プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2013年01月24日

【戦史検定】初級セミナーノート~陸軍編~(※過去問代わりにご活用ください)


戦史検定」は、NPO法人JYMA日本青年遺骨収集団、および近現代史研究会 -PandA会-が主催する検定試験であり、ノモンハン事件、支那事変、大東亜戦争が試験範囲となっている。受検料の一部は、海外の戦場に建立された多くの慰霊碑や顕彰碑の保全、修復に充てられる。近年、外国人旅行客(特に中国人・韓国人)によって、こうした慰霊碑が取り壊されるという事態が増えているそうで、戦史検定を通じた慰霊碑保全運動は重要な意義を持っていると思う。

 私は昨年、この戦史検定の初級を受験した。恥ずかしながら、私は戦争についての知識をほとんど持ち合わせていなかったため、試験前日に戦史検定の実施スタッフによって開かれた「初級対策セミナー」に出席した。初級は、太平洋戦争研究会編著『オール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて』を一通り読んだ上で、この初級対策セミナーを受講すればほぼ間違いなく合格できる、というのが私の印象である。なお、私は中・上級は受けなかったのだが、中・上級になると後藤寿一『図解 太平洋戦争』(西東社、2007年)レベルのより高度な知識が要求されると思われる。

 今回と次回の記事では、その「初級セミナー」の内容を、記事最下部の参考図書やインターネット(主にWikipedia)の情報を補完しながらまとめておく。戦史検定の過去問はネット上で公開されていないため、このノートが戦史検定の受検を検討している皆様の参考になれば幸いである(このノートを読んで合格できなかったからとしても文句を言わないでね、笑)。

【戦史検定】初級セミナー陸軍編(1)【戦史検定】初級セミナー陸軍編(2)

 (※)服部卓志郎『大東亜戦争全史』第1巻(1953年)中の地図に一部加筆して作成した。この本が置いてあった図書館では白黒コピーしかできなかったので、地図中で陸軍と海軍の色の区別がつかなくなってしまった点はご容赦ください。また、コピー機の事情で地図が左右で二分割されている点もお許しください(左右の画像それぞれをクリックし、拡大表示させてください)。

(1)ノモンハン事件
■背景:清朝が1734年に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10~20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。1939年にこの係争地で起きた両国の国境警備隊の交戦を機に、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。
■年月日:1939年5月11日~9月16日
■指揮官:(日)小松原道太郎 VS (ソ)ゲオルギー・ジューコフ
■結果:ソ連軍の勝利
■ポイント:
・ソ連側は二正面作戦を避けるために、独ソ不可侵条約によってドイツによる背面攻撃の可能性を断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性を持って対応した。一方、日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜けず自重するように指導した。そのため、関東軍という出先軍の辻政信服部卓四郎など一部の参謀の独断専行による対応に終始した。
・戦闘自体は日本軍の敗北だが、航空戦では九七式戦闘機の活躍によりソ連に勝利している。


(2)マレー作戦
■背景:対英米開戦時における日本軍の最大の目標は、蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)の石油、天然ガス、ゴムなどの天然資源の獲得にあった。開戦時の作戦計画である南方作戦の基本構想は、イギリス領マレーとアメリカ領フィリピンを迅速に奪取し、これらを踏み台として蘭印を攻略して資源を確保するとともに、スンダ列島に防衛線を形成するというものであった。
■年月日:1941年12月8日~1942年1月31日
■指揮官:(日)山下奉文 VS (連)アーサー・パーシヴァル
■結果:日本軍の勝利
■ポイント:
・1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アメリカ領ハワイの真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、いわゆる太平洋戦争はこの時間に開始された。
・日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。
・日本の新聞は、山下奉文の勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評した。


(3)フィリピンの戦い
■背景:南方作戦の一環として実施。フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。日本は1923年に帝国国防方針を改定してアメリカを仮想敵国の第一位としており、対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う必要があった。
■年月日:1941年12月8日~1942年5月10日
■指揮官:(日)本間雅晴 VS (連) ダグラス・マッカーサー、 ジョナサン・ウェインライト、マヌエル・ケソン
■結果:日本軍の勝利
■ポイント:
・ダグラス・マッカーサーはバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。マッカーサーは敗戦後、"I shall return."という名言を残してオーストラリアへと撤退した。


(4)蘭印(現インドネシア)作戦
■背景:南方作戦の最終目的である蘭印の天然資源獲得のための戦闘。
■年月日:1942年1月11日~3月9日
■指揮官:(日)今村均 VS (連)アーチボールド・ウェーベル、ハイン・テル・ポールテン
■結果:日本軍の勝利
■ポイント:
①タラカン⇒②バリクパパン⇒③バンジェルマシン⇒④アンボン⇒⑤パレンバン⇒⑥バリ島・ティモール島⇒⑦ジャワ島の順番でインドネシアを制圧した。
・蘭印作戦では、陸海軍の落下傘部隊が活躍した。陸軍の落下傘部隊はパレンバンに、海軍の落下傘部隊はメナドに上陸した。


(5)シンガポールの戦い
■背景:南方作戦の一環として実施。
■年月日:1942年1月31日~2月15日
■指揮官:(日)山下奉文 VS (連)アーサー・パーシヴァル
■結果:日本軍の勝利


(6)ポートモレスビー作戦
■背景:日本軍は、南方作戦に続く第2次の作戦については方針が定まっていなかった。海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。その海軍が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第2にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。

 陸軍は、あくまで日中戦争(支那事変)解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって、大兵力を中国の支那派遣軍や、満州の関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。

 ここで企画されたのが米豪遮断作戦である。この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)と、ニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)から成るものであった。MO作戦に関しては、ソロモン諸島ツラギの攻略こそ成功したものの、肝心の海路によるポートモレスビー攻略を珊瑚海海戦(※「【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~」を参照)でアメリカ海軍に妨害され海軍は中止してしまった。さらに、同年6月に生起したミッドウェー海戦(※「【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~」を参照)における海軍の敗北が影響して、FS作戦は中止されることになった。これによって、ソロモン諸島・ニューギニア方面における日本軍の拠点であるラバウル基地は一層重要度を増した。それは、ラバウルの安全を脅かすポートモレスビーの攻略が重要性を増すのと同義であった。
■年月日:1942年3月7日~1943年1月23日
■指揮官:(日)百武晴吉、安達二十三、堀井富太郎南海支隊長)、小田健作 VS (連)ロバート・アイケルバーガー、バジル・モリス、シドニー・ラウェル
■結果:アメリカ・オーストラリアの勝利
■ポイント:
・日本陸軍は東部ニューギニアのオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を越え、直線距離にして220キロを陸路で侵攻する予定であったが、現地の地理を把握していなかった南海支隊はこれを越えられなかった。


(7)ガダルカナル島の戦い
■背景:先のFS作戦遂行にあたって5月に前進飛行場の建設地とされたのが、ガダルカナル島であった。ところが、海軍はミッドウェー海戦において主力航空母艦4隻を失うこととなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなった。しかし、守勢に回ったとしてもソロモン諸島における制空権拡張は必要であり、ラバウル以南の前進航空基地を建設するため、ガダルカナル島に飛行場が建設されることとなった。

 大本営は、連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島に戦闘能力のある人員を十分に配置していなかった。しかし日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦を発令し、7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への布石が打たれた。
■年月日:1942年8月7日~1943年2月7日
■指揮官:(日)百武晴吉、塚原二四三、一木清直、川口清健 VS (連)アレクサンダー・ヴァンデグリフト、リッチモンド・K・ターナー
■結果:連合軍の勝利
■ポイント:
・戦闘に必要な兵力は、当時の日本軍の海上輸送能力を超えていたため、駆逐艦による「ねずみ輸送」を行わざるを得なかった。連合国軍はこれを「東京エキスプレス」と揶揄した。


(8)アッツ島の戦い
■背景:日本軍は1942年6月に海軍のミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島のアッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称した。アッツ島には第7師団の穂積部隊約1,000名を配置したが、アッツ島部隊はアメリカ軍がキスカ島に上陸するという情報を受け、9月18日にキスカ島に移転した。

 しかしアッツ島を無人にするわけにもいかず、アメリカ軍の空襲に遭いながらも米川部隊2,650名が進出してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。1943年になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。4月18日に守備隊司令官として山崎保代大佐が着任した。
■年月日:1943年5月12日~5月29日
■指揮官:(日)山崎保代 VS (連)トーマス・キンケイド
■結果:アメリカ軍の勝利
■ポイント:
・「玉砕」という言葉が初めて使用された戦闘である。


(9)キスカ島撤退作戦
■背景:アッツ島の陥落により、キスカ島はアッツ島とアメリカ軍飛行場のあったアムチトカ島に挟まれて孤立無援状態となり、退くに退けず、待つのは死か降伏かという状態になってしまった。大本営でもこの状況は把握していたが、アッツ島にアメリカ軍が上陸した時点で増援を送ることは地理的にも兵力的にもほぼ不可能に近く、まだ守備隊が戦っていた5月20日にはアリューシャン方面の放棄が決定した。
■年月日:1943年7月29日
■指揮官:(日)古宇田武郎木村昌福 VS (連)トーマス・キンケイド
■結果:日本軍がキスカ島から撤退
■ポイント:
・陸軍は連合軍に全く気づかれずに撤退を遂げ、「奇跡の撤退」と呼ばれた。


(10)インパール作戦
■背景:日本軍は1942年5月にビルマを占領したが、翌年2月になって約3,000名の英印軍が進入した。この部隊は、イギリス軍の基地があるインド領インパールを根拠地にしていた。その進入部隊は撃退したものの、再び進入できないようにインパール自体を奪おうというのが作戦の発端である。援蒋ルート(主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国の蒋介石を軍事援助するための輸送路)の遮断も戦略目的であった。
■年月日:1944年3月8日~7月3日
■指揮官:(日)牟田口廉也 VS (連)ウィリアム・スリム
■結果:英印軍の勝利
■ポイント:
・インパール進出の難しさは初めから解っていた。乾期でも300メートルも幅があるチンドウィン川を渡り、標高2,000メートルから3,000メートルもあるアラカン山脈を踏破するのには、補給が続かないことは明白だった。牟田口が補給不足打開として考案した、牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成してともに行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようという、いわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川を渡る時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により、兵士が食べる前にさらに脱落したちまち破綻した。
・退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい様子を、日本兵は「白骨街道」と表現した。


(11)サイパンの戦い
■背景:1943年から1944年前半にかけて、連合国軍はソロモン諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島、ニューギニア島のパプア半島を攻略し、カロリン諸島、パラオ諸島、マリアナ諸島へ迫った。マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29を配備すれば、東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収めることができる位置にあるため、戦略的に重要であった。

 日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年秋に大本営は絶対国防圏小笠原諸島サイパン島を含むマリアナ諸島トラック島を含むカロリン諸島を経てニューギニア北岸に至る東の要衡)を定め、サイパン島をその中核拠点とした。海軍が絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になって慌てて防備強化が図られた。
■年月日:1944年6月15日~7月9日
■指揮官:(日)南雲忠一小畑英良 VS (連) リッチモンド・ターナー、ホランド・スミス
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
・サイパン島を落としたことでB-29の飛行場が建設される。これにより、アメリカ軍は日本本土攻撃が可能となった。


(12)ペリリュー島の戦い
■背景:ペリリュー島はパラオ諸島に属し、当時は日本の委任統治領であった。日本軍はここに当時としては東洋一とも言える飛行場を建設していた。サイパンやグアムを占領したアメリカ軍はその飛行場を利用するため、1944年9月15日にペリリュー島に上陸した。日本が占領していたフィリピンを爆撃する飛行場確保のためであった。
■年月日:1944年9月15日~11月25日
■指揮官:(日)中川州男 VS (連)ウィリアム・リュパータス、ポール・ミュラー
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
水戸歩兵第2連隊による徹底抗戦が注目される。大本営より米軍の戦法についての情報伝達を受け、珊瑚礁でできたコンクリート並みに硬い地質を利用し、500以上に及ぶといわれる洞窟の要塞化など持久戦に備えた強固な陣地を築き、米軍の上陸に備えた。これはサイパン島の戦いとは全く異なる戦法だった。


(13)フィリピンの戦い
■背景:1944年6月のマリアナ沖海戦(※「【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~」を参照)は日本の敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥してマリアナ諸島の喪失も確実なものとなった。大本営は新たな防衛計画「捷号作戦」を立案し、地域別に捷一号から捷四号と名付けられ、このうちフィリピン方面の防衛作戦が捷一号作戦とされた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が遮断されることであり、戦争全体の敗北につながるものであった。
■年月日:1944年10月~1945年8月
■指揮官:(日)山下奉文 VS (連)ダグラス・マッカーサー、オスカー・グリスウォールド、セルヒオ・オスメニャ
■結果:連合国の勝利
■ポイント:
・直前に行われた台湾沖航空戦で、大本営は「米機動部隊は全滅した」と発表した。しかし、これは完全な誤報だった。海軍は後に堂々たる米空母部隊を発見し、戦果の判定をやり直したところ、沈没した米空母は一隻もないだろうとの結論に達した。しかし、海軍はこの事実を国民に知らせなかったばかりか、陸軍にも通報しなかった。陸軍も山下奉文らが独自に調査したところ、やはり大本営発表の戦果は誤りであるとの結論を得たが、この重大な情報は握りつぶされてしまった。そのため、レイテ島に上陸した米軍を、「ぼろぼろになって逃げ込んだ残敵にすぎない」と陸軍は判断し、無謀なレイテ決戦を強行することになった。



(14)硫黄島の戦い
■背景:レイテ沖海戦(※「【戦史検定】初級セミナーノート~海軍編~」を参照)において、日本海軍は大敗北を喫したため戦闘能力はなくなり、アメリカ軍が台湾を攻略することの戦略的な価値は下がった。そこで、より効果的な日本本土への戦略爆撃を可能にするため硫黄島攻略の計画が浮上し、これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊による硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。
■年月日:1945年2月19日~3月26日
■指揮官:(日)栗林忠道、千田貞季、市丸利之助 VS (連)リッチモンド・K・ターナー、ホーランド・スミス、ハリー・シュミット
■結果:アメリカの勝利
■ポイント:
小笠原兵団による徹底抗戦が注目される。栗林忠道はペリリュー島の戦いでの中川州男の作戦を発展させ、各地に洞窟を作り、アメリカ兵にゲリラ攻撃を仕掛けることにした。栗林は兵士に「一人十殺」を誓わせ、「最後の一人となってもゲリラとなって戦わん」と敢闘の精神を斉唱させて士気を高めた。
・2月23日午前10時15分、アメリカ軍はついに摺鉢山頂上へ到達し、星条旗を掲揚した。しかし翌朝、気がつくと山頂には星条旗ではなく日章旗が翻っていた。 米軍は早速、日本兵がまだ潜んでいると思われる山頂周囲の壕や穴の中に、片っ端から手榴弾を投げ入れて火炎放射器を使った。 そして再び星条旗を掲げ直し、その星条旗は24日はそのまま掲げられていた。 ところが翌25日の早朝に摺鉢山頂上ではためいていたのは、またも日の丸の旗であった。 これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がいて、夜中に密かに星条旗を引きずり下ろし日の丸と差し替えた証しであった。 旗は昨日の日章旗より少し小さい四角で、おそらく急拠作成した血染めの日の丸ではないかと思われた。 その後の戦闘で、摺鉢山頂上の旗が日章旗に代わることはもうなかった(摺鉢山の場所は要チェック)。


(15)沖縄戦
■背景:アメリカ軍の目的は、日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地軍は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦(持久戦)」を意図するという不統一な状況であった。
■年月日:1945年4月1日~6月23日(※この年月日は重要)
■指揮官:(日)牛島満、長勇、大田実 VS (連)サイモン・B・バックナー、ブルース・フレーザー、レイモンド・スプルーアンス、ジョセフ・スティルウェル
■結果:連合国の勝利
■ポイント:
・第二次世界大戦における日本国内での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。「国内唯一の地上戦」と称される事があるが、内地である千島列島における占守島の戦いや樺太の戦い、当時は日本の委任統治下だった南洋諸島におけるサイパンの戦いなども発生していることから、必ずしも正確な表現ではない。
・大田実は6月6日、海軍次官宛に有名な『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決した。


《参考図書》

オール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべてオール図解 30分でわかる太平洋戦争―太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて
太平洋戦争研究会

日本文芸社 2005-07

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図解 太平洋戦争 (歴史がおもしろいシリーズ!)図解 太平洋戦争 (歴史がおもしろいシリーズ!)
後藤 寿一

西東社 2010-07

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大東亜戦争全史大東亜戦争全史
服部 卓四郎

原書房 1996-06

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