プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2013年05月07日

内田樹『日本辺境論』―U理論の宇宙観に対する違和感の原因が少し解った


日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹

新潮社 2009-11

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 水曜どうでしょう藩士でもある内田樹教授の本。本書の骨格はいたってシンプルだが、それを裏づける論証は実に多岐に渡る。すなわち、
 ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている
という日本人=「辺境人」、もっと解りやすく言えば、「他国をお手本とすることでしか自らを変えることができない」という日本人の特性を、思想史家・丸山眞男、民族学者・梅棹忠夫、法社会学者・川島武宜に始まり、澤庵禅師や新渡戸稲造、さらには武道や宗教、果ては養老孟司のマンガ論まで幅広いテーマを扱いながら論じている。その中でも個人的に印象に残ったのは、日本人と西洋人の「学び」の構造を比較している部分だ。
 「その意味を一義的に理解することを許さぬままに切迫してくるもの」について、「理解したい。理解しなければならない」ということが先駆的に確信されることが「学ぶ」という営みの本質をなしている。その前提については洋の東西では違いはありません。
と著者は前置きをした上で、「学び」を「胎児」の成長に例えたヘーゲルと、「果実」に例えたハイデガーの思想を紹介している。
 胎児はやがて人間になるはずであり、その下絵が胎児のうちにすでに書かれており、胎児はその下絵をそれと知らずに忠実にトレースしているのである、というのがヘーゲルの考え方です。胎児から人間への「命がけの跳躍」と見えるものは、実際には生物学的下絵が描かれている。ですから、主観的には「跳躍」でも、客観的には決められた道筋を歩んでいることになる。(中略)

 ヘーゲル的に言えば、「学び」というのは、本質的には自己発見だということになります。自分の中にすでに置いてあったものをあとから発見する。もともと設計図に書いてあった自分と、実際に構築された自分がぴたりと合致する。それが自己の成就である、と。
 ハイデガーもやはり、学ぶものは学ぶに先んじて、学ぶべきものについての一覧的なリストを、自分がそうなるべき姿の「下絵」をすでに潜勢的に所有していると考えているのではないかと思います。現に、ハイデガーは現存在の本態的なあり方を「熟す」という言い方に託したことがあります。(中略)

 「果実」の比喩はヘーゲルの「胎児」の比喩と本質的には同じです。果実のDNAのうちには熟果に至る全行程の下絵がすでに書き込まれている。だから、それが未熟なまま落果したとしても、それの熟果としての完成形は権利上は先取りされている、と。
 ヘーゲルもハイデガーもまともに勉強したことがない自分が、このまま話を続けることの危険性を承知の上で言えば、西洋人にとっては、「学ぶべきこと」は「アプリオリ」として生まれた時から(あるいは生まれる前から(?))人間の中にインプットされており、「学び」とはそれを引っ張り出してくる営みである、ということになる。これは日本人には理解しがたい発想だ。日本人は、「学ぶべきことは誰か他の人が与えてくれるもの」と考える。そしてまさにこの姿勢こそが、「他国をお手本とすることでしか自らを変えることができない」辺境人の生き方そのものである。こうした西洋の思考構造の違いを、著者は宇宙観の違いに求める。
 「帰還」や「円環」の比喩(※ヘーゲルが「学び」を描写するのに用いた表現)は、自分たちが「世界の中心」であるという宇宙観になじんだ精神にとっては違和感のないものでしょう。けれども、自分たちは世界の中心だったことが一度もない集団(※つまり日本人)には身に添わないものです。
 ここまで読んで、私がかねてから「U理論」に対して抱いていた一種の違和感の正体が少し解った気がする。U理論とは、「学習する組織」で知られるピーター・センゲらが近年取り組んでいる理論であり、従来のリーダーシップ論とは異なる新しい変革の理論である。その詳細は旧ブログの記事に譲るとして、U理論の前提となっている考えについて簡単に述べておきたい。

 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(1)-『出現する未来』
 ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた(2)-『出現する未来』

出現する未来 (講談社BIZ)出現する未来 (講談社BIZ)
P. センゲ O. シャーマー J. ジャウォースキー 野中 郁次郎 高遠 裕子

講談社 2006-05-30

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U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
C オットー シャーマー C Otto Scharmer 中土井 僚

英治出版 2010-11-16

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 U理論の基礎となっているのは、物理学者デイビッド・ボームが提唱した「内蔵秩序」という概念である。内蔵秩序とは、平たく言えば「宇宙」、「全体」であり、我々が普段目にする世界=「顕前秩序」を生み出す源泉である。内蔵秩序は精神と物質の区別すらない「統合」された世界であるのに対し、顕前秩序は近代的、デカルト的な「分析」が支配する世界であり、精神と物質は分離され、さらに社会は人間の諸活動によって細分化されている。

 ボームは、人間は誰でもこの内蔵秩序につながることができると主張する。我々が意識のレベルを上げて内蔵秩序へアクセスする時、自分と他者という境界が崩れ、「我々は皆一体である」という感覚が得られる。すると、顕前秩序で起きている様々な問題を解決へと導く革新的な方向性を、内蔵秩序が「教えてくれる」。内蔵秩序は、人間の「大いなる意思」を包摂する世界であり、「世界が望む通りに世界を実現させることができる」。そのための一連のアプローチを、ボームは「ダイアローグ(対話)」というコンセプトでまとめた。

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ
デヴィッド・ボーム 金井真弓

英治出版 2007-10-02

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 「内蔵秩序」からおのずと答えが出てくる―この部分が私の中ではどうしても引っかかっていた。あらゆる知を包摂する内蔵秩序など本当に存在するのか?そして、人間が内蔵秩序と一体となり、内蔵秩序の知を利用することは果たして可能なのか?西洋人ならばこうした疑問は出てこない。なぜならば、人間は宇宙の中心である。宇宙はあらゆる知を持っている。よって、宇宙の中心にいる人間はあらゆる知を入手できる、という三段論法が成立するからだ。

 しかし、日本人の宇宙観はこれとは異なる。日本人にとって宇宙とは、「絶対に人間の手が届かない存在」であり、「その正体は遂に理解することができない」ものである。「そんなことをしたら神様の罰が当たる」、「どこかで仏様が私の行いを見ている」と日本人が言う時、具体的な神様や仏様を想起することはない。神様や仏様はたくさんいらっしゃるが、その数は誰にも解らないし、お顔を思い浮かべることも難しい。そのようなとらえどころのない宇宙に対して、日本人は畏怖の念を抱く。相手のことはよく解らないのだけれども、人間を超越した存在だから畏れる。そして、畏れを軽減するために、宇宙に近づく努力をする。それが「学び」となって現れる。

 日本人にとっての「学び」がこのような契機で発動される限り、「学び」には「ゴールがない」。学ぶべき対象である宇宙は、どれほど深く学んでも完全に理解することができないからだ。このような「学び」の精神が、日本では「道」と呼ばれる。本書では「道」に関する考察も行われているが、それに関連して親鸞の思想が紹介されている。
 親鸞はここで修行の「目的地」という概念そのものを否定しています。行の目的地というのはいずれにせよ現在の自分の信仰の境位においては、名づけることも類別することもできぬものである。だから、それが「どこか」を知ることはできないし、私が間違いなく「そこ」に向かっているのかどうかを訊ねれば教えてくれる人もいない。だから、目的地について論じることは無意味である。
 「学び」にゴールがなく、また現在の到達点を知るよしもないということは、必然の結果として、「学び」に捧げた努力が必ずしも報われるとは限らないことを意味する。著者は、「武士道」をまとめた新渡戸稲造に触れて、次のように述べている。
 努力と報酬の相関を根拠にして行動すること、それ自体が武士道に反する。新渡戸稲造はそう考えていました。私はこのような発想そのものが日本文化のもっとも良質な原型であるという点において新渡戸に同意します。努力とその報酬の間の相関を予見しないこと。努力を始める前に、その報酬についての一覧的開示を要求しないこと。こういう努力をしたら、その引き換えに、どういう「いいこと」があるのですかと訊ねないこと。これはこれまでの著書でも繰り返し申し上げてきた通り、「学び」の基本です。
 最近、元巨人軍のエース・桑田真澄氏の著書を何冊か読んだのだが、桑田氏は早稲田大学の大学院でスポーツ論を学び、「新しい野球道」を確立しようとしている。では、桑田氏の言う「野球道」とは何か?佐山和夫氏との共著『野球道』の中のこの部分がヒントになりそうだ。
 メジャーリーグでは、シンプルに野球を楽しむ姿勢や力と力のぶつかり合いなど、ベースボールの魅力を肌で感じました。その反面、基本的なプレーを雑にすること、道具を粗末に扱うこと、ドーピング問題に代表されるようにフェアプレー精神が欠けていることなどを目の当たりにしたぼくは、アメリカのベースボールにはない日本野球の良さを感じるようになりました。

 そして、日本野球の真髄は、野球を通じて人間性を磨こうとする姿勢―礼儀や道具を大切にし、一つひとつのプレーに手を抜かず、技だけでなく心を大切にする―にあることを再認識しました。
野球道 (ちくま新書)野球道 (ちくま新書)
桑田 真澄 佐山 和夫

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 つまり、「野球道」の中身は「野球をプレーする姿勢」なのである。ここでは、「どういう戦略・戦術で挑めば野球の試合で勝つことができるのか?」、「どういう試合運びが最も理想的なのか?」という、野球の本来のゴールは問われない。ゴールは一旦棚上げして、プロセスを重視する。この基本原則は、他のあらゆる「道」からも抽出することができるように思える。

 U理論は、既存のデカルト的、近代的な問題解決法ではどうにも対処できないほど複雑に絡み合った問題を紐解くのに有効とされる。集団の意識が内蔵秩序との統合に成功すると、進むべき方向性が突然明らかになり、一気呵成に集団が動き出すイメージである。したがって、U理論による変化は、非連続的・飛躍的なものとなる。

 これに対して、日本人の「学び」は、その性質からして少しずつしか進まない。不明確で、しかも到達することが不可能とあらかじめ解っているゴールに向かって、それでも「道」を究めるために精神的精進を怠らないのが日本人である。その歩みは漸進的な改善となって現れる。もちろん、ある日突然目覚しい跳躍を見せることはあるかもしれない。しかしそれは、これまでコツコツと積み上げた訓練の結果、半ば偶然にもたらされたのであって、初めから跳躍後の自分自身を明確に描いて、意図的にジャンプしたわけではないのだ。

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