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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年08月11日

【メモ書き】日本の土地制度の変遷(古代~平安時代中期まで)


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笹山晴生 佐藤信 五味文彦 高杢利彦

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 今年から取り組んでいる高校歴史の再勉強、日本史はようやく鎌倉時代までの3分の1を完了した。頭の整理用に、日本の土地制度の変遷をまとめておこうと思う。こういう時代をまたいだ理解は、高校時代にはなかなかできなかったなぁ・・・。

 今さら言うまでもないことだが、「生産手段を所有する者が権力を握る」というのが歴史の鉄則である。近代までは主たる生産手段=土地であるから、土地の所有者が政治的な権力を掌握する。日本では、最初は朝廷=国家が土地所有権を独占していたが、だんだんと民間に移り、やがて幕府と朝廷がともに土地を所有するようになった。

 近代になると、機械という新たな生産手段が生まれて産業革命が起こり、新たな権力としての資本家が誕生した。そして現在は、ピーター・ドラッカーが言うように知識が重要な生産手段となっている。知識労働者(ナレッジワーカー)は、資本家と対立する労働者ではなく、資本家と労働者が融合した存在である。労働者が資本家を打ち倒すというマルクスが描いた夢は、資本家の権力を労働者が手に入れるという形で決着した。歴史を振り返ってみると、権力は社会階層の頂点から徐々に下層へと移っていき、現在は最下層にまで行き渡ったと言えるだろう。

 (1)【7世紀前半】乙巳の変(645年)後の新政府は、翌646年正月、4か条からなる改新の詔を発した。それは、(a)皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族には代わりに食封などを支給する、(b)地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制を作る、(c)戸籍・計帳を作り、班田収授法を行う、(d)新しい統一的な税制を施行する、というもので、新しい中央集権国家のあり方を示している。

 ただし、『日本書紀』に記されている改新の詔は、後の令の文によって修飾されたと思われる部分もある。6年ごとに戸籍を作り、班田収授を行うという後の令の制度が、この時から行われたかどうかは疑わしい。

 (2)【7世紀後半】中大兄皇子は白村江の敗戦後の667年、都を近江(大津宮)に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は最初の令である近江令を定めたと言われ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍を作り、改新政治の推進に努めた。その後、天武天皇を挟んで、その皇后が持統天皇として即位すると、庚寅の年(690年)には天武天皇が定めた飛鳥浄御原令に従って庚寅年籍が作られ、班田収授の制度が確立した。

 (3)【8世紀】農民にとって、調・庸の都への運搬(運脚)や、雑徭などの労役の負担は厳しく、生活の苦しい農民の中には、口分田を捨て、戸籍に登録された土地を離れて他国に浮浪したり、都の造営工事の現場などから逃亡したりして、地方の豪族などの元に身を寄せ、律令制の支配を逃れる者が増えた。こうして8世紀の末には、調・庸の滞納や品質の低下が目立ち、国家の財政や軍備にも大きな影響を及ぼすようになった。

 人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって、政府は田地の拡大を図り、722(養老6)年には百万町歩の開墾計画を立て、翌723(養老7)年には三世一身法を施行して、農民に開墾を奨励した。さらに743(天平15)年には、政府は墾田永年私財法を発布し、開墾した土地は、定められた面積を限って永久に私有することを認めた。

 この政策は、登録された田地を増やすことによって土地に対する政府の支配を強める効果があったが、反面、実際に土地を開墾できる能力を持つ貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することにもなった。ことに東大寺などの大寺院は広大な原野を独占し、国司や郡司の協力を得、付近の農民や浮浪人などを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園と呼ぶ。初期荘園は後の荘園とは異なり、国家の力を背景とし、その支配の仕組みを利用して作られたものが多かったため、9世紀以降律令制が衰えるとともに、その大部分が衰退した。

 (4)【9世紀】9世紀になると、戸籍には男子の数を少なくするなど偽りの記載が増え(偽籍)、班田の施行も8世紀の終わり頃からその実行が難しくなった。桓武天皇一紀(12年)一班に改めて励行を図ったが、9世紀には30年、50年と班田の行われない地域が増えた。

 一方、農業技術に優れ、多くの米を所有する一部の有力な農民は、周辺の貧しい農民に米を貸し付けたり、租税を肩代わりしたりして彼らを支配し、墾田の開発を進めて勢いを強めた。政府や中央の貴族も、これら有力農民の力を無視できなくなった。

 調・庸などの租税の納入の減少は、国家の財政にも影響を及ぼした。政府は、公営田(大宰府管内)・官田(畿内)など直営方式の田を設けたりして財源の確保に努めたが、やがて中央の官司はそれぞれに自分の田を持ち(諸司田)、国家から支給される禄に頼ることができなくなった官人たちも、有力農民の持つ墾田を買い取るなどして自分の田を持ち、それを生活の基盤とするようになった。9世紀には天皇も勅旨田と呼ばれる田を持ち、皇族にも天皇から田が与えられた(賜田)。中央集権的な律令の制度は、こうして財政の面から崩れ始めた。

 (続く)

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