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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2013年02月20日

相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(2)


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相澤 理

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 (前回の続き)

(3)鎌倉時代:執権政治
 1219年、3代将軍の源実朝が暗殺されて源氏の正統が断絶すると、幕府は頼朝の妹の外孫にあたる当時わずか2歳の藤原(九条)頼経を京都から迎え、承久の乱(1221年)を経て1226年に4代将軍となった。これを摂家将軍と呼ぶ。この時幕府は天皇家からの招聘を望んでいたが、後鳥羽上皇に拒否された。皇族将軍は、1252年に宗尊親王を6代将軍として迎えたことで実現した。鎌倉幕府の将軍は、9代将軍の守邦親王が最後である。

 北条氏は源氏の血筋が途絶えたため将軍となるチャンスがあったにもかかわらず、このように摂家将軍・皇族将軍を立てて、自ら将軍となることはなかった。代わりに「執権」という座について、後見の立場から幕府の実権を握った。執権は、実は幕府の正式な職名ではない。1203年、尼将軍北条政子の父である北条時政が、3代将軍に源実朝を立てて幕府の実権を握った際に、自らの地位を執権と称したのが始まりである。

 なぜ北条氏は将軍にならなかったのか?いや、正確にはなれなかったと言う方が正しい。中世の社会には、貴種(清和源氏・桓武平氏など天皇家をルーツとする血筋の尊い武士)―国司(中下級貴族)―有力農民というピラミッド構造が存在する。北条氏は、後醍醐天皇の皇子護良親王から、「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷ども」と呼ばれたように、一介の在庁官人にすぎなかった。在庁官人とは、国司が現地の有力者から任命した下級役人のことである。しかも、幕府草創期を支えた三浦氏・千葉氏などの有力御家人と比べても格下であった。

 歴史にもしもは禁物かもしれないが、もしも北条氏が将軍になっていたら、全国の武士の支持を集めることができず、再び源平の争乱の時代のように、全国が戦に巻き込まれていったかもしれない。北条氏が自らの身分をわきまえて執権という立場に収まったことが、源氏がたった3代で途絶えたにもかかわらず、鎌倉時代は約140年も続いた要因の一つとも言えそうである。

(4)江戸時代:公武二元支配
 鎌倉時代から朝廷と幕府の両者が統治にあたるという「公武二元支配」が続いていたが、それが最も長く続いたのが江戸時代である。江戸幕府は朝廷に対して、統制、融和、利用の3つの姿勢をとった。具体的には、禁中並公家諸法度を発して公家勢力の政治的発言力を抑制する一方、伊勢例幣使(※1)の再興など朝廷を経済的に支援して朝廷との融和を図り、神号勅許(※2)や日光例幣使(※3)の派遣など朝廷の伝統的な権威を利用しようとした。

 (※1)朝廷から伊勢神宮に毎年派遣された使い。15世紀以来中絶していた。
 (※2)朝廷が日光東照社に宮号を勅許したことを指す。この結果、日光東照宮となった。
 (※3)日光東照宮への礼拝のため、朝廷から毎年派遣された使い。朝廷の東照宮に対する崇敬を示す。

 中世以降、実権は完全に武士が握っていたにもかかわらず、天皇を廃絶しようとする権力者は現れなかった。それは、武士のルーツが天皇家にあるからであり、天皇を滅ぼすことは武士の正統性を自らの手で否定することにつながるためであろう。

 ちなみに、日本の歴史上で、天皇を超えよう、天皇に変わろうとしたのは平将門しかいない。10世紀半ば、私領をめぐる一族の内紛から兵を挙げた将門は、常陸・下野・上野の国府を攻略し、自ら「新皇」と称した。しかし、朝廷から派遣された藤原秀郷・平貞盛(将門が殺害したおじの国香の子にあたる)に鎮圧された。

(5)近代:元老
 大日本帝国憲法における国家体制は、統治権の総攬者である天皇の下に、内閣の他、帝国議会、枢密院、陸軍参謀本部、海軍軍令部といった諸機関が横のつながりのないまま独立して存在していた。その諸機関の調整役となったのが、非公式の天皇の最高顧問である元老である。伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義ら政府の功労者は、第一線から退いた後に元老の座に収まり、政界に対して隠然たる影響力を持った。

 こう書くと元老が黒幕のように思えるが、実は「憲政の常道」と当時信じられていた政党政治を実現させたのは、元老の力によるものである。大日本帝国憲法は、制度上は議院内閣制を採用していない。しかし、1924年の総選挙で護憲三派が圧勝した時、最後の元老となっていた西園寺公望が加藤高明を首班に指名し、その後も政党内閣を支持し続けた。犬養毅が五・一五事件(1932年)で倒れるまでのわずか8年間だったが、二大政党による政権交代が実現していた。その西園寺が1940年に亡くなり、翌年に初の現役陸軍大将である東条英機首相が誕生すると、日本は太平洋戦争へと突入していったのである。

 以前の記事「【ドラッカー書評(再)】『現代の経営(上)』―実はフラット化していなかった日本企業」で、日本企業の階層がむしろ多層化している可能性を指摘した。マネジャー層の多重構造は、組織のフラット化をよしとするアメリカ流の経営学に従えば何とも非効率ということになるが、もしかしたら日本企業の場合は何らかの必然性があるのかもしれない。

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