プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年07月08日

E・H・カー『歴史とは何か』―日本の歴史教科書は偏った価値がだいぶ抜けたが、その代わりに無味乾燥になった


歴史とは何か (岩波新書)歴史とは何か (岩波新書)
E.H. カー E.H. Carr

岩波書店 1962-03-20

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 1961年にケンブリッジ大学で行った講演をベースとした書籍であり、「歴史は現在と過去の対話である」という文章で知られる。歴史は個人が動かすものであるが、カーは歴史上の人物の個人的動機ではなく、その人物を生み出した社会的背景に注目しなければならないと主張する。
 歴史における彼らの役割は、彼らに従う大衆がいたお蔭なのであって、彼らは社会現象として重要なのであり、そうでなければ問題にならないのです。(中略)歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性を持つ社会現象なのであります。
 では、歴史家が特定の人物や社会現象を歴史的に重要だと識別する基準は何であろうか?それは歴史家自身の思想であり、さらに言えば歴史家が生きた時代的背景だという。
 コリングウッド(※オックスフォードの哲学者、歴史家)の見解は次のように要約することが出来ます。(中略)「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。
 ここでの私の目的は、2つの重要な真理、すなわち、第一に、歴史家が研究に向って行く場合の立場を最初に掴んでおかないと、歴史家の研究を十分に理解することも評価することも出来ないということ、第二に、この立場はそれみずから社会的歴史的背景に根ざしているということ、これを明らかにすることだけであります。
 つまり、ある時代的背景を持った歴史家の価値判断が歴史的事実の取捨選択を促し、その社会的背景をあぶり出し、それについて解釈を加えていく、ということになる。ここで問題になるのは、歴史家が価値判断を行うにあたって、絶対的な価値、すなわち超歴史的な価値というものがありうるのか?ということだが、この点についてカーは次のように述べている。
 私たちが歴史や日常生活で用いる道徳上の掟は、印刷の部分と書いた部分とがある銀行小切手のようなものと申しましょう。印刷の部分は、自由と平等、正義と民主主義というような抽象的な言葉で出来ております。これは大切な範疇です。

 けれども、私たちがどのくらいの自由を誰に与えようというのか、私たちが誰を平等な仲間と認めるのか、どの程度までなのか、それを私たちが他の部分に記入しないうちは、小切手は価値がないのです。私たちがある時に何を記入するかは歴史の問題であります。
 歴史家の役割は、自由、平等、正義、民主主義といった普遍的な価値に、自らが生きる時代的背景をベースとした具体的な解釈を加え、その基準に沿って歴史的事実を再構成することになる。ただ個人的には、正義はともかく、自由、平等、民主主義といった価値は、それ自体が近代という特定の時代の産物であり、普遍的価値と呼ぶにはやや限定的すぎるように感じる。もう少し抽象的な表現を使うならば、共通善(common good)ぐらいが適切ではないだろうか?

 ここまでは、歴史における現在と過去との関係に注目してきたが、カーは未来と過去との関係にも言及している。普遍的価値の具体的な中身は、将来的に変化する可能性を秘めている。したがって、歴史家は現在の普遍的価値が抱えている課題を厳しく洞察し、そこから未来を先取りして、未来の立場からも過去を眺めなければならない。
 歴史とは過去と現在との間の対話であると前の講演で申し上げたのですが、むしろ、歴史とは過去の諸事件と次第に現れてくる未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきであったかと思います。過去に対する歴史家の解釈も、重要なもの、意味あるものの選択も、新しいゴールが次第に現われるに伴なって進化して行きます。

 一番簡単な例を挙げてみますと、主要なゴールが立憲的自由および政治的権利を組織することと思われていた時代には、歴史家は過去を立憲的および政治的な見地から解釈しておりました。ところが、経済的および社会的な目的が立憲的および政治的な目的に代って現われて来ますと、歴史家は過去の経済的および社会的な解釈を始めるようになりました。
 私たちがある歴史家を客観的であると呼ぶ時、私たちは2つのことを考えているのだと思います。(中略)第二に、その歴史家が、自分の見方を未来に投げ入れてみて、そこから、過去に対して―その眼が自分の直接の状況によって完全に拘束されているような歴史家が到達し得るよりも―深さも永続性も優っている洞察を獲得するという能力を意味します。
 こうして、歴史は過去、現在、未来を全てつなぐことになる。だから、未来へ前進するために過去に学ぶというのは、至極まっとうな人間の知的取り組みなのである。

 話は変わるが、日本の歴史教科書は、かつては共産主義の講座派の影響を強く受けていた。これは、戦後しばらくの間、歴史学会の主流を講座派が占めていたことと関係している。講座派は、歴史を徹底した階級闘争の結果として描くことに特徴がある。だから、日本の歴史教科書においても、百姓一揆が大きくクローズアップされ、士農工商という身分制度は弊害ばかりが強調され、徳川幕府は前近代的な封建制度の象徴として非難の的になっていた。

 ところが、最近の歴史研究によって、違った事実が明らかになってきている。例えば、士農工商という身分制度はこれまで考えられていたほど硬直的なものではなく、また士農工商以外にも様々な身分があったことが指摘されている。さらに、旧来的な徳川幕府は先進的な明治政府に取って代わられたのではなく、幕府内にも開国派が存在しており、開国派が諸外国の動向について情報収集し、軍事技術の研究をした結果が、明治政府にも受け継がれているという(※1)。

 最近、私は空き時間を見つけて高校の日本史・世界史を勉強し直している(仕事をしろよと突っ込まれそうだが・・・)。まだ勉強が十分ではなく、また他の時代に編纂された歴史教科書をちゃんと読んだことがないので、こういうことを言うのは不適切かもしれないが、少なくとも私が学んだ歴史教科書は、講座派の影響が随分抜けてきていると思う。その代わり、歴史用語が300ページ超にわたって淡々と並ぶ。こうした教科書スタイルには、「詰め込み教育を助長している」、「受験戦争を過熱させる要因となっている」という批判の声があることは今さら言うまでもない。

詳説日本史B 81 山川 日B301 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用 (81 山川 日B301)詳説日本史B 81 山川 日B301 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用 (81 山川 日B301)
笹山晴生 佐藤信 五味文彦 高杢利彦

山川出版社 2013

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詳説世界史B 81 世B 304 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用詳説世界史B 81 世B 304 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用
木村靖二 佐藤次高 岸本美緒

山川出版社 2013

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 だが興味深いことに、アメリカの歴史研究家は、日本の歴史教科書の叙述スタイルを高く評価しているそうだ。アメリカ人の目には「たくさんの歴史的事実が非常にコンパクトにまとまっている」と映るらしい(※2)。私が高校生の時は、日本史・世界史合わせて700ページぐらいになる教科書を分厚すぎると思い込んでいたが、実はアメリカをはじめ、諸外国の歴史教科書はもっと分厚い。これは、歴史上の人物に関する物語が随所に挿入されているためだ。ただし、この物語が教科書の書き手の価値観を反映しており、特定の価値観を生徒に押しつけることになるという難所がある。だから、事実の列記に徹している日本の歴史教科書は新鮮に見えるみたいだ。

 いろいろ批判はあるだろうが、現在の日本の歴史教科書は、できるだけ価値中立的な立場から、基礎的な事実を万遍なく押さえているという意味では、よくできていると思う(上から目線だが・・・)。とはいえ、歴史教育が教科書に載っている重要用語の丸暗記にとどまっている点は問題だ。このままでは、歴史教科書は非常に無味乾燥な用語集としての役割しか果たさない。

 カーの主張に従うならば、歴史とは現在と過去の対話である。また、未来と過去の相互作用でもある。それならば、まずは現在とは何か?未来とは何か?を問わなければならない。より具体的には、現在の日本社会にとっての共通善、ならびに将来の日本社会が理想とすべき共通善とは何か?を問わなければならない。そして、その共通善というレンズから過去の事実を見通した場合に、重要な歴史的事実とは何なのか?その歴史的事実と関係の深いその他の歴史的事実は何か?を取捨選択する眼を養う必要がある。

 その後、それらの歴史的事実はどう関連し合っているのか?歴史的事実の集合は、当時の社会にとってどんな意味を持っていたのか?その歴史的意味は、現代および未来の日本社会にどのような教訓を与えてくれるのか?といった解釈を加えていく。歴史的事実の解釈は主観的な作業のように思えるものの、カーはむしろ、そのような知的作業を行うことで「歴史の客観性」が担保されると主張している。日本の歴史教育もそのようなものであってほしいと思う。


(※1)荒木肇『静かに語れ歴史教育』(出窓社、1998年)

静かに語れ歴史教育静かに語れ歴史教育
荒木 肇

出窓社 1998-09

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(※2)鳥海靖『日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う』(扶桑社、2005年)
 日米の教科書会議で、アメリカ人研究者は日本の歴史教科書を読んで、「アメリカの力が不当に過大評価されており、逆に日本がunderdog(負け犬)であるかのように扱われているのが問題だ」と指摘したらしい。日本は経済大国になったのだから、それ相応の責任を負っていることを自覚すべきだというのである。だが、日本人に負け犬意識を植えつけて二度と戦争を起こさないように教育(洗脳?)したのは一体どこの国であっただろうか?

日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う日・中・韓・露 歴史教科書はこんなに違う
鳥海 靖

扶桑社 2005-08

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 《2016年10月13日追記》
 佐藤優『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)より引用。日本の歴史教科書はヒストリーではなくゲシヒテを持つべきだと思う。
 御案内のように、ドイツ語ではれ基礎をGeschichte(ゲシヒテ)とHistorie(ヒストリー)の2つに区別します。「ヒストリー」というのは、歴史を時系列に即して記していく記述史です。もちろんどの事項を記述するかという点で歴史観が無自覚的に入ってくるのですが、歴史に対する特定の評価ということについては考えない歴史観です。何年に何があったと年表に書いてあるという感じです。

 それに対して、「ゲシヒテ」というのは、ひとつの出来事に対して、評価を加えた歴史です。この出来事の意味をどういう風に読み込んでいくかということなのです。あの戦争について大東亜戦争という言葉を使ったときの「ゲシヒテ」と、太平洋戦争という言葉を使ったときの「ゲシヒテ」は異なるのです。
国家と神とマルクス  「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)
佐藤 優

角川グループパブリッシング 2008-11-22

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