考える―『存在してはならない生』の概念」によると、死刑制度は憲法18条( 奴隷的拘束及び苦役からの自由)、36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)、19条(思想及び良心の自由)、13条(個人の尊重)に反する可能性が高いという。私自身は、別の理由から、死刑を認めるべきではないと考える。(1)で示した日本の多重階層構造に従うと、神々は国家権力よりも上に位置する。その神々が設定した寿命を、いくら国家権力であっても奪うことは、社会構造上許されない。自殺した人間と同様、死刑を執行された人間も、死亡時期が寿命とずれるため、神々がその精神を回収しに来ることができない。

 何人もの尊い生命を奪った人間は許しがたい、生命をもって償うべきだという立場を私が理解していないわけではない。しかし一方で、自分が犯した罪の重大さや意味について、寿命が尽きるまで、本人が嫌だと言っても考え続けるようにするというのも、罪の償い方だと思う。人間、特に日本人は社会的・公共的動物であるから、独房で黙々と思考を重ねるだけで精神が変化するのかという意見もあるだろう。だが、受刑者とて完全に孤立しているわけではなく、他の受刑者との交流もあれば、弁護士との接見もある。また、遺族が許せば、遺族と接点を持つこともある。限定的ではあるものの、社会的つながりを通じて、精神を見つめ直す機会は存在する。

 はっきり言って、極悪な犯罪を犯した人間には社会的更生など期待していない。実際、出所できたとしても、生きていく場所はほとんどないだろう。仮に一生を刑務所で過ごすとしても、その人なりに自分の精神と苦闘したという事実が重要であって、彼が寿命を迎えた時、神々がその精神を回収して集合意識に統合する。彼は社会的には大きな損失を与えたが、日本人の精神的発展という点ではプラスなのである。これは、相模原障害者施設殺傷事件を起こした犯人のように、おそらく一生かかってもその精神が変わらないであろう人間でも同じである。集合意識は美しい、正の歴史ばかりとは限らない。歴史とは闇を抱えるからこそその深みを増すのである。だから、この事件の犯人も、何があっても寿命を全うしなければならない。

 ここでもう1つ、全く別の問題提起をしてみたい。認知症で記憶を失い、事理弁識能力を欠く人はどうであろうか?もはや神々から課された精神の鍛錬ができないのではないだろうか?という問題である。これは自分で立てておきながら回答するのが非常に難しい問題である。認知症になっても、その人を支える家族などには新しい役割と人生の意味が与えられることになるから、認知症の人にも生きる価値があるのだなどとは私は決して言わない。それはちょうど、街中でポイ捨てをすると、それを清掃する人の雇用が生まれるからポイ捨てはしてもよいのだという、アメリカ人などによく見られる摩訶不思議な理屈と同じである。

 私は決して認知症に詳しくないため、誤解している部分があるかもしれないが、認知症の場合、短期記憶に問題があることが多く、長期記憶は保たれているケースがあるらしい。さっき食べた昼ご飯のことは忘れてしまうのに、若い頃のことはよく覚えているといった具合だ。前述のように、日本人の寿命は神々が設定する。ということは、現代の高齢社会を招いたのも神々の仕業である。ただし、これもまた前述の通り、日本の神々は不完全であるから、高齢社会がこのようなものになるとは完全には予期していなかったのだろう。

 少なからぬ高齢者が認知症になるのは、神々がその限定合理性ゆえに寿命を長く設定しすぎた日本人に対して、「もうこれ以上物事を覚えて精神を酷使しなくてもいいよ」と神々がサインを送っているためなのかもしれない。覚えられただけの記憶と、鍛えることができただけの精神を持って死を迎えればよい。今の私にはそう回答することしかできない。ただ、日本人や医師には死に対する潜在的な恐怖というものがあり、事理弁識能力を欠く認知症の本人の意思とは無関係に、胃ろうなどを使って延命措置をしようとすることがある。延命も、神々が設定した寿命を狂わせる行為であるから、私は止めるべきだと考える。人間が寿命を迎えたら自然に死ぬ、そういう当たり前の尊厳死が迎らえる世の中であってほしい。

 (3)アメリカは未だに、核兵器を保有する北朝鮮に対する制裁の手を緩めていない。こういう言い方をすると若干語弊があるが、核開発に対しては制裁をかけやすい。アメリカは北朝鮮の核兵器によって自国の安全が脅かされているから、それを防止するために制裁をかけて、北朝鮮の核開発能力を削ぐというのは自然な発想である。だが、北朝鮮は、アメリカがいくら制裁を課しても、中国とロシアという2つの抜け道があり、核開発を継続できることを知っている。そして、核開発が相当程度進んだ段階で、突然「やっぱり核開発を止めた」と宣言し、アメリカから見返りを求めるのである。この段階では、開発された核兵器が大規模なものになっているため、アメリカから相当なお土産を期待できる。北朝鮮はここまでを計算ずくでやっている。

 一方で、日本が直面している拉致問題はどうだろうか?核開発の問題と拉致問題を同列に扱うと怒られるかもしれないが、拉致問題は核開発の問題ほど大きな問題ではない。政府が拉致被害者として認定しているのは17人、警察が「拉致の可能性を排除できない」としている人は約900人である。ただ悪いことに、北朝鮮は拉致問題は解決済みと言い張っているため、日本としても安易に制裁をかけにくい。だから、日本は核開発に対する制裁とセットで拉致問題に関する制裁を課すという、アメリカへの便乗外交しかできない。

 さらに言えば、核開発と違って、拉致問題はこれ以上大きくなる可能性がまずない。北朝鮮は、いちいち日本人を拉致して北朝鮮国内で教育(洗脳)し、日本に送り返して工作活動をさせるのはあまりにも手がかかると気づいている。そして、そういう拉致活動を、中国やロシアが今後も支援するとは考えられない。だから、拉致被害はこれ以上拡大せず、制裁を強化し続けて北朝鮮を追い詰める正当性がない。安倍政権は最大限の圧力をかけて拉致問題を解決すると言うものの、単にジリ貧の制裁が長々と続くだけで、問題の解決には至らないだろう(制裁をかけるなら、現在日本国内に数千人~2万人いるとも言われる工作員の身元を洗い出し、元締めの組織を特定して、その組織に制裁をかけた方がよっぽど効果的である)。

 ただ、拉致被害者の人数が少ないからと言って、日本政府は何もしなくてよいということにはならない。国家の重要な役割の1つは、国民の生命を守ることである。その生命が1人でも外国によって脅かされている以上、国家はその救済に乗り出す責務がある。現在、政府は「拉致問題が解決したら国交を樹立する」という立場を取っている。だが、これは、「北朝鮮とは永遠に国交を樹立するつもりがない」と言っているようなものである。私は、リスクを承知の上で、国交を先に回復し、平壌に日本大使館を置くという案を提案したい。今までは非公式のルートを通じて拉致被害者の情報を断片的に収集してきたが、大使館を置けばもっと情報収集が容易になる。もっとも、北朝鮮は、大使館関係者を拉致被害者が死亡したとされる現場に連れて行ってお茶を濁すだろう。しかし、大使館が適切に情報を入手していれば、「そんなことはない」と突っぱねることができる。私は、制裁よりもこちらの方が問題解決の近道になると感じる。

 右派からは、北朝鮮と国交を樹立すれば、東京のど真ん中に、未だに社会主義革命を目指す危険な北朝鮮の大使館ができ、北朝鮮による工作活動を刺激してしまうと心配する声が上がっている。だが、それを言うならば、社会主義革命どころか、日本の領土・領空・領海の略奪を画策している、北朝鮮よりももっと恐ろしい中国の大使館が既に東京のど真ん中に存在しているのだから、批判としては不十分である。そして、(2)で述べたように、いつまでも日米同盟を盾に中国と対立するのではなく、中国とも上手くやっていく道を模索しなければならない。北朝鮮に関しては、繰り返しになるが、おそらく反日の南北統一国家が将来的に朝鮮半島に誕生するだろう。だが、反日だからと言ってこの新国家を恐れるのではなく、むしろその懐に入り込み、日本と南北統一国家が米中の代理戦争を演じないようにしなければならない。

2018年08月24日

『正論』2018年9月号『「生き残れ 日本」トランプに進むべき道を示せ/表現の自由』―リベラルとは何か?(錯綜する概念の整理に関する一考)


月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]月刊正論 2018年 09月号 [雑誌]
正論編集部

日本工業新聞社 2018-08-01

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 本号の後半に「私が選ぶ戦後リベラル砦の『三悪人』」という特集があり、武田邦彦氏、西尾幹二氏、屋山太郎氏ら10人が3人ずつ戦後のリベラルを挙げて、その主張を批判していた。

 ただ、この「リベラル」という言葉は曲者である。八木秀次氏が解説しているように、欧州においては、伝統的にはリベラルと言えば自由主義のことであり、実は保守主義と親和性が高い。無制限な自由ではなく、秩序や伝統に裏づけられた自由を意味する。一方、アメリカのリベラルは、大きな政府を求め、自由よりも平等や多様性を重視する。いわゆる左派の主張である。日本のリベラルはアメリカの考えに近いが、元々の社会主義・共産主義を引きずった変種である。

 稚拙ながら、私なりにリベラルの概念を、私の大好きな(苦笑)マトリクス図で整理してみた。「大きな政府を重視するか、小さな政府を重視するか?」と「自由を重視するか、平等を重視するか?」という2軸でマトリクスを作成すると、4つのタイプに分けられる。

リベラリズム

 まず、右上は「小さな政府と平等を重視する」社会主義・全体主義である(私は両者を同一視している)。正確に言えば、社会主義は究極的には世界共同体の実現を目指すから、政府すら不要とする。本ブログで何度も書いてきたが、その起源は啓蒙主義に求められる。啓蒙主義時代には理神論という考え方が登場した。唯一絶対の神は世界の創造には携わる反面、その後のことは人間の理性に任せるというものである。中世までは、普遍的なものというと神の世界、つまりあちら側の世界にあったのに対し、近代の理神論によって、普遍的なものはこちら側の世界に移行した。これは、人間が神と同じく完全無欠な理性を持つことを意味する。

 誰もが神と同じ理性を持つのだから、人々は皆同じ、平等である。1人が全体に等しい。よって、私有財産は否定され、財産は全人類の共有となる。また、政治的な意思決定に関しても、全世界中の人が完全な理性に従って同じ考えを持っているわけであり、民主主義であっても独裁であっても同じ結果になる。人間の理性は生まれながらにして完成していると考えられるため、その理性に立脚する社会も既に完成しているものとされる。したがって、人間が自由を発揮して社会を改変するという余地はほとんどない。この点で、自由よりも平等の方が重視されていると言える。これが、私の考える社会主義・全体主義である。

 生まれた時点で理性が完成しているという立場は、教育による知性の進展を否定する。だから、社会主義国家ではしばしば知識人・教育層が迫害・虐殺される。生まれた時点での理性を完成形と見る場合、一番劣っている理性であっても完成していると認めなければならない。そして、そういう理性を持つ人間にできる仕事と言えば、原始的で素朴な農業である。だから、武者小路実篤は「新しき村」という農業共産社会を作ったし、ソ連ではソフホーズ(国営農場)とコルホーズ(集団農場)が設置され、戦後の中国では毛沢東が大躍進政策を展開した。しかし、新しき村の構想は結局ユートピアに終わり、ソ連の政策は多数の農民を生活苦に陥れ、中国の大躍進政策では3,000万~4,000万人もの餓死者を出した。

 ソ連や中国の共産主義者を焦らせたのは、自国が人間の理性の絶対性を信じ、社会主義の理想を実現しているはずなのに、アメリカなどならず者の資本主義国が技術で自国を追い抜いているという現実であった。だから、ソ連や中国は、多くの国民を農業に張りつけておいて、彼らを搾取し、得られた利益を科学技術に投資するという矛盾した行動を取るようになった。こうした矛盾は、社会主義の発展段階説でより正当化されたように思える。発展段階説によれば、社会は原始共産制社会⇒古代奴隷制社会⇒封建制社会⇒絶対主義⇒ブルジョア革命⇒近代資本主義社会⇒プロレタリア革命⇒共産主義社会⇒社会主義社会へと順番に発展する。社会主義と言えば、既に見たように本質的には原始共産社会であるものの、途中から科学技術の発展を含めて真の社会主義国家を樹立しようという方針に転換されたと考えられる。

 もう1つ、社会主義者を悩ませた矛盾が、寿命という問題である。創造主の神には寿命はないが、実際の人間には寿命がある。だが、元々、人間が生まれた時点で理性も社会も完成しているという立場に立てば、時間の流れというものはあり得ないことになる。過去も未来も存在しない。あるのは現在だけである。そして、現在というのは一瞬にすぎないから、人間は早く死ぬべきという歪な結論が導かれる。ただし、生と死は連環していて、死んだ後直ちに再び生を受けてこの世に誕生する。そして、発展段階説に沿った理想的な社会主義社会を実現するために、永遠に革命を繰り返す。これが、ニーチェの言う永遠回帰である。

 右下は「大きな政府と平等を重視する」福祉国家であり、北欧に多く見られる。社会主義・全体主義においては、最も能力が劣る者に他の人間を合わせるという形で平等が実現されるのに対し、福祉国家では、持てる者から持たざる者へと富の再配分が行われることで平等が実現されるという違いがある。富の再配分は非常に複雑なプロセスであるため、その営みを担う政府は必然的に大きくなる。また、せっかく自由に働いて多くの富を得ても、再配分によってその富の大半を政府に取られてしまうことを考えると、自由は平等よりも劣位に置かれていると言える。

 本号の特集で興味深かったのは、山口真由氏と屋山太郎氏がともに田中角栄をリベラルの悪人として挙げていることである(山口氏はさらに、田中角栄をモデルとして公共事業を展開した竹下登をリベラルの悪人としている。また、八幡和郎氏は、田中角栄の弟子である小沢一郎氏をリベラルの悪人に挙げている)。つまり、自民党と言えども、リベラルとは無縁ではないのだ。田中角栄は、自身がまとめた「日本列島改造計画」に従って、日本全土に金をばらまき、各地で大規模な公共工事を行った。これも一種の再配分政策であると言える。だが、金の集まる権力は必ず腐敗するというのが古代からの政治の鉄則である。田中角栄も例外ではなかった。

 この点、巨額の資金の再配分を行っている北欧諸国が、いずれも「腐敗認識指数ランキング」で上位に入っているのは不思議である。2015年のランキングを見ると、デンマークが1位、フィンランドが2位、スウェーデンが3位、ノルウェーが5位である(ちなみに、日本は18位である)。なぜ、田中角栄は腐敗したのに、北欧諸国は腐敗しないのだろうか?人間の理性は不完全であり、失敗もするし私欲にも溺れると考える日本人と、啓蒙主義を経験したヨーロッパ人との違いで説明するのはあまりに粗雑であろう。なぜなら、同じように啓蒙主義にルーツを持つ社会主義国家では、中国やベトナムを見れば解るように、権力がひどく腐敗しているからである。

 左上は「小さな政府と自由を重視する」という象限であり、アメリカでは1990年代から、日本では2000年代に入ってから有力となったネオリベラリズムを指す。企業はグローバル化を進め、世界中で利益を上げる。それが可能な大企業と、それができないドメスティックな中小企業の間では、業績に大きな格差が生じる。その結果、国民の間の貧富の差が拡大する。グローバル企業は、国家に対して企業活動を邪魔しないでくれと言う。工場は人件費が安い国に移す。税金も、税率が安い国で納める。ここにおいて、グローバリズムとナショナリズムは対立する。

 ただ、私は最近この流れに変化を感じている。グローバリゼーションと言っても、カントが描いたような世界平和の実現を目指しているわけではない。ある国に本社を置く企業が、自社の事業や製品・サービスを全世界で受け入れてもらえるようにすることがグローバリゼーションである。よって、グローバル企業は、本社を置く国家による支援を必要とするようになっている。政府に対しては過度な機能を期待していないものの、自社の世界展開を後押しする政治力は要求している。つまり、グローバリズムとナショナリズムは手を結ぶようになった。

 最後に、左下の「大きな政府と自由を重視する」のが伝統的な(欧州的な)リベラリズムである。日本が理想とするべきも、右下ではなくこの象限である。この象限では、人々の自由な発想による多様性が尊重される。これは、自然の生態系に最もよくかなった形態である。自然の生態系は多様であるから、環境変化が起きても、生物が全滅することはない。一部の生物が生き残り、そこから新たな進化によって枝分かれが生じ、再び多様性が確保される。こうして、地球全体として見れば、生物の種が保存される。右上の社会主義・全体主義のように、誰もが皆同じ理性に従って同じ考え方をしていると、外圧によって全滅するリスクがある。社会主義・全体主義は理論としては美しいのかもしれないが、生存可能性という点では落第である。

 多様な価値観は時に衝突する。その時は、まずは話し合う。「話し合い」と言うと、左派の人はすぐに「対話」という言葉を持ち出す。対話という言葉は、自分の怒りを抑えて冷静になり、相手の立場を慮って相手の考えを汲み取り、自分の考えと相手の考えを十分に擦り合わせてお互いの利益ができるだけ最大になるような道を探るべきだというソフトな印象を与える。もちろん、それができるに越したことはない。だが、現実の世界はそんなに甘くない。時には権謀術数を駆使しなければならない。誘惑、媚び諂い、あるいは威嚇、恫喝、脅迫、取引など、人間の醜い面も出る。それも含めて話し合いなのである。多様な利害が衝突する政治の世界では、こうしたことが常態化している。だから、一般人も伝統的なリベラリズムに生きるならば、こうした精神的ストレスのかかる方法に対する耐性を身につける必要がある。

 それでも考え方が合わなければ、その相手とはすっぱり縁を切ればよい。自分は認めることができないけれども、そういう考えもあるのだなという程度で収めておけばよい。右上の社会主義・全体主義では、1人が全体に等しいから、他者との関係を切ることは絶対にできない。しかし、左下の伝統的なリベラリズムでは縁切りが認められる(実際、日本には縁切り神社や縁切り寺がある)。相容れない主張も全部ひっくるめて、社会全体としては多様性を許容するのが伝統的なリベラリズムである。こうしたリベラリズムは共和制でも実現可能である。日本の場合は、「和」を象徴とする天皇を国家の戴に置くことで、伝統的なリベラリズムを表現している。

 もちろん、相手と縁を切ろうとしているのに、相手が物理的に自分を攻撃しようとしてくることもあるだろう。これは社会の安定を保つために何としてでも防がなければならない。そこで、法が必要となる。左下の象限で政府が大きくなるのは、こうした種々の法律を制定・運用する機構(立法府や行政府)を持たなければならないからである。

 一般的に左派と言えば、人々の格差を敬遠し平等を重視するか、国家権力を嫌い小さな政府を重視するかのどちらか、あるいはその両方である。よって、上記のマトリクス図のうち、左下を除く3つの象限が左派にあたる。昔、小泉純一郎政権は左派だと指摘した知り合いの中小企業診断士がいたが、彼の主張は今になって理解することができる。最近、小泉氏が突然脱原発派に転じたのは、小泉氏が本来的には左派であり、環境問題という外部不経済を再配分によって解決しようとする福祉国家とも親和性が高いと考えれば納得がいく。右派はわずかに左下に残るだけであり、政治思想的に見るとかなり分が悪い。

 ただし、右派は左派と完全に対立するべきでもない。右上の社会主義・全体主義は破壊的な思想なので除外するとしても、福祉国家とネオリベラリズムからは学ぶことができることもある。福祉国家は、強者から弱者へと富を再配分するために、膨大な法を策定している。伝統的なリベラリズムも法を策定するものの、元々人間の理性は不完全であるという前提に立っているため、法律も不完全である可能性がある。つまり、弱者を強者から守る法が不十分であるかもしれない。その時には、福祉国家が望ましい法律のあり方を教えてくれる。

 とはいえ、福祉国家に倣って法律を無制限に増やしていくと、政府の役割があまりにも大きくなりすぎる恐れがある。また、福祉国家の法律は平等を原則としているため、杓子定規に平等原則を貫けば、伝統的なリベラリズムにおける自由が制約されてしまう。そこで、ネオリベラリズムの出番である。ネオリベラリズムは小さな政府を志向しており、不要な法律は規制改革の名の下に葬り去る。伝統的なリベラリズムが抱えている法律について、自由に干渉しすぎる法律はどれなのか、ネオリベラリズムに指摘してもらうとよい。このようにして、右派=伝統的なリベラリズムは、左派(ただし、社会主義・全体主義を除く)と協調関係を築くことができるだろう。

2018年08月15日

DHBR2018年9月号『発想するチーム』―トップマネジメントチームにしかできない7つの仕事(2)


DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年9/号 [雑誌]DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー 2018年9/号 [雑誌]
ダイヤモンド社 DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部

ダイヤモンド社 2018-08-10

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 (前回の続き)

 (4)業績のモニタリング
 仕事をすればその結果を知り、改善につなげていくことはマネジメントの基本である。よって、業績のモニタリングもトップマネジメントチームの重要な仕事である。トップマネジメントチームは、価値観の浸透度合い、戦略の進捗、製品・サービスの販売量や品質に関する指標、研究開発、マーケティング、購買、製造、物流、営業、販売などの各種業務プロセスや、組織構造、人事制度、予算制度、情報システムといった企業のインフラがどの程度上手く機能しているかを判定する指標を持たなければならない。指標は多すぎても少なすぎてもダメである。デルはコックピット経営を導入していることで有名であったが、トップマネジメントチームがモニタリングしなければならない指標は100以上に上っていたという。これは人間の理解力を超えているだろう。

 仮に、先ほど挙げた各分野について、1分野につき3個の指標を設定したとすると(例えば、価値観の浸透度合いを測る指標を3個設定する)、全部で15分野×3個=45個となる。これでもまだ多い方かもしれない。同じくコックピット経営を導入しているカルビーが設定している指標の数はわずか20である。トップマネジメントチームが各指標について十分に議論するためには、このぐらいの数に絞った方がよさそうだ。目標管理制度が機能していれば、トップマネジメントチームの指標はミドルマネジメント、現場社員へと適切に展開されているはずであるから、細かい指標のモニタリングと改善については、ミドルマネジメントや現場社員に任せられるはずである。

 (5)日常業務の問題解決
 トップマネジメントチームがどんなに現場への権限移譲を進めても、現場では解決できない問題は生じる。こうした問題はトップマネジメントチームが解決するしかない。最近、フレデリック・ラルーの『ティール組織―マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版、2018年)という本が注目されている。同書については機会を改めて書こうと思うが、一言で言うと、ティール(進化型)組織では社員が皆経営者であり、各部門、各チームが自主経営を行っている点に特徴がある(同書は、権限はトップから部門・チームに委譲されるのではなく、初めから各部門・チームにあるという考えに立っているため、権限移譲という言葉を使っていない)。

 部門・チーム内、あるいは部門・チーム間の問題解決も、基本的には当事者に委ねられる。だから、トップマネジメントの仕事は非常に少ない。とはいえ、当事者だけではどうしても解決できない問題もあるから、ティール組織では「紛争解決メカニズム」という公式の手続きが定められており、トップマネジメントがこの手続きにコミットしていることが多いという。

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現
フレデリック・ラルー 嘉村賢州

英治出版 2018-01-24

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 トップマネジメントチームが日常業務の細かい問題にまで首を突っ込むのはやりすぎだと思われるかもしれない。しかし、トップマネジメントチームによる日常業務の問題解決には重要な側面がある。それは、悪い情報が現場から上がってくるルートを作っておくということである。言うまでもなく、衰退する組織では、現場がトップマネジメントチームにとって都合の悪い情報を隠蔽する体質ができ上がっている。それを防ぐために、トップマネジメントチームは日常業務の問題に関与し、組織に悪い芽が芽生えていないか目を光らせておかなければならない。

 もう1つの重要な側面として、現場からの例外情報を吸い上げるという点がある。前述の「(4)業績のモニタリング」で、トップマネジメントチームがモニタリングできる指標の数はせいぜい数十程度だと書いた。すると、トップマネジメントチームはその数十の指標に関する情報のみに敏感になり、それ以外の情報には疎くなる傾向がある。もしかすると、指標には表れないが、自社の経営を脅かす重要な兆候・変化が現場で起きているかもしれない。日常業務の問題解決に関与することは、そうした例外情報をキャッチする絶好の機会となる。重要な例外情報があれば、トップマネジメントチームはその情報が意味するところを議論し、必要に応じて価値観や戦略を見直して、それに伴い各種指標も再設定する必要がある。

 (6)取締役会・株主への対応
 取締役会はトップマネジメントチームの上司である。株主の代表として企業に送り込まれた取締役に対して、株主が投資した資金がどのように使われ、どのようなリターンを生み出したのかを説明する責任がトップマネジメントチームにはある。さらに、インプットとアウトプットのみに着目するのではなく、アウトプットを創出するプロセスが合理的であったかについても、取締役会に対して保証しなければならない。換言すれば、適切な部統制システムを整備し、運用するということである。加えて、トップマネジメントチームが新たな投資で資金を必要とする場合も、目的と目指すべき成果は何か、その成果をどのようなプロセスで創出するのか、成果を得るためにはいくらの資金が必要なのかを、取締役会に対して論理的に説明する義務を負う。

 ただし、特に日本企業の場合はそうだが、トップマネジメントチームのメンバーが取締役を兼ねているケースが多く、上記のような説明責任が上手く果たせないことがある。その場合は、直接株主に対して説明責任を果たす(それでも、中小企業のように、株主=代表取締役社長となっているオーナー企業では難しい)。株主と経営者の関係は、プリンシパル(本人)とエージェント(代理人)の関係に例えられることがある。この場合、プリンシパル=株主のエージェントである経営陣は、株主の意向通りに企業を経営しなければならないことになる。しかし、実際には、経営陣に一定の裁量が認められているのが普通である。トップマネジメントチームは、どういう考えの下にその裁量を発揮したのか、株主に対して適切に説明することが求められる。

 (7)社会的責任(CSR)の遂行
 企業に社会的責任を要求する声はますます高まっている。社会的責任の概念自体はさほど新しいものではなく、ドラッカーが半世紀近く前に既に言及している。ドラッカーは、「自社が責任を持てない分野には手を出すべきではない」と述べて、社会的責任の範囲をかなり限定していた。だが、資本主義の機能不全により社会問題が噴出すると、そうも言っていられなくなった。資本主義の担い手は企業である。だから、昨今の社会問題を引き起こしている原因も企業にある。これまで、そのような社会問題は、行政やNPOが解決するものとされてきた。ところが、行政の考え方は、弱者を救済するという目的で価格を安く設定する代わりに、NPOに対して補助金を与えるというものである。しかし、私が知る限り、補助金頼みのビジネスは例外なく腐敗する。というのも、顧客が市民なのか補助金をもらっている行政なのかが解らなくなるからだ。

 結局、社会問題の解決は、その問題を生み出した企業に期待されることになった。ドラッカーは資本主義は富の偏在を招くとして敬遠していたものの、近代以前から続く自由市場主義のことは信頼していた。社会問題はなかなかお金にならない領域であるが、企業はマネタイズの方法を知っており、事業のマネジメントのノウハウを持っている。企業は、自由市場主義の原則に基づいて、社会問題の解決に乗り出さなければならない。社会問題の解決とは、今まで市場にならなかった分野を市場化するという意味で新市場の創造であり、イノベーションの一種である。したがって、前述の「(2)戦略の構想」の延長線上で、トップマネジメントチームの仕事となる。CSR部門を作って、そこに一任しておけばよいという話ではない。

 社会問題はなかなかお金にならないと述べた。ということは、企業が社会問題の分野で自社の事業規模に見合った事業を育て上げるためには、相当広範囲にまたがって社会問題の解決に取り組む必要があることを意味する。本号には、ロバート・キャプラン、ジョージ・セラフェイム、エドゥアルド・トゥーゲントハット「企業の枠を超えたパートナーシップを構築する インクルーシブ・グロース実現への道」という論文がある。本論文によれば、企業のCSR活動の多くが失敗したのは、規模が小さすぎる、もっと単刀直入に言えば「野心」が足りなさすぎるためだという。その場しのぎの対処療法ではなく、政府やNPO/NGOなど異なるセクターのプレイヤーと手を取り合って、社会全体の新しいエコシステムを描き直すくらいのつもりでなければならない。こうしたイノベーションを実行できるのは、トップマネジメントチームしかいない。

 以上が、私の考えるトップマネジメントチームに固有の7つの仕事である。次の問題は、これらの仕事をチームメンバー間でどのように分担するかということである。個人的には、厳格な役割分担をしない方がよいのではないかと思っている。

 本号の後半には、性格テストに関する論文が収められていた。性格テストと言うとMBTIやFFMなどが有名であるが、近年は脳科学をベースとした性格テストが登場しているようだ。スザンヌ・M・ジョンソン・ビックバーグ、キム・クライストフォート「脳科学で見極める4つの性格タイプ」によると、人間の性格は①パイオニア(先導役)、②ドライバー(牽引役)、③ガーディアン(見守り役)、④インテグレーター(まとめ役)という4つに分けられる。例えばパイオニアとガーディアンは対立関係にあるが、チームに両者が存在するとお互いの役割を補完し合い、チーム全体のパフォーマンスを向上させることができるという。

 また、ヘレン・フィッシャー「脳の働きを理解すれば誰とでもうまくやっていける」によると、人間の性格特性には、①ドーパミン/ノルアドレナリン、②セロトニン、③テストステロン、④エストロゲン/オキシトシンという4種類のホルモンが関係しているそうだ。ドーパミン系が多い人は好奇心、創造性、自発性、熱意にあふれている。セロトニンが多い人は社交性が強く、集団に帰属しようとする傾向が強い。テストステロンが多い人は現実的、率直、決然、疑い深い、きっぱりと主張するといった特徴があり、エンジニアリング、力学、数学など規則性のある分野で力を発揮しやすい。エストロゲン/オキシトシンが多い人は直感的、想像にふける、信じやすい、共感しやすい、状況を基に長い目で物事を考えるという傾向が見られる。ここでも、それぞれのホルモンの特徴を活かしてチームを構成することが重要であるとされている。

 ただ、私は個人の性格をまるでパズルのように組み合わせるという考え方はあまり受け入れられない。パズルが静的で完全であれば、各ピースを隙間なく並べられるだろう。だが、トップマネジメントチームの仕事は動的である。チームの仕事が変化したのに、あるメンバーが「自分の仕事はこれだけである」と限定してしまうと、メンバーの誰も手をつけない仕事が生じる恐れがある。だから、一見非効率かもしれないが、メンバーの仕事はある程度重複していた方がよい。やや異なる分野の研究になるものの、新製品開発においては、マーケティング担当者と開発担当者のタスクが重複している方が、そうでない場合よりも高い成果を上げられるという報告もある(川上智子『顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス』〔有斐閣、2005年〕)。トップマネジメントチームの仕事にとっても示唆的な内容だと思う。

顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス
川上 智子

有斐閣 2005-08-01

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