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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年03月02日

東京大学史料編纂所『日本史の森をゆく』―分一徳政令のことを一般庶民は知らなかった?他


日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話 (中公新書)日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話 (中公新書)
東京大学史料編纂所

中央公論新社 2014-12-19

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 東京大学史料編纂所は、古代から明治維新期に至るまでの膨大な史料を日本中から収集して研究する、国内最高峰の歴史研究機関である。本書は、その史料編纂所に所属する「史料読みのプロ」42名が、それぞれの専門分野から選りすぐりの逸話を集めたものである。

 さすがに国内最高の歴史研究機関とあって、面白い話や新しい発見が満載だった。私がこんなことを言うのも大変失礼な話だが「よくこんな史料を集めてきたなぁ」、「その史料はそんな風に読めるのか」と終始驚きっぱなしだった。ちなみに、東京大学の日本史の入試問題は、「どこからこんな史料を引っ張ってきたんだ!?」と思うようなマニアックな文献を読ませるものが多い。おそらくその裏には、こうした研究者の成果があるのだろう。

 (1)中世の書状は料紙2枚が1セットで、書状を書く時には2枚一緒に取り、第1紙を書き終えると2枚まとめてひっくり返し、第2紙の裏側に続きを書いていったという。つまり、2枚の書状は背中合わせに重なる。そして、書状を書き終えると、第1紙の本文の書かれている面を内側に(=第2紙の本文が書かれている面を外側に)して、書き出しがすぐ出るように、向かって左側から2枚一緒に巻いていく。巻き終わったところで、差出・宛名などを、巻き終わりの一番外側になる部分、つまり第2紙側に記す。これで、2枚の紙を広げると、書状の文章が第1紙、第2紙と続き、第2紙の最後に差出と宛名が書かれていることになる。こんな風習があるとは全く知らなかった。

 しかも、第1紙と第2紙の裏面は未使用であるため、受取人による再利用が日常的に行われていたらしい。手紙の返信を書くこともあれば、受取人が個人的に日記に使うこともあったという。手紙の返信の場合、前述のような紙の使われ方を知っていれば、文章の前後関係を正しく追うことができる。一方、日記の場合は、受取人が「いらない」と思った書状を無作為に取り出して日記を書くため、手紙の文章が分散してしまう。こういうバラバラになった文章をつなぎ合わせ、受取人が無駄だと考えた文章から貴重な情報を得ることに、研究者は喜びを感じるようである。

 (2)近世前期における焼物産業の発展について、豊臣秀吉の朝鮮出兵のために出兵した諸大名が、領内の焼物業を発展させる目的で朝鮮半島から連行した陶工が、各地の陶祖になったという説(焼物戦争論)がある。しかし、秀吉の出兵以前にも、朝鮮南部から九州北部に向けての陶工の渡来や技術移転の痕跡があったことが指摘されている。

 彼らは朝鮮出兵が始まると朝鮮に戻る道を断たれた。一方で、朝鮮からは何万人もの人々が日本に連行された。その中には人身売買によって奴隷的状況に置かれたり、領主との主従関係を持ったりした者がいる。しかし、相当部分の人々は、何の手当てもなく放置された可能性がある。半ば難民化した人々が、生き残るために集団化し、中山間部に入って行く中で出会ったのが、以前からそこに存在していた少数の陶工であったというわけだ。

 (3)皇后とは天皇の妻である。しかし、歴史上には「未婚の皇后」が存在する。彼女らはその代の天皇にとって姉やおばにあたる皇女で、未婚のまま立后し、わずかな例外を除いて生涯独身だった。この未婚の皇后は、11世紀から14世紀にかけて11人が確認されている。未婚の皇后には未だ謎な部分が多い。未婚の皇后が院政時代の初頭に現れたことから、院が自らの血筋を引く控除を皇統継承者の准母とし、立后することによって、皇統の継承者が誰かを明示し、権威を与えたとする説など、諸説がある。

 (4)室町時代の徳政令は、「高札」と「壁書」という2つの形式で発布された。高札とは、京都の街中やその出入口の路頭に掲げられた木の板である。これに対して壁書は、幕府の役所(実際には幕府重臣の邸宅で、裁判所の機能も兼ねていた)の壁面に張り出された。この徳政令は「分一銭令」と呼ばれるように、債権・債務額の10分の1の分一銭を幕府に納入すれば、債権の確認または債務の破棄を認めた、と私は高校時代に習った。

 しかし、分一銭については、庶民は知らなかった可能性が高い。というのも、高札と壁書では内容が異なっており、分一銭に触れているのは壁書のみだからだ。言うまでもなく、幕府の役所に出入りできる人は限られており、大多数の庶民は高札しか見ていない。高札にも「十分の一」という言葉あるが、これは分一銭と同じではない。当時、土一揆が債権者から質物を取り戻す際、債務額の10分の1を支払うという慣行があり、高札の文言はこれを追認しただけである。

 (5)天正10(1582)年正月、織田信長は朝廷に同年の暦を改めるよう求めた。その理由は、尾張の暦作りによれば今年は閏12月があるはずなのに、朝廷の暦にはないというものだった。この事件は、信長が時間支配という「天皇大権」を奪取しようとしたものと評価されてきた。

 ところが、当時は各所で地方暦が発行され、市では安いものでは6文程度で売られていた。支配地域内に様々な時間軸が存在することは、支配者にとって不便である。伊勢北畠氏や後北条氏では、特定の暦を用いるよう命令を出した例もある。この天正10年の改暦問題も、信長と天皇の関係に収斂させる必要はない。信長は勢力圏を拡大する中で、支配地域内で暦を一元化する必要性を感じていた。それを行動に移したのが、天正10年正月のことであったと解釈できる。

 (続く)

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