プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2014年12月12日

安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵


歴史教育と歴史学歴史教育と歴史学

山川出版社 1991-04

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 本書は第3章「日本史教育上の新しい視点」と第4章「世界史教育上の新しい視点」の内容が充実していて、高校レベルの歴史の知識を概観するにはちょうどよかった。ただ、私の知識不足のせいもあって、何が「新しい視点」なのか、やや読み取りにくい印象を受けた。また、他の章も、本書のタイトルにあるような、歴史教育と歴史学の関連性に言及した箇所が少なかった。

 歴史学に関しては、フランスで発達した心性史を取り入れる動きがあるとか、歴史学と考古学が連携することで鎌倉時代の新しい研究が進んでいるといった記述があった。一方で、歴史学の発見をどう歴史教育に反映させるのか?また、その逆に、歴史教育の現場における課題の解決に向けて、歴史学はどんな貢献ができるのか?といった点に関する考察に乏しいと感じた。

 さて、以前「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」という記事を書いた。日本人の思考方法は、大きく分けると3つあると思う。1つは、特定の理想が全てだと信じて、頑なにそれを信奉することである。日本は何千年もの間、中国を手本としてきた。戦後もアメリカの占領下で、アメリカの政治・経済の仕組みや社会制度、文化などを取り込んできた。通常、1つの理想に偏ることは危険なのだが、日本の場合は不思議なことに、それなりに安定した社会を築くことができた。

 だが、世界が多元化している現代において、特定の理想にしがみつくことは難しくなっている。特定の理想に対しては、別の角度から異なる理想を提示する者が現れる。端的に言えば、二項対立の状況が生じる。日本人はこの緊張状態が最も苦手である。緊張状態が長く続くと、一方が他方を完璧に凌駕し、そのためにかえって自滅する、ということが起こる。第2次世界大戦において、日本人が滅私奉公を信じ、公が私を駆逐した結果、公の方も敗れ去ったのは最も解りやすい例であろう。また、陸軍における皇道派と統制派の対立の例も加えてよいかもしれない。

 私は、日本に二大政党制が根づいたら困ると思っている。アメリカでは共和党と民主党が、イギリスでは保守党と労働党が常に激しく対立し、一方が他方を倒して政権を奪取する、ということが頻繁に起きる。しかし、仮に日本で自民党と民主党がお互いにノーガードの殴り合いをしたら、きっと共倒れに終わるに違いない。事実、民主党が政権に就いた時は、アメリカにべったりだった自民党とは対照的に、中国への接近を打ち出した結果、日本が滅びそうになった。今は自民党が民主党を完膚なきまでに叩きのめしているが、それはそれで危険な兆候のように思える。

 それでも日本人は、二項対立の緊張状態を回避する方策をいくつか持っている。1つは、対立があることは認めながらも、対立そのものを棚上げしてしまうことである。端的な例が、朝廷と幕府の関係である。どちらも政治的支配権を主張しながら、結局は約700年もの間、両者が併存することを許してきた(以前の記事「山本七平『山本七平の日本の歴史(上)』(2)―権力構造を多重化することで安定を図る日本人」を参照)。

 日本の歴史を振り返ってみると、中心的な政治権力の他に別の権力が現れて共存する、ということがしばしば見られる。そして、その方がむしろ政治が安定するという不思議なことが起きる。平安中期の摂関政治や末期の院政がそうだし、江戸時代には幕府の権力とは別に、各藩は比較的自由に藩内の政治を執り行うことができた。明治時代になって幕府がなくなり、天皇を中心とした政治体制になったかと思うと、大正時代には元老が出現した(以前の記事「相澤理『東大のディープな日本史』―権力の多重構造がシステムを安定化させる不思議(1)」を参照)。

 日本における保守と革新も、お互いに対立しているようで、実は対立を棚上げしているように見える。右派は徹底的に左派を攻撃しようとはしない。だから、朝日新聞は読売新聞に次ぐ読者数を抱えることができているし、教育の現場では日教組が影響力を持っている。かといって、左派も右派をなぎ倒すつもりはなさそうだ。お互いに、「敵がいるのは知っているが、勝手にものを言わせておけばよい」という構えである。ただ、ここにきて「吉田証言」問題に端を発する朝日バッシングが過熱している。朝日叩きが徹底した左派叩きに転じると、ちょっと厄介なことになりそうだ。

 日本人が二項対立の緊張状態を回避するもう1つの方策は、複数の理想を融合してしまうことである。実は、日本人はこれを非常に得意とする。日本は、神道、仏教、儒教がチャンポンになっている世界でも極めて稀な国であるが、日本に百済から仏教が伝えられた当時は、土着の神道に反するとして激しい排斥運動があった。仏教を推進する蘇我稲目・入鹿親子と、仏教に反対する物部尾興・守屋親子の対立は有名である。

 しかし、早くも奈良時代には両者は接近して神仏習合が唱えられるようになった。平安時代には神宮寺も広まり、さらに両者が完全に融合して本地垂迹説という考えが生まれた。これは、八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である、とする考えである。大阪府にある観心寺の如意輪観音像などは代表的な彫刻である。2つの全く異なる宗教をくっつけてしまうなどというのは、おそらく日本人にしかできない芸当であろう。

 AとBが対立する時、日本人はAかBのどちらかを選択するのではなく、AでもBでもないCというものを新たに作り出す。ところが、しばらく時間が経過すると、今度はCと対立するDが登場する。すると今度は、CでもDでもないEを創造する。Eと対立するFが出現すれば、Gを作り出す。Gと対立するHが出現すれば、Iを作り出す。対立を先鋭化させると身を亡ぼすことを知っている日本人は、まるで両者の中庸を取るかのような戦術を選択することで、自己防衛を図るのである。

 二項対立においては、2つの理想が対立するが、理想と現実の対立も二項対立の一種と言える。理想と現実があまりに食い違って両者が緊張状態になると、日本人は自滅しやすい。以前、「イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人と中国人』―「南京を総攻撃するも中国に土下座するも同じ」、他」という記事を書いた。日本こそが中国の理想とする王朝国家を体現していると自負すると南京総攻撃につながるし、必ずしも王朝国家として上手く機能していない現実の中国にひれ伏すならば、台湾との約束を破ってでも中国に土下座外交することを、山本は指摘した。

 理想と現実の狭間に身を置いた時、日本人にとって最適な解とは、理想とも現実とも違う第3の道を生み出すことである。理想(ビジョン)=唯一絶対の神の意思と考えるキリスト教圏(特にアメリカ)では、理想を実現することは神との契約であるから、何が何でも成就させなければならない。ところが、日本人にはそこまでの切迫感はない。むしろ、理想は実現できなくて当然であり、理想を追い求めていくうちに脇道に逸れたとしても、それが現実よりも望ましい姿ならば、それでいいではないか?と半ば開き直っている。

 上場している日本企業は、3~5年単位の中期経営計画を策定して、投資家に説明することが慣例である。随分昔の話になるが、2008年の「日経ヴェリタス創刊直前号」の一面は「中期計画 4割守れず」という見出しであった。時価総額の上位企業から中期経営計画を発表している100社を抽出し、その計画と実績を検証すると、4割の企業が中期経営計画を達成できていなかったという。それから数年が経って、事態が好転しているかというと、2012年9月5日の日本経済新聞には「日本企業では中期経営計画の未達が恒例化」とあり、状況は改善されていない。

 株主にとっては迷惑極まりない話かもしれない。しかし、これが日本の現実であり、日本人の性なのである。こんな状態でも多くの企業が潰れないのは(潰れた企業もあるかもしれないが)なぜだろうか?私なりに前向きに解釈するならば、たとえ中期経営計画が未達に終わっても、「計画通りではなかったが、計画時には想定していなかった予想外の収穫」が得られたからではないだろうか?だとすれば、これも理想や現実とは違う第3の道を創出した例だと言えるだろう。

 ここで私の大好きな「水曜どうでしょう」の話を挿入することを許していただきたいのだが、この番組こそ、理想と現実の二項対立を、第3の道に昇華させているよい例である。どうでしょう班(=出演陣2人とディレクター2人のこと)は、旅の目的地に着くという理想がある反面、旅に出たくない大泉洋という現実を抱えている。その旅嫌いの大泉さんを無理やり旅に連れ出して、目的地へ向かうのだが、目的が成就される、言い換えれば、理想が現実を凌駕することはない。かといって、現実が理想の実現を阻害するわけでもない。

 サイコロの旅で北海道に帰ろうとしているのに、各地の甘い名物でミスターを困らせることがメインになったり、アラスカにオーロラを撮影しに行っているのに、大泉さんがキャンピングカーの中で毎晩作るパスタばかりがフィーチャーされたり、絵はがきの旅で絵はがきと同じ風景を撮影するために全国を回っているのに、なぜか四国八十八か所のお遍路をすることになってしまったり、家庭菜園をやろうと思っていただけなのに、最後は全員が大泉さんのまずい料理をお見舞いされるはめになったり・・・この番組はとにかくそんなことばかりなのである。

 二項対立に直面した時、日本人が最も苦手とする両者の激しい対立に巻き込まれるか、日本人が最も得意とする両者の統合に成功するかは紙一重である。そこで、日本人は第3の思考を持たなければならない。それは、多神教文化に生きる国民らしく、思想を多様化させ、多様な理想を容認することである。だから、日本人に合っているのは二大政党制ではなく、多党制である。民主党が勢力を伸ばし、遂に政権を奪取した時は、「ようやく日本も先進国並みの二大政党制になった」と言われた。しかし、既に見てきたように、日本の二大政党制はリスクをはらんでいる。

 現在、衆院選の真っただ中である。民主党が死に体であり、その他の野党も乱立状態で第3極ははっきりとしない。なし崩し的に与党が3分の2以上の議席を獲得するとも報じられている。だが、日本の将来を考えるならば、自民党の相当数の議席数が野党に上手く配分され、野党の中から一定の勢力を持つ党が複数登場し、健全な多党制になるのが望ましいように思える。

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