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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年01月27日

指方恭一郎『銭の弾もて秀吉を撃て―海商 島井宗室』―倭寇と奴隷貿易、朝鮮出兵の敗因


銭の弾もて秀吉を撃て ――海商 島井宗室銭の弾もて秀吉を撃て ――海商 島井宗室
指方恭一郎

ダイヤモンド社 2011-07-29

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 (前回からの続き)

 前置きがだいぶ長くなってしまったが、今日は指方恭一郎氏の小説『銭の弾もて秀吉を撃て―海商 島井宗室』を基に、歴史の教科書には載っていないことを2点ほどまとめてみたいと思う(一部、ネタバレを含むので注意していただきたい)。

(1)倭寇と奴隷貿易
 小説では、宗室の本名は「姉川繁之輔」とされ、肥前神埼郡姉川城主であり少弐十九城将の一人である姉川惟安(これやす)の五男とされている。姉川氏と同じく少弐氏の家臣であった竜造寺氏は、博多津支配で財を蓄え、勢力を伸ばしてきた姉川氏を憎んでいた。と同時に、少弐本家の方でも、反乱分子である竜造寺家の力を抑えつけようとしていた。最終的に、両家の対決は竜造寺家に軍配が上がり、少弐本家である勢福寺城は竜造寺隆信の手によって陥落した。かろうじて一命をとりとめた繁之輔は、奴婢として朝鮮に売り飛ばされた。

 当時、日本と朝鮮の貿易は対馬の宗氏が独占していた上、奴隷貿易はご法度とされていた。繁之輔は、自分を朝鮮へと売った犯人を絶対に探し出してやると決意した。繁之輔の運命を変えたのは、朝鮮で偶然出会った宗氏の2人である。彼らは、宗家に無断で朝鮮貿易を行っている者の存在を調べているところだった。繁之輔は彼らの調査に協力すれば、奴隷貿易の真相がつかめるかもしれないと考えた。2人の力で日本に戻ることができた繁之輔は、早速2人と一緒に本格的な調査を開始する。ところが、最後に待っていたのは意外な結末であった。何と、奴隷貿易を行っていたのは、他ならぬ宗氏の2人だったのだ。

 宗氏が本当に奴隷貿易に手を染めていたのかどうかは定かではない。しかし、当時奴隷貿易が行われていたのは事実らしく、そこには倭寇が深く関連していたようである。

 16世紀の中盤から終盤にかけて、南米、ヨーロッパ、インドに大量の日本人が奴隷として渡ったという記録がある。1582(天正10)年、ローマに派遣された少年使節団の4人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕したという記録が残されている(ただし、奴隷の中には日本人だけでなく、中国人や朝鮮人もいた)。では、奴隷を運んだのは一体誰なのか?16世紀において倭寇の活動が活発であった時期を調べると、日本人・中国人・朝鮮人奴隷が世界各地に送られた時期とがほぼ一致する。奴隷供給に関わっていたのでは倭寇ではないか?という見方もできるわけである。

 鄭舜功の『日本一鑑』という書物には、倭寇に連れ去られた明人たちが奴隷として酷使・売買されていた施設が九州の高洲(現在の鹿児島県鹿屋市)にあり、そこを訪れると明人の被虜者が二、三百人集められていたという記録があるらしい。この収容所に、日本人奴隷がいた可能性はないのだろうか?相沢洋氏の「倭寇と奴隷貿易」という論文には、南九州では鎌倉時代から人身売買が行われていた記録があることが指摘されており、この高洲の奴隷収容所も、大隅の戦国大名であった肝付氏が経営に関与していただろうと書かれている。(※1)

 それでは、奴隷を差し出していたのは誰なのか?そして、奴隷と引き換えに何を手に入れていたのだろうか?1543(天文12)年、種子島に鉄砲が伝来した。器用な日本人は、すぐにそれを真似して精巧な銃も作った。しかし、硝煙とよばれた硝石(火薬の原料)は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。そのため、鉄砲があっても戦争ができない。その弱みにつけ込んだのが、黒人の奴隷売買で味を占めたドミニコ派の宣教師である。彼らは、マカオの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買っていき、奴隷に転売した。戦国時代にキリシタン大名が多かったのも、信仰のためではなく火薬入手の手段だった。(※2)

(※1)「中国の史料では後期倭寇は中国人が中心だが、奴隷売買に関与はあったか~~倭寇3」を参照。
(※2)「後期倭寇とは、ポルトガル人によって中国人に売買された日本人奴隷であった!?②」を参照。

(2)朝鮮出兵の敗因
 天下統一を果たし、次はアジア統一のために朝鮮への出兵を計画していた秀吉は、何とかして朝鮮国内の地図を入手しようとしていた。秀吉が最初に目をつけたのは、日朝貿易を独占している対馬の宗氏であった。だが、いくら朝鮮と近しい宗氏でも、国家の最高機密情報である国内地図は持っていない。諦めきれない秀吉が次に着目したのが、宗室である。朝鮮貿易を行っており、幼少期に奴婢の身分とはいえ朝鮮で暮らした経験もある。物語中には、半ばヒステリックになった秀吉が、絶対に地図を手に入れろと宗室にすごむシーンがある。

 前述の通り、朝鮮に出兵すれば重要な交易国を失うことになるとの理由で、宗室はこれに強く反対していた。だが、アジア統一のことしか頭にない秀吉は聞く耳を持たない。側近の石田三成らによる説得もむなしく、朝鮮出兵は強硬され、宗室も駆り出された。そこで、宗室は宗室なりの方法で秀吉に抵抗する。宗室がもし武士のままであったならば、秀吉を直接攻撃しただろう。しかし、宗室はいまや博多を拠点とする大商人である。商人にできることは、物の流通をコントロールすることだ。宗室は、秀吉から朝鮮国内の兵站整備を命じられていた。宗室は兵站整備をわざと遅らせることで、秀吉軍が消耗し、朝鮮から撤退することを狙った。まさに面従腹背である。

 朝鮮出兵の敗因はどこにあるのだろうか?これにはいろいろな考え方があるみたいだ。

 ・朝鮮の海軍は倭寇との戦いで鍛え抜かれた精鋭であったにもかかわらず、それに対する対策が全くなかった。その結果、制海権を奪われ、補給に苦しむことになった。(※3)

 ・朝鮮半島の冬は日本よりも厳しいのだが、日本は防寒対策を全く採っておらず、多くの兵士が「凍死」した。(※3)

 ・当時の王朝内には内部対立があったのだが、秀吉はそれを利用した形跡がない。全盛期の秀吉ならば、内部対立を利用することで味方の勢力を強めることは得意だったはずだ。(※3)

 ・日本は長い戦乱で兵が熟練し、小銃保有数も世界でトップレベル、野戦では恐らく世界最強だった。しかし、都城に立てこもられると城攻めに手こずり、また一度占領しても明の大砲の前にあっさり撤退してしまう。これは、日本の城攻めがいわゆる砦レベルの攻略にすぎず、大規模都城の攻撃に必要な大砲をはじめとする重火器や長梯子の重要性を無視していたためである。

 明では大砲の重要性に着目し、大砲の技術漏洩を恐れて技術者だけの町を建設するといった政策も行っており、中後期には個人で携帯できる現在のバズーカに相当する火器まで開発していた。野戦の日本、城郭戦の明で一進一退を続けるうちに秀吉が死んだというのが実際のところであろう。(※4)

 ・秀吉は、明との戦争で、海賊の力を活用することはなかった。むしろ逆に「海賊法度」を出して、海賊の活動を禁止してしまった。当時、明が倭寇対策に苦心していたことを思うと、敵に塩を送るような愚策なのだが、秀吉がこの「海賊法度」を出した動機は、同時に出した「刀狩令」の場合と同じで、国内における兵農分離と階級制度の固定であった。(※5)

(※3)「豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の敗因は何でしょうか。」を参照。
(※4)「豊臣秀吉の朝鮮出兵の敗因はなんでしょうか? 兵站? 海軍力? 占領政策の失敗?」を参照。
(※5)「秀吉の朝鮮出兵はなぜ失敗したのか」を参照。

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