プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2014年01月14日

安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?


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 陽明学者である安岡正篤の本から、オットー シャーマーの『U理論』のことを考えてみるという、もはや誰に向けて書いているのか解らないようなこと(汗)を書いてみようと思う。安岡正篤の思想も、私なりに煎じ詰めてみれば、「自分自身=部分のことをよく知れば、天=全体を知ることができる」という一点に集約されるように感じる。安岡が好んで引用する『孟子』の「君子は必ず自ら反(かえ)る」という言葉に、安岡の思想の本質が表れている。
 あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。その円満無礙(むげ)な一致を表現して自と分を合わせて「自分」という。我々は自分を知り、自分を尽くせばよいのであります。
 諸君もよく御承知の(※無知な私は知らなかったのだが・・・)「万世の為に太平を開く」(終戦の詔勅中の一句)という言葉は、張横渠の有名な立言、即ち「天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ(往聖は一に去聖)。万世の為に太平を開く」の結語です。

 「天地の為に心を立つ」。言い換えれば、人間は心というものを立派に造り上げるということが、人の為であると同時に天地の為だ。実は天地が心というものを創造したのだ。(中略)人間が心を持っておる。人間が心の世界を開くということは、これは天地の仕事なんだ。人間が天地に代わって行なうことである。天地の努力を継承することである。(中略)

 そうして、「生民のために命を立つ」。命とはいわゆる運命・立命の命です。生きとし生ける民、生きとし生ける人間は、それぞれ天という絶対者・創造者の営みを内具している、それを命というわけです。それを各自立派に遂行させ発揮させる。それにはどうしても、代々の聖賢(往聖・去聖)が遺して今や中絶しておるところの学問―絶学、それを継承し興起しなければならない。往聖の為に絶学を継ぐ。そうしてこそ初めて万世の為に太平を開くことができるのだ。
 中国古典における天と心の関係が、キリスト教における神と人間の関係に酷似していること、また両者に共通する「全体―部分」の集合論的関係が、オットー・シャーマーらのU理論とも共通していることは、以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」でも述べた。U理論では、「場」に集合した人々が、自らの偏見や誤った価値観を手放すと、私と他者という物質的な壁が崩れ、潜在意識のレベルにおいて人々は一つになる。そして、我々の中に本質的に内在している絶対的な宇宙=全体にアクセスすることが可能となり、新しい未来へ向けて歩み出すことができる、とされる。

 《参考》オットー・シャーマー『U理論』のレビュー記事
 オットー・シャーマー『U理論』―デイビッド・ボームの「内蔵秩序」を知らないとこの本の理解は難しい
 オットー・シャーマー『U理論』―古い手法を完全否定するな、古い手法は新しい手法を始動させるトリガーとして機能する
 オットー・シャーマー『U理論』―人間は本当に過去と決別すべきなのだろうか?
 《参考の参考》
 内田樹『日本辺境論』―U理論の宇宙観に対する違和感の原因が少し解った

 だが実は、U理論では「他者」の役割が積極的に評価されていないような気がする。いわんや、キリスト教や中国古典においてをや、である。私の理解不足かもしれないが、U理論においては、他者は私という部分が宇宙という全体を獲得するための”触媒”にすぎない印象を受ける。というのも、個人の中に全体が内包されているのであれば、理論的には、他者の力を借りなくても、個人が直接的に全体を認識することが可能であるからだ。もちろん、U理論の実践者は、「他者がいるからこそ、『Uプロセス』を加速できる」と反論するに違いない。だが、他者がUプロセスを加速させるだけの存在であれば、まさしく化学反応における”触媒”そのものである。

 U理論の構築に大きく貢献した一人であるジョセフ・ジャウォースキーは、旅先で動物を見ながら宇宙を体感する経験をしたことを著書の中で述べている。つまり、宇宙を悟るのに他者は必ずしも必要ではない(もっとも、その動物の中にも全体が包摂されており、ジャウォースキーが全体を見るためには動物の存在が不可欠であった、という解釈もできるのかもしれないが)。

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 非常に乱暴な言い方かもしれないが、U理論の実践の場に集まった人たちは、各々が自分の中に確かに存在するはずの根源的な宇宙を探り当てるため、お互いを利用し合っている。そこには、相手を道具的存在とみなす優越感がはたらいている。そして、めでたく全体に到達できた者は、それができなかった者と違い、唯一無二の宇宙から選ばれた者であるという選民意識を抱くことになる。これが果たして新しいリーダーシップの姿なのだろうか?

 日本のリーダーシップ観は、これとはかなり異なる。多神(仏)教である日本においては、絶対的な存在というものを認めない。つまり、絶対的な解というものは存在しない。我々の心の中には、様々な神や仏が宿っている。私に宿っている神は、あなたに宿っている神と異なるかもしれない。いや、異なることの方が普通である。だから、絶対的な解(それはビジョンと呼ばれ、強烈なビジョンを持ったリーダーにはカリスマ性があると言われる)を引っさげて、人々に追従を強要するようなリーダーシップは日本では成立しない。たとえ、誰かが何か素晴らしい解を思いついたとしても、それは”当座”の解にすぎない。

 カリスマ性のあるリーダーは、宇宙のお墨つきをもらっているから力強く、自信に満ち溢れている。これに対して、当座の解しか持たない日本のリーダーは、どこかおどおどしている。日本のリーダーが当座の解の質を高め、人々の支持を得るための方法はただ1つ、人々の間に分け入って、対話を重ねることである。簡単に言えば、「私はこう思うが、あなたはどう思うか?」という問いを多方面に投げかけることである。日本のリーダーが、しばしばきょろきょろしている、相手のご機嫌をうかがっているように見えるのはそのためである。

 日本のリーダーは、自分の心の中にある神仏を相手の前に提示し、相手の心の中から神仏を表出させる。そして、神仏同士の対話を通じて、当座の解をちょっとだけ改善させる。その後、また別の人に対して自分の神仏を提示し、相手の神仏と対話させて、当座の解をまたちょっとだけ修正する。この繰り返しである。

 カリスマリーダーについては、リーダーとフォロワーが厳格に分かれる。リーダーのビジョンは絶対的な根拠を持っているから、リーダーに意見することは慎まれる。これに対し、日本型リーダーでは、リーダーが人々の方に近づいていくから、メンバーとの距離が非常に近い。また、神仏の対話の場面では、お互いの神仏の間に上下、貴賤の関係がないため、時にリーダーとフォロワーが入れ替わる。いや、リーダーとフォロワーという区分さえないのかもしれない。カリスマ型のリーダーシップは個人に宿るのに対し、日本型のリーダーシップは集団に宿る。

 日本型リーダーの場合、リーダーがどんなに対話を重ねても、当座の解が絶対的な解になることはない。なぜならば、唯一無二の絶対的な解というものを宗教的に否定しているからである。かりそめの方向性で満足しながら、少しずつ変化をしていくのが日本人である。そして、いつもきょろきょろしながら、それでも昨日よりは今日、今日よりは明日といった具合に、よい方向へと向かっていくことを「道」と呼ぶ。道とは、ゴールなき変化である。

 安岡正篤は、『論語』の「子曰く、 人の己を知らざるを 患(うれ)へず、己、人を知らざるを患ふ」という一文について、「『人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ』と解釈した方が、もっと切実に感じられる」と述べている(以前の記事「安岡正篤『論語に学ぶ』―安岡流論語の解釈まとめ」を参照)。己を知るとは、天を知ることであり、それが不十分であることを孔子は嘆いているのだ、というのが安岡の解釈である。これは、中国古典における天と個人の関係からすれば、非常に納得感がある。

 だが、日本的価値観から解釈するならば、この一文は原文のまま理解した方がよい。つまり、「私が他人のことをまだ十分に理解していないことが問題だ」というわけである。中国各地を歩き回り、多くの人に教えを説いた孔子であるが、その教えは未だ完成していない。なぜならば、孔子の思想は、他者の中にある様々な天によって試され、批判され、修正されることが足りていないからだ。だから、もっと人々の中に深く入り込んで、他者のことを理解しなければならない。私はそういう決意の一文であると解釈する。

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