プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年06月23日

ヘンリー・S・ストークス『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』―日本は一体何と戦っていたのだろう?(結論は出ていません)


英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄(祥伝社新書)英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄(祥伝社新書)
ヘンリー・S・ストークス

祥伝社 2013-12-02

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 著者のヘンリー・ストークスは半世紀もの年月を日本で過ごし、『フィナンシャル・タイムズ』、『ロンドン・タイムズ』、『ニューヨーク・タイムズ』の各東京支局長を歴任した人物である。また、三島由紀夫とも親交が深く、三島由紀夫と最も親しかった外国人記者としても知られる。三島が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自衛隊を「傭兵」と呼び、自衛隊に決起を促した事件の目撃者であり、その様子が詳細に語られていて興味深い。
 ドナルド・キーンは、日本人の気高さに、打たれた。著書『日本人との出会い』のなかで、述懐している。

 「ガダルカナル島を餓島と呼んだ日本軍の兵士たちの耐えた困苦は、圧倒的な感動を呼び起こした。アメリカ軍の兵士の手紙には何の理想もなく、ただ元の生活に戻りたいとだけ書かれていた」「大義のために滅私奉公する日本人と、帰郷以外のことにはまったく関心を持たない大部分のアメリカ人。日本の兵に対しては讃嘆を禁じえなかった。そして結局、日本人こそ勝利に値するのではないかと信じるようになった」

 日本軍は補給を完全に断たれ、餓死する兵士が続出していた。だがキーンは、まさに超人的な精神力で戦った日本兵を、目の当たりにした。
 本書では、戦後になって戦勝国の都合によって作り上げられた「戦勝国善玉、日本悪玉論」が断罪されている。だが、アメリカ人の中にはキーンのように考えていた人がいたこと、そして著者のようにその考え方に共感するイギリス人がいたことは、私にとっては意外だった。もっとも、彼らは多数派ではないだろう。一般的なアメリカ人やイギリス人は、今でも自国の勝利を正当化し、日本のことを敗れるべき軍国主義国だったととらえているに違いない。

 私はピーター・ドラッカーの著書などを読みながら、アメリカは建国理念である自由と平等のために戦うという明白な目的を持って第2次世界大戦に臨んだものだと思っていた。一方、日本は「国体」という、当時誰もはっきりと定義できなかった得体の知れないものにしがみつき、国体を維持するという不透明な大義名分のせいで最後まで目的を明確にすることができず、敗れ去ったものだと思い込んでいた。だが、それは一面的な見方のようだ。実際にはアメリカこそ目的が曖昧で、日本の方が一体感を持って戦っていた、というキーンの記述を読むと動揺してしまう。

 では、日本軍は何のために戦っていたのだろうか?著者は本書の中で、日本軍の戦いが、当時欧米の植民支配下にあったアジア諸国の独立を促したことを指摘している。また、1943年11月5日から6日間にわたって東京で開かれた「大東亜会議」が、有色人種によって行われた最初のサミットであると高く評価されている。

 日本軍はマレー沖海戦でイギリスの最新鋭の戦艦を撃沈し、フィリピンの戦いでアメリカのダグラス・マッカーサーを敗走させ、蘭印作戦でオランダ軍を駆逐した。そのことで東南アジア各国が勇気づけられ、独立運動の機運が高まったのは事実なのだろう。しかし、日本軍は最初から東南アジア各国を独立させる目的で戦いに挑んだわけではない。目的はあくまでも、それまでアメリカに頼っていた資源を東南アジアから確保することにあり、なぜ東南アジアの資源を必要としたかと言えば、日中戦争を継続するためであった。

 日中戦争の伏線は日露戦争に求められるだろう。日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約によって遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春~大連の支線、韓国の監督権を得たが、中国本土には依然として欧米列強の支配が残っていた。そうした欧米諸国の権益に対抗するために、日本は満州国を建設して「五族協和」の精神を掲げた。しかし、その満州国が満州事変の引き金となり、日中戦争へとつながっていった。

 さらに遡れば、日露戦争は朝鮮をめぐる日露の対立である。当時、朝鮮(大韓帝国)は、日清戦争の結果として、中国の冊封体制から脱することに成功した。日清講和条約の第1条には、「朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」とある。ところが、満洲を勢力下においたロシアが、清―朝鮮の関係に横やりを入れるような形で、朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取ったため、日本との対立を深めることになった。

 やや論理的に飛躍しているが、近代日本の一連の戦いは、朝鮮と中国のためのものだったのかもしれない。明治維新によって開国した日本は、欧米列強の帝国主義の脅威をまざまざと感じた。日本と古来から交流のある朝鮮と中国を早急に近代化しなければ、帝国主義に呑み込まれてしまう。そこで、まずは冊封体制という前近代的な関係に従属していた朝鮮を独立させ、次いで冊封体制の親元である中国を変革しようとしたのだろう。

 著者は本書の中で、日本にとって太平洋戦争は自衛戦争であったと主張しているが、古来からの「同盟国」である中国・朝鮮を守るという意味で、確かに自衛戦争だったのかもしれない。もちろん、日本と中国・朝鮮との間には、日英同盟のような近代的かつ法的な意味での同盟関係があったわけではない。しかし、欧米主導で構築された国際秩序とは違う道を志向していた当時の日本は、中国・朝鮮との”心理的な”同盟関係を守ろうと考えていたのではないだろうか?

 歴史に”たられば”は禁物だが、日本がそういう自衛戦争の立場を最初から明確に貫いていれば、太平洋戦争の結果は大きく変わっていたかもしれない。さらに、もしもこの仮定が成り立つとすれば、中国・韓国から日本のことを侵略国だと批判されるのは、いささか心外でもある。

 とはいえ、日本が取った手段が適切であったかどうかについては、十分に議論する必要がある。中国・朝鮮を近代化するためには、韓国併合を行い、中国に満州国を建国しなければならなかったのだろうか?日本が恩賜的な態度を取らず、別の政治的手段に訴えることは考えられなかったのだろうか?武力行使を回避する第三の道は本当になかったのだろうか?こうした議論を重ねていくことが、日中・日韓の歴史認識の溝を埋める一助にもなる気がする。

(※)今日の記事は私の貧弱な歴史知識に立脚している点をご了承ください。もっと勉強します。

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