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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2013年11月05日

安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い


知命と立命―人間学講話知命と立命―人間学講話
安岡 正篤

プレジデント社 1991-05

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 中国の古典に拠りながら、あるべき人間像を「人間学」としてまとめた一冊。著者が本書の中で一貫して主張しているのは、「自分自身をよく知ること」の重要性である。
 わが「命」はどういうものであるかということを知るのは難かしい。自分がどういう素質・能力を持っておるかということを、まず調べなければならない。それから、人間は社会的生物であるから、社会とどういう交渉をもち、どういうふうに関連してゆくかということを知らなければならない。
 自得ということは、自ら得る、自分で自分をつかむということだ。人間は自得から出発しなければならない。金が欲しいとか、地位が欲しいとか、そういうものはおよそ枝葉末節だ。根本的・本質的にいえば、人間はまず自己を得なければいけない。本当の自分というものをつかまなければならない。
 若い人は、これから偉大なる社会的活動をやろうと思えば思うほど、自得しないといけない。自分がどれだけの人物であり、どれだけの力があるかということが、自分がどれだけ真実の社会活動ができるかということの基本問題である。自分の出来ばえに応じてそれだけの活動ができるのです。それを自分を疎外し、自分から遊離して、いわゆる位に素せずに、ただ社会の移り変わりに幻惑され、いろいろの野望を持ったところで、それは空虚である。
 著者が言いたいことは、『孟子』の「君子は自ら反る」という言葉に集約されている。著者は、この言葉に触れつつ、現代社会に対して次のような警告を発している。
 君子は自ら反る<自反>―自らに反る、自分で自分に反る―ということは『論語』『孟子』の根本精神といってよい。人間が外にばかり目を奪われ、心を奪われてしまって、自分というもの、内面生活というものを見失いがちであることは、現代の最も深刻な問題の一つである。
 安直な考え方かもしれないが、中国の古典は徹底した個人主義に立脚しているかのようである。著者は、個人と集団の関係について、『老子』を愛読していたというシュバイツァーの次の言葉を紹介しながら、個人こそが集団に先んじなければならないとしている。
 一つ明らかなことは、集団が個人の上に、個人が集団の上に作用し返すよりも強い作用を及ぼす時には、下降、堕落が生じることである。なんとなれば、その場合は、その上に一切がかかるところの個人の偉大さ、精神的および倫理的価値性が必然的に侵害せられるからである。
 中国の古典がこれほどまでに個人主義的である理由を探っていくと、中国の「天」に対する考え方にヒントがあるように思える。
 「天」は大いなる造化、万物を創造し、万物を化育してゆく。一切万有はその中に在る。それを「天」という。今日でいうならば、自然と人間とを一貫するものが「天」、その中に厳として存在するところの神秘な深遠な理法―それによって存在し、それによって活動している、それが無ければ存在活動が無い所以のものが「理」、ことわり、即ち「天理」。天理によって宇宙も人間も存在しているのである。
 自然科学は、この天(宇宙、大自然)の「命」、即ち必然的、絶対的なるものを、物の立場から研究、究尽していったものである。そして科学的法則を把握した。人間も、研究すれば、だんだん必然的、絶対的なものに到達する。いわゆる「人命」を究明することができる。そしてその中に実に複雑微妙な因果関係があることを知ることができる。これを「数」という。
 天は万物を動かす絶対的な因果論理を全て包括する存在である。人間は、偉大な天によって創造された。天は人であり、人は天である。人は天の一部でありながら、天の全体をも投影する。よって、人間の中にも、天と同じく絶対的な因果論理が存在する。だから、我々が難しい局面を迎えた時、自分自身を十分に知ることができれば、自ずと天の摂理に触れることが可能となり、進むべき道が開ける。中国的な個人主義を私なりに整理するとこのようになる。

 今述べた文の「天」を「神」に変えると、西洋のキリスト教的個人主義になる。全知全能の神は、自分の化身として人間を創造した。1人1人の人間の中には完全な神が宿る。世界をつかさどる論理は、それぞれの人間の中に埋め込まれている。神=全体と人間=部分の間には、部分の中に全体が含まれ、部分が全体を代表するという、集合論を超越した関係が成立する。

 旧ブログの記事「優れた古典は深遠な議論への入り口である-『リーダーになる』」でも述べたように、リーダーシップに関する欧米の書籍を読むと、「自分の内なる声に従う」、「自分の価値観を再確認する」、「自分の基軸を定める」といった具合に、リーダー個人の内面的な世界が強調されていることが非常に多い。その背景には、このようなキリスト教的な考え方があるのだろう(この点については、以前の記事「オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい」も参照)。

 中国の「天」に対応するのは、日本で言えば「神」や「仏」になるだろう。だが、日本の神仏は中国の天やキリスト教の神と異なり、万能な存在ではない。また、歴史上様々な宗教家が、神仏は万物に宿ると論じてきたが、私が思うに、万物に宿っている神仏は、神仏の完璧な全体像ではない。すなわち、神仏の不完全なパーツが埋め込まれているにすぎない。だから、どんなに個人が単独で修業を積んでも、神仏の全体像は解らない(この辺りは神道・仏教に対する私の理解がまだ追いついておらず、記述が不十分である点はご容赦ください・・・)(※)。

 神仏の全体像をつかむには、自分にはないパーツを持つ他者との交流を深めなければならない。集団の構成員同士がパーツを組み合わせることで、全体像が少しずつ見えてくる。また、神仏のパーツは、人間だけではなく、自然の中にも入り込んでいる。私が最近よく読んでいる江戸時代の禅僧・鈴木正三は、農民に「農業即仏行」と説いた。正三は、農家が畑に鍬を入れるたびに、土の中に眠っている仏が掘り起こされるのであり、念仏を唱えながら農業に一心不乱に取り組めば、仏道を極められると主張した。つまり、自然との相互作用も、神仏の全体像を知る上で欠かせない。ここに、他者や外界との調和を重んじる集団主義的な文化が成立する。

 余談になるが、数年ほど前中国に日本企業や欧米企業がこぞって参入した時、現地の中国人から経営スタイルが評価されたのは欧米企業の方であって、日本企業は中国人社員の流出を止められず、中国人学生も集められない、ということがあった。欧米企業は国籍を問わないフェアな競争主義を取り入れているのに対し、日本企業は初めから現地法人のトップを日本人にしており、中国人の出世の道を閉ざしていることが不人気の要因とされた。だが、別の見方をすれば、欧米人と中国人はともに個人主義的な文化で共通しており親和性が高い半面、集団主義的な日本企業は文化的なハンディキャップを負っていたとも言えるのではないだろうか?


(※)「修行は独りでおこなう~独居修行とは精神の自由~ Solitude means freedom of the mind|パティパダー巻頭法話」より引用。
 お釈迦様はじめ仏弟子たちは、一人も山に隠れて社会との関係を切断して、他人と口もきかず、顔も合わさず、修行した例はないのです。独居するどころか、お釈迦様は四十五年間、伝道しながら遊行したのです。お釈迦様の周りに、毎日のように何百人もの人々が集まるのです。お釈迦様の高弟たちは、たまたまお釈迦様に挨拶にうかがうときでも、最低二百人くらいのグループと一緒に来るのです。祇園精舎のような立派なお寺も出来上がったのです。仏教のお寺とは、独居するところではなく、みな集まる集会所のようなものです。誰でも自由に伺うことができる場所、なのです。それでお釈迦様が説かれる独居とは何なのかと、疑問が生じます。
 仏教の独居修行は、決して形式的なものではありません。行でもカルトでもありません。仏教は心理学でもあります。ですから、独居修行とは心理的なものになるのです。独居修行とは、精神的な独立、のことなのです。心が自由になって、何にも依存しない状態なのです。身体的に、社会と関わりを持たないという意味にはなりません。


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