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2015年08月24日
斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる
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デカルトは幼少の頃から、文学、雄弁術、詩、数学、神学、哲学、法学、医学などといった様々な書物を読み漁っていた。ところが、書物をいくら読んでも、デカルトは「何一つ疑わしくないものはない」と感じ、真理を発見することができなかった。そのため、学業を修めるべき年限を終えると、書物による学問にきっぱりと別れを告げ、新たな探索の旅に出る。考察の対象となったのは、「世界(世間)」と「私自身」という2つである。
とりわけ、デカルトは「私自身」という対象に強く惹かれた。デカルトがどんなに考察を重ねても、「絶対に疑うことができないもの」は存在しなかった。あらゆる事物、事象を真理ではないと排斥した末に、「そのような思索を行っている私が存在する」ということだけは疑いようもないことに気づく。こうして、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉に行き着くわけである。
この言葉は理性万能主義の表れであり、よってデカルトは近代科学の祖であると私は理解していたが、どうやら思い違いだったようだ。デカルトによれば、理性は絶対的な真理ではない。
もしかしたら私たちの世界も、その中に存在する私たちも、そしてその私たちがもっていると考えられている理性も、すべては神が創ったものかもしれない。(中略)その神が「欺く神」であって、私たちの理性をそもそも根本から誤るように仕立て挙げたのだとしたら、どうか。理性は誤っているかもしれないが、それでもなお、神に理性を欺かれた私が存在するということは疑いようがないというのが、「われ思う、ゆえにわれあり」の意味である。ここでは、理性すら超越する、さらに絶対的・普遍的なものが想定されているように思える。
もう1つ私が誤解していたのは、個人主義との関係である。「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉は、私という存在に何らかの特別な意味がある、別の言い方をすれば、私を他者から明確に区別できる特徴的なアイデンティティがあるかのように感じさせる。しかし、デカルトが言いたかったのはそういうことではない。それどころか、デカルトは「私とは人間ではない」と言い放つ。
方法的懐疑の極点で出会っているものは人間ではありえない。なぜなら人間とはこの現実世界の中に存在するものたちの一種であって、しかも理性を備えたものということになっているが、そのような現実世界の存在や理性といったすべてが夢と狂気の想定の下で潰え去った地点に私は立っているからである。「われ思う」時の私とは、知覚可能な特徴を持った私ではない。そういう特徴を全て取り払った後に残る、純粋に「思考すること」こそが、私の正体である。そもそも、他者との差異を知覚するのは、理性の働きである。しかし、その理性が欺かれているかもしれないのだから、認識した差異も誤りである可能性がある。よって、他者との差異は問題にすることができない。「われ思う」時の私は、言葉、人種、性別、年齢、居住地域、文化的背景、知識などの違いを不問にする。
考えてみると、これは恐ろしいことである。この世界のあらゆる差異を超えて、全ての存在が「思考すること」という1つの絶対的な次元でつながっているというわけだ。こういう思想を「全体主義」と呼ぶのではないだろうか?ピーター・ドラッカーは、著書『産業人の未来』の中で次のように述べた。リベラリズムの系譜の先頭に、デカルトの名前も追加することができるように思える。
政治や歴史の本によれば、今日われわれが享受している自由のルーツが啓蒙思想とフランス革命にあることは、ほとんど自明のこととされている。今日ではこの考えがあまりに広く受け入れられるようになったため、18世紀理性主義の弟子たちが、自由の名を独り占めにして自らリベラルを名のるにいたっている。
(中略)しかし彼らが与えた影響は、まったく否定的なものだった。(中略)19世紀の秩序が基盤とする自由の構築に対しては、いかなる貢献も果たさなかった。それどころか、啓蒙思想とフランス革命、および今日の理性主義のリベラルにいたるその弟子たちは、自由にとって許すべからざる敵の役割を果たした。基本的に、理性主義のリベラルこそ、全体主義者である。
過去200年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。
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デカルトは、他の多くの哲学者と同様、「神の存在証明」をいくつか行っている。「有限」な私の存在という観念の中には、「無限」の神という観念を収めることができない。私は、自らの存在を認識する時、有限の観念をはみ出し、破ってしまうものを経験する。そのような経験を経て、私は神を知る。この意味で、デカルトの証明は「ア・ポステオリな(経験の後に続く)証明」と呼ばれる。
しかし、ここで注意が必要なのは、デカルトは「無限」という観念を「本有観念」としていることである。本有観念とは、私=「思うこと」の内部に初めから含まれている観念である。ただし、無限は私に含まれているとはいえ、私は無限をはっきりと理解することができない。繰り返しになるが、私という存在が有限であることを自覚したその時に、私という有限を突き破っていく無限があることをわずかに知るにとどまる。デカルトはこれを「無限に触れる」と表現する。
触れるしかないが、逆に言えば触れられるのである。神は遥か彼方の存在ではない。本有観念である無限は、私が「思うこと」という絶対に疑いようがない境地に達した時、まさにその瞬間において私とともにある。1人1人の差異を取り払い、神と一体になった、理性を超越した絶対性を追求する―これこそまさに全体主義ではなかったか?
私がデカルトの内に見て取ったたった1つの主題とは、このことなのである。本書は、挙げてこの1つの主題と対話を積み重ねてきたのだ。この主題のもとでは、「私」と「神」(すなわち他者)という一見まったく別のものに見える主題が、ぴったりと重なり合ってはいないか。徹底したエゴイズムとその外部の問題が、表裏一体をなしてはいないか。