プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年07月24日

富松保文『アウグスティヌス―“私”のはじまり』―「自己理解のためには他者が必要」と言う場合の他者は誰か?


アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)
富松 保文

日本放送出版協会 2003-11

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 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 アウグスティヌスの『コリントの使徒への手紙』にあるこの文章を考察した1冊である。「鏡におぼろに映ったもの」とは、何のおぼろな像なのか?また、私は一体誰と「顔と顔を合わせて見ることになる」のか?私は何の「一部しか知ら」ず、誰によって「はっきり知られて」おり、何を、あるいは誰を「はっきり知ることになる」のだろうか?

 結論から言えば、自己認識を成り立たせるのは他者への認識である。
 鏡に映ったその顔が、私自身の顔であると同時に神の顔でもあるということ、そのおぼろげな二重写しを通じて自分自身を知るという謎が問われるということ、それはまた、私の問いが否も応もなく他者への問いを巻き込まざるをえないということであり、私は他者との関わりのなかで問うということ、私と他者との関係そのものとして問うということ、そして最後に、そうした問いのなかでこそ、「個としての個」、「自我」としての私がはじめて成り立っているということではないだろうか。
 自己知覚はたしかに他者知覚の裏側として、同時にすでに存在している。しかしその他者が内在化されないかぎりは、いまだ「自我」はない。独自の内面世界をもつと同時に、それをまさに独自のものとして意識している私はいない。逆説的に聞こえるかもしれないが、独自の内面世界を独自なものとして意識させるのは、まさに他者なのだ。
 ここで著者は、「鏡像認識」に関する研究を取り上げる。人(小さい子ども)は、鏡に映っている自分の顔をどのようにして自分の顔だと認識するようになるのか?という研究である。研究によれば、幼児の鏡映像への反応は、「他者への反応」、「鏡映像の探索」、「自己認識」という大きく3つの時期に分けられるという。

 ■第1期=「他者への反応」期・・・鏡像を注視し始める4~5か月頃に始まり、鏡像に笑いかけたり触れたりする6~8か月で頂点に達し、その後こうした反応は1歳半までに急速に消失する。
 ■第2期=「鏡映像の探索」期・・・12~14か月を頂点とする時期で、鏡に近づいて後ろをのぞいてみたり、鏡像の動きを積極的に観察する行動がみられる。また、9か月頃からは、尻込みしたり、鏡を避けたりする行動が見られ、これは18~20か月で頂点に達する。
 ■第3期=「自己認識」期・・・1歳半で始まり、この頃になると探索や回避行動が減少する代わりに、照れたりおどけたり見とれたりといった自己耽美的な行動が見られるようになる。

 私は鏡像認識の研究に関して全くの無知なのだが、どうやら生まれたばかりの赤ん坊は、まずは目に見えるもの全てを自分とは異なる存在=他者と認識するように埋め込まれているようだ。第1期の幼児が認識している他者には、まだ自分自身が含まれたままである。鏡の前でお母さんが手を振り、「ほら、鏡の中のお母さんも手を振っているよ」と繰り返すうちに、幼児は手を振っている人と鏡の中の人が同一人物であることを理解する。そして、鏡の中の人は、幼児の意思とは無関係に手を振っているから、間違いなく他者であるという認識が確定する。

 幼児にいろんな人や物を教えたい大人、あるいは幼児の反応を楽しみたい大人は、幼児の目の前にある鏡に、次々と新しい人や物を映し出す。大人はそのたびに、「今映っているのは○○という人だよ」、「○○というおもちゃだよ」と幼児に説明する。そのいずれも、幼児の意思とは無関係に鏡に映り込んでは動き回る。幼児はそれを見て、今鏡に映っているのは他者だと確信する。

 こうした認識を積み重ねるうちに、どの他者とも異なり、自分の自由意思に基づく動作と同じ動きをする存在が鏡の中に残っていることに気づく。ここに至ってようやく、幼児は他者とは違う自己を認識できるようになる(もちろん、親からの「鏡に○○ちゃんが映っているよ」という言葉も、幼児の自己認識を支援している)。つまり、まずは鏡に映る全てを他者ととらえ、本当に他者であるものをそこから取り除いていき、最後に残ったものが自己であると認識するわけである。よって、自己認識には他者が絶対に必要であり、しかも、消去法的に自己が認識される。

 だが、本書を読み進めていくと、いざ「鏡におぼろに映ったもの」を知覚しようとする段階で、他者の存在が消え去ってしまっているような印象を受けた。アウグスティヌスは、私を知るために、私がそこから生まれてきた「始まり」に思いをはせる。しかし、私は生まれた瞬間を知ることができない。生まれた瞬間を知るためには、生まれる直前を知る必要がある。ところが、生まれていない存在が生まれる前のことを知ることは不可能である。同じことは私の「終わり」=死についても言える。私は自分が死ぬ瞬間を知ることができない。

 アウグスティヌスは、自己と他者を区別する境界にも目を向け、内なる私を探索しようとする。しかし、内が私の魂、私の精神、私の心、私の意識であるならば、時間そのものの始まりを「いつ」と問うことができなかったのと同様に、内もまた「どこ」という問いによってとらえられるものではない。したがって、私を成り立たせる時間や内は、逆説的だが私を超越している。
 「あなたは、私のもっとも内なるところよりもっと内にましまし、私のもっとも高きところよりもっと高きにいられました。」(『告白』3、6、11)私という内を超えたところに、「私をこえて、あなたにおいて」、アウグスティヌスは神を、はじまりそのものを見いだす。
 アウグスティヌスにとって、「鏡におぼろに映ったもの」とは神のことである。キリスト教においては、神は自分に似せて人間を創造したとされる。しかし、人間は神の姿を完全に知覚することができない。よって、鏡に映っている神は、どこまで行っても私にとって「おぼろに映ったもの」でしかないのである。自己認識には他者が必要だとしながら、結局のところ神との直接対話で自己認識をしようとする点が、私にはどうしても腑に落ちない。
 鏡を通して、謎において見られるもの、それは同類でありさえすれば誰でもいいような誰かとしての他者の顔ではなく、唯一の、他の何ものとも置き換えのきかない神の顔であった。
 キリスト教圏の人々は、世俗の世界に生きる他者との相互作用について、一体どのようにとらえているのだろうか?この点が今後の探求課題である。

 《参考記事》
 安岡正篤『活字活眼』―U理論では他者の存在がないがしろにされている気がする?
 岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』―キリスト教は他者への愛を説くのに、なぜかヨーロッパ思想は他者を疎外している気がする

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