プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2015年02月20日

『未来をひらく(『致知』2015年2月号)』―日本人を奮い立たせるのは「劣等感」と「永遠に遠ざかるゴール」


致知2015年2月号未来をひらく 致知2015年2月号

致知出版社 2015-02


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 物事を単純化しすぎているかもしれないが、キリスト教圏に生きるアメリカ人は、唯一絶対の神との関係を重視する。これは企業活動においても同様である。企業のリーダーは、世界中から情報を収集し、自らが持つ経営資源を総動員して、「世界の人はこれを欲しがっているに違いない」という製品やサービスを構想する。そして、その製品・サービスを神の名の下に正当化する。

 リーダーは、「神からお墨つきをもらったこの製品・サービスを世界中に広める」という明確なビジョンを掲げる。このビジョンは、言い換えれば神との契約であり、絶対に履行しなければならない。もちろん、他のリーダーも同じように明確なビジョンを掲げて市場に参入し、激しい競争が始まる。誰もが、「自分が神と交わした契約こそが一番正しい」と思い込んでいるため、競合他社に対する攻撃は非常に過激なものとなる。

 ところが、唯一絶対の神が持つ唯一絶対の解、すなわち「この製品・サービスこそが真に世界中の人々を幸福にする」という構想はただ1つである。多くのリーダーが神と契約を交わしたつもりになっているが、本当に正当な契約は1つしかない。それゆえ、神と間違った契約を交わした企業は、正しい契約を結んだ企業によって淘汰されていく。そして、真に神から選ばれた1社が、他の全ての競合他社をなぎ倒して世界中の市場を制覇する。

 ここに、経営者のビジョン=神との契約は結実する。アメリカ企業がリーダーシップを握っている多くの製品・サービス分野で、特定の1社が強力なブランドを持っているのは、このためであると考えられる。時価総額の世界ランキングを見ると、多数のアメリカ企業が名を連ねている。その多くは、多角化企業というよりも、非常に競争力のある特定の製品・サービスで世界を席巻している企業である(GEやジョンソン・アンド・ジョンソンなどの多角化企業は例外であろう)。

 神に選ばれた企業が当初のビジョンを達成するとどうなるか?世界にはもう、攻めるべき市場が残されていない。それに、製品・サービスにはライフサイクルがあるので、いずれその企業の製品・サービスは陳腐化する。市場がその製品・サービスを必要としなくなる時期はおおよそ解っている。よって、企業はその終わりに向かって、撤退戦略を描かなければならない。組織を上手にダウンサイズし、残っている顧客に最小限の製品・サービスを提供して、企業価値の毀損を防ぐ。また、企業が留保している利益は配当や自社株買いによって、株主に還元する。

 そして、遂に終わりの日を迎えたら、企業を解散し、残存利益を株主に返す。これが本来のアメリカ的経営である。とはいえ、実際には、多くのアメリカ企業は持続的な成長を目指す。主力製品・サービスが成熟化したら、新しい分野に投資する。別の言い方をすれば、神との再契約を目指す。しかし、一度神に選ばれた企業は、自社を成功に導いた製品・サービスがあまりに強すぎるため、自社のコア・コンピタンスがコア・リジリティ(硬直性)となって、新規事業になかなか移行できない。そのため、神との再契約に失敗すれば、大企業であっても簡単に倒産する。

 《参考記事》
 日本とアメリカの「市場主義」の違いに関する一考
 果たして日本企業に「明確なビジョン」は必要なのだろうか?(1)(2)(補足)
 イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』―ビッグデータで全世界を知り尽くそうとするアメリカ、観察で特定の世界を深く知ろうとする日本
 『投資家は敵か、味方か(DHBR2014年12月号)』―機関投資家に「長期的視点を持て」といくら言っても無駄だと思う、他

 前置きがかなり長くなってしまったが、ようやく本題に入ろう。アメリカ人は、前述のように自社の経営資源の中で「強み」となるものを活かして、世界市場を制覇しようとする。これに対し、日本人の出発点は「何もない」である。
 日本は歴史的に見ればたくさんのダメージを受けた国です。火山もある、地震もある、津波もある、台風もある。戦争では原爆も落とされました。また、決してリッチな国ではありません。面積が狭い上、山が多く、石油は採れないし、食べ物も輸入しなければなりません。条件だけを考えれば、世界には日本より恵まれている国はたくさんあります。
(マンリオ・カデロ「日本の美点に未来あり」)
 アメリカ企業は、「どうだ、我が社はこれだけ優れているのだ(しかも、神のお墨つきをもらっているのだ)」と、高圧的な態度で市場を制圧する。言い方は悪いが、アメリカ企業は自社が正しいと考える製品・サービスを顧客に押しつける。だから、アメリカ企業の製品は世界的に標準化されており、市場ごとにカスタマイズする余地が非常に小さい。

 一方、日本人は、アメリカ人のような強みがない。そして、そのことに強い劣等感を抱いている。だが、劣等感があるからこそ、どうすれば自分は敵と戦えるのか?どうすれば周りから認められるのか?を必死に考える。日本は多神教文化なので、市場には多様な神がいる。企業は神々にお伺いを立てながら、徐々に製品・サービスを形にしていく。アメリカのマーケティングは製品志向から顧客志向に変化したと言われるが、私は昔からこの意味がよく解らなかった。最近になってようやく、日本企業は元々顧客志向だからアメリカの変化が不可解に思えるのだと合点した。

 劣等感は日本人の美徳である。劣等感があるから、周囲に対して謙虚になれる。作家として成功している北方謙三氏でさえ、次のように述べている。
 4作目ぐらいから一切載せてもらえなくなったんです。書いても書いても突き返される。全部ボツです。5年くらい経つと、天才じゃないかもしれないと思うわけです。だけど俺には才能があるんだと言い聞かせて書き続ける。さらに5年経つと、もうそのへんの石っころにしか思えなくなってくる。こうなったら、石っころでも磨けば光るんだと世間に知らしめるしかないな、と思いながら懸命に書いていましたね。
(北方謙三、福島智「運命を切りひらくもの」)
 逆に、優越感が行き過ぎるとロクな方向に行かないことは、近隣諸国を見ていればよく解る。これらの国の政治家は、求心力を高めるために、国民に選民意識を植えつける。つまり、「我が国の国民は世界の中で最も選ばれた優秀な人々である」ということを徹底的に教え込む。しかし、民族主義的な教育が暴走すると、他国のことを平気で攻撃し始める。

 日本人は戦後、アメリカ主導の教育改革によって、自虐史観を押しつけられてきたと言われる。個人的には、それは部分的には大事だったと思う。そういう教育のおかげで、日本人が元々持っていた劣等感という美徳が失われずに済んだ。ただし、朝日新聞のような捏造記事は論外だ。アメリカの改革にいつの間にか中国共産党が入り込み、歴史的事実が捻じ曲げられてしまった。重要なのは、「正しい劣等感」を持つことである。朝日新聞問題の反動からか、最近日本のことをいたずらに持ち上げる記事や書籍が増えているのは、やや危惧すべきかもしれない(「『おもてなし』礼賛は日本人の思い上がりだ」〔東洋経済オンライン〕を参照)。

 アメリカ企業は「世界市場を制覇する」という明確な目標を持っている。そして、その目標が達成されれば、後はゆっくりと、かつ戦略的に撤退することは先ほど述べた。一方の日本企業は、明確なビジョンも目標もこれと言って持っていない。もちろん目標は設定するのだが、それは一時的なものにすぎない。その目標を達成すると、すぐに別の目標が出現する。
 私は金メダルを目指すことはとても素晴らしいことだと思っています。目標があるからこそ人は頑張れるし、高みを目指すことでそれまで見えなかった世界が開けるっていうことがありますから。

 私が言いたいのは、金メダルは選手としての頂点であって、決して人生の頂点ではないということなんです。(中略)問われるのはメダリストが生涯を懸けて世の中の人たちが求める、人間としての金メダリストに近づいていく覚悟があるかどうかです。
(村上和雄、山口香「柔の道で真の人間をつくる」)
 日本には柔道、剣道、華道、茶道、書道など、「○○道」が多い。これらの世界は、競技としての勝敗や、作品の巧拙を競い合うだけではない。それはどちらかと言うと下位の目標であって、上位にはいかにして人間を高めていくか?という、非常に抽象的な目標が設定されている。

 ここで重要なのは、新たな目標を設定する際に、目標の次元が全く違うものに変換される、ということである。表面的に見れば、アメリカ企業にも目標の切り替えはある。ただしそれは、例えばヨーロッパを制圧したから次はアジアを目指そうといった具合に、単線的・連続的な目標の切り替えである。日本の場合は、引用文にあるように、競技としての目標が人間としての目標に切り替わる。そして、人間性という概念もまた、次元の異なる重層的な目標を内包している、(私は「道」に通じていない未熟者なので、その中身をうまく描写できないのだが・・・)。

 だから、「今年はこの目標が達成できたけれども、来年は次元が異なるあの目標を目指そう。来年その目標を達成できたら、再来年はまたさらに次元が異なるあの目標を目指そう」というふうに、何度も何度も目標設定を繰り返す。これが修業であり、あらゆる道の達人は生涯を通じてその道を究めようとし、円熟の域に達してもなお満足しないのである。
 10年くらい前の直木賞選考会の時に、控室に入ったら、五木寛之先生が1人、先にいらっしゃいましてね。すぐにお茶を入れて「先生、どうぞ」ってお出ししたら、おっしゃったんですよ。「北方君、君もそこそこ大家なんだから、そんなことしなくていいんだよ」って。それ以来私はずっと「そこそこ大家」で通してるんです(笑)。つまり、自分のことを大家だと思ったりしたら終わりです。新しいものをつくり出せなくなる。
(北方謙三、福島智「運命を切りひらくもの」)
 この「目標の次元を切り替える」という点を誤解して、アメリカ企業よろしく単線的に道を極めようとすると、日本企業は失敗する。製品・サービスの機能や性能を技術的に目いっぱい高めて、顧客の要求水準をはるかに超えてしまうことがよくあるが、これは誤解の典型例である。

 そうではなく、「人類の生活をより豊かで人間的なものにするためには、自社に何ができるだろうか?」をゼロベースで問うのが目標の次元の転換である。具体的には、「どうすればその製品・サービスをより倫理的・道徳的な方法で製造・販売することができるか?」、「新しく市場に投入する製品・サービスを製造・販売するにあたって、地球環境への負荷をより低減するには何ができるか?」などといった、社会性の高い問いを追究することである。

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