プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年08月22日

山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない


存亡の条件存亡の条件
山本 七平

ダイヤモンド社 2011-03-11

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 本書の帯には自民党の石破茂氏のコメントが寄せられており、「われわれ日本人は劣化しはじめている」と書かれている。それは、山本七平によれば、日本がいつの時代にも諸外国に手本を求めてはそれを模倣し続けた結果、かえって自分のことが解らなくなっているためであるという。
 諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)、あちらはああやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで―否、おそらく今もつづいている状態なのである。

 そのため、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかというと、いわば最も「リアル」なことが逆にわからなくなり、自分が、世界の文化圏の中のどこの位置にいて、どのような状態にあり、どのような伝統の延長線上にあるかさえわからなくなってきた。
 これは何も山本七平に限った主張ではない。日本の特徴を論ずれば必ず通る道である。日本人はこの手の話をさんざん聞かされている。では、どうしろと言うのか?だがここで、著者は、この「では、どうしろと言うのか?」という質問に対して、厳しい批判を浴びせる。
 いうまでもないが、これは全く無意味な言葉であり、「私は人間でなく奴隷である」と宣言しているに等しい。(中略)少なくとも人に自由意志があり、その人にその判断があるなら、自分の責任で自分の判断に基づいて自分で決心し、自分で実行してその結果は自分が負えばよいだけのことで、他人に「どうしろと言うのか」という質問をする必要は一切ないはずである。
 日本人がこのような思考に陥るのはなぜなのか?著者は、「対立概念」をめぐる日本の思考プロセスの未熟さにその手がかりを求める。
 基本的には、人間を対立概念で把握するということであり、これがいわばキリスト教国の基本的な把握の仕方である。人間は、たとえば、善悪という対立概念で1人の人を把握しているとき、その人はその人間を把握している。だがこのことは、人を、善人・悪人と分けることではない。もし人を、善人・悪人に分類してしまえば、それはその各々を対立概念で把握できなくなってしまう。(中略)

 これが分立と対立の違いだが、日本では常にこれが混同され、2つの違いが明確に意識されていない。新約聖書は、人間を悪人・善人と分けることを厳しく禁じている―人はあくまでも一人格であり、かつ、その一人格を善悪という対立概念で把握しているとき、それは生ける一人格を把握しているとする。
 人間とはその2つの対立概念によって把握したときにのみ、狂信的とはならない、どんな場所でも生きていけるものであることを発見したのである。そして、そう把握できる対象だけが実在の人間であり、そう把握できない状態になれば、それは滅亡以外にないはずであった。
 日本人は、対立ではなく分立で物事を考えてしまう。相反する思想、イデオロギー、社会、制度、文化を目の前にした時、その相反する要素を1つの事象の裏表として捉えることができない。その結果、一方を狂信してもう一方を徹底的に排除しようとする。だが、その先に待っているのは民族の滅亡である。そのようにして滅亡した先例として、著者はユダヤ国家を挙げる。

 ユダヤ教には3つの宗派があった。1つは現実主義的なサドカイ派であり、モーセの律法を尊重しつつも事実上それを棚上げし、リアルな世界をうまく立ち回る政治的な生活を送っていた。これと対極にあるのが理想主義的なエッセネ派であり、律法にどこまでも忠実であろうとして、政治からは距離を置いた。サドカイ派とエッセネ派の中間に位置するのが最大多数派のファリサイ派である。彼らは律法と現実の生活を接合し、当時の政治に真っ向から反するようになった。
 (ファリサイ派は)現政府を、モーセの律法に違反する悪と規定し、それへの服従を拒否して抵抗の姿勢をとることを善としながらも、権力指向を悪と規定することによって、自ら統治の責任を負うことを拒否しているという、一種の倒錯型政党・反権力型権力と名づける以外にない。
 ファリサイ派は信仰と政治、理想と現実という2つの概念を、人間の社会的生活に内包される対立概念ではなく、分立概念としか捉えることができなかった。その結果、信仰が政治を、理想が現実を駆逐し、滅亡への道を転げ落ちていった。日本がユダヤ国家のようにならないためには、対立概念を学ぶ必要があると著者は言う。「では、どうしろと言うのか?」という質問に答えることを拒否した著者が、本書の中で読者に提案している数少ない解決策の1つがこれである。

 だが、個人的には、日本人が対立概念を下手に身につけようとすると、かえって危険なのではないか?と危惧する。日本人が対立概念を持たないことは2000年来の伝統様式であり、それを今さら変えることは非常に難しい。無理に対立概念を植えつけようとすれば、二項対立が二者択一に転じ(多くの場合、理想が現実を駆逐する)、身を亡ぼすことになりかねない。

 潜在的にそれが解っていた日本人は、対立が分立に転ずることを防ぐため、敢えていろんな国を手本とし、それらの国から過剰とも言える流入を許してきたのではないだろうか?たくさんある手本の中から都合よく取捨選択するという現実的で天邪鬼な生き方が、行き過ぎた理想主義の防波堤になっていたように思える。これは、対立概念を学習するという課題を先送りにしている点で、器用な生き方とは言えない。しかし、日本人にはこの生き方しかできないのである。周囲の国から、日本は何を考えているのか解らないと批判されようとも、日本は自分自身の防衛策としてこの生き方を貫くしかない。

 日本が対立概念を身につけようとして、かえって自分の身を危険にさらした前例が太平洋戦争であろう。太平洋戦争は、一言で言えば「天皇制の秩序をとるか、西欧的な秩序をとるか」という分立(対立ではない)であった。その源流は、明治時代の教育勅語と帝国憲法の相克に求めることができる。教育勅語は古来からの儒教的な考えを明文化したものである。これに対して帝国憲法は、西欧を手本として制限君主制を導入したものであった。太平洋戦争は、教育勅語という理想が帝国憲法という現実を駆逐し、天皇のために西欧を攻撃したものであると解釈できる。

 理想が現実を排撃したという点では、日中戦争も同じように捉えられるだろう。日本は中国の専制君主制を理想とし、それを天皇制に反映させてきた。ところが、当の中国では、日本が学んだように専制君主制が敷かれていないことを発見する。つまり、「内なる中国(=理想)」と「外なる中国(=現実)」が矛盾した状態である。ここで日本は、外なる中国を内なる中国に合致させるために、中国を攻撃する。これが日中戦争の構図である(以前の記事「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」を参照)。

 現在の日本を混乱に陥れようと思ったら、「アメリカか、中国か」と日本に迫ればよい。世界の様々な問題をこの1点に集中させたら、おそらく日本は転覆するだろう。そうさせないためには、日本人は多様な視点を備えて自己防衛する必要がある。最近、憲法改正の動きが盛り上がっており、自民党は9条改正を、共産党は9条維持を訴えている。これは一見すると非常に不思議である。なぜならば、日米同盟を支持する自民党が、アメリカに”押しつけられた”憲法を変えようとしており、逆に中国共産主義を支持する共産党が、アメリカ産の憲法を維持しているからだ。

 しかし、日本人の自己防衛という観点からすれば、このぐらい政治が混乱していた方が実は社会が安定する。日本人は、諸外国から「アメリカか、中国か」と突きつけられる事態だけは避けなければならない。対立概念を持たない日本は、どちらか一方を狂信し、もう一方を打倒して自らも倒れることになるだろう。最低でも、「アメリカも、中国も」という状態に持ち込まなければならないし、あわよくば「アメリカも、中国も、第三国も」と思考を複雑化させる必要がある。

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