プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2013年02月19日

相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(1)


歴史が面白くなる 東大のディープな日本史歴史が面白くなる 東大のディープな日本史
相澤 理

中経出版 2012-05-15

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 東京大学の日本史の問題は大問が4つ、全て論述である。しかも、単なる知識を問うことはなく、複数の時代にまたがる社会制度の変遷について問うものが多い。そして、なぜそのような変化が生じたのか?その変化の結果どうなったか?を尋ねてくる。かといって、教科書以外の知識を要求しているわけではない(それをやると学習指導要領を超えてしまい、悪問扱いされてしまう)。教科書にはちゃんと書いてあることばかりだ。しかし、ゴシック体になっておらず、さらりと文章で書いてあるところを出題者は突いてくる。それが東大日本史の特徴である。

 本書はそんなディープな東大日本史の魅力に迫るものだが、本書を読んで日本の歴史のある特徴に気がついた。それは、権力の多重構造が、かえってシステムの安定化に寄与しているという点である。通常、権力が多層化すると内部分裂してシステムが崩壊しそうなものだ。ところが、日本ではそれとは逆の現象がしばしば起きている。

(1)古代:律令国家
 律令制の下においては、全国は畿内と七道の行政区に分けられ、さらにその下に国・郡・里が設けられた。国は朝廷が恣意的に設定した行政区画であり、天武天皇の時代に成立したと考えられている。その国の民政・裁判を司るのが国史であり、都から中下級貴族が派遣された(任期は6年、後に4年に短縮された)。

 一方、郡は地方豪族の勢力範囲に応じて設定された行政区画である。6世紀のヤマト政権の時代から、在地の首長層であった地方豪族は国造に任命され、地方官としての役割を果たしてきた。7世紀半ばの改新政府がこれを受け継ぐ形で評(こおり)を設置し、8世紀初めの大宝律令で郡に改められた。こうした経緯から、郡の民政・裁判を司る郡司に任命されたのは、在来の地方豪族であった。国司と異なり、終身制で世襲も認められた。郡司は戸籍・計帳の作成や笞罪の執行など、末端実務を行う権限を与えられた。

 ちなみに、日本が律令制を真似た中国では、秦代の郡県制が地方自治のベースとなっている。郡には守(知事)、丞(副知事)・尉(軍事・警察長官)・監(郡県官吏の監察)が、下位の県には県令・県正が中央から派遣され、各地方行政単位を皇帝の代官として統治した。郡守以下の各官吏はランクに応じて一律に国家から俸給を支給され、一定任期で配置替えとなり、ポストの世襲は許されなかった。現在の中国は、郡の上に省、県の下に郷が加わり4段階になっているが、地方政府がすべて国家機関であり国家公務員が配されるなど、郡県制の基本は貫かれている。つまり、完全な中央集権国家を貫いている(「東アジアの地方自治・試論」を参照)。

 これに対して、古代日本は、中央の権力と地方の権力をミックスさせた形を採った。朝廷は自らの権力を地方の隅々にまで一方的に押しつけるのではなく、むしろ各地で求心力を持つ地方豪族の力を利用しながら、律令国家の完成を目指したのである。

(2)平安時代:摂政
 摂政は、幼少の天皇などに代わって政務を執り行う者のことである。もとは聖徳太子など皇族が就くものであったが、866年に藤原良房が人臣として初めて摂政となった。以降、藤原北家は娘を皇后として立て、天皇の外戚(母方の親戚)になることでその地位を保持した。それは、私的な関係により天皇の政治権力を奪ったようにも見えるが、外祖父が政務を執りしきることで、幼少の天皇の即位を可能にし、皇位継承の安定に貢献したという面もあった。

 ところで、摂政というと、「摂関政治」という言葉でセットにされている関白が想起されるが、関白は天皇が成人した後に後見役として万機に「関(あずか)り白(もう)す」者のことである。884年に光孝天皇の即位に際して藤原基経(良房の養子)が事実上の関白になり、887年の宇多天皇の詔で初めて関白の語が使われた。

 しかし、重要なのは関白という地位ではなく、天皇と外戚関係にあるかどうかであった。事実、関白であった藤原実頼・頼忠は、天皇との外戚関係がなかったことから、朝廷の人々から軽視された。また、摂政も、実のところ地位的な重要性はさほどなかったようだ。摂関政治の代名詞とも言える藤原道長は、4人の娘を皇后としていながら、摂政を務めたのは晩年の1年間のみである。関白に至っては、「御堂関白」と呼ばれたにもかかわらず、その座に就いたことがない。

 (続く)

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