プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年05月13日

『焦点を定めて生きる(致知2014年5月号)』―「孤に徹し、衆と和す」の前半と後半のどちらを重視するか?


致知2014年4月号焦点を定めて生きる 致知2014年5月号

致知出版社 2014-05


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 「孤に徹し、衆と和す」という言葉は、本号で東京電力会長・數土文夫氏が紹介した大平正芳元首相の言葉である。大平の言葉は、『中庸』の「君子は、和して流れず。強なるかな矯たり。中立して倚(よ)らず。強なるかな矯たり。」(君子は人と調和しても流されてしまうことはない。これが矯(強くて正しい形)とした真の強さである。中立してどちらにも極端に偏らない。これが矯とした真の強さである)という一文に由来している。この「孤に徹し、衆と和す」という言葉だが、日本と海外では、前半と後半のどちらを重視するかが違うような気がした。

 アメリカは前半の「孤に徹し」を重視する。一人の時間を大切にし、ひたすら内面と向かい合う。安直な言語論かもしれないが、英語の文法では、重要な要素を最初に持ってくることも関係しているかもしれない。仮に「孤に徹し、衆と和す」を英語にして(私の英語力不足のため、どういう英文が適切か解らなかった・・・)、それを再度日本語にすれば、「孤に徹せよ、さらば衆と和さん」となるに違いない。アメリカの教育学者ジョン・F・ディマティーニ氏と文学博士・鈴木秀子氏の対談を読んで、アメリカ人は「孤に徹し」を重視するだろうと感じた。
 私が出演した映画『シークレット』の中で、私は「あなたの内側の声、ビジョンが外側の声やビジョンよりも大きい時、あなたは自分の人生をマスターすることができる」と言っているのですが、私たちの中核にある魂は私たちの人生が最高に輝き、人生の花を咲かせられるように常に働き続けています。「バリュー・ファクター」(※ディマティーニ氏が開発したメソッド)は、そのためにお役に立てると思います。
(ジョン・F・ディマティーニ、鈴木秀子「対談 人生のミッションをいかに見つけるか」)
 セミナーの受講者は、バリュー・ファクターを通じて、自分が大切にしている価値観を洗い出し、優先順位をつけていく。そして、その中から「最高価値観」を特定し、最高価値観に沿って生きることを決意する。バリュー・ファクターは、ひたすら自分の内面と向き合う孤独な作業である。

 ここには、アメリカ人の神に対する考え方が反映されていると思う。アメリカは一神教の国である。唯一絶対の神が宇宙を創造し、神の化身として人間を創造した。人間に与えられた使命は、神の意図に従って地球を支配し、世界を発展させることである。ところが、人間は神の真意をを初めから知っているわけではない。だから、信仰によって神に近づかなければならない。バリュー・ファクターにおける最高価値観を知るとはつまり、神が人間に与えた本当の使命を知ることである。これは孤独との戦いであって、他者が介在する余地は少ない(以前の記事「安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?」を参照)。

 中国もおそらく「孤に徹し」の方を重視すると考える。アメリカの「神」と中国の「天」には近いものがある。どちらも絶対的な存在であり、人間はその絶対性に抗えない(以前の記事「安岡正篤『知命と立命―人間学講話』―中国の「天」と日本の「仏」の違い」を参照)。古代中国では暦と占星術が発達した。暦は、天の規則的な動きを受動的にとらえ、天の摂理に合わせて生活を営むことを要請した。支配者たる皇帝は天の意思を受けて政治を行うという思想があったため、王朝の交代は新たな天命を受けることを意味し、暦や諸制度を改めることが求められた。

 占星術では、暦に比べてもっと積極的に天の現象をとらえようとする。何か異常な現象が現れると、それが国家の危急存亡を予知するものとして吉凶の判断をつけ加え、天子に上奏しなければならない。天が現世世界の成り行きをあらかじめ察知すると考え、時空を超える神の存在を前提としていたことが解る。神の予言は絶対に間違うことがなく、予言が外れた場合には、予言を取り違えたり、対策を誤ったりしたためとされた。また、何の異変もないのに天災が起きた場合は、神が人間を試しているのだと解釈された(※)。ここでも、人間は天=神と直接対峙する孤独な存在であり、アメリカと同様に他者の影響力はほとんどない。

(※)池内了『宇宙論と神』(集英社、2014年)を参照。

宇宙論と神 (集英社新書)宇宙論と神 (集英社新書)
池内 了

集英社 2014-02-14

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 これに対して、日本は後半の「衆と和す」を重視する。またしても安易な言語論だが、日本語では英語と異なり文章の後半に重要な言葉が来る。この構造も関係しているだろう。以前の私ならば、旧ブログの記事「孤独と闘う「準備ルーチン」が創造性を生む」にあるように、「孤に徹し」を重視しただろうが、最近は考え方が変わってきた。日本人は、積極的に衆と和すことによってこそ、真理に近づける。無論、衆に流されてはいけないが、少なくとも孤独なままでは真理に到達することは到底できない。これは、日本とアメリカ・中国の宗教観の違いに根差している。

 日本は多神教の国である。加えて、神と仏が共存する国である。キリスト教であれば、それぞれの人間の中に唯一絶対の神が宿っているから、神にアクセスするのに他者とかかわる必要性はさほど高くない。それぞれの個人が個別に直接神と通信すればよい。ところが日本では、多様な神や仏が多様な人間の中に宿っている。だから、真理を知りたければ、能動的に他者と交わる必要がある。和辻哲郎が「人間(にんげん)」を「人間(じんかん)」と読んだ通りである。こうした違いがあるから、ディマティーニ氏の言葉に対して、鈴木氏は次のような疑問を持つのである。
 ディマティーニ:これはサラリーマンにありがちなのですが、他人の視点を気にしながら自分の価値観を捉えようとしてしまいます。権威者や上役、他人の価値観に従属してしまっていて、自分の最高価値観に気づかないまま生きているわけです。

 鈴木:でも、特に日本のような社会では、会社や上司の期待に沿って生きることが美徳とされています。そういう中で、最高の価値観を身につけるにはどうしたらよいとお考えですか。
 私にとっては、アメリカや中国のように、神の意志に従って生きることの方がよっぽど従属的であるように思える。もちろん、日本人が権威者や上役、他人の価値観に”従属”してしまうのは、周囲に”流されている”だけであるからよくない。しかし、周りの様々なステークホルダーの中に身を投じ、自分に求められている役割や価値観を探索的に構築することができれば、アメリカや中国よりもずっと主体的・建設的で多様な人生を歩むことができるのではないだろうか?

 やや話が逸れるが、3月末に「笑っていいとも」が32年間の放送にピリオドを打った。司会者のタモリさんは最後のスピーチの中で、「不遜で、生意気だった」自分に、「視聴者の皆さま方からたくさんの価値をつけていただき、またたくさんのきれいな衣装を着せていただいた」と感謝の言葉を述べた。これこそまさに日本人的な人生のあり方であると思う。

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