プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

◆旧ブログ◆
マネジメント・フロンティア
~終わりなき旅~


◆別館◆
こぼれ落ちたピース
シャイン経営研究所HP
シャイン経営研究所
 (私の個人事務所)

※2019年にWordpressに移行しました。
>>>シャイン経営研究所(中小企業診断士・谷藤友彦)

Next:
next 指方恭一郎『銭の弾もて秀吉を撃て―海商 島井宗室』―倭寇と奴隷貿易、朝鮮出兵の敗因
Prev:
prev 【数学Ⅱ(三角関数)】m=0, 1, 2, ……, 89とするとき、tanm°が有理数となるような整数mを全て求めよ
2014年01月26日

指方恭一郎『銭の弾もて秀吉を撃て―海商 島井宗室』―まえがき


銭の弾もて秀吉を撃て ――海商 島井宗室銭の弾もて秀吉を撃て ――海商 島井宗室
指方恭一郎

ダイヤモンド社 2011-07-29

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 経営コンサルタントの佐々木直氏が『「古典」経営論』で紹介していた人物のことをちゃんと勉強しようという試み。江戸時代の禅僧・鈴木正三に続いて、今回は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した博多商人・島井宗室。佐々木氏は『「古典」経営論』の中で、島井宗室について次のように述べている。
 豊臣秀吉と対等に付き合っていた博多の豪商島井宗室は、1610年に「利潤の追求が商人にとっては何よりも大切である。しかし、貞心・律儀をはじめ礼儀正しさ、正直を第一に重んじ、うそに似たることさえも言ってはならぬ。また、40歳になるまでは脇道へそれることは無用」と、一切の奢侈を固く禁じたのでした。ここで重要なのは「うそに似たること」もダメですよ、と最大級の潔癖さを経営者に求めていることです。

「古典」経営論―21世紀の帝王学「古典」経営論―21世紀の帝王学
佐々木 直

中央経済社 2004-02

Amazonで詳しく見る by G-Tools

 《参考》鈴木正三についての記事
 童門冬二『鈴木正三 武将から禅僧へ』―自由を追求した禅僧が直面した3つの壁
 森和朗『甦る自由の思想家鈴木正三』―個人優先・共同体優先のどちらから出発しても全体主義に行き着いてしまう?

 島井宗室(1539年~1615年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商人、茶人である。「宗叱」(読み同じ)とも表記される。名は茂勝。号は虚白軒。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれる。神屋宗湛とは親族関係にあたる。島井家の系図には、藤原北家の血筋を引き、代々藤氏を名乗ったが、次郎右衛門茂久の代に島井姓に改めたとある。また、対馬国の宗氏の家臣である島井氏の一族という説もあるが定かではない。

 博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも日朝貿易を行って巨万の富を築き上げた。1573(天正元)年には、当時の博多の領有していた戦国大名・大友宗麟との取引を開始し、大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、宗麟から様々な特権を得て豪商としての地位を確立してゆく。また、堺の茶人兼豪商である千宗易(後の千利休)や天王寺屋道叱らと懇意になり、数奇者、朝鮮貿易業者として交歓しあった。

 1578(天正6)年、耳川の戦いで大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して当時の天下人・織田信長に謁見して、その保護を得ようとする。この際に所有していた天下三肩衝(※)の一つである茶器・楢柴肩衝を信長に譲ることを条件にしたといわれている。信長は諸外国との貿易を前提に宗室を保護しようとしたが、1582(天正10)年の本能寺の変で死去したため、この目論見は露と消えた。なお逸話として、本能寺の変の際に、宗室は空海直筆の『千字文』を持ち出したといわれており、現在『千字文』は博多の東長寺に収められている。

(※)天下三肩衝(てんかさんかたつき)・・・茶入れである「初花(はつはな)」、「楢柴(ならしば)肩衝」、「新田(にった)肩衝」を指す。「肩衝」とは、器の肩部が水平に張った茶入のこと。

 信長の死後に台頭した豊臣秀吉の保護を得て、畿内から博多、さらには対馬に至る交通路を築き上げ、これによって南蛮・朝鮮などの貿易品の取引を行い栄華を極めた。また、秀吉の九州征伐にも協力している。天下統一後、秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を企むと、大切な通商国と戦争するという利害からこれに強硬に反対し、宗義智と協力して渡朝し、朝鮮国王と戦争回避を図る折衝を行った。しかしこれは空回りに終わった上、秀吉の派兵後も撤兵を強硬に主張したため、遂に秀吉の怒りを買って蟄居を命じられた。後に許された後は、五奉行の石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方で、明との和平の裏工作を行っている。

 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後、博多が黒田氏の支配下に入ると、宗室は黒田長政の福岡城築城などに協力している。1615(元和元)年、死去。なお、死の直前、養嗣子の島井信吉に対して十七条の遺訓を送っている。佐々木氏が言及している宗室の言葉は、この遺訓から引いたものであると思われる。遺訓については、機会を改めて紹介したい。

 (続く)

  • ライブドアブログ
©2012-2017 free to write WHATEVER I like