プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2014年08月06日

イスラームは歴史的に見ると多様性に対して寛容である


もういちど読む山川世界史もういちど読む山川世界史
「世界の歴史」編集委員会

山川出版社 2009-09

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 最近、日本史と世界史を改めて勉強しているのだが、高校時代には解らなかったことが理解できるようになって楽しい。例えばこれだ。イスラームはキリスト教、ユダヤ教と同じく唯一絶対の神(アッラー)を信じる一神教であり、報道で見るイスラム原理主義のイメージと重なって非常に排他的な文化であるかのように感じる。しかし、歴史的に見れば多様性に対して比較的寛容であることが解った。征服地の文化を壊さず、また異文化を積極的に取り入れる進取性も持ち合わせていた。以下、教科書の記述からのまとめ。

 (1)イスラーム文明は、征服者であるアラブ人がもたらしたイスラームとアラビア語を縦糸、征服地の住民が祖先から受け継いだ文化遺産を縦糸として織りなした、新しい融合文明である。また、同時にイスラームを核とする普遍的文明であった。そのためこの文明はイスラーム世界のいたるところで受け入れられ、やがて各地で地域的・民族的特色を加えて、イラン・イスラーム文明、トルコ・イスラーム文明、インド・イスラーム文明が形成された。

 (2)【イラン・イスラーム文明】モンゴルの勢力が発展すると、フラグの率いるモンゴル軍は西アジアに進出して、1258年にアッバース朝(750~1258)の首都バグダードを陥れた。ここにアッバース朝は滅亡し、カリフ制度も一旦消滅した。フラグはイラクとイランを領有してイル・ハン国(1258~1353)をひらいた。

 同国ははじめエジプトのマムルーク朝(1250~1517)と敵対していたが、ガザン・ハン(位1295~1304)にいたってイスラームを国教とし、自らこれに改宗した。彼は、人頭税・家畜税を主とするそれまでのモンゴル式税制を、地租を中心とするイスラーム式税制に改め、農村の復興に努めた。これによってイラン社会は安定し、ガザン・ハンのイスラーム保護政策と相まって、異民族モンゴル人の支配の下で、イラン・イスラーム文明が成熟した。

 (3)【トルコ・イスラーム文明】西チャガタイ・ハン国出身のティムールは、1370年にティムール朝(1370~1507)をひらき、東西トルキスタンを統一した後、西進してイル・ハン国滅亡後の国土を併せた。ティムールがイラン人の世界とトルコ人の世界とを統一したことにより、イル・ハン国で成熟を遂げたイラン・イスラーム文明が中央アジアに伝えられ、トルコ・イスラーム文明として発展した。首都サマルカンドには壮大なモスクが建設され、14~15世紀には中央アジアの商業・学芸の中心として繁栄した。ティムールや彼の子孫の宮廷で、イラン文学や細密画の傑作が多く作られた他、優れたトルコ語の文学作品も現れ、天文学や暦法も大いに発展した。

 (4)【インド・イスラーム文明】インドに侵入したイスラーム王朝は、最初は民衆にイスラームを強制し、各地でヒンドゥー教の寺院や神像を破壊した。しかし、デリー・スルタン朝(1206~1516)の時代になると、インドの伝統的な社会機構を崩さず、その上に立って君臨するという現実的な政策がとられた。インドからは医学、天文学、数学を学んだが、特に数字(後のアラビア数字)と十進法とゼロの観念を学んだことは、彼らの数学を大いに発達させた。また、錬金術、光学で用いられた実験方法とともに、後世のヨーロッパ近代科学への道を切り開いた。

 (5)【ヨーロッパとの関係】イスラームの学問が発達したのは、9世紀の初め、ギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。彼らはギリシアの医学、天文学、幾何学、光学、地理学などを学び、臨床や観測、実験によってそれらをさらに豊富で正確なものとした。また、イスラーム教徒はアリストテレスの哲学を大いに研究した。イスラーム思想界は10世紀以降次第に神秘主義(スーフィズム)思想の影響を強く受けるようになったが、信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは神学者がギリシア哲学の用語と方法論を学び、合理的で客観的なスンナ派の神学体系を樹立したからである。

 スペインではスペイン・イスラーム文明が発達した。中部のトレドを中心にイスラーム教徒の著作が次々とラテン語に翻訳され、これがヨーロッパに吸収されることで、後のルネサンスに大きな影響を与えた。また、イベリア半島最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230~1492)が首都グラナダに残したアルハンブラ宮殿は、末期スペイン・イスラーム文明の繊細な美しさを今に伝えている(1492年にスペイン王国がグラナダを陥れ、イスラーム勢力は撤退した)。

 (6)【アフリカとの関係】スンナ派の王朝であるアイユーブ朝(1169~1250)からマムルーク朝(1250~1517)中期にかけてのエジプトでは、比較的安定した政治が行われたために、小麦や大麦など主要作物の生産が向上し、商品作物としてのサトウキビ栽培が普及した。歴代のスルタンは地中海・インド洋貿易を国家の統制下に置いて利潤を独占し、首都カイロを美しい礼拝堂(モスク)や学院(マドラサ)で飾った。シーア派の王朝であるファーティマ朝(990~1171)に建設されたアズハル学院は、この時代にはスンナ派イスラーム学の新しい中心となった。

 1076年ムラービト朝(1056~1147)の征服は西アフリカのイスラーム化を促進し、その後に興ったマリ王国(1240~1473)、ソンガイ王国(1473~1591)の支配階級はイスラーム教徒であった。ソンガイ王国は西アフリカの隊商都市の大部分を支配し、北アフリカとの交易で栄え、特にニジェール川中流のトンブクトゥは内陸アフリカにおけるイスラームの学問の中心地であった。

 アフリカ東岸のマリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワなどの海港都市にはムスリム商人が住みつき、彼らによるインド洋貿易の西の拠点として繁栄した。やがてこの海岸地域では、アラビア語の影響を受けたスワヒリ語が広く用いられるようになった。さらにその南方、ザンベジ川の南では11世紀頃から鉱山資源とインド洋貿易によってジンバブエが栄え、また15世紀以降はモノモタパ王国などの国々が活動した。

 (7)【東南アジアとの関係】東南アジアにイスラームが広まるようになったのは13世紀以降である。14世紀末頃からマレー半島西南部に成立したマラッカ王国(14世紀末頃~1511)は、やがて半島を広く支配する大勢力となり、東南アジアの国際貿易の中心として栄えた。ジャワ島島北岸のマタラム王国(16世紀末頃~1755)は、貿易の上でマラッカとも密接な関係にあったが、16世紀末頃にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国(1293~1520頃)の旧領土を押さえ、ジャワの内陸部へも支配を広げていった。

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