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谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

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2015年09月02日

熊野純彦『カント―世界の限界を経験することは可能か』―神に近づきすぎないための哲学


カント―世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)カント―世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)
熊野 純彦

日本放送出版協会 2002-11

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 カントは、どちらも成り立ってしまうように思える2つの主張、ともに同じように説得力を持つ証明が可能であるような2通りの命題が、同じ問題に対して並び立つことを「アンティノミー(二律背反)」と呼んだ。そして、肯定的な命題を「テーゼ(定立)」、否定的な命題を「アンティテーゼ(反定立)」と名づけた。アンティノミーの例としては、次のようなものがある。

 テーゼ:世界は、時間的・空間的に有限である。
 アンティテーゼ:世界は、時間的・空間的に無限である。

 カントは、このテーゼとアンティテーゼの両方に対して、背理法を用いて証明を試みている。

 <テーゼの証明>
 世界は、時間的・空間的に無限であると仮定する。この時、過ぎ去った時間は無限である。一方で、現在は、過去の時間に一定の時間を加えることで到達できると考えられる。しかし、無限にいくら時間を加えても無限は無限であり、現在に到達することはない。空間についても、同じことが言える。したがって、最初の仮定が誤りであり、世界は時間的・空間的に有限である。

 <アンティテーゼの証明>
 世界は、時間的・空間的に有限であると仮定する。世界の時間が有限であるということは、世界が始まる前に世界が存在していない状態があったはずである。世界がまだ存在しない以上、そこには空虚な時間だけが存在する。しかし、空虚な時間の中で、ある状態が別の状態から区別されることはない。つまり、空虚な時間の中では、いつまでも世界が始まらない。空間についても、同じことが言える。よって、最初の仮定が誤りであり、世界は時間的・空間的に無限である。

 カントは、「物自体」と「観念」という区別を持ち出し、自分のその立場を「超越論的観念論」と呼ぶ。「物自体」とは、認識し経験する主観からは独立に、それ自身に固有なあり方をしている対象(客観)の姿を指す。カントによれば、経験と認識は、必ずそれを可能とする枠組みの中で生起する。逆に言えば、「物自体」にはその枠組みが該当しない。カントは「物自体は認識されない」と語っている。一方、経験と認識がその内部で可能となる枠組みを介して主観に与えられたものが「現象」であり、それだけが認識可能となる。

 カントは、「物自体」と「観念」という区別を用いることで、前述のアンティノミーについて興味深い解決策を持ち込んでいる。世界が「物自体」であるとすると、2つの命題がどちらも成立し、しかも2つの命題以外に成立する命題は存在しない。このように、相互に排除し合いながら、可能性の全てを尽くしているような、本当の矛盾対立を「矛盾対当」と言う。一方、世界が「観念」であるとすると、対立する2つの命題の他に第3の道が可能となる(この場合、最初の2つの命題の対立は、見せかけの対立となる)。これを「弁証法的な対当」と言う。

 世界が時間的・空間的に有限か無限かという命題が「弁証法的な対当」であるということは、「世界は時間的・空間的に有限でも無限でもない」という命題が成り立つことを意味する。カントは、世界は経験に対して「課せられている」と述べる。つまり、経験によってその都度世界の限界を完結させるという命題が、またそのこととは裏腹に、そうした世界の限界を不断に拡大していくという課題が、同じように経験自体に割り当てられているというわけである。

 経験と認識を軸とする理性のことを、カントは「理論的理性」と呼ぶ。では、理論的理性は「神」を捉えられるだろうか?結論から言えば、神の存在を理論的に証明することはできない、というのがカントの答えである。世界は時間と空間という条件を離れた存在である。つまり、神は世界を超越している。では、このことは、神が世界の外部に存在することを意味するであろうか?

 仮に、神が世界それ自体の原因として、世界の外部に存在すると仮定すると、世界の原因としての神がまさに働き始めるその時、世界の外部にあると考えられた世界の原因は、かえって世界の内部に編入されることになる。世界原因が作動するその時点は、空間に属するからである。しかし、世界の内部に、世界の原因としての神が存在することはあり得ない。神は、<内/外>という空間的区別の、さらに外部にある。理論的理性が時間と空間を軸とする経験と認識に裏づけられるものである以上、時間と空間のさらに外にある神を証明することは不可能である。

 それでもやはり、人間の理性は神に近づこうとする。時間と空間という条件づけを超えて無条件なもの(カントは「理念」と呼ぶ)に至ろうとする理性は、「実践的理性」と呼ばれる。神を捉えるのはこの「実践的理性」である。カントは、「理論的理性」と「実践的理性」の橋渡しを試みる。

 カントは、神が感性的な次元にあってもやはり、少なくとも感知されるべきではないかと問うた。別の言い方をすれば、神が現前する「恐るべき威厳」、「超感性的な国」へのわずかな予感は、世界の内部でも問題となるべきではないだろうか?ということだ。カントは「情感的な判断力」の作用例として、「美」と「崇高」を取り上げる。「美」は形あるものに宿り、人を惹きつける。美しいものを見ると、人間は積極的な快さを感じる。これに対して「崇高」とは、形のないものに対して感じるものであり、人を畏怖させ、突き放す。崇高なものは、必ずしも快いとは言えない。

 神は「崇高」である。形もなく、時間も空間も超越しており、証明することができない。しかし、人間の構想力を超えているところにこそ神は現れる。言い換えれば、呈示することが不可能であることをもって呈示されるのが神である。神は構想不能であることを知りながら、それでもやはりその不可能性に無限に近づいていく経験を、カントは重要視したのである。

 私は、神とは人間が理性至上主義に陥り、傲慢にならないための最後の歯止めであると考えている。人間がどのように知恵を凝らしてもその全容を解明することができないものがあるということが、理性の暴走を食い止める(※1)。科学がどれほど発展して、人間が世界のことを理解した気持ちになっても、神は人間に近づくどころか永遠に遠ざかって行く。そして、人間が自らの全能感を挫かれる時、他者に対して寛容になることができる。

 人間は鏡を介して神の姿を見ると論じたアウグスティヌス(※2)や、「われ思う、ゆえにわれあり」と言う時に、人間は神とともにあると説いたデカルト(※3)は、神に容易に近づきすぎているためか、私などは恐怖を覚える。それに対してカントは、神の存在を証明できないと一旦は突き放しつつも、神に対する思索を一切断念するのではなく、神が不可能であると知りながらなお接近を試みる高度な緊張感があるところに、哲学的な魅力を感じる。

 (※1)厳密に言えば、神が「ある」という表現は不適切である。「ある」という単語は「存在」を前提としている。ところが、既に見たように、神は時間・空間の一部を物理的にも観念的にも占拠しているわけではない。むしろ、時間・空間の<内/外>という区分すら超越している。ただし、神を語る時に他に適切な言葉がないため、仕方なく「ある」という言葉を用いているにすぎない。これも、神の不可能性に何とか接近しようとする人間のギリギリの努力の表れなのかもしれない。だから、「ある」に代わる言葉が容易に見つかっては困るのである。

 (※2)以前の記事「富松保文『アウグスティヌス―“私”のはじまり』―「自己理解のためには他者が必要」と言う場合の他者は誰か?」を参照。

 (※3)以前の記事「斎藤慶典『デカルト―「われ思う」のは誰か』―デカルトに「全体主義」の香りを感じる」を参照。


 《2016年3月16日追記》
 改めて本記事を読み返すと、カントの哲学は「神に近づきすぎないための哲学」ではなく、「それでも神に近づこうとする哲学」ではないかという、当初とは正反対の見解が私の頭に生じた。

 ドイツはカントの観念論の影響を強く受けている。経験主義の流れを汲むイギリスやアメリカとは、この点で異なる。しばしば、ドイツ人は理想主義的であると言われる。例えば、東日本大震災で福島第一原発事故が発生した際、真っ先に原発の全廃を決定したのがドイツであった。しかも、科学的な根拠を十分に検討せず、「原発は危険だから廃止しなければならない」という理念だけでメルケル首相は決断したとされる(『なぜメルケルは「転向」したのか』)。ドイツは、一度理想を掲げると、頑としてそれを変更しない。そうしたドイツの政治を、「夢見る政治」と評する人もいる(『ドイツリスク―「夢見る政治」が引き起こす混乱』)。


なぜメルケルは「転向」したのかなぜメルケルは「転向」したのか
熊谷徹

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 本記事で、カントは「物自体」と「観念」を分けていると書いた。物自体の世界では、テーゼとアンティテーゼが対立したまま存在する。他方、観念の世界では、テーゼでもアンティテーゼでもない第3の道がある。これを、弁証法的な対当と呼ぶ。物自体の世界をとらえるのは「理論的理性」である。”理論的”という名前がついているから、何か理想的なものだと勘違いしそうだが、理論的理性は経験に基づく理性である。その経験の枠を超えて弁証法的な対当に至るには、「実践的理性」が必要となる。”実践的”とは言うものの、実際には「理念」の世界での理性である。

 上記の通り、経験に基づく理論的理性では、神の存在を証明することができない。ところが、理念の世界における実践的理性であれば、神に触れることができる。神が現前する「恐るべき威厳」、「超感性的な国」へのわずかな予感を、世界の内部にも取り込もうとする。カントの観念論は、一度は断念したはずの、人間の理性と唯一絶対の神の接触を試みる。この点で、全体主義に至る下地を用意しているようにも思える(全体主義については、以前の記事「栗原隆『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』―アメリカと日本の「他者との関係」の違い」を参照)。


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