プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年07月20日

齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本


公共性 (思考のフロンティア)公共性 (思考のフロンティア)
齋藤 純一

岩波書店 2000-05-19

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 人々の社会的なニーズは、「共約可能なニーズ」(共通点があり集約可能なニーズ)と「共約不能なニーズ」(個人によってバラバラのニーズ)に分けられる。共約可能なニーズは、国家権力に委ねられ、国家の制度を通じて実現される。
 共約可能性を想定することができるのは、各人がどのような「善の構想」を描き、どのような「ライフ・プラン」を追求するのであれ、誰もがより少なくをではなくより多くを欲する価値についてである。ジョン・ロールズは、そうした価値を「基本財=基本的な善きもの」(primary goods)とよぶ。(中略)正義は、この基本財―ロールズが挙げるのは、自由、機会、所得と富、自尊の基礎である―をどのような人々に、いかなる優先順位をもって分配するかについての基本原理である。
 公権力が強制的に実現することのできる価値は共約可能な価値にのみ限定されねばならない。共約的な価値を公共的価値、非共約的な価値を非公共的価値とよぶならば、リベラリズムの基本関心は、国家の活動を公共的価値の実現という範囲に制約することである。
 これに対して、共約不能なニーズは、国家とは異なる公共的空間において、人々が対話を繰り返し各々のニーズを解釈することから始めなければならない。
 イグナティエフは、「友愛、愛情、帰属感、尊厳、尊敬」を権利には翻訳しがたいニーズとして挙げながら、それらが「公共的言説」のなかで繰り返し人間にとって切実なニーズとして提起されることを求める。
 アーレントは、公共的空間を「人々が自ら誰(who)であるかをリアルでしかも交換不可能な仕方で示すことのできる唯一の場所」として定義する。あるいはつぎのように述べる。「人びとは行為し語ることのうちで、自らが誰であるかを示し、他に比類のないその人のアイデンティティを能動的に顕わにし、人間の世界に現われる」。
 こうした政治を「ニーズ解釈の政治」と呼ぶ。だが、ニーズ解釈の政治は非常に手間がかかる。そのため、人々が要求する価値を手っ取り早く、効率的に具現化させようという誘因が働く。すると、国家権力が強くなり、行政が肥大化する。
 アーレントは、身体とその必要を言説以前のものとし、自然的な与件と見なすことによって、その必要を実質的に定義し、生命を保障するという膨大な権力を、公共的空間から取り去り、行政権力にあずけてしまったのである。
 行政権力は、本来は共約不能な価値であるものを、共約可能であるかのように取り扱うことで、公共圏から共約不能なニーズを次々と取り上げていった。福祉国家が大きくなりすぎたのはそのためである。そこで、国家権力と公共的空間のアンバランスを是正するため、カントが主張した「市民的公共性」を国家権力に対置させるという主張が現れる。
 (ハーバーマスの)『公共性の構造転換』が示した処方箋は、まだ枯渇しきってはいない「批判的公開性」の潜勢力を掘り起こし、それを「操作的公開性」の趨勢に対抗させるというものであった。つまり、「批判的公開性」の原理を、国家の市民社会に対する権力行使に適用するだけでなく、今度は経済的権力が政治的権力に翻訳されていく過程に対しても及ぼそうというものである。
 共約不能なニーズに関する対話は、共約不能なニーズだけを対象にすればよいというわけではない。何が共約可能なニーズであり、何が共約不能なニーズなのかという境界線について対話を重ねなければ、共約不能なニーズを具体的に規定することができない。市民的公共性の批判的公開性がニーズの境界線を厳しく問うことで、共約不能なニーズが共約可能なニーズの領域へと無制限に流れ込むことを防ごうというわけである。

 ここからはやや話が飛躍するがご容赦いただきたい。欧米、特にアメリカでは、大きな権力を持つ存在に対して、それを厳しく監視する機関が配置される。政治に対する監視は前述の通りである。企業に対しては、様々な市民団体がチェック機能を果たす。また、企業と監督行政庁の関係も厳しく、企業が行政庁に提出しなければならない書類の量は日本の比ではない。さらに、株主を代表する取締役会が経営陣の活動を評価する。グローバル資本主義の中心である金融機関に対しても、FRB(連邦準備制度理事会)やSEC(証券取引委員会)が監視の目を光らせる。

 これを強引に一般化すると、Aに対してBという対抗馬を必ず用意するのが欧米のやり方である。欧米では、物事の本質は二項対立であるとされる(以前の記事「山本七平『存亡の条件』―日本に「対立概念」を持ち込むと日本が崩壊するかもしれない」を参照)。先ほどの経営陣と取締役会の関係で言えば、企業活動は実行と監視という二項対立によって把握される。二項対立においては、一時的に一方が優勢になって他方を駆逐したとしても、すぐに新たな対抗馬が現れてリバランスする。欧米でよく見られる二大政党制のメカニズムは、まさにこんな感じであろう。

 ところが、日本では、先ほどのリンクで書いたように、二項対立に持ち込むと自滅する。二項を対立させるのではなく、混合したままの状態で把握するのが日本流である(以前の記事「安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵」を参照)。日本企業の取締役会は、社員から出世した役員が大半であり、業務執行と監視が未分化のままである。また、日本の監督行政庁は、規制によって企業活動に縛りをかける一方で、業界を保護するルールを作って企業の便益を図ることがある。

 日本の場合、Aに対してBという対抗馬が考えられるケースでは、対立を放置すると危険であるため、すぐさまA+BによってA’を作り出す。A’に対してCという対抗馬が生まれそうだとなれば、今度はA’+CによってA’’を作る。こうして、対立項を次々と内在化し、表面上は1つでありながら、内部は多様であるという状態を作り出す。見かけはA’’’・・・であっても、内部はA+B+C+・・・となっているのである。日本は長らく自民党の1党政治であったが、内部は多様な派閥によって支えられていた。それを小泉政権がぶっ壊してから、日本政治の迷走が始まったように思える。

 日本においては、共約可能なニーズを国家/行政権力に、共約不能なニーズを市民社会に委ね、相互に牽制し合うような関係は適さないかもしれない。そうではなく、国家/行政権力の中に共約可能な価値と不能な価値を共存させる道を模索した方がよいのではないだろうか?

 アメリカにおける政治/行政と市民社会、企業と監督行政庁の牽制関係を見てみると、前者は極限まで効率を追求する。政治/行政は人々のニーズを共約することで、行政サービスを効率化する。企業は生産性の向上により利益を最大化する。よって、政治/行政や企業だけに注目すれば、非常に効率がよい。ところが、政治/行政には、共約不能なニーズを扱う市民社会が対抗し、企業には重層的な監督行政庁が対抗する。これらの部門は政治/行政や企業と同じくらい規模が大きく、高コスト体質である。そのため、システム全体の効率性を押し下げる。

 日本の場合は、二項対立ではなく、二項は混合したままである。企業活動を外部の機関が監視するのではなく、企業の中に実行と監視が混在している。また、前述のように、国家/行政権力が共約可能な価値と共約不能な価値の両方を扱った方がよい。監視を取り込んだ企業活動や、共約不能なニーズを取り込んだ国家/行政の活動は、アメリカに比べるとどうしても非効率になる。ところが、システム全体という観点で見ると、結局のところアメリカも日本もコストは同程度になるような気がする(もっとも、社会にとって重要なのは効率性だけではないのだが)。

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