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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年01月28日

【原文・現代語訳】島井宗室十七条の遺訓(第一~三条)


島井宗室 (人物叢書 新装版)島井宗室 (人物叢書 新装版)
田中 健夫

吉川弘文館 1986-07

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 島井宗室は1610年、神屋家からの養嗣子である徳左衛門(信吉)に宛てて遺訓を書いている。これは現存する商家の遺訓の中で最も古いものの一つとされ、社訓のルーツと考えられている。

 この遺訓について言及しているWebページはたくさんあったが、肝心の本文が見つからない。そこで、文献をいろいろと調べたところ、田中健夫『島井宗室』に全文が載っていた。17という数字は、聖徳太子が定めた十七条の憲法に倣ったものである。ただ、十七条の憲法に比べ、宗室の遺訓はかなり長く、約5,000字ほどある。何回かに分けて、遺訓の全体像を紹介したいと思う。なお、一部、読みやすいように表現を変えた箇所がある。また、現代語訳は私の意訳が入っているため、誤りがあればコメント欄などでご指摘いただるとありがたい。
 一(一)、生中、いかにも貞心りちぎ(律義)候ハんの事申すに及ばず、親両人・宗怡両人・兄弟・親類、いかにもかうかう(孝行)むつまじく、其外知音之衆、しぜん外方之寄合にも、人をうやまいへりくだり、いんぎん(慇懃)仕べき候。びろうずいゐ(尾籠随意)のふるまい少も仕まじく候。第一、うそをつき、たとい人ののしりきかせたる事成共、うそに似たる事、少も申出事無用。惣而(そうじて)口がましく、言葉おおき人は、人のきらう事候。我ためにもならぬ物ニ候。少も見たる事知たる事成共、以来せうぜき(証跡)に成候事ハ、人之尋候共、申まじく候。第一、人のほうへん(褒貶)、中言などハ、人の申候共、返事も耳にもきき入るまじく候。
 生きている間は、貞節な心を持ち、律儀であることは言うまでもなく、両親、宗怡夫妻、兄弟、親戚に孝行をし、知人に対しても、また寄合においても、相手を敬い、礼儀正しくすること。無礼な振る舞いは決してしてはならない。嘘をついてはならない。たとえ人から伝え聞いたことであっても、嘘に似たことも言ってはならない。総じて口やかましい人は、他人から嫌われるものであり、自分のためにならない。自分が見たり聞いたりしたことであっても、後々の証拠となりそうなことは、他人から聞かれても答えてはならない。人の悪口にも耳を貸してはならない。
 一(二)、五十ニ及候まで、後生ねがひ候事無用候。老人ハ然べき候。浄土宗・禅宗などハ然べき候ずる。其外ハ無用候。第一、きりしたんニ、たとい道由・宗怡いか様にすすめられ候共、曾以無用候。其故ハ十歳ニ成候へバ、はやしうしだて(宗旨立)をゆい、つミきそねるきそとゆい、後生たて候て日を暮し夜をあかし、家を打すて寺まいり、こんたすをくびかけ、面目に仕候事、一段ミぐ(見苦)るしく候。其上所帯なげき候人の、第一之わざハひ(禍)ニ候。

 後生・今生之わきまへ候てゐる人は、十人に一人も稀なる事候。此世に生きたる鳥類・ちくるい(畜類)までも、眼前のなげき計仕候。人間もしやべつ(差別)なき事候間、先今生にてハ、今生之外聞うしなわぬ分別第一候。来世之事ハ、仏祖もしらぬと仰せられ候。況凡(いわんや)人之知る事にて之無き候。相かまいて後生ざんまい五十ニ及び候まで無用たるべき事。

 付、人ハ二、三、十、廿にても死候。四十・五十に至らざるに死候て、後生如何と存すべき候。其時は二―三子にて死たると存すべければ、ニ―三子ハ後生存すべからざるなり。
 50歳になるまでは、来世のことを願ってはならない。老人になれば願ってもよい。浄土宗・禅宗などは信仰してもよい。その他は認めない。キリスト教は、たとえ道由・宗怡の両人が勧めても、絶対にダメである。なぜならば、キリスト教では10歳になると早くも宗旨立を行い、来世のことばかりを気にして毎日を過ごし、檀家を捨てて教会に参り、十字架を首にかけて大事そうにしており、非常に見苦しいからである。家族を心配しなければならない人にとって、最大の災いである。

 現世や来世のことをわきまえている人は、10人に1人もいないであろう。この世に生きる鳥類、畜類も、生きることに集中している。人間も彼らと同じなのだから、現世のことを見失わないようにしなければならない。来世のことは、仏様でも解らないとおっしゃる。ましてや、人間が知るよしもない。50歳になるまでは、来世のことを心配する必要はない。

<付記>人は、2歳、3歳、10歳、20歳でも死ぬものである。40歳、50歳にならないうちに死んだとしたら、家族はその後どうなるであろうか?その時には2、3人の子どももいるであろう。親が早死にすれば、子どもたちはその後生きてはゆけない。
 一(三)、生中、ばくち・双六、惣別かけ(賭)のあそび無用候。棊(碁)・将碁(棋)・平法・うたひ(謡)・まい(舞)の一ふしにいたるまで、四十までハ無用候。何たるげいのう(芸能)成共、五十に及び候者くるしからず候。松原あそび・川かり・月見・花見、惣而見物事、更以無用候。上手ノまい等、上手の能などハ、七日のしばい(芝居)に二日計ハくるしからず候。縦(たとい)仏神ニまい(詣)り候とも、小者一人にて参候へ。慰がてらニハ、仏神もなうじう(納受)有まじき事。
 生きている間は、博打、双六、賭け事をしてはならない。囲碁、将棋、平法、謡、舞についても、40歳までは不要である。どんな芸能であっても、50歳になればやってもよろしい。松原遊び、川狩り、月見、花見などの見物事は、なおさら不要である。上手な舞や能であれば、7日間の芝居のうち2日ほどは観てもよい。たとえ神社や寺院に参る時も、自分一人で行かなければならない。気休めのために参っても、神仏は願いごとを聞いてくれないだろう。

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