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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年03月03日

東京大学史料編纂所『日本史の森をゆく』―「婆娑羅」は本当に「婆娑」+接尾語「ら」なのだろうか?


日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話 (中公新書)日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話 (中公新書)
東京大学史料編纂所

中央公論新社 2014-12-19

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 (前回の続き)

 前回の記事では、本書を読んで目から鱗だった5つの発見について整理したが、今回の記事では、1か所だけ本書で引っかかった箇所を取り上げたい(遠藤基郎「「婆娑羅」から考える」)。

 建武3(1336)年、足利尊氏の弟である直義主導の下に、室町幕府の基本方針として編まれた「建武式目」の第1条には次のようにある。
 近日婆佐羅と号して、専ら過差(かさ)を好み、綾羅(りょうら)・錦繍(きんしゅう)・精好(せいごう)・銀剣、風流(ふりゅう)服飾、目を驚かさざるはなし、頗(すこぶ)る物狂(ぶっきょう)と謂(い)うべきか。
 「婆佐羅」の語源は、梵語(サンスクリット語)の「vajra(伐折羅:バジャラ)=金剛石(ダイヤモンド)」だとされる。全てのものを粉々に砕く金剛石のイメージから、「常識にとらわれない自由な作法」へと意味が転じ、そこからさらに、「身分の上下を問わず、派手な格好で遠慮をせずに振舞う者たち」を指すようになった。高校の日本史のテストでは、この「婆佐羅」をカッコ書きにして、空欄を埋めるように指示する問題が出ることがある。鎌倉幕府から室町幕府へと体制が移行する動乱の時代において、婆佐羅は不安定な時代を象徴する存在であった。

 ところが、遠藤氏はこの通説に異論を唱える。
 そもそも伐折羅を語源と見るのに疑問が残る。濁音「ジャ」から清音「サ」へというのは、音の変化として不自然である。実際には、「婆娑」という言葉が語源であり、接尾語の「ら」がついたものと考えるべきではないか。「婆娑」の意味は、①「舞う人の衣服の袖が美しくひるがえるさま。また、舞いめぐるさま」、②「さまよいめぐるさま。徘徊するさま」である(『日本国語大辞典』)。おそらく①の意味が転じて②が生み出されたのであろう。
 遠藤氏は、①の具体的な使用例として、『続教訓抄』の次の一文を取り上げる。
 下﨟の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな。友正が笛を御笛にして、御笛を楽人のにしたらむ、いかが。
 笛の名手であった堀河天皇は、ある日父白河院のもとを訪れ、これまた当代きっての笛の名手と称された楽人・友正と競演した。それを聴いた白河院の言葉がこれである。遠藤氏は、この「ばさら」を通説通りにとらえると、意味が通らなくなると主張する。むしろ、前述の①の意味にとって、舞人の衣服の袖が美しく翻るように変化に満ち、抑揚に富んだ表現力豊かな演奏であったことを称賛した言葉であると解釈している。

 私見であるが、ここはやはり通説通りに解釈するべきだと思う。冒頭で、一般的な「婆佐羅」の意味には、(a)常識にとらわれない自由な作法、(b)身分の上下を問わず、派手な格好で遠慮をせずに振舞う者、という2つがあると述べた。堀河天皇の時代は平安末期だから、(b)すなわち室町時代の「婆佐羅」の意味は確立されておらず、(a)と(b)の中間の意味であった可能性がある。よって、『続教訓抄』の一文は、「友正は身分が低い者に似つかわしくなく、自由で型破りな演奏をする」となる。遠藤氏の解釈では行儀がよすぎて、友正の躍動感が伝わってこない。

 そもそも、濁音「ジャ」から清音「サ」への変化が本当に不自然なのかも疑問である。「ジャ」が「シャ」になり、さらに「サ」になった例は、探せば見つかりそうなものだ(私は言語学に詳しくないので、よい例がぱっと思いつかないのが残念である)。また、「婆娑」に複数人を意味する接尾語の「ら」がどうしてくっついたのかも不明である。加えて、①の上品な意味が、どのようにして②のネガティブな意味に転じたのかについても言及されていない(本書では、執筆者1人あたり4ページ程度しか与えられていないので、十分に論じる余地がなかっただけかもしれないが)。

 ところで、「婆佐羅」が②の意味で使われている例として、遠藤氏は『太平記』を挙げている。
 「威勢を誇った武士が、家来をひきつれ総勢60騎ばかり、紅葉狩り・野遊びの帰り道、肥えた馬に千鳥足を踏ませ市中を練り歩く。金襴緞子の小袖をこれ見よがしにひけらかし、金銀で飾った太刀を下人にもたせ、流行の田楽節を歌い、酒を呷っての大騒ぎ。その手には真っ赤な紅葉が振りかざされていた」

 派手な出で立ちで、千鳥足で騎馬する一群。まさに「徘徊」していたのである。つまり佐々木導誉に代表される足利方武士たちは、その傍若無人な「徘徊」=婆娑する様を、婆娑羅と気取って自称したのだ。わざわざ公家の舞楽の用語であった婆娑羅を使ったあたりに、没落した公家勢力=後醍醐方への強烈な当てこすり、諧謔の精神がほの見える。婆娑羅そのものの意味ではなく、その使いかたこそが前衛的だったのである。
 しかし、室町時代の南北朝動乱を描いた『太平記』は、一貫して南朝=後醍醐天皇寄りの書物であり、公家勢力=後醍醐方を当てこする理由がない。遠藤氏の解釈に従うと、後醍醐天皇擁護派の太平記著者が、公家用語である婆娑羅を用いて、没落した公家勢力を非難したという、おなしな話になる。ここは素直に、作者が後醍醐天皇の敵である足利氏の傍若無人ぶりを非難しているととるべきではないだろうか?「婆娑羅」と「婆娑」は全く別の用語であって、「ばさら」に漢字をあてる際にたまたま「婆娑」が使われただけではないかと思われる。

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