プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年08月26日

義江彰夫『神仏習合』―神仏習合は日本的な二項「混合」の象徴


神仏習合 (岩波新書)神仏習合 (岩波新書)
義江 彰夫

岩波書店 1996-07-22

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 以前の記事「齋藤純一『公共性』―二項「対立」のアメリカ、二項「混合」の日本」で、欧米(特にアメリカ)は物事の本質を二項対立で認識するのに対し、日本は二項を混合したままで把握すると書いた。欧米では、Aという事象が正統性を獲得しても、やがてAに対抗するBという事象が現れ、Aとの間に緊張関係を生じる。AとBとの争いは、必ずどちらか一方の勝利に終わり、敗れた方は跡形もなく駆逐される。仮にBが勝利したとしよう。しかし、Bの勝利も永遠ではない。今度はBの対抗馬としてCという事象が現れる。欧米的な二項対立はこの繰り返しである。アメリカが米ソ冷戦に勝利したのち、新たにテロとの戦いに突入しているのは、1つの象徴かもしれない。

 《2016年10月13日追記》
 佐藤優『国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき』(角川文庫、2008年)より引用。上記で述べたことと合致していると思う。
 『精神現象学』の中で展開されているヘーゲルの弁証法は、矛盾が綜合された瞬間に、新たな矛盾がでてきて、安定した綜合はいつになっても達成されないのである。むしろ矛盾が解消しないという構えのカントのアンチノミー(二律背反)に近いような構成になっている。
 右派であれ、左派であれ、既存の体制の破壊を指向する政治勢力がないと実は国家はまわらないんですよね。だから非和解的に除去するときれいな社会を作ったつもりでも、必ず前と同じぐらいの反対体制が出てくるんです。それはソ連も、チェコも、イギリスも、イスラエルも一緒ですよ。
国家と神とマルクス  「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき (角川文庫)
佐藤 優

角川グループパブリッシング 2008-11-22

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 一方の日本は、対立項が生じても全体を混合した状態でとらえようとする。Aに対してBが生じると、AがBの要素を取り込んでA’に変質する。同時に、Bも完全には駆逐されず、Bとして形を残す。A’への変質後、新たにCが生じれば、A’は再び変質してA’’となる。そして、Cもまた、形をとどめる。日本の場合は、主流となる巨大なA’・・・’と、それらに対抗する少数のB、C、D・・・が併存する。かつての自民党の派閥政治は、多様な利害対立を調整した結果として生じたA’・・・’であり、社会党、共産党などはB、C、D・・・であった。

 《2017年4月12日追記》
 出光佐三『人間尊重七十年』(春秋社、2016年)より引用。
 いかなる主義も必ず、ある部分真理を有し美点をもっている。これらは日本の偉大なる国体に咀嚼され日本国の栄養となり、日本の国体に包容せられて真の発達を為す、仏教しかり、儒教しかり、芸術文化しかりである、われわれは国民の一員として、外来の何ものを咀嚼、摂取して国家の発達、国威伸張の資料とするだけの準備をしておけばよい。それには個人として切磋琢磨、国民として修養しておけばよいので、実力ある国民の要らないはずはない。自己を信じて迷うべからず。
人間尊重七十年人間尊重七十年
出光 佐三

春秋社 2016-03-08

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 以前の記事「安田元久監修『歴史教育と歴史学』―二項対立を乗り越える日本人の知恵」で、日本は二項対立の緊張状態が続くと社会分裂の危機に陥るから、それを上手く回避する方策を歴史の中で身につけてきたと書いた。そして、その代表例として、神仏習合を挙げた。神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し、1つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象のことである。前置きが長くなったが、本書は神仏習合を4段階に分けて解説した1冊である。今回の記事では、その1段階目だけをまとめておきたいと思う。

 もともと日本では、農作のための土地は、各地の神から与えられた共有財産であると考えられていた。種まきの時期には、農民は神から種籾をいただいたことに感謝し、神を祀る。そして、収穫を迎えると収穫祭を実施して豊作を神に感謝し、収穫の一部を神に捧げる。古代の律令国家は、この仕組みを国家レベルにまで引き上げたものである。まず、公地公民制により、朝廷が各地の行政官を通じて農民に土地を配分する。そして、収穫の一部は租という税の形で徴収する。朝廷は律令制度を正統化するために、神祇信仰を活用した。

 ところが、律令制度は土地の不足という問題に早くも直面する。朝廷は、土地を自ら開墾した者には土地の所有を認めることにした。これは私有財産の容認であるから、大きな政策変更である。これによって一部の農民は、大規模な私有地を獲得し豪農となった。しかし、いつの時代でもそうだが、私有は欲を生むものである。そして、豪農は煩悩に苦しむことになる。

 そんな豪農に救いの手を差し伸べたのが仏教であった。仏教は私有財産を前提としながらも、煩悩からの解放を目指す宗教である。仏教に傾倒した豪農は、自らの土地を寺院に寄進して庇護を求めた。とはいえ、豪農は神祇信仰を完全に捨て去ったわけでもなかった。彼らがこれまで信仰していた神が、神のままでは煩悩に苦しむから、仏の形になって救済を求めている、ということにしたのである。仏の形になった神を祀るのが、神社の中に建設された寺院=神宮寺である。また、興福寺の僧形八幡神像に代表されるような彫刻も製作されるようになった。

 神宮寺は仏教の庇護を求め、当初は南都六宗に接近した。南都六宗とは、奈良時代に平城京を中心として栄えた仏教の宗派(三論、成実、法相、俱舎、華厳、律)の総称である。しかし、南都六宗は理論が厳格すぎたため、新たに生じた神仏習合という形態を受け入れることができなかった。そこで、当時新興であった密教を選択した。空海(弘法大師)が始めた密教は、時代を経るに従って抽象的になりすぎており、個別具体化を図るべきだという声が内部から挙がっていた。その個別具体化の動きの一環として、神仏習合との結合が行われたわけである。

 以上が、豪農側から見た神仏習合であった。言い換えれば、朝廷が原則として掲げる共有財産制に反して私有財産を持つに至ったアウトサイダーの信仰である。これを、インサイダーである朝廷側はどう見ていたのであろうか?実は、朝廷はアウトサイダーを排撃しなかった。彼らは律令国家の枠組みから外れているものの、彼らを攻撃するとかえってアウトサイダーが増えることを朝廷は危惧した。そのため、神宮寺を王権としてむしろ積極的に支持するという方策を採用した。こうして、神仏習合は、民衆側からも王権側からも積極的に推進されることになった。

 <本書を読んで新たに生じた疑問など>
 ・仏教の側から神祇信仰に近づいた例としては「本地垂迹説」がある。本地垂迹説とは、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであり、平安時代に成立した。中世に入ると、古事記や日本書紀の神話を、本地垂迹説に基づいて仏を中心に再解釈・再編成する「中世日本紀」が現れた。

 仏教側からの結合は神祇信仰の内容を変質させるという具体的な成果を伴ったのに比べると、神祇信仰側からの結合はその成果がいまいち判然としない。神宮寺や僧形八幡神像などは神祇信仰側の変質であり、神祇信仰が仏教にどのような変質を迫ったのかは本書では解らなかった。本地垂迹説に対して反本地垂迹説(仏が神の権化であり、神が主で仏が従うとする鎌倉中期の考え方)が現れたこともあったが、本地垂迹説ほど大きな動きにはならなかった。神祇信仰には仏教のような明確な教義が存在しないことが影響しているのかもしれない。

 ・日本には中国から儒教や道教が、西洋からキリスト教がもたらされている。これらの宗教と神祇信仰(神道)との関係をもっと深く掘り下げる必要があると感じた。江戸時代には儒教が幕府の正統とされ、キリスト教が禁止されたが、仮に神道が日本的なA’・・・’であるならば、単に儒教に従属したり、キリスト教を排斥したりせずに、何らかの質的変化を伴ったはずである。同時に、儒教やキリスト教に対しても、神道の立場から何らかの変化を加えたのではないだろうか?

 ・江戸時代には荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤による国学が興り、神道から仏教的な要素を取り除く努力が行われた。明治時代に入ると政府は神仏分離令を施行し、神道を国家レベルに引き上げる一方で、仏教の分離を加速させた(その結果、廃仏毀釈運動が起きた)。その後、太平洋戦争の敗戦で国家神道が批判されると、神道は政治の舞台から姿を消した。

 以前の記事「武田修三郎『デミングの組織論―「関係知」時代の幕開け』―日米はともにもう一度苦境に陥るかもしれない」で、21世紀という関係知の時代には、近代的な分割知によって分解した知を再統合する必要があると書いた。現在の神道と仏教は、お互いに分離したまま、人々の心から距離を置いた状態にある。これをもう一度再統合することが、現在の日本人には必要なのではないだろうか?おそらくそれが、世界で起きる様々な宗教対立を理解し、日本としての立ち位置をはっきりさせる上での足がかりになるように思える。

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